朝、ベッドで目が覚めて時計を見て、私は気が重い事を認めざるを得なかった。
いつものように、きっちり朝練の時間に遅れる事なく目覚めてしまったからだ。
目覚めたからには、やはり練習に行かなければならない。
わざと休んでしまうという事は、私が逃げたという事を、自分で認めなければならない。
そう、私は逃げたりなんかしない。
私はいつものように、部室棟に寄って楽器を持ってから練習場に向かう。
私の楽器はチェロで、自宅で練習をする時や演奏会の時以外は部室に保管してあるからだ。
大きな楽器ケースを持って練習場に入ると、先に来ている部員達がすでに音あわせをしていた。
が、私が入ってゆくと、心なしかその音が静かになってゆくのを感じた。
バイオリンのパートの席の彼と、一瞬目が合う。
月島稔。
私が、昨日までつきあっていた男だ。
いや、正確にはつきあっていると思っていた、が正しいのかもしれないけれど。
そして彼の隣には、同じバイオリンの時田さん
私たちの後輩にあたる二年生の女の子で、彼の今の恋人。
そんな私たちを、部員達が緊迫した雰囲気で、もしくは興味津々といった雰囲気で見てしまうのは仕方のない事だろう。
それでも私はそんな中、冷静な態度で自分のパートの場所へ向かう。
こんな風に冷静に振舞うのは、私は別段苦手ではない。
そして、月島くんはそんな、なかなか感情の乱れを見せない私が、苦手だったのだろう。
私が朝練を終えて教室に向かうと、教室でも私を取り囲む空気というのは練習場で感じたものと同じだった。
それもそうだろう。
あのが、つきあっていた男に浮気をされて、公衆の面前で言い争いをしたあげく、顔をひっぱたかれ、そして男は新しい女と去って行ったなんて。
そんな話が伝わっていないはずがないし、おそらく誰しも興味を惹かれて仕方のないニュースに違いない。
それだけに私は、いつもとなんら変わりなく隙のない振る舞いをしなければならないのだ。
私はまるで戦場に出かけるように、教室の中に一歩一歩踏み出して行った。
体中に突き刺さる好奇のまなざしを受けながら、私は自分の机にたどり着き、鞄を置いて、ふうと小さくため息をついた。
何が嫌なのかって、この様々なまなざしの中の、私を哀れむような、腫れ物に触るような種類のもの。そして私をあまり良くは思っていない人たちの、面白がるような態度。
私は、そんな風に見られるいわれなどない、というようにこれから過ごすのだ。
この感じ、一体いつまで続くのだろうか……。
私が若干憂鬱な気分でそんな事を考えていたその時、廊下が少し騒がしい。
「さん、あの、鳳くんが……」
廊下に近い席の女子が、私に声をかけてくる。
「え?」
私は思わず声を上げて、教室の後ろの出入り口を見る。
そこには、ひときわ目立つ長身の整った顔立ちの男の子がいた。
鳳長太郎くんだった。
私はあわてて出入り口に駆け寄る。
「どうしたの?」
私が言うと、鳳くんはそこから一歩教室に入って、私にとびきりの笑顔を向けた。
「昼休みは、交友棟のサロンでいいですか? それとも学食? 俺は弁当を持ってきていますけれど」
彼はその甘いマスクで穏やかに微笑んだまま、そして静かだけれどよく響く声でゆっくり言うのだった。
私は少々驚きをかくせないまま彼を見て、そして一言返した。
「……私もお弁当だから、サロンでいいわ」
「わかりました。じゃあ、サロンで待ってますね」
鳳くんは嬉しそうに笑うと私に手を振り、そして教室のほかの生徒たちに、礼儀正しく一礼をして教室を去って行った。
昨日の夕方、彼が言った事は本気だったのか。
私は戸惑いながら、自分の席に戻った。
そして、ふと、私を取り巻く視線の感覚が、それまでと少々変化している事に気付いた。
鳳長太郎くんは私より一学年下の、テニス部の男の子だ。
180センチを越える長身で、それでもちろんひょろっとしている訳ではなく、バランスの取れたたくましい体つき。そしてその体格に不似合いなくらいの、整った優しげな顔立ち。一見して育ちの良さが見て取れる、優雅な物腰。
それだけでも十分目立つ男の子なのに、彼はこの氷帝学園のテニス部において二年生で正レギュラーの座にいる。
テニス部の正レギュラーの男の子が概ねそうであるように、彼はこの学内で、学年を問わず最高に目立って人気のある男の子の一人なのだった。
そんな彼が、昨日、大勢の目の前で月島くんにぶたれた私を、サロンから連れ出した。
そして、これから少しの間、自分とつきあっている事にしないかと私に提案をした。
私は、その提案に同意したのだ。
二限目の授業が終わった後、同じクラスの友人の美咲が私の隣の椅子に座った。
彼女は今日は日直で、一限目の後は業務をこなすのに忙しかったと見える。が、私に話しかけたくてうずうずしていたようだった。
「ねえ、。が月島くんと別れて鳳くんとつきあってるって、本当? 朝も彼、来てたけど!」
興奮したように私に尋ねてくる。
鳳くんの画策は、まったく思ったとおりに動いている。
そう、つまり世間の興味の対象は、私が『月島くんに捨てられた』という事から、私が『鳳くんとつきあっている』、という点に見事にスライドしていたのだ。
そしてどちらも、人々の噂を相手にしなければならないという意味で面倒な事には変わりないわけだけれど、後者の方がずっと私にストレスがかからないと、彼はわかっていた。
「……うん、まあね」
私はそれだけを答える。
「なんだっけ、鳳くんとは委員が一緒だったんだっけ? 鳳くんか〜、さすが」
美咲は満足そうに伸びをする。
「こう言っちゃなんだけど……」
彼女は私の方に身体を乗り出して、声をひそめた。
「月島くんもいい男だったけど、鳳くん相手じゃ格が違うよね。には鳳くんの方がずっと似合ってる。……昨日が月島くんにこっぴどくやられたらしいって噂で、今朝クラスの女の子の一部がワイワイ嬉しそうに言ってたんだ。は目立つから、ほら、とやかく言いたいんだよね。でも、鳳くんが来てからあの子たち、びっくりしちゃって。いい気味」
彼女はおかしそうに笑った。
きっと、朝から私になんて声かけようと心を悩ませていたのだろう。
そんな彼女に、私は本当の事を伝えないととも思うのだけれど、鳳くんのあの一生懸命な顔を思い出したら、それは彼との約束の期間が過ぎてからで良いかと思い直した。
昼休み、私がお弁当を持って交友棟のサロンへ行くと、先にテーブルについていた鳳くんが立ち上がって私に大きく手を振る。
ただでさえ大柄な彼が立ち上がると、どんなに人がいてもぐっと目立って、すぐに目に付く。
嬉しそうに手を振る彼は、まるで人懐こいゴールデンレトリバーを彷彿とさせて、私は思わず笑ってしまった。
彼の待っているテーブルに私が腰を下ろすと、彼はまた立ち上がった。
「飲み物を持ってきます。紅茶でいいですか?」
私の返事も待たず、彼は駆け出した。
委員会の後、私がよく紅茶を飲んでいるのを彼は見ていたのだろう。
鳳くんはすばやく戻ってきて、私の前に飲み物を置いてくれた。
彼の人当たりや物腰は、本当に洗練されている。
『持ってきましょうか』ではなく『持ってきます』なんて言うあたり、さりげない事だけれど私は驚いた。『持ってきましょうか』と言えば相手が遠慮すると、彼はきちんと配慮しているのだ。
私は彼に礼を言って、弁当を広げた。
その後、何を話したら良いのか少し戸惑うけれど、鳳くんの柔らかな笑顔は、決してその場を気詰まりな雰囲気にしない。
「鳳君……ありがとう」
私は箸を口に運ぶのを休めて、一言言った。
「いえ、俺も飲み物を取りに行こうと思っていたところですから」
「ううん、そうじゃなくて」
私は思わず笑って、彼を見た。
「……昨日、連れ出してくれた事」
私が言うと、鳳くんは小さくうなずいた。
本当は昨日、言わなければいけなかった事なのだけれど。
でも、あの時すぐにありがとうと伝える事が、私はできなかった。
理由はわかっている。
『ありがとう』と言う事は、『助かった』という事で、それはあの出来事が私にダメージを与えたのだと認める事になるから。
月島くんにあんな風にされたからといって、私は何もこたえはしない。
私は、そう見せたかった。
当然、本当はそんな平気なわけがないのに。
どうしてだか私は、いつもそんな風だ。
鳳くんはそんな私の考えを、まるでお見通しというように穏やかに笑った後、美味しそうにお弁当を食べ続ける。
私は複雑な気持ちで彼を見た。
私は、自分の事が時々イヤで仕方がない。
私は、自分本位で心の冷たい人間だ。
昨日、月島くんにぶたれた後、真っ先に私の頭をよぎったのは、彼と別れる悲しさではなかった。
こんな無様な状態をさらした後、私はどうやって振舞おう。
男に捨てられた女というレッテルを、どうやってやり過ごそう。
そんな事だった。
そして突然その場に現れて、私をあそこから連れ出してくれた鳳くんと、そして彼が言い出したあの提案。
あの時、私は彼の気遣いや優しさに感謝する前に、彼を値踏みしたのだ。
二年生でテニス部正レギュラーで人気者の鳳くん。
彼ならば、これから私がプライドを保ちつつ過ごす事に一役買うには、十分な役者だと。
私は自分のそんな考えの流れに、嫌気がさす。
けれど、自分のそんな思いは自分では動かしようがなかった。
「帰りの待ち合わせも、ここで良いですか?」
ぐるぐると考えを巡らせている私には構わずに、鳳くんは紅茶を飲みながら静かに言う。
私は昨日、彼にそうしたように、黙って頷いた。
放課後の部活もいつものように練習をして、特に別段変わったことはないのだけれど、部員の皆にも私と鳳くんの話は既に伝わっているようだった。
月島くんが私を見る目が、朝とはまったく違う。
オーケストラ部の者の、鳳くんについての認識は、他の部の者たちのそれとはまた一味違う。鳳くんはテニスプレイヤーとしてだけではなく、バイオリンの演奏者として中学生の間では名が知れているから。
特に月島くんは先のバイオリンのコンクールで、鳳くんに負けている。
私は、そんな事ももちろん知っていて鳳くんの提案を受けたのだ。
思わず内心苦笑いをする。
これだけ計算高くてプライドが高くて冷ややかな女を、月島くんが嫌になるのも仕方がない。
部活を終えて、私はサロンのテーブルの椅子に腰掛けて、鳳くんを待っていた。
約24時間前。
私はここで月島くんを待っていた。
その後に、こんな展開になるなど思いもしなかった。
夕方、交友棟はいろんな学生の待ち合わせやおしゃべりの場になる。
そんな中で、昨日の出来事を聞いてか相変わらず好奇の視線で私を見る者もいるが、私は紅茶をすすりながら手元の文庫本に視線を落としていた。
「お待たせしました、行きましょうか」
明らかに走ってやってきたと思しき鳳くんの、明るく楽しそうな声が聞こえ、私は顔を上げる。
そこには、とてもまっすぐな笑顔の鳳くん。
月並みな表現だけれど、その笑顔は私にとってひどくまぶしく感じた。
鳳くんは、年齢よりもだいぶ大人びて見えるけれど、その笑顔はとても可愛らしくて、ああ一つ年下の男の子なんだなあと思う。
私は本を鞄に仕舞って立ち上がった。
「本、何を読んでるんです?」
彼が尋ねるので、私はもう一度本を取り出して、カバーを外して見せた。
「『悪魔とプリン嬢』。パウロ・コエーリョの三部作の一つよ」
私が言うと、彼は文庫の表紙をじっと見てからまた私の顔を見た。
「俺の知らない作家です」
「ブラジルの作家よ。ほら、『アルケミスト』って知ってる? あれ、書いた人」
「アルケミストはタイトルは聞いたことありますけど」
「うん、すごくベストセラーになった本だから」
彼は感心したように肯いて、またあの穏やかな笑顔で私を見た。
読んでいる本について尋ねられるなんて、あまりされた事がなかったので、私は少し新鮮な気がした。
「ああ、そうそうさん、家はどちらでしたっけ?」
私は自宅の番地を伝えた。
「それでしたら、俺の家への通り道ですね。一緒に帰りましょう。送りますから」
私はまた何も言わず肯いて、彼と並んで歩いて校門を出た。
学校から離れて、氷帝の生徒もだんだんと周りから少なくなってくる。
私はようやく口をひらいた。
「……鳳くん、昨日はありがとう」
昼間に言ったのと同じ意味合いで、私は彼に礼を言った。
私は普段、人に自分の事をいろいろ話す方ではない。
けれど、多分、彼には話さなければならないと感じた。
「……月島くんとは……少し前から、よく揉めていたの」
昨日の様子を見ておそらく鳳くんも簡単に想像がつくであろう、私と月島くんの事情を、私はゆっくりと話し始めた。
私と月島くんは、ちょうど一年くらい前からつきあっていた。
私は月島くんの、極めてストレートに感情を表すところが好きで、私たちはとても上手くいっていた。
けれど今年に入ってから、私たちは言い争いをする事が多くなる。
原因は、大抵の場合些細な事が発端で、最終的に彼が私の物の言いが気に入らないという事に集約していった。
そんな事が積み重なっていって、そして最近になって、彼が同じオーケストラ部の二年生の女の子と頻繁に二人で会っているという話をしょっちゅう聞くようになり、実際に私も目にする機会も出てきた。それじゃあ、その事も含めて話をしましょう、という昨日の待ち合わせだったのだ。
その結果はあの通り。
「……鳳くんは、私と同じ委員だから、私がどんな風に物を言うか少し知ってるでしょう? 彼にも言われたの。私が言う事は、確かに正しいけど、正しい事を人の気持ちも考えずにそのままにずばずば言うのは、配慮がなさすぎる。そんな奴と一緒にいるのは、疲れるんだって。……つまりは、そういう事だったの。あんなところ見せちゃって、びっくりしたでしょう」
私は特に表情を変える事もなく、静かに彼に言った。
「……俺はあの二年生の人より、ずっとさんの方が良いと思うのに、どうして月島さんはあんな事をするんだろうって、それでびっくりしました」
鳳くんは笑顔のまま、しれっと言うので、私はしばらくその笑顔をじっと見つめてしまう。
「どうしてって……その理由は、さっき私が言った通りの事みたいよ」
「俺には、ちょっと理解できない理由ですね」
私は、そう言って微笑む彼を見て、歩きながらくすくすと笑ってしまう。
今日という一日は、きっと私にとって、相当な試練の一日になるに違いないと私は朝、家を出る時には思っていた。
もちろん、いつもと違う一日には変わりないけれど、私の頭を占めるのは予想していたのとは随分違うものだった。
それは、このアイドルスターのような後輩の男の子の、風変わりな一連の行動や言動。
私は覚悟していたよりも、心穏やかな一日を過ごす事ができた。
それはすべて、この男の子のおかげ。
私が今感じている気持ちは、心からの感謝の気持ちだと思う。
けれど、それを今すべてきちんと伝えるのは、まだ私には難しくて。
でもそれを、彼と約束の一週間の間に少しずつでもきちんと伝えてゆくことを、私は自分の心の中で誓った。
笑いながらも、妙に真摯な顔をする私を、彼は不思議そうにちらちらと見るけれど、私たちは静かに歩き続けるのだった。
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2007.5.28