水と緑と骸骨と(4)
次元大介がリゾート地で上等の白ワインを飲みながら、美しい女がシャワーから出てくるのを待っているなんて図をルパンが知ったら、きっと歯噛みをすることだろう。
そんな事を考えて、次元は思わず苦笑いをする。
そうだ、プログラムデータがちゃんと届いたか、ルパンに確認しなきゃならないな、なんて思っていたら、かすかな甘い香りにはっとする。
マリーがバスルームから出てきた。
柔らかそうな長い髪をふわりと下ろして、陶器の人形のようにほんのりピンクになった頬が愛らしかった。
「私もワインをいただける?」
「ウィ、マドモアゼル」
次元はワインを注いだグラスを差し出す。
マリーはだいぶ落ち着いたようで、旨そうに白ワインで唇を濡らした。
「……あの二枚目はいつもああなのか?」
「そうね、フレデリック・コルテラと同じで、いわゆるchaud lapin!」
話したくもない、というような顔でマリーは言った。
次元は思わずぷっと吹き出す。chaud lapin 熱いウサギ、か。ウサギは年中発情期なわけだが、それを更に熱くしたような助平野郎。そんな言葉がぴったりの男の事を思い出し、おかしくなってしまった。
「ご令嬢が粋な言葉を使うじゃねぇか」
マリーはワインを飲みながら、不機嫌そうに何も言わない。
「……さっさと大声を出しゃよかったのによ。そしたらもっと早く行った」
空になったグラスを置いて、マリーはそっと自分の手首に触れた。
クロードに掴まれていた手首が、かすかに赤く内出血している。
「……知らない男だったら、多分すぐに大声を出したりできるわ。なのに、どうしてかしら。子供の頃からなじんだ部屋で、子供の頃から知ってる従兄弟。自分が何にもできない小さな子供に戻ってしまったみたいで、なんだかすごく怖くて……声が出なかったのよ」
次元はマリーの白く細い手首を見た。
当たり前のことだが、彼女はまったく普通の女だった。
普通の女が、意地を通そうと何かに立ち向かうというのが、どれだけ大変な事なのか次元には想像がつかない。
ただ、マリーが通りすがりの泥棒を雇ってこの屋敷に連れてくるというのは、彼が生まれて初めて銃を持って戦いに街に出た時と同じような気持ちなのかもしれない、とふと思った。
次元は立ち上がって、窓際にかけてあった上着のポケットからハンカチを取り出しそれを水に濡らして、マリーに渡した。
「その手首、あいつにやられたんだろう?」
マリーは驚いた顔でハンカチを受け取る。
「……ありがとう、でも大丈夫よ、これくらい」
「俺に変態プレイの嗜好でもあると思われたらかなわねぇ。冷やしとけ」
「……ありがとう」
マリーはもう一度言って、次元のハンカチを左手にそっとあてた。
フレデリック・コルテラももう少し彼のウサギちゃんを抑えておけば、この湖の目を持つ、たおやかで美しくそして多大の資産を持つ女を自分のものにできたろうに。バカな男だ、と空港で会った時の彼の顔を思い出した。
「ところで肝心の事を聞いてなかったな。あんたが、じいさんからもらうはずの物ってなぁ、一体なんなんだ?よっぽどの値打ちモンなんだろうな?」
次元は二つのグラスに白ワインを注ぎながら言った。
マリーは、ああ、というように次元の方に身を乗り出した。
「そうそう、言ってなかったわね。でも、そんなにたいしたものじゃないの。水晶でできたドクロの置物よ」
「はあ?」
意外な返答に次元は思わず声を上げた。
「1920年代にイギリス人の探検家が旧ホンジュラスのマヤ遺跡から見つけたっていう、ロッククリスタルのドクロ。昔、祖父が知り合いから譲り受けたんですって。骸骨のモチーフなんて子供心に気味が悪いはずなのに、なぜだか私はそれが大好きで。子供の頃、祖父の話を聞きながら、窓辺でそのドクロが光を受けてキラキラ光るのをわくわくしながら見ていたの。だから祖父は、お前が大きくなったらこれはお前にやろうって、いつも言ってた」
マリーは思い出すように、ワインを一口飲んで目を閉じた。
「祖父との、一番の思い出の品なのよ。今は祖父の他のコレクションの絵画やなんかと一緒に金庫にしまってあるはず」
「で、あのダニエルって男がそれを欲しがってるんじゃねえかって?」
「……よくわからないけど、多分ね。だって、祖父があのドクロを持っているのは昔から知ってたはずなのに、最近になって急に私にあのクリスタルの話を何かの折にするようになったの。そりゃ、古いものだからいくらか価値はあるかもしれないけれど、それより祖父の他のコレクションの方がずっと値打ち物だし、それはどうせ大半叔父が引き継ぐんだから、あんなクリスタルに執着するなんて変な話なんだけど……」
「あんたをモノにしたら、あんたの相続するものもついでに手に入れられるって、あの二枚目も役得ながらああいった事をしでかすってワケか」
マリーは頷いて、額にかかった髪をそっと払った。
「多分。だから、一人で来るのは嫌だったの。父は忙しいから、あまり心配はかけたくないし。私の思い過ごしかもしれないしね」
「あんたのあの叔父さんは悪い評判があるって言ってたが、どういう男なんだ?」
紳士然としているが、一筋縄ではいかなそうな恰幅のよい男を思い出しながら尋ねた。
「仕事の仕方が祖父や父と違って、いろいろ汚い手を使うってそんな事をよく耳にするし、なんだか怪しげな人たちとの付き合いも多いみたいね。まあそれはよくあることかもしれないけど。それに、多分、コレクションも汚いし」
「コレクション?」
「食事の時、話していてわかったでしょう?祖父に似て、とても絵やなんかが好きなの。それでかなり非合法なやり方で、秘密のコレクションをそろえているみたい。それについては、昔から祖父も思い悩んでいたらしいけれど……」
「盗品売買か……」
「盗品もそうだけれど……」
マリーは言いにくそうにつぶやく。
「……戦後、ドイツから旧ソ連に持ち去られた大量の絵画が、エルミタージュに展示されているでしょう。モネやゴッホ、ルノワールなんかの印象派の名画たち。あれは公開されたのはごく近年で、それまでは消えた名画として何十年もエルミタージュの地下室に眠っていたの。それでもリストだけはひそかに出回っていて、叔父は公開前の段階でそこから違法に何点も入手しているという話。そういう人なの」
言い終わると、グラスに残ったワインをくっと飲んだ。
次元は自分のそれも空にして、また二つのグラスにワインを注ぐ。
息をついて、ソファにもたれかかった。
古代マヤの遺品、秘匿された名画、そして美しい令嬢。
一人で楽しむにはもったいないリゾートだ。
「なあ、ちょいと助っ人を呼んでも構わないか?」
きょとんとしているマリーを横目に、次元は電話を取り出した。
もちろん相手はルパンだ。
「ああ、俺だ。データは届いたか?」
「おうバッチリ。えっらい早かったじゃないの〜。ま、これでモンテカルロの大金庫はこっちのもんよ、ウシシシシシ」
ルパンの声は上機嫌だった。
「ルパン、モナコグランプリまでまだ時間がある。俺は今アヌシーにいるんだが、こっちに来てちょいと仕事をしないか?」
次元は手早く説明をした。
「ほっほ〜、湖のほとりに眠る名画か。お前さんにしちゃあ、ロマンチックなヤマじゃねえの」
「のるかい?」
「ああ、勿論。次元大介が女がらみの仕事をするなんざ、よっぽどのウマイ話か、よっぽどのイイ女か、はたまたその両方か……」
「じゃあな、アヌシーで待ってるぜ」
予想通りのルパンの口調を無視して、次元は電話を切った。
マリーは相変わらず不思議そうに次元を見つめていた。
「……どうするつもりなの?」
「相棒を呼んだのさ。あんたの叔父さんがちょろまかしてきた名画を、泥棒がちょろまかす分には目をつむってくれるだろう?じいさまのコレクションにゃ手は出さねぇよ」
次元はにやりと笑って、長い脚をテーブルに投げ出した。
「……あなた、本当に泥棒だったの!?」
マリーは目を大きく見開き、彼を見据えたまま、立ち上がってゆっくりと彼の隣に移動した。
「ジュネーブで話したじゃねぇか。相棒は世界一の大泥棒だってな」
呑気な寝間着を身にまとったガンマンを、マリーは上から下まで何度も眺める。
「……本物の泥棒って、初めて見たわ」
「ヤバい男を雇っちまったな。警報でも鳴らすか?」
マリーは背筋を伸ばしてまっすぐ次元を見た。
ジュネーブで初めて会った時のように。
「シャルル・ド・ゴール空港からジュネーブまでの間、やっぱり私には男を見る目がないのかしらって、しみじみ考えていたの。……だけど今回は、間違えなかったみたい」
やけに真剣な目でゆっくりと言った。
昔々、次元が初めて銃を持って出掛けた日。
そのずっしりとした鉄の塊は、恐ろしい物であるというのもわかっていたが、何より最も頼りになる守り神なのだという事が自分を勇気付けた。そしてその冷たい銃身はいつしかしっくりと自分の手に馴染んでいった。
目の前の青緑の湖には、寝間着姿の髭面が映っていた。
ゆっくりのぞきこんで、その耳元でつぶやいた。
「あんたはジュネーブで銃を拾ったのさ。世界最高のな」
「……私の銃?」
戸惑ったようにささやく彼女の吐息が、彼の耳をくすぐった。
ハンカチを巻いたマリーの手首にそっと触れてから、次元は立ち上がった。
「明日から忙しい。俺はもう寝る」
言って、さっさとベッドにもぐりこんだ。
しばらくすると部屋の明かりが消えて、甘い香りが薄くなる。
マリーが隣の部屋に戻る気配がした。
俺はお前の銃。
ワインのせいか、気障な事を言ったものだ。
山やら川やら湖やら。そんな清らかな大自然の空気は苦手だ。調子が狂う。
やはり自分には都会の喧騒が似合ってる。
そんな事を考えながら、次元大介は眠りについた。
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