● 僕とあなたのセブンデイズ(水曜日)  ●

 いつも僕は、目覚まし時計が鳴るよりも一瞬早く目が覚める。
 普段は目が覚めてから少しまどろむのだが、今日はすっきりと目がさえて、そしてさっさと起きると朝食を摂って部活の朝練に向かった。
 学校へ向かう僕の頭の中には、昨日お昼を一緒に食べた時や、二人で下校をした時のさんの顔や声が甦る。
 それらは、不思議なくらい僕に力を与えた。
 いつもより早めにコートに入った僕は、力いっぱいにサーブの練習を繰り返す。

 ひとしきり打ち込んでからタオルで汗を拭っている僕の背後に、誰かが近寄ってくるのを感じた。ドリンクを口にしながら振り返ると、それは三年の忍足さんだった。

「長太郎、なかなかコントロール良うなってるやん。調子ええみたいやな」

 忍足さんはボールをもてあそびながら口元に笑みを浮かべ、僕に近寄ってきた。

「はい、おかげさまで、なんとか精度も上がってきました」

「そうか、頑張ってんな。宍戸も調子ええみたいやし。そうそう長太郎、お前、あれやってな」

 忍足さんはボールをもてあそぶのをやめて、ポケットに仕舞う。

「あのと、つきおうてるって? マジで?」

 興味津々といった顔で、聞いてくる。
 僕はふうっとため息をつくけれど、でもこういう質問は予想できる範囲の事だった。

「……そうですよ。同じ委員会の先輩で、以前から憧れていたんです」

 僕はすぐさまに答えた。

「へえ、そうか。なんや彼女月曜にサロンで、つきおうてる男とえらい修羅場を演じたらしいて聞いたけど、その後でお前がモノにした言うやん。びっくりしたわ」
「人聞きの悪い事言わないでくださいよ」
 僕が言うと、忍足さんはおかしそうに笑った。
「すまんすまん。いや、しかしか。お前もやりよるなぁ。俺はああいう気ぃ強いしっかりした子は苦手やけど、何しろあんだけ目立つ美人さんや。狙ろてる男は他校にかてようさんおったし、それをウチの後輩がちゃっかりモノにしたんは、ちょと嬉しいわ。まあ、頑張りや」
 忍足さんはそう言って俺の肩をぽんぽんとたたくと、隣のコートへ向かった。
 当然の事だけれど、僕がさんに提案した件を実行するにあたって、変化が出るのは彼女の周りだけではない。
 僕の周囲だってそうなのだ。
 でも僕はまったく構わない。
 誰に何と言われても、気にはしない。
 男だからね。

 けれど僕は時折、胸のざわつきを感じるたび、お守り代わりに首にかけている十字架のチョーカーを握り締めてしまう。
 昨日、さんに「ありがとう」と言われた。
 その言葉は、思っていた以上に僕の心に響いた。
 だって、あのさんの「ありがとう」だ。
 さんが、自分の弱いところを認めて、そして僕の行為に礼を言ったのだ。
 その言葉は、僕の心の深いところまで染み入った。
 同時に、僕は複雑な気持ちになった。
 だって、僕は……。

 サロンでさんが月島さんにぶたれているのを見た時。
 そして、月島さんが二年生の女子とその場を去るのを見た時。
 あの場から、さんを助け出さないと、と思ったのは本当の事だ。
 でも同時に。
 これは、神様が僕にくれたチャンスなのだとも思った。
 普段、普通に彼女に近づいて話しかけても、僕はある一定以上から彼女と親しくなる事は難しいだろうと思っていた。
 でも、あの時ならば。
 きっと、彼女は一瞬でも僕を見てくれるはずだと確信を持った。
 僕はさんの気持ちがわかるから。
 さんは、僕が申し出さえすれば、きっと僕を利用する。
 僕にはそれだけの価値がある。
 委員会で話をする以上の関わりを、きっとこれで持てるだろう。
 僕は、あの時のさんの状況を、利用した。
 すべては僕の思惑通り、そしてさんの思惑通りでもある。
 でも昨日、さんの顔に浮かんだ感謝の表情を見て、僕は少し胸が痛んだ。
 さんが思うように、僕は純粋に親切な気持ちだけで、あんな提案をしたんじゃないんだ。
 僕は、さんが弱くなった一瞬を逃さずつけこんだのだ。



 昼休みは昨日のように、さんとサロンで待ち合わせた。
 うちの学校の交友棟のサロンというのは、学年やクラスの違うカップルなんかが集う場所でもある。
 だから、ここで僕とさんが食事をするというのは、格好のアピールの場になる。
 つまり、さんが月島さんにぶたれて別れたなんて事は、もうなんでもない事なのだという風に。
 僕がさんの新しい彼なのだとアピールする事は、さんを月島さんとの噂から守る事になるのだ。僕はそれを分かって、さんの教室やサロンで目立つように振舞っていたし、さんもその効果をよく理解していた。
 でも、そんな理由付けよりも何よりも、僕はさんと二人で食事をしたり話をしたりすることに、心からワクワクしていた。
 さんのちょっとした仕草は、本当に優雅できれいで、そしていつも委員会で会って話す時とは違う、プライベートな笑顔。そんなものが僕に向けられるなんて、思ってもいなかったから、僕の目は彼女のそんな一つ一つを見逃すまいと必死で見つめつづけていた。
 昨日はまださんは緊張していたのか、ほとんど話す事もなかったけれど、今日は少しリラックスして自分の事なんかを話してくれた。
「鳳くんは家で動物飼ってる?」
さんは紅茶を飲みながら僕に尋ねた。
「はい、猫を飼ってます」
「そうなんだ。鳳くんはなんだか、犬って感じがするんだけど」
「そうですか。猫、かわいいですよ」
「うちはね、犬飼ってるの」
「へえ、どんな種類ですか?」
「パグ。すごくやんちゃだったんだけど、ちょっと前にしつけ教室に通って。そしたら、すごくお利口になっちゃって。なんだかね、違う犬になったみたいで、少し寂しいの」
 僕は、楽しそうに話す彼女をドキドキしながら見つめた。
 委員会で一緒にいただけでは、こんな風に話す彼女には会えなかっただろう。
 例え、期間限定の事であっても僕は最高に幸せだった。
 そんな時間はあっというまで、時計の針は間もなく昼休みの終了間近である事を示していた。
「あ、さん、ええと……」
 僕は言ってから少し考えて、内ポケットから手帳を出した。
「あの、これ、俺の携帯の番号とメールアドレスです」
 手帳からちぎったページに、あわててそれらを書き記した。
「何かあったら、連絡をしてください。来週になったら、もう捨てていただいて構いませんから。」
 僕が手渡したメモを、さんはしばらくじっと見つめて、それから僕を見上げた。
 長い睫毛にふちどられた彼女の目は、いつもまっすぐに人を見る。
 僕もその強いまなざしに負けないよう、まっすぐにそれを捉えて彼女を見つめ返した。
 さんはポケットから携帯電話を取り出して、メモを見ながら僕の番号をプッシュした。
「……後で、メールも送るから。暇な時に履歴を見ておいて」
 さんは操作を終えると立ち上がる。
 僕のポケットの携帯が、一瞬震えて止まった。
 僕の携帯にさんの番号の履歴が残ったのかと思うと、まるでそのポケットの小さな機械が熱を持ったように感じた。



 楽しい時間は早く過ぎると、小さな子供の頃から感じていたけれど、今でも僕はやはりそう思う。
 部活を終えた後、サロンに来るとさんはまだいなかった。
 僕はテーブルに座って、携帯電話の画面を見つめる。
 さんからメールが来ていた。
『昨日より少し遅くなります』
 それだけの短いメールだったけれど、僕は何度も何度もそのメールを見つめる。
 何気なく携帯の日付を見ると、今日は水曜だという事に改めて気付いた。
 そうか、水曜か。
 さんと月島さんをここで見たのが、月曜日。
 一週間だけ、僕とつきあっている事にしないかと彼女に提案した。
 来週の月曜には、その約束の期間が終わる。
 確かにそれだけの期間があれば、彼女を面倒な噂の呪縛から解くには十分だろうから。
 そしてもう今日は水曜日。
 残された期間、学校で授業がある日は、明日と明後日。
 
 もしも僕とさんが本当につきあっているのだとしたら、今日みたいな一日は二人の沢山の日々の何気ない一日に過ぎないだろう。
 でも、限られた期間しかない僕にとっては貴重なかけがえのない一日だ。
 朝、教室に顔を見に行って、昼に一緒に食事をして、ペットの話なんかをして。
 特別な事はなにもない一日だけど、穏やかで幸せな日。
 月島さんはいつも彼女とこんな風に過ごしていたのだろうか。
 彼女にも言ったけれど、僕にはまったく理解できない。
 さんが時にはきつい言葉で、まっすぐに筋の通った事を言うところは、彼女のとても美しい素敵なところの一つだ。そしてそんな彼女と、穏やかで優しい話をするのは、本当に心躍る事だと思う。
 どうしてそんな事を、手放してしまえるのだろう。
 しかも、彼女の顔をひっぱたくなんて。
 
 僕はさんと接する時、なるべく落ち着いて大人の男らしく振舞おうと努力する。
 概ね僕は、思ったとおりに振舞えているし、思ったとおりの印象を彼女に与える事ができていると思う。
 けれど、内心は子供みたいなものだ。

 あんな男の事は早く忘れて。
 俺の方が良いじゃないか。
 俺の方があの男より背が高いし、バイオリンだって上手い。
 俺だったら、他の女の子を見たりしない。
 さんに辛い思いなんかさせたりしない。

 僕は心の中で、ずっとそうやって叫んでいるのだ。
でも一週間というのは、思ったよりも短くて、僕は焦ってしまう。

「ごめん、待った?」

 突然のさんの声に、僕はびくりと振り返った。

「あ、いいえ、大丈夫です、そんなに待ってやしませんよ」

 僕はあわてて携帯をしまうと、立ち上がった。

「そう、よかった」

 さんは後れ毛を指で整えると、ほっとしたように笑った。
 僕はこの笑顔を、あと何回見る事ができるだろう。



 家に帰った後、僕は自室で調べ物をした。
 昨日さんが読んでいた本のタイトルと作家だ。
 忘れないうちに調べておこうと思ったのだ。
 僕はそんな事をしながら、我ながらつい笑ってしまった。
 まるで、女の子みたいだ。
 好きな人が読んでいる本を知りたいだなんて。
 でも仕方がない。
 子供っぽいかもしれないけれど、結局のところ、恋っていうのはこんなものだと思う。

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2007.5.30

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