● 僕とあなたのセブンデイズ(金曜日)  ●

 僕は失敗をしてしまった。

 昨夜、何度もさんに電話をしようか、メールをしようか迷った。
 しかしそれは出来ずじまい。
 何て言ったら良いのか、わからなかったから。
 
 僕は失敗をしたのだ。
 頭の中ではわかっていたはずなのに。
 さんにとっての僕の役目はさんを守る事であって、さんがまた月島さんと上手くいくのだったら、それに越したことはないはずなのだ。
 なのに、昨日の僕はすっかりさんの彼氏気取りだった。
 さんが教室で月島さんといるのを見た時、またさんがぶたれるのではないかと心配になって慌てたのは本当だ。
 でも、それだけじゃない。
 自分の大事な人に、昔の男がまた近づくなんて。
 嫉妬という他に言いようのない気持ちが、突然に渦巻いたのだった。
 そんな自分の感情に任せて行動してしまった僕に、さんの涙は胸に突き刺さった。
 さんがどうして悲しかったのか。
 僕にはわからない。
 でも、理由はどうであれ、さんが泣いた。
 僕の目の前でさんが悲しい思いをするのは、とても辛い。



 朝練を終えて着替えをしていると、誰かが僕の背中をぽんとたたく。
 振り返ると、宍戸さんだった。

「長太郎、調子は悪くねぇみてーだけど、元気ねぇな」

 心配そうに言う宍戸さんに、僕は笑顔を作る。

「別にそんな事ないですよ。それより、俺のサーブ、だいぶコントロールも良くなったでしょう」
「ああ、クセもわかりにくくなったしな。なんだ、大丈夫なのか?」
「もちろんです。調子いいですよ」
「そうか、ならいいんだ。明日の練習は試合形式で、忍足たちのペアとやるんだからな、気合入れていこうぜ」
「わかってますって!」

 僕は宍戸さんに向かって力いっぱいに手を振ると、部室を出た。
 教室に向かいながら、僕は三年生の教室のあるあたりと、そしてオーケストラ部が練習をしている部屋を見上げた。
 今日はもう金曜日だ。
 僕にはもう時間がない。
 なのに、なんでこんな風になっているのだろう。
 ため息をつきながら、一人、教室に足を向けた。



 僕は休み時間になるたびに、携帯電話をチェックしていたけれどさんから連絡が入っている様子はなかった。そんな事を繰り返して、あっというまに昼休み。
 こっちから何か連絡した方が良いだろうかと、いろいろ思い悩んだけれど、結局僕は弁当を持ったままサロンに向かった。
 中に入ろうとして、また戸惑う。
 彼女が来るかどうかはわからない。
 僕は一人、ずっと彼女を待ち続ける事になるのだろうか。
 そんな煮え切らない気持ちで立ちすくんでいると、通りすがりに僕の腕をつかむ何者か。
 引っ張られながら驚いてそっちを見ると、さんだった。
「天気良いし、外で食べない?」
 彼女は僕の返事も待たずに、僕の腕を取って歩き続ける。
 無論、僕に異存などあるはずもない。

 僕らは木陰のベンチに座って弁当を広げた。

「あの、鳳くん。昨日……あんな言い方をして、ごめんなさい」

 隣に座っているさんは、僕を見上げると言った。
 ああ、そうか。
 もしかして、彼女も……。
 昨夜の僕のように、言葉を探していたのだろうか。

「鳳くんがああやって助けてくれた事、嬉しかったし、来てくれて良かったと思う。ただ、私もいろいろびっくりしてしまって……混乱してしまったの」

 いつもきびきびと話す彼女なのに、言いにくそうに、ゆっくり言葉を吟味しながら話していた。

「何て言ったらいいのかわからないんだけど……昨日は、私自身が混乱してしまったことばかりに気を取られて……鳳くんを傷つけてしまったかもしれないって、ちゃんと思いやれなかった。ごめんね」

 彼女は言って、心配そうに僕を見つめる。

「……いえ、俺が……さんの気持ちも考えず感情的に動いてしまったんです。俺の事なら大丈夫ですから」

 僕は彼女がもう怒っていないのだとわかって、少々胸をなでおろす。
 彼女も胸のつかえがおりたように、ほっとしたような顔をした。
 僕らはようやく弁当を食べ始めた。
 僕はほっとしたけれど……でも、僕が彼女に言いたいのはこんな事じゃない。
 そうじゃなくて、もっと、こう……。
 でも、それはどうやって伝えたらいいのかわからなくて。
 やけに焦った気持ちでいると、僕の腕に何かが触れる。
 穏やかな風にそよいで、時々揺れるさんの髪だった。
 さんの柔らかそうなきれいな髪、小さな耳、白いシャツからのぞく細い腕。
 そういえば今まで、彼女とは人の多いところでばかり会っていた。
 こうやって、人気のない木陰で、二人ですごすのは初めて。

「……どうしたの?」

 僕がまるで固まってしまったようにしているからか、さんは箸を動かすのをやめて僕を見た。

「あ、いえ、あの……こうやって静かなところでさんと二人でいるのは初めてなので、ちょっと緊張しているんです」

 僕の言葉に、さんは、ああ、と目を丸くして口元を押さえた。

「そういえば、そうね。ごめん、こんなところに連れてきちゃって。私、本当はサロンみたいにがやがやしてるのよりも、静かなところが好きだから、ついね。ごめんなさい」
「いえ、いいんです。俺も、こうやって……静かなところで二人でいる方がいいですから」

 僕は思わずそう言ってしまってから、顔が熱くなる。
 隣の彼女を、またちらりと見た。
 いつも遠巻きに見ていたり、大勢の中の一人として彼女を見ていて、そしてずっとさんをきれいだと思っていた。
 でも、こうやってすぐ傍で彼女を見ると……。
 時折腕に触れる髪の感触、風とともにほんのり漂う甘い香り、かすかな熱、滑らかそうな白い肌。
 きれいだとかいうそんな事だけじゃなくて……どうしようもないくらいに、僕の頭の芯を痺れさせる。
 女の人って、どうしてこんなにすごい力を持っているのだろう。
 彼女のこの髪や肌に触れたりしたら、いったいどんな感じがするのだろう。
 僕はそんな事を考えながら、なんだか味もわからないまま弁当を食べ終えた。
 さんも食事を終えて、ペットボトルの紅茶を飲みながらふうっと息をついて空を見上げた。
 青い空には、いかにも夏らしい積雲。
 昨日の帰り道と違って、今の沈黙は心地よい。
 今、この時間・空間を共有する相手として、彼女は僕を認めてくれているのだ。
 そんな感じがしたから。
 じっとその横顔を見つめている僕を、さんはふと見上げて、そして優しく笑う。
 僕も嬉しくて、思わず微笑み返した。
 この時間がずっと続いたらいいのに。
 僕は胸の十字架を握り締めた。
 が、そんな僕をあざ笑うように、予鈴が鳴る。
 さんははっとして、ペットボトルのキャップを閉めた。
「……さん!」
 僕は思わず叫ぶ。
「明日、土曜日……時間はありますか?」
「……うん、特に予定はないけれど」
「よかったら、テニス部の練習を見に来ませんか? 明日は試合形式の練習なので、結構見ごたえがあると思います」
 さんは小さなバッグに弁当箱と紅茶のペットボトルを仕舞って、そして僕を見て、何も言わず肯いた。
 そう、月曜日のあの夕方のように。

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2007.6.1

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