水と緑と骸骨と(3

 

「もう、いや。絶対にいや。二度としない」

 マリー・ブリルはタクシーの中で繰り返しつぶやいた。

 車内に響き渡りそうな胸の鼓動はまだ落ち着かないし、もしかしてバレて彼女の携帯に電話がかかってくるのではなんて心配までが襲ってくる。

 何度も深呼吸をして両手を握り締めたり開いたりしながら、ちらりと隣の男を見た。

 彼はマリーの様子を気にすることもなく、モバイルをせわしく操作していた。

 幸いあの忌々しいマスクは剥ぎ取って、元の髭面に黒いスーツ姿へと戻っている。

「1年分のドキドキをいっぺんにすませた気分だわ」

 ついつい恨みがましい風に言う。

「あぶなっかしい事なんか一度もなかったじゃねぇか」

 男はモバイルでの作業を終え、その帽子の下からマリーをようやくちらりと見た。

「ビルに入ってから出るまで、心拍数上がりっぱなしで、ああいうのダメなの。なんだか何をやってきたのか、あんまり覚えてないくらい」

 マリーは胸元の鎖骨の下あたりを手のひらで押さえ、収まらない胸の鼓動を感じた。

 そうっと車のシートに体を任せた。

「俺はあんたの平手打ちの衝撃はしっかりと覚えてるけどな」

 次元はニヤっと笑いながらモバイルを片付ける。

「……あなたがしろって言ったんじゃない!」

 マリーは思わず体を起こして言った。

「ああ、上出来だった」

 あいかわらずニヤニヤしながら言う男についムッとする。

「……別に淑女ぶるわけじゃないけれど、人をひっぱたくなんて初めてよ。あんまり変な事をさせないで」

 マリーがシートから体を起こし、まっすぐ次元に向かって言うと、彼は意外そうに彼女を見た。

「なんだ、あの女たらしをひっぱたいてやった事はないのか?」

「……残念ながらないわ」

 そればかりは少々残念な思いで答えた。

「俺があんたにひっぱたかれた最初の男ってわけかい」

「そんなところね、泥棒さん」

「あんたの婚約者だろ、マドモアゼル」

 またニヤリと笑う彼を、マリーはため息をついて眺めた。

 時計を見る。

 この男と空港で出会ったのが約四時間前。まさかこんな事になるとは思わなかった。

 次元大介という男がどういう人間なのか、マリーは何も知らない。

 でも、プライドが高くそれに見合う力を持つあのコルテラを、あんな風に黙らせる男を他に知らない。

それだけの事が、彼女に今までの人生で一番の勇気を奮い立たせたのだ。

 結果として正しいのかどうかは、まだわからないけれど。

 

空港でタクシーを降りるとすぐに、オフホワイトのアストン・マーチンから男が出てきて、二人の方に大きく手を振った。彼女が幼い頃から知っているアヌシーの家の運転手だ。

「アヌシーからの迎えよ、だいぶ待たせてしまったかしら」

 マリーは男に手を振り返すと、少し心配そうに次元を振り返った。

 いざ自分の婚約者としてアヌシーに連れてゆくとなると、彼が使用人や親族にどう映るか、やはり気になってきた。

 二人は車に歩み寄る。

「お待たせしてしまった?ごめんなさい、急に彼の用事をすませないといけなくなって」

 マリーは運転席の男に愛情深いハグをして、ちらりと次元を見た。

「いいえ、たいしたことありませんよ、お嬢様。ああ、こちらの方がお嬢様の?」

 初老の男は満面の笑みでマリーとの挨拶をかわしてから、次元にも暖かい視線をよこした。

「ええ、そう。休暇を取って一緒に来てくれたの」

「お待たせして申し訳ありませんでした、アヌシーまでどうぞよろしくおねがいします」

 次元は美しいフランス語で言って、運転手と握手をした。

 彼を見て、思わずマリーは目を丸くして驚く。

 いつもは猫背気味にしている背をピンと伸ばして顎を引き、もてあまし気味にだらしなくしていたその長い脚ですらりと立つと、彼はコルテラに変装したときとはちがって服装も何も一つもかわっていないのに、まったくの粋な東洋の紳士に変身していた。

 彼の頭のてっぺんからつま先までを、驚いた顔で見ているマリーを次元はそっと車の中にエスコートした。

 

 初老の運転手の穏やかな運転と英国の高級車のおかげで、二人はゆったりとした気分でドライブを楽しめた。一時間と少しでアヌシー旧市街が見えてくる。

 「水と緑と湖の街」とはよく言ったもので、その小さな古い街は宝石箱のようだ。

 マリーの亡き祖父、ヴィンセント・ブリルの屋敷は旧市街を見下ろす小高い丘の上にある。

 よく手入れのされた見事な庭を抜けてアストン・マーチンは静かに止まった。

 車から降りると、マリーは気持ちよさそうに深呼吸をする。少しひんやりとした空気は、本当になつかしくて心地よかった。

「……子供の頃から夏にここに来るのが本当に楽しみだったの」

 思わず言ってマリーは市街を眺めてから、空と雪の残る山肌を見上げ、すうっと目を閉じた。

 そして、そのアヌシー旧市街の美しい風景に背を向けて、屋敷の扉に向かった。

 もう一度深呼吸をしていると、すっと隣に次元大介が来る。

 その顔を見上げた。

 彼もちらりとマリーを見る。

 コルテラの会社に忍び込んだ時のように、顔を見合わせる二人。

 まるで悪巧みをする夏休みの子供同士みたいだと、マリーはついおかしくなって、一瞬感じていた緊張を忘れてしまった。

 彼の腕にそっと触れながら、扉を開けた。

 

 中に入ると、落ち着いた趣味の良い調度品に絵画。

 何も変わっていないはずなのに、いつもここに来るたびに感じるやさしい空気とは違うなにか。

 その理由はマリーには分かっていた。

「やあ、マリー、よく来た。遅かったじゃないか、心配したよ」

 穏やかなバリトンを響かせる、恰幅の良い男が奥からやってきた。

 マリーの父親の兄にあたる、ダニエル・ブリルだ。

 彼がいるというだけで、この楽しい思い出しかない屋敷の印象もまったく違って感じた。

 次元の腕に添えた手に思わず力が入る。

 叔父はいつ会っても苦手だ。

「ごめんなさい、ダニー叔父さん。ジュネーブでちょっと彼の用事をすませていたから。あの、こちら、ダイスケ・ジゲン。日本の方よ」

 マリーは次元を紹介する。ちらりと彼を見た。

「はじめまして、ムッシュー。こちら、素晴らしく美しい町ですね」

 ダニエルは一瞬驚いたように次元を見るがすぐにまた元の笑顔に戻って、彼に手を差し出した。

「ようこそ、ムッシュ・ジゲン。ゆっくりしていってくれ。私はマリーの叔父でダニエル・ブリル」

 次元は優雅なしぐさで彼と握手を交わした。

 ダニエル・ブリルの視線は、次元の帽子のつばからもぐりこむように彼を見つめていた。

 

 初老の執事に案内されて、二人は部屋に入る。

 そこはマリーが訪れるといつも使う部屋で、常に彼女のために用意されていた。

 広々として、オリエンタルな調度品でまとめられた、ちょっとしたスウィートには負けない部屋だ。

「子供の頃は母とここに滞在して、宿題なんかもやったわ」

 マリーは勝手知ったるように、クローゼットに荷物を整理し始めた。

「……俺もここに?」

 次元大介は小さな手荷物を持ったままマリーに尋ねる。

「ええ、そうよ。そっちの部屋のベッドを使って」

 扉のない仕切りから彼を奥に促し、ソファとベッドが置かれた、テラスのあるスペースに促した。

「いいのか、ママンのベッドに俺みたいな男を寝かせて」

 次元は肩をすくめて、やっと荷物を置いた。

「私のベッドで一緒に寝る方が良いの?」

 マリーが笑って言うと、次元は飾り棚の隅に「用なし」といった風に追いやられている大理石の灰皿を救出してから、バカらしい、とでも言うように煙草に火をつけた。

 

 春先にヴィンセント・ブリルが死亡してから、この屋敷はダニエル・ブリルが管理している。おそらく地元に住む彼が相続する事になるのだろう。

 マリーはそのことには別段異議はなかったが、それでも幼い頃から仲がよかった祖父との暖かい思い出が消え行くようで寂しい思いは禁じえなかった。

 ディナーの場で、ヴィンセントの席にダニエル叔父が座っているのを見ながらマリーは軽くため息をついた。

 そしてダニエルの隣には、栗色の髪をした、マリーよりも少し年上の青年、従兄弟のクロードが座っている。

 仕事が終わったからと、こちらにやってきたのだ。

「そうですか、ムッシュ・ジゲンはマリーの職場でお知り合いになった……」

「ええ、仕事の合間に美術館めぐりをするのは習慣なのでね」

 ダニエルの問いに、次元は落ち着いて返す。

「画廊はパリにもお持ちで?」

「いえ、ギャラリーは日本だけです。保管庫はパリとローマと日本にありますが」

 次元は日本の画商という事で紹介をした。

 そのことはダニエルの興味を引いたようで、彼はじろじろと次元を見ながらいろいろと話を聞き出そうとする。

 マリーは幾分かハラハラしたが、次元大介はソツなく話を盛り上げていった。

 ちらりとクロードを見ると、彼はそんな話には興味がないようで、ニヤニヤしながらマリーを見る。

「マリー、食事の後にちょっと飲まないか?ゆっくり話をするのなんか、子供の時以来だ」

 甘いマスクで魅力的に笑ってみせる。

「ありがとう。でも今日は着いたばかりで疲れているから遠慮しておくわ」

 彼女が断ると大げさに肩をすくめてみせる。

「それで、マリー。彼はもうステファンには会っているのだろうね?」

「ああ、ダニー叔父さん。お父様はいつも私の恋人には厳しいから、実はまだなの。今回アヌシーに来てもらって、それから会ってもらえたらって思っているわ。彼とは……お父様のお許しが出たら、結婚しようと思っているから」

 マリーは言って、ちらりと次元を見る。

「そうなんです。ぜひゆっくりお話ができたらと思っています。そして、また再びマリーとこの美しい街を訪れたいものです」

 次元もちらりとマリーを見てそしてダニエルをまっすぐ見ながら言った。

「お待ちしていますよ」

 ダニエルはその恰幅の良い腹をゆらして笑い、ナプキンで口を拭いた。

 

 食事を終えて、二人は部屋に戻る。

「……若干腹黒そうではあるが、ま、普通の親子に見えるがな。奴らが何をするっていうんだ?あんたの考えすぎじゃねえのか?」

 次元はジャケットを脱ぎながら言う。

「そうね、そうだと良いわ。だったらあなたも楽な仕事で万々歳じゃない。ところで……何か、飲む?」

「あんた、さっき二枚目から酒に誘われて断ってたじゃねぇか」

「彼と飲むのは嫌って事よ」

「じゃあ、何か適当に見繕ってきてくれ。先にシャワー使ってるぜ」

 次元はふっと笑ってネクタイをゆるめた。

「どうぞ。シャワーはあなたの部屋の奥よ」

 言ってマリーは部屋を出た。

 静かに廊下を歩く。

 しばらく歩いてダイニングに行く途中の、亡き祖父の部屋の扉の前でふと足を止めた。

 そのまま立ち止まる。

 子供の頃、この部屋が大好きだった。

 そうっとドアノブに手をかけた。静かに扉が開く。

 カーテンの隙間から月明かりが入って、部屋は明るかった。

 部屋の中に足を踏み入れながらマリーは何度も大きく息を吸う。

 ここは祖父が生きていた時の匂いがする。この屋敷がダニエルのものになりつつある中、まだここは祖父ヴィンセントの空気があった。

 ここで、祖父のコレクションの古い本や美しい美術品、いろいろなものを見せてもらい話を聞かせてもらった事を思い出す。そう、そんな事がとても楽しくて彼女は美術館の仕事をするようになったのだ。

 祖父は多忙な人で、なかなか好きに旅行をしたりするような事はかなわなかったけれど、さまざまな国・時代に思いをはせては目を輝かせ、なんて自由な人なんだろうと思ったものだった。

 マリーは目を閉じて、ここですごしたいくつもの夏をふりかえる。

 と、部屋で物音がした。

 びくりと我に帰る。

「……誰?」

 おそるおそる小さな声を出す。

 窓のほうから、人影が近づいてきた。

 思わず後ずさりをした。

「マリーか」

 月明かりをバックにしたその声はクロードだった。

「……クロード」

 マリーはけげんそうにつぶやいた。

「どうした?こんなところで」

「……そばを通ったら、なんだか懐かしくなっちゃって。あなたこそ、どうしたの?」

「俺もそんなところさ。ずっと近くにいながら、じいさまにはなかなか孝行できなかったなと思ってね」

 言って、ソファに腰掛けた。

「マリーは俺と違って、じいさまとは仲がよかったからな。確かに懐かしいだろ」

「ええ、夏休みはいつも来てたから。ここでよく遊ばせてもらったわ」

 マリーは立ったままでつぶやいた。

「……おやすみなさい」

 行って部屋を後にしようとするマリーの腕をクロードの手がつかむ。

「まあ、待てよ。久しぶりじゃないか」

 彼の隣に腰掛けさせた。

「……あの画商という男、奴と結婚するのかい?」

「ええ、そのつもりよ」

「……またどこであんなサエない髭面をつかまえた?きみが連れてくるのはジュネーブに本社を持つIT企業の若社長のはずだと思ったけどな」

 クロードは相変わらずの甘いマスクでにやりと笑った。

 ソファから立ち上がろうとするマリーの腕を掴む手に力が入った。

「彼とは終わったのよ。あなたには関係のない事でしょう」

「……あの男を連れてきたのはヤケクソかい?バカだな。どう考えても、僕の方がきみにはお似合いだろう。きっとステファン叔父さんもよろこぶ」

 クロードは言ってマリーの髪に触れた。

「クロード、離して」

 彼の手をふりほどこうとするマリーを、クロードは今度は両肩を抑えてソファに沈めた。

 マリーはまた月明かりをバックにしたクロードを見上げる事になる。

「……クロード、もう、本当にやめてちょうだい。ふざけないで」

 自分の声が震えているのがわかる。

「マリー、きみは僕のことをわかっていないだけなんだ」

 つぶやきながら、マリーの首筋に唇をよせてきた。

「クロード!」

 懸命に体をよじる。と、彼の息遣いがはたと静かになり、まるでホールドアップでもされたように、マリーを押さえつけていた両手を上げ、体を起こした。

「若造。他人の女に手を出すときゃ、それなりの覚悟を決めるんだな」

 聞き覚えのある低い声だった。

「次元!」

 クロードの背後には、髭も髪もまだ濡れたままの次元大介。

 マリーは思わず飛び起きて、次元の後ろに体を隠した。

 触れた彼の背中が、思いがけずたくましい筋肉に覆われている事に気づいた。普段帽子の下に隠れている目は、やはり鋭くて、ぎりりとクロードを睨みつけている。

 もしかしたら自分はとんでもない男を連れてきてしまったのかもしれないと思いつつも、あまりにその背中が暖かくて、ついそっと彼の寝間着の端を掴んだ。

 彼の手元を見ると、シャブリのボトルをゴリリとクロードの背中に押し付けていた。左手にはワイングラスが二つ。

 すっとそれを離すと、クロードがゆっくり振り返る。

次元を見て、忌々しそうにくっと顔をゆがませた。

「こいつがシャンパンじゃなかった事に感謝しな。その可愛らしいアゴが砕け散るところだったぜ」

 次元はおどけてワインのボトルを振って見せた。

 言ってさっさと部屋を出る次元を、マリーはあわてて追いかける。

「風呂上りに冷えた白ワインでも飲みてぇと思ってたのに、いつまでたっても戻ってきやしねぇ。仕方ないから自分で取りに行ってみたら、あんなとこで道草くってるとはな」

 次元は部屋に戻ると、待ちきれぬとばかりにソムリエナイフでシャブリのコルクを抜いた。

「……ありがとう、次元。よかった、もうどうしようかと思ってたの……」

 マリーは少し戸惑いながら、改めて次元を見た。

「まずシャワーでも浴びてきたらどうだ?あんな野郎に触られた後じゃワインも旨くないだろう」

 次元はグラスにこぽこぽと金色の液体を注ぎながら言った。

 

 

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