血判
次元大介がアジトの窓を開け放つと、草やなんかの香りと共に涼やかな風が入ってきた。
煙草と酒の匂いにまみれた空気がするりとやわらいで、その新しい風を肺いっぱいに吸い込むと、彼はソファにごろりと陣取って新聞を広げる。
そうだコーヒーでも、と顔を上げるとバスルームから物音がして、かすかに湿気の帯びた空気が一瞬漂う。しかしそれはすぐに窓からの風に押し返された。
腰にタオルを巻いたルパンが眠そうな顔をぶらさげてやってくる。
次元とて早起きな方ではないが、太陽が真上をすぎようとしているような時間に、まったくだらしのない男だと、ため息をついた。
男のハダカなんぞ見たくもない、と言わんばかりに再度新聞に目を落とす次元だったが、あくびをしながら窓に向かうルパンの、右腕の付け根の傷跡が不意に目に入った。
うっすらとケロイド状になった古い傷。
突然に次元の胸の中で何かが大きく広がる。
思い切り酸っぱいラズベリーをほおばった時のような、たまらなく味わい深いバーボンを口に入れた時のような感じ。一陣の風ではとても消え去らない、そんな鮮烈な反応が体に起こったのだ。
突然の事に次元は我ながら驚いたが、馴染みのない感覚ではない。
この感覚は十年以上も前の、むせ返るくらいに青臭い自分自身の気持ちだ。
ルパンと出会った時の事が突然に思い起こされた。
荒々しい街で、自分の腕一つでやっていけるようになった頃、次元大介はその時ですでに、思い出したくもない出来事がずいぶんあったように思う。
反対に言えば思い出したくない過去もなくて、街でやっていけるわけもないのだろうけれど。
一人で仕事を請け負っていけるようになるまでは、女に溺れる事も多かった。
彼の日常には常に「破壊」が伴う。
あらゆる物の「破壊」だ。
彼は破壊「する」側であったり、時には「される」側であったり。
そんな日常は徐々に、しかし確実に彼の精神にストレスを与えていった。
そのストレスと折り合いをつけるため彼は本能的に、女の愛に、肉体に、ずいぶんとのめりこんだりもしたが、そういった時期の男の常で、上手く長続きしたためしもなかった。
しかし彼が「次元大介」の名でいっぱしの仕事をするようになる頃には、彼は破壊のストレスに負けない鎧を身につけ、他人と深く関わる事を必要としなくなっていた。
必要としないというより、関わる事による自分の気持ちの乱れが疎ましい、というのが実際だったかもしれない。
そんな時だった。
「ルパン三世」の名を時々耳にするようになったのは。
こういった世界に生きていれば、その時々に「売り出し中」の奴の名前は嫌でもいろいろと耳に入ってくる。そしてその変化はめまぐるしい。
昨日まで華々しく登りつめていた奴の名前を、ふっと耳にしなくなる。
そうすれば、そいつは死んだか捕まったか。
これまた、嫌でもその結末は耳に入ってくる。
ほんの少し前までちやほやされていた奴も、そうなれば数日であっという間に「過去の人」。まるでいなかったように忘れられる。
伝説のように名を残すなんて、映画の中だけの話。
そんな中、次元大介の名前が消えないのと同じく、ルパン三世という名前もなかなか消える事はなかった。
その頃すでに次元の仕事の正確さは、恐怖のイメージとともにあらゆる世界に広がっていた。
依頼を受けて金を受取り、仕事をこなす。そして残金を受取る。
仕事に困る事はなかった。
その名声と仕事量に比例して、彼は追い詰められるように肉体と技術の研鑽にのめりこんでいた。
「なあ、次元よ。それだけ金をかせいでて、一体何に遣ってるんだ?」
彼の懇意の情報屋は口癖のように尋ねる。
「……純金のバスタブにシャンパンの湯をはってるのさ」
バーでちびりちびりとバーボンを飲んでは安宿に帰る次元のニヤっと笑う顔を、情報屋はやれやれといった風に眺めていた。
仕事の合間にほんの少しの休息を取ると、彼は、筋肉組織をほどよく痛めつけるトレーニングを限界寸前まで続け、そして繰り返し銃を撃ち続けた。
何のことはない。
次元は様々な体勢から銃を抜いては撃ち、抜いては撃ち、考えた。
無我夢中で女を抱くのと、なんら変わりはないのだ。
こっちの方が効率が良いし自分に向いていると、気づいただけ。
ただ、自分を追い詰めるものが、女におぼれていた頃と違う。
あの頃は、自分は生きるために必死だった。
死なないために。
生きる糧を得るために。
必死で銃を撃った。腕を磨いた。
勿論、今も彼は命を狙われる事もあるし、身を守る事に余念はない。
しかし明らかにあの頃とは違う。
「次の仕事もパーフェクトにこなし、金をもらう」
それだけのために、今は日々生きている。
その事の意味は、よくわからない。
考え出しそうになったら、体を痛めつけるトレーニングをこなし汗を流して、黙々と銃を撃った。
遊び方を知らないわけじゃないし、遊ぶ事が嫌いなわけでもない。
が、それが一番彼の気持ちを落ち着ける過ごし方だったのだ。
ある時、彼の昔馴染みから連絡があった。
青二才の頃に一緒に銃を撃ち始めた男だ。
彼はスナイパーとしてではなく、今は盗賊として名をなしていた。
大きな盗みをやる。メンバーとして参加しないか、という話だ。
あまり興味はなかったが、たまたま殺しの仕事もなかったし、昔馴染みの頼みという事もあって、話に乗った。
彼の名はビリーという。
赤毛の気の良い男で、もとより嫌いな男ではなかった。
彼の持ってきた話は、現金輸送車の襲撃だった。
当日次元はビリーの計画通りに、自分の役割を確実にこなした。
不思議な気分だった。
彼との仕事は、いつものヒットマンの仕事よりも計画は複雑で、複数の相手をその場でいなさなければならない。そしてビリーの方針は、殺すと後が面倒だからできるだけ相手を殺すな、という事だった。
つまり、自分を殺そうとかかってくる相手をこっちは相手の足を撃ったりするだけで、それは殺しよりもハイレベルな技術を要する。
終わってみれば、自分がいつも請け負っている仕事よりもかなりの危険と重労働だった。
そして分け前……報酬は普段より若干多い程度。
割りが良いとは決して言えなかった。
しかし、前述のように不思議な気分になった。
普段彼は、一人もしくは複数の人間の完全なる「破壊」によって報酬を得る。
ビリーとの仕事は、勿論「破壊」は伴うのだが、いつもの彼の仕事とは何かが違った。
生産的とは言えないが、誰も殺さずに相手に一泡吹かせ、大金を得る。
ビリーとの仕事を終えた夜、彼らと飲んだ酒は、ここ数年で最も旨かった。
そしてその夜、久しぶりにぐっすり眠る事ができた。
それ以来、時折ビリーから声がかかるたびに、彼と仕事をともにした。
「次元大介がコソ泥の手下をやるなんて」と、陰口をたたかれたりもしたが、彼は気にしなかった。
ビリーとの4度目の仕事だったろうか。
カジノの金庫に忍び込む仕事を計画した。
その仕事は、普段よりも多大な緊張感を伴った。
なぜならば、そのカジノの金はビリー一味だけではなく、あの「ルパン三世」も狙っているという噂でもちきりだったからだ。
赤毛のビリーその一味も次元も、何も言わなかったが、そいつに負ける事だけはならない、という気分で一杯だったと思う。
その仕事は困難を極めた。
二組の盗賊が狙っているという噂は当然カジノにも伝わっていたようで、そのイベント当日の警備はそうそうたるものだった。
無線でのやりとりで、仲間が負傷してゆくのがわかった。
金庫への侵入はビリーが、そして退路を確実に開くのが次元の役割だった。
ランデブーポイントにドサリと見事に落とされてきた札束入りのトランクを、次元は車に次々と積んで行った。
どさり、と、やけに湿った音がする。
はっと見ると、そこには男が。
短髪で猿顔の男はぎらぎらした眼で次元を見て、そして次元が銃を構えるよりも先に、男が銃口を向けた。
彼が何者なのか、瞬時に理解した。
ルパン三世だ。
あちこちから血を流しながら、恐ろしく強い目で次元を見ていた。
彼の状態よりも、次元は驚く事があった。
彼に自分を撃つ気がないとは勿論言わない。
が、彼には驚くほど殺気がなく、そしてそれでいて、その場の空気を自分のものにする何かがあった。
この場面で、いくら先に銃を構えているとはいえ、そうそう有利な立場とは言いがたい彼が、それでも次元大介を圧倒する空気をあっという間に作り出していたのだ。
「……ひとの上がりを、そうやってかっさらおうってのが、アンタのやり方かい?」
次元は気を取り直してじっと彼を見ながら、つぶやいた。
「それは、アンタのお仲間だろ。金庫を開けたのは俺だ。ここの金庫はフクザツなシステムでね。……赤毛の男は俺が開けるのを、手をこまねいてみてたぜ?」
男はわき腹を押さえながらも、確実に次元に銃の狙いを定める。
男は手負いだ。
なんとか隙を見て、銃を奪わねばならない。
次元に戦意がないと見れば、この車を奪ってゆくことだろう。
その瞬間を狙うしかない。
「……わかったわかった、そう狙われちゃ、打つ手ぁねえ、どうぞ勝手に……」
両手を上げて大仰に言うと、突然男の銃は火を噴いた。
次元の右腕と両脚が燃えるように熱くなる。そして次の瞬間血が飛び散る。
銃弾はいずれもかすっただけだったが、次元を地面に膝まずかせるには十分だった。
「くっ、手前ぇ……」
吹き出る血を押さえながら見上げると、男はニヤッと笑いながら車に乗り込んだ。
それは、本当に。
まるで子供の頃の夏休みに遊んだ友達のような、笑い顔だった。
この場にそぐわぬそんな彼の表情に、次元は体中の血が沸騰するような怒りを感じた。
しかし彼の気分などお構いなしに、車は発進された。
血を流す次元を置き去りにして。
その仕事の後の次元の苦労を想像する事は簡単だろう。
手負いの状態でややこしい場所からの脱出。
肝心なところでルパン三世に出し抜かれたという事で、彼はすっかりビリーからの信頼を失墜した。そして世間には、次元大介は仲間を裏切って売出し中のルパン三世と通じていた、という噂が流布していた。
次元にとってビリーの信頼や、その噂による仕事への支障はどうでもよかった。
何よりあの時あの場で、自分があのルパン三世に、一瞬でも気圧された事が許しがたい。
そして奴が。
自分を撃ち殺せば良いものを、おそらく様々な意味で、より一層の苦痛を感じるようなやり方で痛めつけて、そして去って行った事。
それが何よりも許しがたかった。
それもあんな、友達でも見るようなナメた目つきで。
傷が癒えるまで、そして癒えてからも、一時も奴の顔を忘れはしなかった。
正直なところ、ルパン自身が憎いという訳ではないのは分かっている。
自分もバカな青二才ではないのだから。
あの男によって、一瞬であってもあのように不甲斐ない男にされた自分が、許せないのだ。
その事は眠っていてもうなされて飛び起きるくらいに、自分を苛み続けた。
結局のところ、あの事実を消すしか。
つまりは、あの男を消すしか。
自分はこの呪縛から自由にはなれないのだ。
愚かしい事だと分かってはいながら、次元は情報屋を使ってルパン三世の仕事を調べ続けた。
夜の闇に溶け込みながら煙草に火をつけるのを我慢して、次元大介はルパン三世が現れるのを待った。
今回のルパンの仕事は宝石店の襲撃だ。
ルパン三世の手の内は、さすがに情報屋を使ってもわからない。
彼なりに計画をシミュレーションして得た結果から、ルパンが獲物を持って出てくるであろうところで、一人、待ち構えていた。
静かな、しかしすばやい足音が聞こえる。
やってくるその男に、次元の姿はおそらく逆光となっているだろう。
愛銃を構えて彼を迎えた。愛しい女を待つように。
男の足音は次第にゆっくりになった。
次元の前で止まる。
ルパン三世は、一瞬驚いた顔をしたが、またすぐにあの時カジノで会った時の顔になる。
「……よぉ」
小さな声で、彼は言った。
宝石が入っているであろうバッグを下に置いて、彼は手を上げた。
その顔には、久しぶりに会った友を懐かしむような表情をぶらさげて。
そう、この顔だ。この、人をばかにしたような顔が、なによりも次元の気持ちを乱す。
次元は何も言わず、銃を三発発砲した。
自分が受けたとまったく同じ場所に。
銃弾をくらった男は、以前に彼がそうしたように地面に膝まずいた。
次元は大きく息をつく。
彼を見上げるルパン三世はまたあいかわらずの、懐こい顔をしていた。
その彼の額に、次元は銃を構える。
「……そうか、俺を殺るかい、次元大介」
ルパン三世は驚いた風でもなくつぶやいた。
次元は突然に胸の鼓動が早まるのを感じる。
そういえば、初めての事かもしれない。自分自身の理由で他人を殺すのは。
自分自身の理由。
一体、何なんだろうか。自分がこの男を殺す理由は。
いや、何度も考えたじゃないか。自分自身を奮起した。
この男を殺して、あの時の自分をなかった事にしなければ、自分は自分として生きていけないのだ。
それ以上の理由があるだろうか。
次元はルパン三世に向けて改めて照準を合わせ、そしてゆっくりと引き金に力を込めた。
その時、サーチライトが二人を照らす。
サイレンが鳴った。
びくりと次元は上を見上げる。
「おい次元、こいつを積んで車を出せ!」
ルパン三世は彼にバッグを投げた。
ずしりと重いそれは、彼の両の腕にのしかかる。
そして次には車のキーがパシッと投げられた。
それを受取って、驚いた顔で男を眺める。
「……さっさとしろぃ。捕まっちまうぜ」
次元はバッグを車の後部座席に放り投げた。
そしてどうしてだか分からないが、ルパン三世の肩に手をまわして支えると、彼を助手席に放り込み、彼は運転席に乗って車を出した。
見た目よりも驚くほどに性能の良いその車でどんどんとパトカーを撒きながら、次元は隣の男を見た。
「……俺はな、お前ぇが嫌いなんだよ」
「へぇ、なんでだ?初耳だな」
ルパンは傷を押さえながら苦しそうな顔でつぶやいた。
「初めて会った時、俺を殺せば良いのに、殺すよりもイヤラシイ事をしやがった」
「……ああ、あれか。キレイな男だなと思ったんでね」
ルパンの言葉に次元は思わず目を丸くする。
「手前ぇ、そういう男だったのか!気色悪ぃな、今すぐ降りろ、車から降りろ!」
次元がわめくと、ルパンは力なくくっくっと笑った。
「ばーか、そんな意味じゃねぇよ、俺は生粋の女好きだ。……俺はさ、獲物を頂いたら、その上がりで女に何を買ってやろうか、とか、どこに遊びに行こうか、なんて事ばかり考えてるんだけっどもな、あの時会ったお前の目は、何て言うか……」
ルパンは笑って、また大きく息をついた。
「自分の生き様しか考えていない、美しい獣みたいだったのさ」
大きく息をした後、苦しそうに顔をゆがめた。
「そんな奴と対峙したら、お前だったらどうする?そいつに甘い顔をするか?……こっちも全力で、そいつに最もダメージを与えるやり方で迎えないと、失礼だろう?」
血を流しながらもあいかわらずの表情で言ってのけるルパンを、次元はじっと見た。
「……バカな野郎だな。そうやって俺を生かしていたから、てめぇが血を流すハメになる」
「まあな。だが、そのおかげで、お前ぇさんとドライブができた。俺達のやってる事なんざ、所詮命がけの遊びさ。たまには酔狂も悪くない」
ルパン三世と車の中で話しながら、次元はある事に気づいた。
それまで、クリアーでありながらもグレーがかった彼の視界は、ルパンと話している間に見る見る色づいていっていたのだ。
街のネオンの色、パトカーの赤色灯、ルパンの真っ赤なジャケット。
そして真っ赤なジャケットを更に濃く染める、彼の血。
「……酔狂すぎるな。俺にはわかんね」
つぶやいて、彼は馴染みのモグリの医者のところに車を飛ばしていった。
血の匂いが詰まった車の窓を、開け放つ。
外から入ってくる空気は、すっかり秋の風だった。
そんな昔の事を思い出すのはどれくらいぶりだろうか。
女じゃあるまいし、傷痕にいちいち感傷なんか持ってはいないはずなのに。
窓から入ってくる秋風に、やられてしまったか。
あの頃、彼のそばにいる男も女も、バスの窓から見る景色のように消え去るのが常だった。
けれど、ふざけた笑いを浮かべて
「ついでだ。噂どおり、これからは俺と遊ばねぇか」
と言ったルパンは、いまだ彼の傍らにいる。
多分これからもそうだろう。
新聞越しに彼を見ていたら、ふいっと振り返った。
腰にタオルを巻いたふざけた格好のままで。
「おい、次元。今日は何して遊ぶかねぇ」
にやりと笑った。
次元とまったく同じ場所に持っている右腕の「血判」を、自慢げに彼に見せつけながら。
Fin