ワーカホリックナイト

 

 湯気のたちこめる猫足のバスタブ、サラサラで良い香りのするリネンのベッド、チーズがたっぷりのったトマトソースのパスタにワイン。ジェエラードにエスプレッソ。

 

 おそらくそんなものが彼女の頭の中ではぐるぐるとめぐっているに違いないと想像しながら、次元大介は机に突っ伏してうっすらと口を開けたまま意識を失っている女を黙って見下ろしていた。

「徹夜明けの彼女は起こすと大変だからな、そっとしておいた方が良いぜ」

 めまぐるしく動きまわっている男たちが、通りすがっては彼にそう言ってゆくからだ。

 ルパンに召集をかけられ久しぶりにロンドンに現れた彼は、英国の歴史ある車雑誌の編集部を訪ねていた。

 夏にナミビアの砂漠で出会った女神は、今はシマロンのパンツにパタゴニアのジャケットを羽織って目の前で寝息を立てている。

 次元は肩をすくめると、当分持ち主は戻ってこないと思われる隣のデスクの椅子を拝借して腰掛け、彼女の机に目をやった。

 ボードが埋まるくらいに貼り付けられている様々な写真や切り抜きは、もちろんほとんどが車に関する物なわけだが、ひとつだけ妙なものがあった。

 次元はじっとそれを見ると口元をほころばせ、思わず体を乗り出してそれを手に取った。

 その時、ふいと彼女の髪に腕が触れる。

 びくりと体を動かす彼女を、次元は写真を手に持ったまま一瞬体を引いて見守った。

 彼女はゆっくり頭を上げると、右手で髪をかきあげ大きくため息をつき、重そうにその体を起こした。まるで、ギィギィという音が聞こえてくるようだ。

 猫のように伸びをすると、また大きくため息をつき、そしてはっと隣に座っている次元を見た。

 大きな目をさらに見開いて、そして額に手をあてると机にその肘をついて体重を預ける。

 何か言いたそうにして、でもなんだか言葉にならないもどかしいような顔をしている彼女を見て、つい次元はクックッと笑ってしまう。

「久しぶりだな、メイ。……コイツを受け取りに来た。プリント代にメシをおごる約束だっただろう」

 次元は手に取った写真をぴらりと彼女に向けると、再度満足げにそれを眺める。

 ドレスを着た美女をはさんで、パンツ一丁でおどけている二人の男の写真。バックはぶっきらぼうな流木に曇り空、そして砂埃にまみれたロールスロイスのファンタム。

 最高級のサルーンでナミビアの砂漠を走破するという、馬鹿げた企画のテスター兼ライターだった彼女の車で逃走劇を繰り広げる事になったルパンと次元と三人の、馬鹿げた記念写真だった。

 不機嫌そうなメイは顔を両手で覆うと、編集部に響き渡りそうなため息をついた。

 彼女のため息は、まるでラヴェルのボレロのようでどんどん大きく深くなってゆくのだな、と次元は思った。

「……ひどいじゃない。来るなら来るって言ってちょうだい、次元大介!」

 言って顔を上げると、立ち上がってあっという間にロッカーに向かった。

 次元があぜんとしてると、バッグを手に持ったメイは足早に彼の前に戻る。

「オックスフォード通りのBORDERSで待ってて」

 それだけ言うと、再び踵をかえし彼を置いて編集部を走り去って行った。

 

 メイが指定したカフェで、次元は何杯目かの薄いコーヒーを飲み干した。

 彼女がなぜここを指定したのか彼はすぐに分かった。

 BORDERSは書店だ。が、売り物の本をカフェコーナーに持ち込んでそのままどれだけでも読んでいってかまわないという、これまたいくらでも時間のつぶせる店だった。

 今月のナショナルジオグラフィックに目を通した後、分厚いイタリア料理の本なんかを持ってきて眺めていた。

 ロンドンに来ることになって真っ先にメイを思い出した時、なぜか真っ赤なイタリアントマトが頭に浮かんだ。

 出会った場所が真っ赤な砂漠で、そしてその太陽の下の彼女があまりに華やかだったからだろうか。

 料理本を見てそんな事を考えていると、まったく自分が空腹な事に気づいた。

 腕時計を見るとちょうど夕食時だ。

 窓からオックスフォード通りを見下ろしていると、コートの裾を思い切りたなびかせて走ってくる女が見えた。

 通りを並んで歩く男女の二人連れなんかとぶつかりそうになっては、振り返っておそらく謝罪をし、また走ってくる。

 次元がパタンと本を閉じると、コツコツと気ぜわしい靴音をさせながらメイは現れた。

 貧乏学生か作家見習いかという風体の客ばかりの店に駆け込んでくる華やかな美女は当然よく目立って、それでも彼女はまったく気にする風もなくすぐさま彼を見つけるとコートを脱ぎもせず走りより、向かいの椅子に座りふうっと大きく息をついた。

 コートの下は茄子紺のつややかで上品なドレスで、その大きく上下する胸元には光を受けてキラキラと輝くダイヤが踊っていた。

ナミビアで別れ際に、ルパンが贈ったダイヤだ。

 メイは呼吸を整えると、身を乗り出して次元の顔を覗き込む。

「……久しぶりね、本当にあなたが現れると思わなかった。仕度をしながら、あなたが私のデスクに来たなんてもしかしたら徹夜でぼやけた頭で見た夢だったかもって、なんだかさっきまで信じられなかったわ」

 美しくネイルを整えた指先で次元の帽子のつばをつまみ、ちょいと持ち上げて笑う。

「俺が現れるのは、そんなに椿事か?」

「だって」

 メイはよりいっそう身を乗り出して、いたずらっぽく笑ってささやく。

「お尋ね者のガンマンでしょう?」

 こげ茶色の髪が揺れて、ふわりとかすかに甘い香りがした。

「お尋ね者だって、女と飯を食いに行く事もあるさ」

 つられて彼も笑った。

 

BORDERSを出て、二人はゆっくりと通りを歩いた。

 デベナムズの真っ赤なイルミネーションが二人を照らす。

「夕べからろくに食べてないわ。お腹ぺこぺこよ。何をご馳走してくれるの?」

「そうだな、俺もマズい機内食はほとんど食ってねェから腹ぺこだ。どこか近くにオススメの店はないか?」

 メイはあきれたように立ち止まって彼を見た。

「今日はクリスマスイブよ。私が知ってる店はたいてい今日からクリスマス休暇だわ。あなた、どこかにあてがあるのかと思った」

 次元ははっと気が付いて、ポケットに入ったままだった飛行機のボーディングパスの切れ端を見た。

 そうか今日はクリスマスイブだった。

 ロンドンはアメリカと違って、多くの店が休業してしまう。

 女を誘っておいて、なんてうっかりした田舎くさいミスをしてしまったのかと思わず言葉をなくした。

 メイの落胆の声を覚悟して唸りながらひげをさすっていると、その手を引っ張られ帽子が頭から落ちそうになり、少しあわてる。

「仕方ないわね、今度来る時は必ず前もって連絡して。そうしたら私が良い店を予約するから」

 次元は帽子の位置をなおすと、向きを変えて歩く彼女の後を追った。

「どこへ行くんだ?」

「ハイアット・リージェンシーよ。ちょっと面倒くさいけど、いわゆる『タダ飯』をいただきに行きましょう。とにかく私達はお腹が空きすぎだわ」

 メイは腕時計を確認すると早足で歩いた。

 ほどなく二人はポートマンスクエアの目の前の高級ホテル、ハイアット・リージェンシーチャーチルに足を踏み入れていた。

「うちの雑誌もお世話になってる出版社に、この前新しい会長が就任したのだけれどね、ちょっと趣味の悪い成金なの」

 メイはバッグから記者証を出した。

「今日はここでその就任のパーティと彼のご自慢の品の、内輪のお披露目があるのよ。プレスって事でもぐりこめるわ」

 言うと、次元の帽子を取ってぎゅっと彼の胸に押し付けた。

 帽子を取って入れということだろう。

「美味しいものでも食べて帰りましょう。OK?」

 もちろん彼に異存あるはずがない。

 メイが記者証を見せて、会場の受付は難なく通過した。

 会場は品の良い飾りつけの中、大勢の人でにぎわっており、メイは数人につかまったりはしていたが二人は料理とシャンパンを持って会場の隅に落ち着くことに成功した。

 フルートグラスをカチンと鳴らして唇をぬらし、まず二人は何も言わずに皿の料理を口に運んだ。半分ほどたいらげたところで、思わず目を見合わせて笑う。

「……本当に私達、お腹空きすぎね。あなたと再会しての食事が、こんな風になるとは思わなかったわ」

「俺もだ。すまねぇな」

「まあ、いいわ。初めて会った時よりマシ」

 くすくす笑って、メイはシャンパンを飲み干した。

 彼女が笑ったりするたびに、そのふんわりとした髪と胸元のダイヤが揺れて光るのだが、あのナミビアの太陽をたっぷり閉じ込めたダイヤは本当に彼女に似合っていた。

 まったく寒くてかなわないロンドンの冬だが、彼女の周りだけまるで夏のようだ。

 空腹が落ち着くと、次元はパーティ会場の人間の事がふいに気になり始めた。

 パーティ客に紛れてはいるが、彼の目からは明らかに警備と思われる人間がやけに多い。

「……そういえば、何かの披露とか言っていたな。会長とやらの挨拶以外に、何があるのか?」

 次元が尋ねると、メイはローストビーフをごくりと飲み込み、赤ワインを二口飲む。

「ほら、もうすぐ出てくるわ。見ていて」

 メイが会場中央に設置された台座を指した。

 ちょうど司会とおぼしき男が出てきてしゃべりだす。

「それでは皆さん、お待ちかね。アダム・タウラー氏のヴェイロンに納まる、特別注文のアサンティをごらんにいれましょう」

 会場の話し声はいっぺんに静かになり、中央に視線があつまった。

 照明が暗くなり、その中央の小さなステージにスポットライトが当てられると大仰なガラスケースが現れた。

 そして中から現れた物は、そのライトの光を、これでもかというほどに会場に反射しまくり、会場からはどよめきがもれた。

「……なんだ、ありゃあ?」

 次元は思わず声を上げてメイを見た。

「アメリカはアサンティ社の自動車ホイールよ。4本で1,200個のルビー、26,100個のダイヤ、800個のサファイヤがはめこまれてるの。タウラー氏はね、あれをブガッティのヴェイロンにはかせるのよ。信じられる?」

「……なんてぇ成金趣味だ。金が余って余ってしょうがないのかね?」

「アサンティのホイールは、まったく私の趣味じゃないけど、まあそれ自体は百歩譲って良いとしましょう。でもヴェイロンにはかせるなんて!ヴェイロンはF1マシーン以上の発進加速能力を持ってて、そのスピードのためにホイールの重量から何から何まで計算されてる車なのよ。それにあんな重いホイールをはかせるなんて、まったく頭を疑うわ。1001馬力もある車なのに、どうせろくに走らせる気なんかないのよ」

 メイは語気を荒げて、ワインを飲み干した。

 次元は肩をすくめて彼女を見る。カーテスターとしては、あふれんばかりの宝石に目がくらむ前に、「時速400キロオーバー」をうたわれている車の能力が重要なようだった。

「世の中には変ったヤツがいるもんだな。ま、面白ぇモノが見れてよかったじゃねぇか。」

 次元はボーイのトレイからなれた手つきでワイングラスを取ると、メイの前に置いた。

「まあね」

 メイは言ってワインをまた一口飲むと、席を立ってフルーツの皿を取りに行った。

 次元はジュエリーで埋められたホイールを遠目に眺めながら、ため息をつく。

 ロールスロイスの数倍の値段がするスーパーカーに、そしておそらくまたその数倍の値段がするホイールか。いかにもどこかの女が好きそうなシロモノじゃないか?

 ワインを飲んでいると、会場の中の警備の男達の様子が妙にざわついているのが気になった。

 料理を取りに行ったメイは、やはり幾人かの顔見知りに声をかけられてなかなか戻ってこない。ちらりと見ると、年配の男と何やらうつむき加減に話し込んでいた。

 戻ってきたメイは妙な顔をしながら、椅子に腰掛けた。

「何かあったのか?」

 警備の男たちの動きが気になっていたのもあって、次元はメイに尋ねた。

 メイはメロンをかじりながら顔を近づけて小声で言った。

「新年にトラファルガー広場でヴェイロンにあのアサンティを装着した状態での公式なお披露目のイベントがあるんだけれど、さっきここに予告状が届いたそうなのよ。ルパン三世が新年にそれをいただきに参上するって」

 聞いて次元は飛び上がりそうになった。

 確かにルパンがもってきた仕事は、元旦にギャラリーから宝石を頂戴するというようなものだった。が、こんな趣味の悪いものとは聞いてないぜ、ルパン!

「……クソ、ルパンのヤツめ……」

 よりによって自分が居合わせているところに予告状を送りつけるとは。思わずうなってしまう。

「私はもうデザートもいただいたわ。予告状を送った本人の一味がその会場でのうのうとしているのも、落ち着かないでしょう」

 メイは意外と穏やかに微笑むと次元を促して立ち上がった。

 もちろん、会場に入る時と同じく彼に異存があるはずもない。ルパンの予告状が来たとなれば、例のしつこい男が飛んで来る事だってありえるのだ。

 

 ホテルを出ると次元はさっさと帽子を被ってうつむく。

「クリスマスイブに予告状か。まったく派手好きな男は仕方ねぇな」

 舌打ちをしながらつぶやく。

 メイは何も言わずタクシーを止めた。

「……じゃあな、今日は悪かった。次はちゃんと飯をおごるぜ。俺がつかまらなかったらな」

 次元はポケットに手をつっ込んだまま、タクシーに向かうメイに口早に言った。

 メイはタクシーの前に立ったまま振り返って、笑う。

「何を言ってるの?クリスマスイブの夜に、お尋ね者を一人放り出して帰れるわけないじゃない」

 目を丸くしている次元の腕を取って、タクシーの後部座席にすべりこんだ。

 

 タクシーを走らせて到着した彼女のマンションの部屋は、当然まだ寒々しくてメイはコートを着たまま暖房をつけてまわった。

 バッグをテーブルに置くと、メイは今日一番のため息をついてソファに腰掛ける。

 次元もそれにならった。

「なんだか疲れたわね、やっぱりクリスマス期間は家にいるのが一番だわ」

「そりゃあ、お尋ね者と町を歩くモンじゃねえだろうな。罰あたりだ」

 次元が言うと、おかしそうにメイは声を立てて笑った。

「……すまなかったな。今日は飯もおごれなかったし、結果的にお宝を狙う泥棒野郎をパーティ会場に手引きするみてぇなマネをさせちまった」

 きまりわるそうに、次元は改めて言った。

 部屋は少しずつ暖まってきて、メイはコートを脱いでソファにかける。

「いいのよ、バレやしないわ」

 気にする風もなく、さらりと言って髪をかきあげた。

 ファンタムのアクセルを踏む彼女の横顔を思い出した。

 砂漠の中でも都会の雑踏の中でも、彼女は同じように凛と美しく生きているのだな、とその横顔を見つめた。

「……そうだ、今日はずっと言おうと思ってたんだが……」

 次元は彼女の胸元のダイヤを、親指と人差し指でそっとつまんで顔をよせた。

「このダイヤは、あんたに最高に似合ってるぜ」

 つぶやくと、そうっとその大粒の美しいダイヤにくちづける。それはふうわりと暖かい感じがして、ナミビアの太陽を思い出させそして同時に彼女の体の熱をイメージさせた。

 顔を上げると、ダイヤよりも輝かしい瞳が彼をとらえている。

 ダイヤに触れた手でメイの頭を支えると、今度はその唇にキスをした。夏に、ロールスロイスの前で交わした感謝のキスよりも、もっと艶っぽいやり方で。

 唇を離すと、彼女はくすりと笑ってそのまま次元を見る。

「結構上手なキスをするのね?」

「馬鹿、当たり前だ」

 体を離そうとする彼女を抱き寄せて、もう一度くちづけた。

「……ねぇ、次元」

 二度目のくちづけは長くて、メイはゆっくりとした甘い吐息の後静かにつぶやく。

「あなたは新年に、アサンティをつけたヴェイロンを手に入れる事になるかしら?」

「……まあ、多分な」

 次元は帽子をテーブルに置いた。

「そうしたら……お願いがあるの」

 メイは少し恥ずかしそうに次元を見上げて言った。

「んん、何だ?」

 次元は彼女の髪をもてあそびながら優しい声で答える。

「……停止状態から100km/hまで加速するのにかかる時間と直線での最高速を、教えて欲しいのよ。あの忌々しいホイールで、どのくらい性能が落ちるのか知りたいの」

 次元は目の前の潤んだ瞳をした美女を見つめて、そして笑いをこらえながらソファに体を預けた。

「ああ、わかった。俺達はどうせ思い切り走らせる事になるだろうから、実況中継で教えてやるよ」

 彼が言うと、メイは嬉しそうな顔をして次元の隣で同じようにソファにもたれた。

「よかった。やっぱり車は走らせるが一番なのよ」

 満足そうに微笑んで目を閉じる。

 次元は上着の内ポケットから写真を取り出して、あらためて眺めた。

 スケルトンコーストでの馬鹿げた記念写真。

 ロンドンで最もドリフトが上手く仕事熱心な女は、健在なようだ。

 写真をそっとまたポケットにしまっていると、ふっと彼の肩に暖かい重みが加わる。

 メイはさきほど触れていた柔らかい唇をうっすらと開けて、規則正しい寝息を立てていた。

 今度は次元が今日一番のため息をつく番だった。

 彼女をなるべく動かさないようにしながら、自分の脚をテーブルに投げ出したり両手を胸の前で組んだりして、彼も快適な体の位置を模索した。

 ロンドンでのクリスマスイブはディナーがあわただしければ、どうやらベッドで眠る事もできないようだ。

 そんなクリスマスイブだが、妙に幸せな気分だった。

 メイの吐息でひげをくすぐられながら、彼も目を閉じる。

 おそらく、ダイヤだけを身につけた美女をベッドで抱く夢を見て眠る事になるだろう。

 悪くないクリスマスイブだ。

 

fin