水と緑と骸骨と(11

 

 5月のアヌシー湖の水に、マリーの心臓は悲鳴を上げた。

 車の中で次元に抱きとめられたその次の瞬間、マリーは体が宙に浮くのを感じ、このまま死ぬのかと、かえって一瞬気が楽になった。

 がその無重力感はまさに一瞬で、放り投げられたアヌシー湖の水はマリーの心臓を握り締め、そして呼吸を阻害するだけじゃなく、様々な事を頭に甦らせた。

 一体どうしてこんな事になったのだろう。

 コルテラの浮気を知って別れを決意した時からこっち、まったくロクな事がない。男に浮気をされてその後湖に落ちて死ぬなんて、あまりにも無様すぎる。今はもう正直なところコルテラの事なんかどうでもいいのに、まったくもってシャクなタイミングだ。

 呼吸が苦しい。

 浮上しようともがくが、男の力強い腕がそれを許さなかった。

 目の前にぼんやりと見える男。次元大介。

車から放り出されて湖に沈んだ今まで、彼はずっとマリーを離さなかった。

 彼の腕を逃れて、なんとか水面に出て空気を吸いたい。もがく彼女の口に、何かがかまされた。携帯用のボンベか何かだろうか。そこから彼女の肺に空気が補充されるのはわかるが、なかなか上手くそれを吸うことができない。

 苦しそうな顔をする彼女の肩を支え、次元は彼女の口元のそれに手を沿える。彼のサポートでなんとかゆっくり呼吸をすることができるようになった。

 マリーが少し落ち着くと、次元はまた片手で彼女を抱きしめ、片手で水草をつかむ。

 まだ浮上できないという事だろうか。

 マリーは彼の胸に顔を押し付け、両手を彼の背にまわした。

 水は冷たくて、体がどんどん冷えてゆくのがわかる。

 それでも、彼といれば。

 大丈夫なのだと、なぜだか不安はなかった。

 この人は私の銃。

 昨夜彼の言った言葉を思い出す。

 次元大介、危険な人間なのかもしれない。

 でも、危険な武器である拳銃がその持ち主を守るように、彼がいれば自分はきっと大丈夫。

 そう思いながら、すぐそばの彼の顔を見た。

 水の中でうごめく彼の少し長い髪や髭がまるで水草のようだと、場違いな事を考えながらゆっくりボンベの酸素を吸い続けた。

 どれだけ時間がたっただろう。

 手足の感覚がなくなってきて、意識が遠のきそうになった頃、目の前にふわふわしたものが現れた。

 石川五右ェ門、刀を持った青年だ。

 彼が次元に合図をすると、次元は水草から手を離して五右ェ門の後について水中を移動しはじめた。思うように手足が動かないマリーをしっかりと抱えたまま。

 しばらく進んだ後、やっと浮上し、マリーはようやく地上の空気を胸いっぱいに吸い込むことができた。

 岸について、次元はマリーを引き上げる。

「動けるか?」

「……ちょっと……待って……。私、アウトドアって……苦手なのよ……」

 ごほごほと咳をして、ふうっとため息をついて座り込んだ。ほとんど感覚のない手足で、動けるのかどうか問われても自分でもわからない。

 マリーの意識がはっきりしている事を確認してほっとしたのか、次元は表情をやわらかくすると、ざぶざぶ再び湖に入っていった。

 ぽっかりと浮かぶ彼の帽子を拾い上げる。

「とりあえず奴らは引き上げたようだ」

 びしょぬれのスーツにびしょぬれの髪のまま、びしょぬれの帽子をかぶった。

 くいっと湖のほとりのロッジを顎でさす。

「偵察ついでに五右ェ門が見つけてきてくれた。そこで服を乾かして暖を取れる」

 次元はマリーを横抱きに抱えるとロッジに向かった。

 マリーは気恥ずかしくて体を固くするが、どうにも自分で歩いていける自信がない。覚悟を決めて力を抜くと、意外とそれは心地よくて、そのまま彼のびしょぬれのスーツに頬をくっつけていた。

 

 湯を張ったバスタブでしっかり体を温め、ロッジの備品で淹れた紅茶をすすり、マリーは文字通り生き返った思いだった。バスローブで包んだ体に血流が戻っているのがわかる。

「おい、次元、早くしろ!俺もさっさと湯で温まりてぇんだよ!くそー!」

 使用中のバスルームの前で、銭形警部は怒鳴りながらぐるぐる回っていた。

「とっつぁ〜ん、悪ィけど静かにしてくんねぇかなあ」

 すでに暖を取ったルパンはなにやらラジオのようなものをいじっていた。

 ダニエル邸の地下で使っていた受信機だ。防水らしく、チカチカと作動を示すライトが頼もしく点滅していた。

 しばらくすると、点滅が持続点灯になり、音声が聞こえてきた。

「よっしゃ、取ったぜ!」

 受信機からはザワザワとした音声が流れる。

 バスルームから腰にタオルを巻いて出てきた次元はテーブルに腰掛けた。

 寒い寒いと騒いでいた銭形警部も、興味深そうにそれに聞き入った。

 受信機からは苛立った様子のシャル・バレイの声が聞こえてきた。

「まったく、あの刑事もちっともアテにならんし、部下たちもこんなに手こずるとは」

「教授、しかしマリーも乗っていたというのに、やりすぎだ!」

 憤慨したようにクロードが声を上げる。

「フン、心配しなくとも誰の死体も上がってない。まんまと逃げたんだろう」

 不機嫌そうに続けた。

「……ルパンの奴がさっそくマリーを手の内にしていたとは……」

「しかし、まさかマリーの連れてきた男がルパンの一味だとは思いもしなかった……」

 戸惑ったようなダニエルの声。

「ともかく、マリーだけならばどうとでもなるが、ルパン一味とつながってることがわかった以上、一刻も早く奴らを始末しなければならない」

 怒り狂ったようなバレイの声がロッジに響いた。

 

「ルパン!この物騒な奴らは一体何者なんだ!?」

 寒さもすっかり忘れたような銭形警部は身を乗り出してルパンに問うた。

「このマドモアゼル・マリーの相続するお宝を狙う、わる〜い奴らさ。なあ、とっつぁんよ、俺達を逮捕するのはちぃ〜と待ってくんねぇか?今連れてかれっちまうと、このお嬢さんが一人で奴らに立ち向かわなきゃなんねぇ。俺が予告状を出したからにゃあ、実行は確実って知ってっだろ?再戦はそこでって事で」

 ルパンは銭形警部にウィンクをした。

 警部は眉間にしわをよせて腕組みをする。

「……チッ、俺に無駄足をふませるなよ」

 警部の返答を聞いて、ルパンは満足そうに笑った。

 

 マリーは紅茶を飲みながら、ロッジの窓からアヌシー湖を見た。

 そして四人の男を振り返る。

 皆そろって、腰にタオルを巻いた様でなんやかんや話し合っていて、勇ましいやら間抜けなのやら。じっと彼らを見ているとついつい笑みがこぼれてしまうのがわかる。

 窓の近くに置いた椅子に腰掛けて、すっかり体温の戻った手足を確認する。

 あんな目にあったのに、マリーにはかすり傷ひとつついていなかった。 

 ジュネーブで拾った銃は見事に彼女を守り通したのだ。

 ちらりとその「銃」を見た。

 左腕には、血がにじんだまま。

 マリーは立ち上がってロッジの電話のダイヤルを回した。

「……マリー、どうした?」

 それに気づいた次元が声をかける。

「タクシーを呼んだの。車もないし、帰れないでしょう?」

「ああ、そうか」

 次元はまた男達の話し合いに戻る。

 マリーは乾燥室に行って、まだ少し湿っている衣服を身につけた。

 鏡を見て、指で髪を整える。くるりとその髪をピンで結い上げようとして、やめた。

 服を着てダイニングから外を見ると、もうタクシーが到着していた。

 外に出ようとするマリーを次元が呼び止める。

「おい、俺がこの格好じゃ、帰れねぇだろうが。服を着る間くらい待てよ!」

「ねえ、次元」

 マリーは振り返って彼をまっすぐ見た。

「私、一人で戻るわ。私といたら、あなた方、殺されてしまう」

 次元は一瞬目を丸くする。帽子のない彼をじっと見るのは、なんだか新鮮な感じがした。

「バカ、あんたに心配されるような俺たちじゃねぇ」

「とにかく、来ないで」

 あっけに取られているルパンたちを後に、マリーはロッジを走り出てタクシーに乗った。

「ヴィンセント・ブリルの屋敷までお願い」

 すぐに車を出させた。

 後ろは見ない。

 目を閉じて、自分の肩を自分の両手で抱きしめた。

 

 部屋に戻った頃、辺りはすっかり暗くなっていた。

 マリーは一人、部屋の明かりをつける。

 次元の使っていたベッドに腰掛けた。

 大きなため息をつく。

 昨日会ったばかりの男だというのに、もう顔を見る事もないのだと思うと、どうしてこんなに胸が痛むのだろう。

 ダニエル邸での探偵ごっこに、カーチェイスと銃撃戦、あげくの果てに湖での潜水。

 どきどきしたりびっくりしたりは絶えなかったけれど、ずっと大丈夫だと思っていた。

彼がそばにいたから。

 しかしロッジでシャル・バレイの声をきいて、マリーは現実に引き戻された。

 次元の腕から流れていた血。

 彼はスーパーマンでもなんでもない。怪我をすれば血が出るし、死ぬことだってあるのだ。

 マリーは祖父のクリスタルをきちんと磨いて、部屋に飾って、祖父と過ごした夏に思いをはせたいだけだったのに。

 どうしてこんな事になってしまったのだろう。

 ふと上着の内ポケットに手をやる。

 銀色のライター。

 コレクションルームで次元から取り上げたままだった。てっきりどこかで落としてきたと思ってたのに、まだポケットに入っていたのだ。

 マリーはカチカチと火をつけたり消したりしてから、ぎゅっとそれを握り締めて目を閉じた。

 すると、ふわりとした風が彼女の頬をなでた。

 窓は開けていないはずなのに、とバルコニーを見る。

 あっと声を上げた。

 次元大介が立っていた。

「おいてけぼりとは、ひでぇ雇い主だな」

 彼の姿を見て、マリーは泣きそうになった。

 ひどい男だ。

 自分の決心を、あっさり踏みにじる。

 

 

To be continued          >>next