アドレナリン(前編)



 同級生の図書委員が初めてテニス部の練習を見に来た翌日、彼女はやけに目をキラキラさせて俺にテニスの事を尋ねてきた。
俺の打つスマッシュについてとか、いろいろな練習の意味だとか。
よく考えたら、クラスのヤツとそうやって話をするのは初めてだった。
そういうのはウザイと思っていたけれど、それは意外と悪い感じではなかった。
 そして、弁当を食いながら話をしてる俺たちを、クラスの連中がちらちらと興味深げに時折視線をよこしているのに、俺は気付いていた。
 その理由も察しがつく。
 何しろ、普段ほとんどといって良いくらい俺は女子と(男子生徒ともだが)口をきくことはないし、同じくこの図書委員……もほとんど男子と話をしたりしない。そんなヤツ同士が普通に喋りながら弁当を食べているのだから、物珍しいのだろう。
 俺は弁当箱を仕舞って牛乳を飲みながら、ふいに言う。
「……は、もっとぜんぜん話さないヤツかと思った」
「そう?……確かに男の子とは、あんまり話さないかも。だって、あまり話す事がないもの」
 はサンドイッチを食べ終え、パンくずを払った。
「乾先輩とは話してたじゃねぇかよ」
「乾さんは本や資料についてとか、いろいろ話す事があるし。……私より、海堂くんこそ、いつももっとしゃべらないじゃない」
 言われてみて、確かにそうかとつい眼をそらした。
「そりゃあ……話す事なんかないからな」
 俺がそう言うと、はくすっと笑った。
「じゃ、いろいろ教えてくれてありがと」
 言って、俺の机の横に持ってきていた椅子を自分の机に戻した。
 彼女の席の近くの、いつも一緒に弁当を食べている女子達が、待ってましたとばかりにに声をかける。
 どんな事を言われてるのか、なんとなく想像はつく。どうせ、『海堂くんと何話してたの?怖くなかった?』とかそんな事に決まっている。
俺はちらりと彼女達を見て、そして椅子の背にもたれてフンと鼻を鳴らしながら目を閉じた。

 放課後、この日は何の当番もないしさっさと部活へ行くために、バッグを持って教室を出ようとしていたところ、
「ねえ、海堂くん」
 が声をかけてきた。
「何だ?」
 俺はカバンを持ったまま振り返る。
「これを、乾さんに渡しておいてもらえない?」
 彼女は大きな茶封筒を手に持っていた。
「……何だそりゃ?」
「乾さんが複写依頼をしていた文献のコピーと、以前に購入希望を出していた本の一部。今日届いたの。多分早い方が良いと思うから」
 俺は彼女が手に持ってるものをじっと見て、少し考える。
「……一緒に来て自分で渡せよ。暇なら、また練習でも見てったら良いんじゃねぇか?」
 乾先輩に『から預かってきました』なんて言って渡すのもなんとなく面倒だし、と、俺はにそう言った。
は茶封筒を手に持ったまま、俺の顔を見上げた。
「部外者があんまりしょっちゅう見てたりしてたら、迷惑じゃないの?」
「別に。他にも沢山、関係ねえヤツ見てただろ」
 茶封筒で自分の胸元をぽんぽんと叩いて、少し考えてからはカバンを手に持った。
「じゃあ、そうする」
 俺たちは並んで歩いて、部室に向かった。
「ところで、それ何だ? もしかして、またなんかクソマズイ汁でも作るための資料か?」
 俺はの手にある茶封筒を指して、先ほどから抱いていた懸念を発した。
「これ? 違うわ。ローティーンのトレーニングとスポーツ障害に関する最近の論文の複写と、あと多変量解析に関する本よ」
「なんだそりゃ?」
「いろいろ難しい本を読むの、あの人。これこれこういう本を探して欲しいとか、こういう事を調べてるんだけどとか、レファレンス泣かせよ」
 言いながらも、は楽しそうに笑った。
「やっぱりあの人は、マニアックだな」
「ね、そう思うでしょう?」
 乾先輩がどれだけ資料を集めているのかという事を改めて知ると、あのクソマズイ野菜汁なんかの効能もやけに信憑性を帯びてくるのだが、だからといって積極的に飲みたいなどという気分には決してならない。
 俺はにヤツがどんなに破壊的な汁を作るのか、という事なんかを話しながら歩いているとあっという間に部室の前だった。
「多分、じきに乾先輩も来るから……」
 言いかけたところで、ふと長い影が落ちるのに気づいた。
 丁度、乾先輩がやってきたのだ。
「あれ、さんと……海堂か」
 先輩は意外そうな顔をして俺を見て笑った。
「……同じクラスなんスよ」
 俺はついつい思い切りぶっきらぼうに言った。
 こんな風に言い訳をするように言いたかったわけじゃないのに、と心の中で舌打ちをした。
「うん、知ってるよ」
 乾は笑いながら言う。
 それがまた余裕のある声と笑顔で、俺はまたぐっと言葉につまってしまった。
「乾さん、これ、届いたのでお渡ししようと。本の貸し出し手続きはすませてあります」
 は茶封筒を乾先輩に手渡した。
「ああ、早かったんだね?」
「近くの大学にその雑誌があったので、すぐに複写できたそうです。本の方は、多分それでおっしゃっていた内容のものだと思うんですけれど」
 乾先輩はちらりと中を改めると、満足そうに封筒ごとカバンにしまった。
さんが選んでくれる資料はいつも間違いないから、安心だよ。ありがとう。そういえば、昨日、珍しく練習見て行ってたね?」
 乾先輩に言われては恥ずかしそうに笑った。
「……今日、海堂くんにいろいろ教えてもらいました。面白かったから、また見せていただこうと思って」
「へえ」
 乾先輩は、これまた意外そうに声を上げて、ちらりと俺を見た。先輩が何かを面白がっている時の顔だった。
 俺はなんとなく面映い感じがして、思い切り目をそらしてしまう。
「週末に、関東大会の試合があるんだ。よかったら見に来ない? 海堂もレギュラー選手で出るよ」
 そんな俺に構うことなく、先輩はいつもの静かな声でに言った。
「海堂くんも選手で?」
 乾先輩がそんな風に他人を誘うのがちょっと意外で、俺は思わず先輩の顔を見上げた。
「そう。ベスト8の試合だからね、かなり見ごたえあると思う。じゃ、今日もゆっくり見ていって」
 乾先輩は手を振ると部室に入っていった。
 おいおい、誘うだけ誘ってさらりと行っちまうのかよ、と俺は非難がましくその後姿を眺めた。
「……んじゃ」
 その後、何て言ったらいいのかわからないし、いやそもそも誘ったのは乾先輩だから俺は関係ないし、などと思いながら俺はにそれだけつぶやいて部室の方に向かった。
「ん、じゃあね」
 彼女もそれだけ言うと、フェンスの傍にあるベンチへ歩いていった。

「海堂、これさんに渡しといてくれよ」
 部室の中で着替えをしていると、乾先輩が俺にB5サイズの紙を手渡してくる。
 関東大会二日目の、試合会場の場所とタイムテーブルが記された用紙だった。
「自分が誘ったんだから、自分で渡せばいいじゃないスか」
 俺はぶっきらぼうに言いながらジャージに袖を通し、バンダナを頭に巻きつけた。
「……今まで何回か、見においでと言ってたんだけど来た事なかったんだよ、彼女。きっと同級生のお前も声かけた方が、来やすいだろう」
 先輩はいつものように微笑みながら、用紙をぐいぐいと俺につきつける。
 俺はバンダナを巻き終え、渋々それを受け取った。
「何度も誘ってたとは、気に入りなんスね、の事」
 嫌味半分で言ってみた。
「ああ、彼女はレファレンス能力が高いからね。実戦を見てもらえれば、更に精度が高まるだろうと思って。海堂も彼女と話して、いろいろと勉強になっただろう?」
 にやりと笑って言う乾先輩の言葉は、ここ最近俺がと話している内容なんかを全て見通してるみたいで、思わず俺の胸はカッとざわつく。
「近頃のお前は、トレーニングのインターバルの置き方とかパワーバーの摂取の仕方とか、やけにきっちりしてるからね、多分彼女と話して本でも借りたんだろうと思ったんだよ」
 先輩は穏やかな優しい声で続けた。それもまた今の俺の気持ちを知ってかのようで、俺は本当に決まりの悪い心持になる。
「……まあ、そうスね……」
 俺はうつむいてもごもごとつぶやくと、先輩から受け取った紙を畳んでジャージのポケットにしまった。
「じゃ、頼んだよ」
 俺はその後姿を見送った後、シューズの紐を締め、部室を出た。
 まったく乾先輩にはかなわない。
 なんだってああも、人を食ったような、何でもお見通しのような風に人を扱うのだろう。そしてそれがまた、決して嫌味じゃなくて妙に逆らえないところがシャクだ。
 俺は、フェンス際のベンチに腰掛けているの傍らに歩み寄った。
 気配を感じたのか、振り返って俺を見る。
「……コレ」
 俺はぶっきらぼうにポケットから先ほどの紙を出して、渡した。は黙ってそれを広げ、中に書いてある事に目を通す。
「関東大会……ここで勝つとどうなるの?」
「とりあえずは二回戦で勝つとベスト4になって、全国大会の切符が手に入る」
「へえ!」
 感心したように目を丸くして彼を見上げた。
「……ありがとう、是非見に行かせてもらうわ。晴れると良いわね」
 そう言うと渡した紙をまた折りたたんで、カバンのポケットに仕舞った。
 俺は黙ってコートに向かって歩くが、ふと足を止めた。
今日も遅くならないうちに適当に帰れよと言おうとして、少し迷った。
 少し考えて振り返ると、彼女の前に戻った。
「……練習見てて遅くなっちまったら、ここでこのまま待っとけ。どうせ帰るのは同じ道だ」
 それだけを言うと、俺は返事も聞かずの顔も見ず、コートの中へ走って行った。

 インターバルの間にちらとフェンスの外を見ると、は時々立ち上がったりしながら、熱心に練習を見ていた。乾先輩も時折顔を上げては彼女がいるのを見て、満足そうに笑う。
 自分のノートと頭脳にデータをインプットするだけでは飽き足らず、というところかと思うと、フシュゥとため息をつきつつも妙に納得してしまった。
一通りの基礎練習を終えると、この日はゾーン練習を行った。
 乾先輩との川原での特訓、そしてダブルスの実戦も経て、俺のブーメランスネイクは完璧にシングルスコートに入るようになった。
 打った瞬間の手ごたえで、インする事がわかる。そしてその感覚というのは、つま先から頭のてっぺんまで抜けるような、なんとも言えない達成感だった。
 週末の関東大会。
 間違いなく、俺は最高のコンディションで臨めるだろう。
 内からこみあげてくる、ぞくぞくするような気持ちがなんとも抑えきれなかった。
 部活が終わって、汗を吸ったジャージをさっさと着替える。バンダナを外してきちんと畳み、カバンに仕舞った。
 そうだ、はまだ待っているだろうか。
 俺はハッとあわてて部室のドアを開けて外に出てから、足を止めた。
 外のベンチにはがいた。
しかしだけじゃなく、乾先輩と桃城もそこにいたのだった。
 何やら三人で話しているようだった。
 俺は思わずは舌打ちをして、渋々そちらに足を向けた。
「へー、さん、関東大会見に来るんだ。テニスの試合見るの初めて?」
 桃城の無邪気な大声が響いていた。
さんが見に来るなんて、ウチのクラスの奴、きっとうらやましがるなあ!」
 俺はまた舌打ちをした。
 なんだか妙な気分になる。
 が乾先輩と話したりしているのは、まあどちらかといえば自然だし、今は見慣れたものだった。けれどこの桃城なんかと話したりしているのは、妙にモヤモヤする感じだ。
 何て言ったらいいだろう。
 桃城の、まっすぐでストレートに思ったことをそのままに口にして、それできちんと人の懐に入っていく感じは、うらやましいとは思わないけれど、彼の良い持ち味なのだろうなと時に感心する。
 けれど、俺とはまったく違う、奴のそういった他人との関わり方が、時にはなぜだか癇に障る。今はそういう気分だった。
 桃城の話に相槌を打ったりしていたは、ベンチに向かう俺に気づいて手を振ってきた。乾先輩と桃城も振り返る。
「おっ、マムシィ〜。なんだよ、何コワイ顔してんの」
 桃城の言葉で、俺は険しい顔をしていたのだと気づいた。
「マムシって言うなっつってんだろ」
さん、試合に見に来るんだってな」
 俺の様子をまったく気にする事もなく、桃城は嬉しそうに言う。
「そうださんて、もしかしてテニス部の誰かとつきあってんの?」
 そしてまた明るい口調で、桃城はに尋ねた。
「私が? ううん、ぜんぜんそんな事ないわ」
 桃城の唐突な質問に、さすがにも驚いた顔をして返事をする。
「そうなの? 俺、さんは乾先輩とつきあってるのかと思っちゃったよ」
「海堂くんにもそう言われたわ」
 が困ったように言うと、乾先輩が笑った。
「こいつら、ガキだからさ。ごめんね」
 乾先輩は慌てる様子もなく、を見た。
ガキだなんていわれて俺は少々腹が立つものの、乾先輩は上手いタイミングで上手い一言を言う、と改めて思った。やっぱり乾先輩は落ち着いていて、確かに俺や桃城はガキかもしれないなと、納得させられる。
 乾先輩はちらりと、居心地の悪そうな顔をしてるだろう俺を見た。そしてすぐに視線を桃城に移す。
「……桃城、チャリだろ? 俺、ミツマルスポーツ寄りたいんだけど、乗せてってくれないか?」
 乾先輩はふいに桃城に言った。
「今からっスか? ああ、急がないと店閉まっちゃいますよ」
「じゃあ急ごう、頼むよ」
 言うと、笑って俺とに手をふった。
「了解! じゃあ、さん、またな!」
 桃城も勢い良く走って行った。
「……帰るぞ」
 その後姿を見送って、俺はつぶやいて歩き出した。は黙ってついてくる。
 こうやって連れ立って帰るのは三度目か。
 そういえば前に一緒に帰った時は、本の事とかいろいろ質問をしながら、俺にしては珍しくずっと話をして帰った。
 今日はずっと黙ったままだ。
 でも、なぜだろう。
 別にそれが重苦しい感じではなかった。
 俺は人と関わるのは苦手だ。
 どうしてなのかと、自分で自分を分析するのも苦手なので、明確な理由はわからないが、自覚している理由の一つとしてまず自分は口下手だっていう事がある。
 気の利いた話や、上手い言葉が出てこない。
 その結果、一緒にいる相手に気を使わせたり、「無愛想な奴」とレッテルを貼られたり、そんな事が面倒くさい。
 だから同じクラスで日直なんかで組む相手(特に女子)なんかが俺の事を、「何にもしゃべらなくて、ムスッとしていて怖い」なんて言ってるのも知っている。
 勿論、それでどうって事はないのだが。
 話をしていて気づいたのだけど、は会話の合間に俺が黙り込んだり、無愛想な返事をしてもまったく気にしないのだ。今まで、そんなクラスメートは他にいなかった。
「……今日のね、コートで打ち合ってた練習、あれすごく面白かった。最初、意味がわからなかったんだけど、しばらく見てたらちょっとわかってきたわ」
 歩いていると、はしばらくの沈黙もなかったかのように、ふと顔を上げて俺を見て言った。
「練習の打ち合いであんなんだから、きっと試合ってすごいんでしょうね」
 わくわくしたような声で言った。
「……はぜんぜんスポーツとかやんねぇのか? 結構、背も高ぇのに。」
 ふと疑問に思って俺が尋ねると、は照れくさそうに笑った。
「体を動かす事自体はね、そんなにキライじゃないんだけど、でも何て言ったらいいんだろ……競技とか学校の部活とか……皆でいろいろやるのが、苦手なのかなあ」
 は考え込みながら言った。
「……でも、海堂くんや乾さんが……いろいろ本や資料で勉強して、そしてそれを元にトレーニングして、あんな風な事ができるようになるんだなあって、ちょっとびっくりして感動したの。昨日、初めて練習を見た時にね。今まであんまり興味なくて、乾さんに言われても見たことなかったんだけど」
 嬉しそうに笑いながら、俺を見る。
「だから、試合はすごく楽しみにしてるわ。……あの……」
 また考え込むようにちょっとうつむいた。
「なんて言ったらいいのかしら、こういうの慣れてないから……」
 言葉を切ると、黙ってそのまま歩き続けた。考え込む彼女の横顔をちらちらと眺めながら、俺も黙って歩いた。
「海堂くんが、いい感じで、試合できるといいなあって思ってるわ」
 ふと立ち止まって、ひとつひとつ言葉を選ぶように、言った。
 俺はその言葉を少し意外に感じて、彼女を見下ろす。
「……うーん、なんか違うなあ、なんて言ったらいいんだろう」
 はまた困ったように唇に手をあてて、考え込む。
「……すごく一生懸命練習をしていて、その人がこれから試合をするって言う時、なんて言ったらいいか、わからないの。ここでは……」
 カバンを持っていない方の手を握り締めて胸に当てた。
「すごく……気持ちがギュウってなってるんだけど、本当になんて言ったら良いかわからないの。頑張ってって言うのは、なんか違うし……だめね、なんだか私、本当にうまく言えない」
 言ってから恥ずかしそうに笑った。
「……とにかく私、週末は、試合を一生懸命真剣に見るわ」
 が時間をかけてそしてそれでもなんだか上手く言えなかった言葉は、不思議にするりと俺の心に入ってきた。俺自身もそれを言葉にはできないけれど、が言いたい事はわかった。わかったし、がそれを上手く言えない事にも共感できた。
「俺は……勝つから」
 それだけ言った。
 は顔を上げて俺を見て、そして微笑みながらゆっくりと何度か頷いた。
 それから、俺とは黙って歩き続ける。
 彼女の家まで、ずっと黙ったまま。
 それでも俺の胸は、やけにほっとして温かかった。


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2007.3.7




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