アドレナリン(後編)



 週末は関東大会二日目で、青学にとっては二回戦から始まった。
 その二回戦の緑山戦では、乾先輩とのダブルス。
 この日の、俺たちの勢いを表すかのような勝利。
 それまで練習に付き合ってくれた乾先輩への借りを一旦返したかのようで、俺は爽快な気分だった。
 そして青学は続くダブルス、シングルス共に快調に勝ち進み、まずは全国大会への切符を手にした。
 緑山戦の後は午後の試合に備えて、昼食を取る。
 俺は食べ終わった弁当箱をしまうと、水を飲みにコートの外へ出た。
 水道の近くの、飲料の自動販売機の前でふと足を止める。
 ゴトン、と飲み物を買って振り返ったのは、だった。
 後ろに立っていた俺に気づくと、は驚いた顔をした。
「……ああ、びっくりした。ええと……全国大会への出場決定、おめでとう」
 一瞬考えてから、思い切り嬉しそうな笑顔で、は言った。
 深い青の色のすっきりしたワンピースのは、あのでっかいリボンのついた制服を着ている時よりもずっと大人びていた。
「朝から、ちゃんと見てたのよ」
「……知ってる」
 は自動販売機から取り出したスポーツドリンクを俺に差し出した。
 俺はそれを受け取ると、しばらく手でもてあそび、プルタブを引いた。何もしゃべらず、しばらくそのまま二人で立っていた。
「ねえ、海堂くん。テニス、楽しい?」
 ふいにが真剣な顔で聞いてきた。俺はを見て、そしてスポーツドリンクをごくごくと飲み、しばらく考えた。
 家に親戚なんかが遊びに来ると、『薫くん、部活は楽しいかね』なんて気軽に聞かれたりする。そんな質問は実はあまり好きではなくて、いつも『ええ、まあ』なんて無愛想に答えたりするのだ。
 けれど、今に聞かれた質問は、そんな風に答えて良いものではないような気がした。
 テニスが楽しいか?
「……その答えは、午後の試合が終わった後でもいいか?」
 俺はドリンクの缶を持ったまま、に言った。
 は黙って俺を見て、そして静かにうなずいた。
「午後は準決勝ね? ごはん食べてきたら、また見に行くわ。じゃあね」
 それだけを言うと、手を振ってするりと去った。
 俺は彼女の後姿を見送ると、手に持ったドリンクの缶を握り締め、ぐっと一気に飲み干すべく口元へ運んだ。
 と、俺の背中を思い切り叩く手があった。口に含んだドリンクをむせそうになり、ムッとして振り返ると、それは桃城だった。
「おい、さっきの、さんじゃねえの?」
「……ああ。飯食ってくるってよ」
 ごほごほと咳をしながら、彼をにらみつける。
「なんだよせっかくだから、一緒に飯食って、皆と一緒にウチの応援してたらいいのに!」
「……しらねーよ。ガキじゃあるまいし、好きにしたらいいんじゃねえのか」
「お前さあ。さん、試合見に来るなんて初めてだろ? 知り合いも少ないだろうしさあ。一言、誘えばいいのに、まったく気の利かない野郎だなあ!」
「じゃあ、てめぇが誘えばいいだろ」
 ドリンクを飲み干して缶をゴミ箱に放って言うと、桃城は大げさにため息をついて俺を睨んだ。
「だーから、お前はモテないんだよ!」
 言い放つと駆け出した。
 桃城は、気の合う相手とは言いがたい。
 でも多分、多くの人間にとっては「いい奴」に違いないし、俺もそれに異論はない。
 俺がと話していて、言葉に詰まったり沈黙したりする場面でも、奴ならばきっとすらすらと明朗な話題をつむいでゆくのだろうなと、ふと思った。
 その考えは、と桃城が話しているところを見た時のモヤモヤした気持ちを思い出させた。
 その気持ちを振り払おうと、俺は首にかけていたタオルを右手に持ち、それを思い切り振った。
 午後は決勝進出を決める六角中との試合。
 俺はシングルスでのオーダーだ。
 ブーメランスネイクを引っさげてのシングル戦、負けるわけにはいかない。
 そして。
 ふいに出されたからの宿題。
 テニスは楽しいか?
 その答えを、出さなければならなかった。
 俺はコートへ足を向けた。

 六角との試合は、桃城と河村先輩、不二先輩と菊丸先輩のダブルスが続けて勝ちを上げてきた。
 そして俺のシングルス。これで勝てば、決勝進出だ。
 相手は一年。ランキング戦で越前に負けた事が、いやおうなしに甦ってくる。
 ぎりりとラケットを握り締め、コートに出た。
 フェンスの方を見ると、青いワンピースがちらりと視界に入った。
 ネットをはさんで対戦相手と顔を合わせた俺は、いつになく冷静だった。笑顔で挨拶をしてくる葵という一年の選手に、よろしく、と挨拶を返す。
 一旦天を仰いでから、フシュウと息を吐いた。

 人を食ったような一年生、葵は、なかなかのやり手だった。
 俺は序盤から飛ばして、4-0まで一気に相手を追い詰めた。
が、その後、葵はまるでそのプレッシャーを楽しむように猛烈な集中力を見せて、俺から点を奪い取って行った。
 俺から1ゲームを奪った奴は、その目を更にギラギラと楽しげに光らせてゲームを続け、そのプレイも恐ろしく冴え渡ってきた。
 奴は、なんと狙ってコードボールを打って、そしてゲームは4-4となった。
 そしてまた何度目かのコードボールが俺のコートにこぼれてくる。

 『テニス、楽しい?』

 の質問が頭をよぎった。
 こんなもの楽しいわけがない。少なくとも、今の状況では!
 ボールはサイドライン上に落ちようとしていた。
 気がつくと、俺はさけびながらそのボールをダイビングボレーで返していた。
 左の額が熱い。
 ポールに当たった額が切れて、血が流れていた。
 相手が4-0から盛り返して来たからって何だ?
 プレッシャーに強いのは俺も同じだ。
 俺は額を抑えながら、葵をギロリと見た。
 竜崎先生から、傷の手当てをと呼び寄せられたが、俺はバンダナをきゅっと額に巻いた。これで十分だ。先生にもそう伝え、またコートに戻る。
 葵の戦い方は嫌いではなかった。
 切れた額にドクンと大げさなくらいの脈動を感じる。
 ぞくぞくした。
 周囲の音が小さくなって、コート、ボール、そして相手と。
 それだけがリアルに自分に迫ってくる、この感覚。
 そう、俺はこの感覚が好きだったのだ。
 血まみれになって、追い詰められて。それなのに、なぜか俺はすうっと落ち着いた。
 額の傷からは生暖かい血が流れるのがわかる。それでも、俺はどんどん冷静になっていった。冷静なんだが、それでも熱い。そんな感じだ。
 俺は、スネイクで思い切り葵を走らせた。そして奴のボールの精度はどんどん落ちていった。
 狙い済ましただろうコードボールがネットにひっかかる。
 それをきっかけに、葵のリズムは崩れ、俺は勝利を手にしたのだった。
 そう、これが俺の戦い方。
 スネイクやブーメランスネイクは勿論大切な武器だ。しかし重要なのは、一発必中の派手な技で勝利を決める事ではなくて、それをきっかけに粘り、相手のミスを誘う俺のやり方。
 そう、生き残りゲームだ。俺は生き残った。
 気がつくと、竜崎先生に肩をかつがれていた。
「無茶をしおって」
 案の定、小言をくらった。
 救急箱のガーゼを、額に押し付けられた。
「これ、ちょっと手で押さえておけ。そこの病院に行こう、アタシも行くから」
 先生にせっつかれてコートの出口に向かうと、フェンスにしがみつくようにしているが見えた。
「……先生、いいっスよ。あといろいろ用事があるでしょう。俺、一人で行って来るっス」
 俺はそう言って荷物を担ぎ上げて、出入り口にずかずかと歩いて行った。
「しかし誰か付き添いの者を……」
 先生の声が背中を追ってきた。
 フェンスの扉を開けると、が目を丸くして俺を見上げていた。
 俺は左手で額を押さえながら、しばらく黙って彼女を見た。
「……か。確か海堂と同じクラスだったな?」
 俺の隣で竜崎先生が言う。
「海堂と一緒に病院に行ってもらえるか? 後でアタシも行くから」
 そう言ってに微笑んだ。
「あ、はあ、ハイ」
 は少し戸惑った様子で返事をして、俺を見る。
 俺は何も言わずに、コートを出て歩いて行った。
 あわてて後をついてくるは、俺の荷物を奪い取ろうとする。
「いい、自分で持てる」
「血、止まってないじゃない。力を入れると、余計出血するわ」
 はそう言うと、結局俺の荷物を奪って肩にかけて歩いた。さすがに俺もそれ以上逆らわなかった。
「……びっくりした。……すごいのね」
 はそれだけを言う。
「何がだ?」
「……後で話す。血まみれの人には、落ち着いて話せないわ。痛そうで」
 自分が怪我をしたかのように、痛そうな顔をして俺をちらりと見た。
 そのまま試合会場の近くの総合病院を受診した。
 結局二針ほど縫合し、化膿止めと痛み止めの薬を処方され、診察は終わった。
 処置室で、俺は血まみれのジャージを着替え、体についた血液を丁寧に洗い流し、待合室へ戻る。
 心配そうなが待っていた。
「終わった?」
「ああ。問題ない」
 言うと、会計を待つために座った。フシュウとため息をついた。
 丁度その時、竜崎先生がやってきた。
「処置は終わったかい?」
「あ、はい、今終わったとこです」
 竜崎先生は一旦診察室に入り、またすぐに出てきた。
「よかった、ちょいと切れただけだったようだね」
「だから、大丈夫って言ったじゃないスか」
「縫ったんだろう? 擦り傷ってわけじゃないよ。……本当はアタシが試合を止めるべきだったんだけどね……あんな顔されちゃ、止められないね」
 先生は困ったように笑って俺を見た。俺は照れくさかったり申し訳なかったりで、うつむいてしまう。
「家まで送っていくよ。親御さんにも一言ご説明しておかないとね」
 先生の言葉に、俺はあわてて顔を上げた。
「いや、いいっスよ。ウチの親はちゃんとわかってますから。バスで帰ります」
「そうかい?……は海堂と家は近かったか?」
 ふとを見る。
「ええ? はい、まあ近いです」
「じゃあ、一緒に帰ってやってくれ。まあ、別にもうなんともないとは思うけどね」
「……はい、先生」
 先生は俺とに手を振ると、病院を出て行った。
 俺たちは会計を終えて、バス停に行く。
「……楽しいかって、聞いたよな」
 俺はぼそっとつぶやいた。
「え?」
「テニスが楽しいかって、俺に聞いたよな、
 俺はテニスバッグをバス停のベンチに置いて言った。そして深呼吸をする。
「……トレーニングはキライじゃないが、確かにキツい。試合運びが思うようにいかねぇと、焦る。試合は負けると、メチャクチャ悔しい。勝っても満足行かねぇ事もある」
 一気に言って、もう一度深呼吸をする。はそんな俺をじっと見ていた。
「テニス……やってて、正直、そうやってピリピリしてる事がほとんどだ。けど……思うように体が動いて、頭に描いていたようなショットが打てた時や、強い相手に粘り勝った時……ほんの一瞬、頭にガツンと抜けるようなたまらねぇ気持ちになる」
 それだけ言うと、俺は額のガーゼに手を当てて、うつむいた。
 言ってから急に恥ずかしくなる。
 なんだろう、こんな事を他人に話すのは初めてだった。
 それでも話してみて、どうして自分がテニスをやっているのか、それが改めてわかったような気がした。その事に少し驚いて、またを見た。
 はじっと真剣な顔で俺を見つめていた。
「……そういう、感じだ」
 言って、大きく息を吐いた。
「……今日、試合を見ていてね、すごいなあって思ったわ」
 今度はがゆっくりと言う。
「同じようなラケットを使って、同じ人間が、ボールを打ち合うだけの事なのに、一人一人、まったく違うのね。皆、熱とか尖り具合とか違う。そんな人同士で、あんなふうにぶつかりあうんだなあって、びっくりした。試合を見るのって、なんかもっとこう、声を出して応援したりするのかなって思ってたけど、私……海堂くんの試合、じっと見るのが精一杯で、一言も声なんて出せなかった」
 恥ずかしそうに笑って俺を見上げた。
「多分、今日見に来てなかったら、さっき海堂くんの言ってた事の意味、わからなかったと思う。ありがとう」
 ありがとう、なんていう言葉がとても意外で、俺はどう反応したら良いのかわからなかった。試合に誘ったのは乾先輩だ。しかし多分、今はそういう事を言ってるのではないだろう。
 俺が戸惑ったように黙っていると、は相変わらずじっと俺を見る。目をそらそうとすると、彼女の手が俺のこめかみに触れた。
「……まだ、血がついてるわ」
 は言うと、ハンカチを取り出して俺の左のこめかみを軽く擦った。
 彼女の手は、少しひんやりとしていて、それでもとても柔らかかかった。
 普段の俺だったら、自分でやるからと、その手を払いのけていただろう。
しかし今はそれができなかった。
 俺の額の傷は、まるでそこに心臓があるかのようにズキンズキンと強い拍動を刻み、そしてしっかりと縫い合わせたはずの傷は、その拍動で開いてしまったような気さえした。
 それは例えて言うなら、まるで第三の眼のように。
 俺の顔のすぐ下で、じっと俺を見上げているの真剣な目は大きくて、俺のこめかみの血をぬぐうために上げているその腕は自分と比べると本当に細くて華奢で、時折吹き付ける風でなびく柔らかそうな髪からは、ほんのりと甘い香りがした。
 はとてもきれいだった。
 自分とはまったく作りの違う生き物だった。
 どれだけ頼りになるとしても、どれだけ自分にとって話しやすい相手だとしても、まるで男の友達のようだったとしても、は女だ。
 そんな事実が、どうしてだか急に激しく俺の中に流れ込んでくる。
 本当に急に、だ。
 額の傷の拍動は強くなる一方で、ズキズキとうずき、それと同時に顔が熱くなるのを感じた。俺は左の額のガーゼに手を当てると、あわてて体を引いた。
「アドレナリン……」
 思わずつぶやいていた。
「え? なあに?」
 は驚いて問い返してくる。
 俺も自分がとっさに何を言ったのか、一瞬わからなかった。
「……試合で興奮してて……だから怪我しても、その時はあんまり痛みを感じねぇのかな。アドレナリン、のせいだっけ? 借りた本に、そんな事が書いてあったような気がする」
 俺はまったく自分が何を言ってるのかわからないが、べらべらとしゃべっていた。
 額の傷は、あいかわらず大きく見開いた目のような感じがして、そしてやっぱりどくんどくんと大げさなくらいに脈打っていた。
「うん、そうね。まだ、ドキドキしているの?」
 はハンカチをしまうと、笑ってそう言った。
「ドキドキなんかしてねぇ!」
 これまた俺は、すっとんきょうに叫んでしまった。
「いや、うーん……」
 俺は額を押さえながら、うなってしまう。
 フシュウと息をついて、俺はベンチに座り込んだ。
 そしてそのまま目を閉じていると、が隣に座って来る気配を感じた。そうっと目を開けると、彼女は心配そうに俺を見ていた。
 俺はまた目を閉じる。
 何度見ても、当たり前だけれどやっぱりは女だ。なぜだか急にそう実感した事に、俺は戸惑う。
 うん、きっとアドレナリンのせいだ。
 試合、勝利、怪我。
 俺の脳にはアドレナリンが出ているんだ。
 俺が少しヘンなのは、そのせいに違いない。
 自分にそう言い聞かせると、少し落ち着いた。
 ゆっくり目を開ける。
 額の傷は、規則正しくドクドクと脈動を俺の頭蓋骨に伝えてくる。
 そしてが座っている俺の左側からは、ふんわりと暖かい空気が伝わってきて、それはやがて、『アドレナリン野郎』の俺をまるごと包み込んでいた。
 フシュウと大きく息をつく。
 大丈夫。
 傷が治れば、きっといつもの俺に戻るだろう。
 だから、今はこのままでいい。
 しばらくバスも来なくていい。
 そう、今はこのままでいたい。



2007.3.9




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