わがまま

 

スコットランドヤードでの会議のためロンドンを訪れている銭形警部は、休憩時間を待ち構えたように会議室を飛び出しセルラーフォンを取り出した。

二度深呼吸をすると、ボタンを押す。

呼び出し音を聞いた。しばしそれを聞いていると、徐々に自分の心臓の音が大きくなってゆくような気がした。

あきらめて電話を耳から離しかけると、呼び出し音が途切れる。

あわてて耳にあてなおした。

「もしもし……俺だ」

 用意していた言葉も吹き飛んで、ぶっきらぼうにそれだけの声をしぼり出す。

 電話の向こうの相手は、黙ったまま。再び彼の心臓の音が響いた。

「……久しぶり」

 ようやく女の声が聞こえた。

 戸惑ったような、静かな声だった。

 警部はまた深呼吸をする。

「今、ロンドンに来ている。もし昼休みで出られるんだったら、飯を食わないか?」

 早口で、しかししっかりとした声で言った。

「……ごめんなさい、今日は忙しくて昼休みは外に出られそうにないの」

 一呼吸おいて、また静かな声での返答が返ってきた。

 その返事は予想できなかったわけではないのに、実際に耳にすると警部はつい言葉につまる。

 しばしの沈黙。

「あの、まだ仕事だから、これで……」

 彼女の言葉をさえぎるように、警部は腹から声を出した。

「仕事が終わってからはどうだ?」

「夜は予定があるのよ」

「仕事が終わってから、その予定の時間まででいい」

 警部は電話を持つ手が汗ばんでいる事に気づいた。

「……わかったわ。終わったら、行くから」

「すまないな、仕事の邪魔をして」

 それだけ言うと電話を切り、大きく息を吐く。

 電話をポケットにしまって、汗ばんだ手をハンカチで拭いた。

 廊下の窓から見える外は曇り空で、いかにも寒々しい。

 前にロンドンを訪れたのは夏の終わりだった。

 まったくこの歳になると、時間の過ぎるのは早い。

 先ほどの電話の彼女と初めて会ったのは、二年近く前になるだろうか。

 ロータスの営業をやっている彼女の仕事中のエキシージに強引に乗り込んで、ルパンを追い掛け回したのだった。しかもその挙句逃げられてしまうという、なんとも間抜けな出会いだ。

 しかしその後、スポーツカーの販売なんかをやりながらもマニュアルミッションの運転ができなかった彼女に運転を教えるという約束で、一年以上逢瀬を重ねた。

 彼女の運転技術は順調に上達し、夏の終わりに彼女の部屋でささやかな「卒業式」の食事をした。そしてその時、もう運転を教えるという「口実」がなくとも、それでもまだ彼女に会いに来ると心に決めた。

 だがその後がうまくない。

 最後に会った夏の終わりからロンドンを訪れる機会も取れず、そして自分が心に決めた事を彼女に伝える事もできないまま、今に至っている。

 警部はネクタイをゆるめ、ため息をついてうつむいた。

 別れ際に触れた、彼女の髪や体の熱。

 そんな感触がどんどん遠ざかってゆく気がした。

 

 会議から解放された警部は、公園のベンチで足を組む。

 コートの襟を立てて、侵入しようとする北風をかろうじてさえぎった。

 彼女と何も打ち合わせてはいないが、待ち合わせはここと決まっていた。

 警部もまだ、これから仕事をしなければならない。が、今回はなんとしても彼女に会おうと決めていた。年内、常識的な時間を空ける事ができるのは今日が最後になりそうだからだ。

 通りをゆく人々が大きな包みを抱えて足早に過ぎてゆくのを見て、腕時計の日付を確認する。そうだ今日はクリスマスイブか。

 予定がある、と言っていた彼女の言葉を思い出して胸がチクリと痛んだ。

 煙草を一本取り出して火をつける。空になったソフトケースをクシャリと握り潰すと、目の前に女が立ち止まった。

「ごめんなさい、待ったでしょう?」

 オフホワイトの暖かそうなコートに、深いワインレッドのドレス、品の良いゴールドのアクセサリーを身につけた彼女が、静かに隣に腰掛けた。

「……レナ……」

 営業の仕事をしている彼女は普段から洗練された身なりをしているが、久しぶりに会うドレスアップした姿は想像していたよりずっと美しくて、警部は言葉を失い名前を呼んだきりじっと見つめてしまった。

「あ……いや、そんなに待っちゃいない。その……悪かったな、急に連絡したりして……」

 火をつけたばかりの煙草を地面でもみ消し、灰皿に捨てた。

 今までいつも彼女に電話をすると、はじけるような声が返ってきていた。そして待ち合わせて会うと、これまたはじけるような笑顔。

 今日は様子が違う。

 そして女というものがこんなふうに様子が変えるというのを、もちろん彼とて初めて経験するわけではなかった。

 そう、うまくないのだ。こういう感じというのは、うまくない。

 用意してきたはずの、いろんなパターンの言葉がまったく出てこなかった。

 しばらくの沈黙の後、レナのつややかな唇がゆっくりと開いた。

「あれから、忙しかったの?」

「うむ……すまん。あれからすぐ日本に向かうことになって、次にフランスに渡り……」

 話そうとして、言葉につまる。

 そうではない。

 そんな風に忙しかった自分の事を話しに来たわけではのではないのだ。

 コートの襟をぎゅっと整え帽子を取り、背筋を伸ばしてレナを見た。

「会いに来るのがこんなに遅くなって、すまない」

ひとことひとこと、はっきりと。

 レナはバッグを握り締めたまま、彼を見上げる。

 一度うつむいてから、まるで敬礼をするように背筋を伸ばした警部を、またじっと見つめた。

「……電話くらい、くれるかと思っていたわ」

「電話で話すのはどうも苦手でな……」

 帽子をぐしゃりと握り締める。

 その時、コートのポケットのセルラーフォンが鳴った。

 まったくタイミングが悪い、と思いながらも心当たりのある電話だったのであわてて取った。

「俺だ、ああ、わかっている。……もうすぐ向かう、すぐだ!」

 それだけ言うとすぐに切って、忌々しげにポケットに放り込んだ。

「警部さんも予定があるんでしょう?私もそろそろ行かないといけないわ」

 レナが立ち上がると、警部もそれに習う。

「……デートか?」

 レナはキッと彼を見上げ、コートの前をきつく合わせた。

「仕事関係のパーティで、ハイアット・リージェンシーに行かないといけないの。じゃあ、これで」

 早足で歩き出す彼女をあわてて追う。

「ハイアット・リージェンシーチャーチルっていやぁ、もしかするとアダム・タウラー氏のパーティか?」

 彼の言葉にレナは驚いた顔で足を止めた。

「……そうよ、どうして?」

「俺も仕事でそこに呼ばれているんだ」

 互いに驚いた顔で見つめあった。

 

「スコットランドヤードには会議で来ているんだが、今回タウラー氏のパーティの警備のオブザーバーも頼まれとるんだ。とんでもないタイヤを見せびらかすらしいな」

「タイヤじゃないわ。ホイールよ。アサンティのホイール」

 タクシーの中で話す彼女は、少しいつもの様子に戻ったようで警部はいささかほっとする。

 そう、ホイールだ。

 ふんだんに宝石を埋め込んだ、4本で数億円するという特注のホイールを披露するパーティの警備の仕事に呼ばれているのだ。

「レナは招待客か?」

「ええ、まあね。タウラー氏は有名なエンスージァストで、うちのお得意様でもあるの。私が対応したこともあるから、挨拶に行かないといけなくて」

 彼女は気の進まない様子でタクシーのシートに身をうずめた。

 ホテルに到着すると、警部は身分証明書を、そしてレナは招待状を出して会場に入った。

 まだ時間は早く、人はまばらだ。

「……関係者証は持っているのか?」

 警部はレナに尋ねた。

 今回のパーティの「関係者証」はすなわち、ホイールの特別鑑賞券みたいなものだ。

 つまり、会場で披露される前に警備された控え室でゆっくりと鑑賞したり取材したりするためのカードで、一部のプレスや関係者に渡されている。

「ええ、持っているわ」

「まだ時間前だが、ゆっくり見るといい」

 警部は会場の一番前の扉に彼女を促した。レナは少し間をおいて、彼の後に続く。

 ホイールが仕舞われている部屋の前には、警備が二人いた。

「警部殿、特別鑑賞の時間はまだでありますが……!」

「かまわん、俺が一緒に入る。レナ、関係者証を」

 レナがカードを提示すると、部屋の鍵が開けられた。

 まだ誰もいない静かな部屋に、アサンティのホイールが鎮座するケースは置かれていた。

 レナはゆっくりとケースに近づき、じっとそれを見つめた。

 警部も実物は初めて見る。

 ルビーにダイヤにサファイヤ。それらが部屋のライトに照らされて、夜のイルミネーションのように輝いていた。

「……アメリカ人らしいわね、こういうの作るアサンティって」

 レナはつぶやいて、ホイールに見入った。警部はホイールを見る彼女を、じっとみつめる。

 しんとした時間が流れた。

「ねえ、警部さん」

 ふっとつぶやく彼女の声に、警部はついまた背筋を伸ばす。

「なんだ?」

「……あなたが電話が苦手っていうのは、わからないでもないわ。この前まではいつも約束はしていなかったから、何の音沙汰がなくても気にしてなかった。でも……連絡するって言ってからその後ひとこともなかったら……、どんな気持ちになるかもわかるでしょう?」

 レナは顔をホイールから警部に向けた。警部は背筋を伸ばしたまま、そのまなざしを受け止める。

 ああ、まただ。

 どうしてこう、自分は彼女を悲しい気持ちにさせてしまうのだろう。

 どんな言葉も薄っぺらくなってしまいそうで、ただただ背筋を伸ばして立ち尽くす。

「……あなたの事だから、もしかしたら、『時差で今頃ロンドンは真夜中か』なんて思ったりしているの?」

 まるでずばりと心の内を見透かされたようで、つい顔が赤くなる。

 そんな彼を見て、レナはくっくっを笑った。

 今日初めて見る笑顔だった。警部は思わず釘付けになる。

「ひとの車に無理やり乗り込んできてガス欠まで走る人が、どうしてそんな事気にするのか、わからないわ」

 警部は黙ったまま。彼女からはいつもこんな事を言われているような気がする。そして、それはなかなかどうして的を得ていて、彼は何も言えないのだった。

「ねえ、警部さん。私を……」

 レナは言うと、一瞬うつむいてから彼を見上げた。

「私を……もっと信用してくれて良いと思うのよ。あなたがどうしようもなく変ったひとだなんて、私はとっくに知っているじゃない。だからあなたが……とんでもない時間に電話をしてこようと、電話口で上手い事が言えなかろうと、私は気にしたりしないわ」

 レナの目を見ながら、警部は自分の額を手で覆った。

 ああ、まただ。

 どうしてこう、自分は彼女に、自分より先に男気あふれる言葉を言わせてしまうのだろう。

 この、自分よりずっと年若く華奢な女に。

 警部は両足の踵をそろえ、これ以上できないというくらいに背筋を伸ばした。

「電話ではなく……どうしても、会って言いたい事があったんだ。俺は……」

 警部の口元は、レナの指先の関係者証のカードでふさがれ、言葉はさえぎられた。

「聞きたくないわ」

 レナはバッグの口を開けると、そのカードをしまう。くるりとショーケースに背を向けた。

「私は、タウラー氏に挨拶をしたら帰るわね。こういうパーティは苦手だから。あなたの言いたい事は……」

 部屋の出口に向かいかけた足を止めて振り返った。

「監視カメラのないところで、改めて聞かせて」

 警部は目を丸くして、帽子を握り締め叫んだ。

「……真夜中をすぎるかもしれんが、家に行くぞ!良いんだな?」

 レナは振り返ったまま、笑ってうなずく。

 彼女の後姿を見送って、警部は帽子をかぶりなおした。

 ルパンの予告状でも来ない限り、今夜は彼女の部屋でまたあのテレビゲームを楽しむ事ができるだろう。

 この、憎むべきか感謝すべきかわからないやたらキラキラしたシロモノを改めて眺めた。しばしこの出来損ないの万華鏡を相手に、彼女に言う台詞の練習でもするか。

 そう、まずはメリークリスマスだな……メリークリスマス!

 

fin