● 僕とあなたのセブンデイズ(木曜日)  ●

 私が本棚を見上げて手を伸ばそうとすると、すっと私の上に大きな手が伸びるのだ。

「どの本ですか?」

 いつもの穏やかな笑顔で、鳳くんは私を見下ろす。

「その、『ユダの福音書を追え』っていう本。ハードカバーの」

 私が言うと、彼はすぐにそれを取って黙って私に手渡してくれる。
 今日は昼ごはんを食べた後、私は図書館に行くからと言うと、彼も一緒にやってきたのだ。鳳くんも本を借りたかったらしく、熱心に文庫のコーナーを見ていた。
 しばらく私も、自分が探している本を調べてからテーブルに戻ると、彼は貸し出しを決めたらしい本を数冊手元に置いて、そして『ナショナルジオグラフィック』のバックナンバーを開いていた。そばに行ってちらりとのぞきこむと、彼はパンダ赤ちゃんの写真を嬉しそうに眺めていて、私はそんな彼がなんだか可愛らしくてくすりと笑った。
 私に気付いたらしい彼は、はっと振り返って少し恥ずかしそうにする。
 パンダの写真をにやにやしながら見ていた事が、照れくさかったのだろうか?
「スミソニアン動物園のウェブサイトで、24時間パンダが見られるライブカメラの映像があるの、見たことある?」
「え、そんなのあるんスか!」
 彼が驚いたように言うので、私はまたおかしくなってしまう。
「時差があるから、こっちが夜だと向こうは昼じゃない。ちょうど夜に見ると、パンダがお昼に笹を食べて遊んだりしてるとこが見れて、すごく可愛いよ。赤ちゃんパンダ、今はだいぶ大きくなってるけど」
 私たちは本を借りて、図書館を出て歩きながらそんな話をした。
 彼は、自分も見てみます!と、スミソニアンのパンダに夢中のようだった。
 鳳くんは不思議だ。
 こんな風にとても素直でストレートで、ああ、年下の男の子なんだなあと思うところもあるけれど、でも私と過ごす時の態度や振る舞いは、なんとも優雅で落ち着いていて、大人の男の人のように感じる事もある。
 鳳くんは、自分が周りからどう見えているのかを、きちんとよくわかっているのだろう。決して、自意識過剰という意味ではなくて。
 彼は華やかで、いろいろな意味で周囲の評価の高い男の子だ。
 その事をきちんと自覚して、私にあんな提案をして、そしてこうやって茶番につきあってくれている。
 実際、効果は抜群だった。
 この二日程で既に、私と鳳くんが一緒にいるところに、周りの生徒達はすっかり慣れたようだった。つまり、私自身、あからさまな好奇の視線にさらされる事もない。
 彼がいなかったら、今頃まだ私は一人で戦っていた事だろう。
 今週、こんな風に穏やかな気持ちで過ごせるなんて思いもしなかった。
 私は隣を歩く、背の高い男の子を見上げた。
「……どうかしましたか?」
 私の視線に気付いた彼は、不思議そうに尋ねる。
「ううん、鳳くんは、女の子といるときの振る舞いに慣れてるっていうか、落ち着いてるのね」
 私はずっと思っていた事をそのまま口にした。
「そうですか? あ、でも別に、しょっちゅう女の子とつきあっているっていう訳じゃないですよ。あの、俺、姉がいますから一緒に買い物に行ったりして気が利かなかったりすると、いろいろ注意されるんです」
 彼が慌てたように言うのが、またおかしくて私は笑ってしまう。
「ああ、お姉さんがいるんだ。うん、そんな感じね」
 確かに彼は、良く躾けられた出来の良い王子様といった風だ。



 部活の後、いつものように私はサロンで鳳くんと待ち合わせて一緒に帰るところだった。
 が、ふと教室に忘れ物をした事に気付く。
「鳳くん、ごめん。私、教室に取りに行かないといけないものがあって。ちょっとだけ待っててもらえる?」
「僕も一緒に行きましょうか?」
「ううん、遠回りになってしまうからいいわ。すぐに戻るから」
 私は彼に言って、教室に戻った。
 課題のプリントを机に入れっぱなしだったのだ。
 私は誰もいない教室に駆け込んで、机の中を確認するとほっとしてプリントを取り出した。
 それを畳んで鞄にしまおうとすると、がたん、と背後で音がする。
 驚いて振り返ると、そこには月島稔がいた。

「……びっくりした。どうしたの、月島くん」
 
 彼は私と同じクラスではない。
 だから、この時間に教室にいる事にも驚いたし、なによりここの教室に現れた事にも驚きだ。

「いや、二人で話すの、なんだか久しぶりな気がしてさ」

 私もそんな気がした。
 でも久しぶりといっても、ほんの数日の事なのだけれど。

「そうね、あ、何か用だった? 私、もう行かないといけないけど……」
「鳳?」
 彼は尋ねる。
「……そう」
「……あいつと、つきあってる?」
「……そうね」
「いつからつきあってた?」
 月島くんは、詰問するという風でもないけれど、ゆっくり私に尋ねてくる。
「月島くんに、ぶたれたその後からよ」
 私は答えた。
「……あの時、ぶったりしてごめん」
 彼は申し訳なさそうに言うと、一歩私に近づいてくる。
「あの後すぐに? もっと前からつきあってたんじゃなくて?」
「違うわ。彼はそういう子じゃないし、私もそんな事はしない」
 私が言うと、月島くんは眉をひそめてそして、その細身の体を持ち上げ近くの机に腰掛けた。
「じゃあ、まだそんなには親しくないんだろう?」
「そうね、月島くんと時田さんくらいには親しくないかも。……まあ、でも彼が猫を飼ってて、お姉さんがいて、パンダが好きって事くらい知ってるわ」
 私は笑って言った。
「俺は、まだ時田とつきあってるって訳じゃないよ」
「……そう。じゃあ、これから少しずつね」
 私が言うと、月島くんはストンと机から降りて立った。
はどうしていつもそうなんだ? あの時も……俺と時田が二人で出かけたりしてるのは本当かって聞いてきて……俺が『そうだ』と答えたら……顔色ひとつ変えなかっただろう? 『これからもそうするの?』 なんて聞いてきて」
 彼は私をじっと見ながら言った。
 そう、私は彼のこういうところが好きだった。
「……じゃあ何て言えばよかったの? 時田さんと会わないでって、言えばよかった? でも、月島くんが時田さんと会いたいなら、仕方ないじゃない。そうでしょう?」
 これじゃあ、まるであの日の続きみたい、なんて思いながら私は彼を見ていた。
が本当にやめて欲しいと言ったら、やめていたかもしれないよ」
 月島くんのこういうところ。
 自分の感情や気持ちに素直で、言葉にしきれないような事をもそのままにぶつけてくるところ。私は彼のそういところが好きだったし、今もいいなあって思う。彼の演奏も、いつもそういった熱いものが溢れていて、とても憧れた。
 月島くんは、また一歩私に近づいた。
「俺より、鳳の方がいいのか?」
 泣きそうな顔の彼は、子供みたいで、でもその子供っぽさは、鳳くんが時折のぞかせるそれとはまた違うものだな、と、なぜだか私は心の中で冷静に観察していた。

 その時、教室の扉の開く大きな音。
 鳳くんだった。
 彼は真剣な顔で、私たちのところへ大股で歩いてきた。
 私は驚いてしまう。
 彼が現れた事にというより、月島くんと鳳くんは、私の頭の中でまったく別次元の存在だったから、こうやって同じ場にいるという事が、私を混乱させるのだった。
 鳳くんは、私の前に立って、そして言った。

「月島さん。さんは今、俺とつきあっているんです」

 驚いた顔で彼を見上げる月島くんを、じっと睨む。
 私は思わず鳳くんの肩を押して、前に出た。
 鳳くんを、私と月島くんの間から押し出す。

「月島くん、ごめん。私は月島くんの事は、とても好きだったわ。だから、あの思い出までダメにしてしまうような事はしないでおきましょう」

 私はそう言って、鳳くんの腕をつかむと教室を後にした。
 足早に校舎を出て、校門のあたりでようやくゆっくり落ち着いて歩き出した。

「……なかなか戻ってこないから……」

 鳳くんが小さな声で言った。
 私はまだ落ち着かないまま。

「その……さんが、また月島さんにぶたれるんじゃないかって心配になってしまったんです」

 申し訳なさそうに彼は続けた。
 彼の目はあいかわらずまっすぐで、本当に私を心配していたであろう表情が読み取れる。
 けれど、私は……。

「鳳くん、私と月島くんの事にまでは口出ししたりしないで」

 そんな事を言ってしまう。
 そして目をそらした。
 彼の傷つく表情を見たくなかったから。

 私は混乱した。
 教室で月島くんといた私は、前に月島くんに恋をしていた時の自分を思い出していた。
 そして鳳くんの存在は、どうしてか、その気持ちはもう昔のものなのだと突然に私に思い知らせた。
 ほんの少し前の事なのに、月島くんに恋をしていた自分があんなに遠いだなんて。
 その事に、自分でとても驚いてしまうし動揺する。
 そして、どうして、こんなに気持ちをかき乱されるのだろう。
 私は気がつくと涙を流していた。
 今になってやっと私は、自分の恋が終わった事を思い知らされる。
 何に対して悲しいのか、よくわからない。
 月島くんを失ったの事が悲しいのか、捨てられた自分がかわいそうなのか、恋を昔のものにしてしまった自分が許せないのか、思い出が懐かしいだけなのか。
 わからないけれど、私の涙は止まらない。

 そして隣では、きっととても困ってしまっているだろう鳳くんが、それでも私の傍を離れる事なくじっと何も言わずそこにいてくれていた。

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2007.5.31

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