恋愛小説家(2)

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「確か、ドバイっつったんじゃなかったか、ルパンよ」
 次元は不満そうな声でつぶやきながら帽子を脱ぐと、髪を丁寧に櫛でなでつけ、整髪料で整えた。
「物事には準備ってモンがあるでしょうが」
 鼻歌まじりに言うルパンは、白髪の初老の紳士の姿で、自分の姿を満足気に眺めていた。
 五右ェ門は瞑想するような形で、ソファに胡坐をかいている。
 三人がいるのは、ロンドンのホテルの一室。
 ミャンマー北部上空3000mに比べれば遥かにマシだが、ロンドンの夜はまだ肌寒い。
 次元は面倒くさそうにケッと言い放つと、整髪料のついた手を洗い、メタルフレームの眼鏡をかけ、煙草を一本くわえた。眼窩の上と頬骨に変装用の人工皮膚を被せた彼は、神経質そうな男になりかわっていた。
「ドバイ行きの前に、カモを捕まえっとかねぇとな」
 ルパンも煙草に火をつけ、うまそうに一服をする。
「それで、『ジョシュア・アークライト伯爵』の登場か。大掛かりだな」
 五右ェ門は目を閉じたままつぶやく。
 ジョシュア・アークライト伯爵。
 ルパンがいくつか持つ、表の顔の一つ。
 オックスフォードに代々続く伯爵家で、宝飾品や美術品のコレクターとして知られている紳士。それがアークライト卿だ。
 詐称などではなく、どこから調べてもホコリが出ることのない本物の肩書きだ。
 帝国に受け継がれている財産として、ルパンはそういった顔をいくつも持っている。
 調べれば適度にその素性を知ることができるが、しかし人物の核心に迫ろうとするとどうにも近づくことができない。そんな具合にいくつもの顔を維持するには、もちろん莫大な投資が必要なわけではあるが。
「ルベウスの奴に一泡ふかせるにゃあ、これっくらいやらねえとな」
 ルパンは煙草を灰皿にぎゅっと押し付けて火を消した。
「さてと、行くぜ、次元」
「はいよ」
 五右ェ門に見送られながら、二人はホテルを後にした。

 二人が向かったのは、トラファルガー広場からほど近いPall Mall通り。奇しくも次元愛用の煙草と同じ名のその通りには、会員制の高級クラブが並んでいる。
 その中のひとつの店に入った。
 静かな音楽に、洗練された調度品。見るからに各界の名士ばかりといった風情の客層だった。二人はマホガニーのアンティークのテーブルに案内された。
 アークライト卿に扮したルパンは、そっと店内を見渡す。
「どうだ、奴はいるか?水曜はここに来るはずなんだが」
 小声で次元に尋ねる。
 次元もぐるりとまわりを見渡してから、肩をすくめた。
「まだ来てねぇな」
 次元は内ポケットから写真を出す。
 そこには60歳前後の、精悍な男が写っていた。
「……ガストン・ゴールドスミス、軍需品貿易で儲けてる億万長者か」
 次元は邪魔くさそうに眼鏡の位置を直すと、またその写真をポケットにしまった。
 すると、ルパンがはっと背筋を伸ばす。彼の視線を追うと、まさに写真の男がやってきてカウンターに腰掛けるところだった。
「……次元、頼んだぜ」
 ルパンは静かに言うと、そっとテーブルを離れた。
 その物腰は、初老の貴族そのものだった。
 ルパンはカウンターで男と程よい距離を保ちつつ、スコッチの入ったグラスを傾ける。
 男……ガストン・ゴールドスミスはきめ細かい泡のギネスの入ったグラスを手にし、実に旨そうにそれを飲み干した。まさに仕事の後の楽しみといった風情だ。
 ゴールドスミスはしばらくバーテンダーと談笑した後、もう一杯ギネスを注文する。
 その時、ルパンの手元のロックグラスが倒れ、小さな音を立てて氷がカウンターテーブルを勢い良く滑った。
「おお、失礼!」
 ルパンは慌てたジェスチャーで、ゴールドスミスの方を向く。
 バーテンが手際よくタオルでカウンターを拭き、氷を片付けた。
「スーツが濡れませんでしたかな?」
 静かなバリトンで言いながら、ハンカチを出す。
「いや、大丈夫ですよ」
 ゴールドスミスは少し驚いた顔をするが、なんでもないように笑った。
「次のギネスは私に奢らせてください」
 ルパンは、自分の飲み物も新たに注文をした。
「かえって申し訳ないですね」
 ルパンがバーテンに上げた手に、ゴールドスミスの目は注がれた。
 そこには、見事な細工と大粒のエメラルドのカフスボタンが光っている。
「……こちらではお初にお目にかかると思いますが、私はガストン・ゴールドスミスと言います」
 飲み物が二人の前に運ばれ、軽くグラスを合わせた後、彼の方から自己紹介をした。
 その間も、彼はちらちらとルパンのカフスボタンを見ている。
「はじめまして、私はジョシュア・アークライトと申します」
 ルパンが言うと、彼は考えをめぐらせるように少し間を置いて、目をまるくした。
「ああ、あのアークライト卿ですか!お目にかかれて光栄です」
 右手を差し出す。ルパンは上品に微笑むと、手を握り返した。
「失礼ながら、あまりに見事な石のカフスをなさっているので、驚いていたところです」
 彼は恥ずかしそうに笑いながら言った。
 ルパンはスコッチを一口飲むと、その精巧な人工皮膚の顔で人懐こい笑顔を返した。
「なに、家に昔からある古いものですよ」
「それはなんともうらやましい。私も男の身ながら、宝石には目がなくてね。しかし代々伝わる家宝などないものだから、サザビーズやクリスティーズで出物があれば、仕事を置いてでも駆けつける状態です」
 言うとまた旨そうにギネスをあおった。
「石はね、なんとも言えず、人を惹きつけますからな」
 ゆっくりとしたルパンの言葉に、ゴールドスミスが無言で何度か頷いていると、ルパンの隣にすっと次元が立つ。
「アークライト様、お話中申し訳ありませんが……」
 ルパンは、慇懃に控える次元を見やる。
「失礼、私の秘書だ」
 ゴールドスミスに非礼を詫び、顔を次元の方に向けた。次元は小声で何かを伝える。
「うむ……そうか、ミャンマーのピジョン・ブラッドか……ドバイ……ルベウスだな……」
 次元に何やら指示を出すそぶりをして、そして次元を元のテーブルに帰した。
「失礼、何の話でしたかな」
 再度グラスを手に持ったルパンは、ゴールドスミスが、先ほどのルパンと次元のやりとりに興味津々である様を見逃さなかった。
「そうそう、石は素晴らしいという話でしたな。私もいくつになっても、魅力的な石があると聞けばじっとしていられなくてね」
 くっくっと笑う。
「……また、近々何かを手に入れるご予定ですか?」
 ゴールドスミスは身を乗り出して小声で尋ねた。
「……先ほど、秘書のところにちょっとした出物の情報が入りましてね」
 もったいつけた風に言う。
「再来週、ドバイで行われるオークションに行く予定にしていたのですが、どうやらそのブローカーが相当な大物を、最近入手したらしいという話でね」
「……石ですか?」
「……500カラットのルビーの原石という噂です」
 ルパンは一層声を低くして言った。ゴールドスミスは、信じられないというような顔でじっと彼を見る。
 ルパンはスコッチを飲み干すと、カウンターを離れた。
「ゴールドスミスさん、それでは、今夜はこれで失礼します。お話ができてよかった」
 名残惜しそうな顔をする彼に、ルパンは思い出した、というように振り返った。
「今夜お話ができたのも、何かの縁。もし、また話し相手にでもなっていただける時があれば、ご連絡ください」
 目配せをすると、次元が内ポケットから名刺を出し、ルパンに手渡す。
 そしてそれをゴールドスミスに差し出した。
 ゴールドスミスは、まるで夏休みを迎える子供のように目を輝かせて、その名刺を受取った。

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2007.1.31


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