水と緑と骸骨と(12)
次元はいつものようにちょっと背中を丸めて、ひょいひょいとバルコニーから部屋に入り、後ろ手に窓を閉めながら、目を丸くしているマリーを見た。
「……ここに来たら危ないって、わかってるでしょう?」
泣きそうな顔でマリーは言った。
「わかっちゃいるが、背に腹は変えられねぇ。俺は最近の放蕩がたたって、すっかり金がピンチでね。ここいらでしっかり仕事して報酬をもらわねぇと、カードの支払いもままならねぇのよ」
ニカッと笑ってマリーの顔を覗き込む。
「……言ったでしょう。あなたは解雇よ。でも、昨日から今日の分の報酬はもちろんきちんと支払うわ」
マリーはデスクに向かってペンを走らせると、次元に小切手を差し出した。
「これで、おしまい。あの人たちと、パリでもモンテカルロでも行ってちょうだい」
次元は真顔になってマリーを睨む。
「……じいさんのクリスタルはどうするんだ?」
「明日の9時には弁護士が遺言状を持ってくるわ」
「奴らがだまっちゃいないだろう」
「……私ひとりでだめだったら、それはそれで仕方ないもの」
「あんたはそうやって、ひとつひとつの『自由』をあきらめてきたのか?なんとしても手に入れたいから、ジュネーブで俺を雇ったんだろう?」
「そうだけど!……でも、あなたが死ぬかもしれないような事になるなんて、思いもしなかったのよ!」
小切手をついっと次元に差し出す。
次元は小切手とマリーの顔を交互に見て、すっとそれを指でつまんだ。
そして額面を見もせずに、ビリビリに破り捨てた。
驚いた顔をしているマリーに、ずいっと一歩近寄る。
「きちんとやり遂げてもいねぇ仕事で報酬をもらうほど、落ちぶれちゃいねぇ。俺は解雇なんだな?だったら、後は俺の好きにさせてもらう」
何か言おうと開きかける彼女の唇を、あっというまに次元のそれでふさいだ。
今日何度も抱きしめた、その柔らかい体が、彼の腕の中でこわばった。
彼の胸を押し返そうとするマリーの両手は、唇を重ねている間にいつしかアヌシー湖の中でそうしていたように彼にしがみついていた。
長いくちづけを終えて体を離すと、マリーのその湖と同じ色をした瞳から涙がこぼれていた。
「……ひどい人ね」
「なんでだ?」
次元が言うと、マリーは涙をこぼしながらもくっくっと笑う。
「バカ……!」
「……心配してくれるのはありがてぇんだがな。俺もルパンも五右ェ門も、そんじょそこらのコソ泥とはわけが違う。やられやしねぇよ」
「心配するな、なんて無理よ。……今日一日で、初めて経験するびっくりするような事ばかり」
「オープンカーに乗る事とかか?」
マリーはまたくすくすと笑う。
「そうね、あと……髭を生やした人とキスをする事とか」
「……どっちも悪かねぇだろ?」
マリーの涙のあとを、次元はそうっと唇でなぞり、もういちどそのピンク色の唇を味わった。それはダニエル邸で見たどんな貴婦人像よりも、甘く官能的に彼の脳をしびれさせる。
力の抜けた彼女をゆっくりソファに座らせた。
「……ワインでも飲まねぇか?日付が変わったら予定どおりルパンがダニエル邸で騒ぎを起こす。軽く前祝さ」
マリーは一瞬迷ったような顔をするが、うなずいて微笑む。
「俺が取ってくる。あんたに行かせたんじゃ、またどこで道草くってくるかわからねぇからな」
照れくさそうに言うと、次元はドアに向かった。
部屋を出る前に一度振り返る。
マリーは微笑んだままソファにもたれて、じっと次元を見つめていた。
次元はあっというまに厨房から赤ワインを調達してくると、足早に部屋に戻った。
ソファにマリーはいなかった。
ソムリエナイフでワインの封を切りながら、彼女の部屋をのぞく。
「おい、またシャワーでも浴びてんのか?気の早ぇ事で」
軽口をたたきながらあちこちに声をかけるが、彼女の気配はなかった。
ふと嫌な予感がして、ワインを放り出すと再度バスルームやベッドルームを見て回った。
「おい、マリー!」
ふわりと風を感じた。
窓は閉めたはずだった。
ひらひらと風に踊るカーテンを引き裂かんばかりにまくり上げ、バルコニーに走る。
マリーの姿はない。
代わりに、一枚の紙切れがひらひらと次元の手元に舞い落ちた。
羽の生えた蛇の模様が入ったカードに書いてある文句は、次元を激昂させた。
『マリー・ブリルは保護した。彼女の身を案ずるのなら、ヘッジズ・スカルから手を引け』
すぐさまカードを破り捨てる。
「……クソッ!」
汚いやり口にも腹が立つが、隙を作った自分自身が何より呪わしかった。
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