カレイドスコープ

 

 例えばルパンなら。

 女と出会って言葉をかわし、親しくなってねんごろになるに一週間とかかるまい。

 何もそれがうらやましいと言うわけではない。

 が、顔見知りの女の名を知ったのが初めて会ってから約三年後というのは、さすがに時間がかかりすぎかもしれないと、五右ェ門は思っていた。

五右ェ門が日本に逗留する時の常宿の近くには図書館がある。

 そこで本を借りて宿でゆっくりと読書をするのは、彼の修行の合間の楽しみの一つだった。そしてここしばらくは借りて読んだ本について、そこの司書の女とほんの少しの言葉をかわす事も楽しみになってきていた。

 そう、彼女とそこで初めて出会いカウンターで刀を預けさせられては揉めることを繰り返して、おおよそ三年が経つ。

 今年の夏には自分でも驚くような事があった。

 図書館の近くの川原から打ち上げられる花火を偶然二人で見た。

 そしてその花火の熱にうかされたのか、五右ェ門は彼女を食事に誘った。

 一体どうやって言って誘ったか、舞い上がってしまっていたのかさっぱり覚えていない。

 しかし、食事をしながら夢中になって話した本の話……例えば「宮本武蔵」は、吉川英治と司馬遼太郎とどっちの像が好きか、など……はまるで昨日の事のように覚えている。

 そしてその時に尋ねた彼女の「佐々木さおり」という名前は彼の心に刻み込まれた。

 女性と食事をして自分が饒舌になったためしなど、ついぞ記憶にない彼だが彼女と過ごした時間は違った。夢中になって時間も忘れて、本や歴史の話をしたのだった。

 二人で話している時の彼女は、本の番人としての静かで凛とした様とは少しちがって、あどけなく笑いゆっくりだが言葉をさがしながらよくしゃべった。

 できることなら、また彼女とあんな時間を持ちたい。

 そんな事を心でかすかに思いながら、それから再度日本を訪れた今はもはや冬。

 暖冬とはいえ、寒さが身にしみる季節だった。

 このところ彼は宿から図書館を三度ほど往復し、本を借りたり返したりを繰り返していた。そのたび佐々木さおりとは、以前よりも少し長く話をするようになっていった。そして彼女に刀を預ける事も、昔ほど抵抗が無いことに最近気が付いた。

 今日もカウンターで返却本の風呂敷包みを解いた。

 佐々木さおりは彼の姿を見るとにこっと笑って、本のバーコードを読み取る。

「クロフツの『樽』は以前読んだはずなのに、また読むといろいろ発見があって面白かった」

 五右ェ門が静かに言うと佐々木さおりは嬉しそうに顔を上げる。

「そうでしょう?入り組んだストーリーだけれど、とても繊細で緻密で、私も何度も読みました」

 自惚れかもしれない。が、彼女も彼が借りて読んだ本(時には彼女の勧めの)の感想やなんかを話してゆくのを楽しみにしているように見えた。

 風呂敷をたたんで懐に仕舞い、少したたずんで彼女の顔を見る。

「……今日はもう借りていかれませんの?」

 五右ェ門は静かに頷いた。彼女は一瞬寂しげな顔をする。

「……そうですか。それでは、お気をつけて」

 五右ェ門が本を借りて行かない時は即ち、出立の時だ。そして当分の間彼が現れない事を、彼女は知っている。そう、ルパンから仕事の召集をうけ、明日には英国に向かわねばならない。

 佐々木さおりは手元のPCで作成したばかりの、「年末年始の開館日のお知らせ」の紙を手に持って立ち上がった。

 何とはなしに、五右ェ門もその彼女の後につづいて出入り口に向かった。

 入り口の扉に掲示するのだろう。

 彼女がテープを切っている間、五右ェ門はその紙を両手で押さえておいた。

「……ありがとうございます」

 小柄な彼女は五右ェ門を見上げると、嬉しそうに笑った。

 花火を見ていたあの日。

 一体自分はどうやって彼女を誘ったのだろうか。

 ここしばらく図書館に来るたびに、また彼女とあんなふうに話す時間を持ちたいと、何度も言葉を捜したのだが、まったく思い出せなかった。

「佐々木さん」

 掲示物を貼り終えて館内に戻ろうとする彼女に、五右ェ門はようやく声をかけた。

「はい?」

 彼女は振り返って彼を見上げる。

「……俺の宿の女将が、今日は良い猪肉が入っていると言っていた。もし嫌いでなければ、ぼたん鍋をご一緒してゆかぬか?」

 五右ェ門の言葉に佐々木さおりは一瞬驚いたように黙り、彼を見つめ続けた。

 ああ、自分はこういう瞬間が苦手なのだ、と五右ェ門はぐぐっと腰の刀を握り締める。

「……7時くらいになると思います。石川さんのお宿、大倉さんのところですよね?」

 言うと彼女は少し恥ずかしそうに一礼して館内に戻って行った。

 刀を握り締めたままの五右ェ門の襟元から北風がひゅうひゅうと入ってきたが、体の中になにか温かい灯りがともったようで不思議と寒くなかった。暖冬のせいだけではない。

 

 五右ェ門の宿は古い町屋で、品の良い静かなところだった。逗留客もほとんどいない。

 女将に席を作ってもらい、五右ェ門は囲炉裏の前で彼女を待った。

「……珍しいですね、五右ェ門さんがここにお客さんを連れてくるなんて」

 昔馴染みの60がらみの女将は、物静かだが気心は知れていてそれも彼がここへの逗留を好む理由のひとつだった。

「ああ……そこの、図書館の司書の娘にいつも世話になっているので、しし鍋でもご馳走したいと思ってな。俺はもう明日には発たねばならんし……」

 なぜだか照れくさくて、五右ェ門は聞かれもせぬのに答える。

 女将はくっくっと笑う。

「ああ、あの賢そうな可愛らしいお嬢さんね。クリスマスイブにぼたん鍋とは、五右ェ門さんらしい誘いだこと」

「いや別に俺はクリスマスだとかそんな事は……」

 いつもよりやけに五右ェ門をからかい気味に振舞う女将から目をそらして、茶をすすりながら庭を見た。

 三和土の方から物音がすると、女将が鍋の準備の手を止めてそちらに向かう。

 女将と楽しげに話しながら、ツイードのコートを着た佐々木さおりがやってきた。

 コートを預けると、女将に促され五右ェ門の隣に座る。

「今日は製本分の整理もなくて早く終わって……そんなにお待たせすることにならなくてよかった」

 ほっとしたように笑って、ふうっと茶をすする。

 普段はきちんとまとめている柔らかそうな髪を肩まで下ろした彼女は、また普段と印象が違って妙に艶っぽく、五右ェ門はなんともどぎまぎする。

「お二人さん、ちょうど鍋の仕度ができましたよ」

 女将が明るい声で二人を呼んだ。

 

 佐々木さおりは華奢な体つきをしているのに、とても食事を美味しそうに口にする。そして、その度美味しい美味しいと楽しそうに笑っては彼を見るのだった。

 夏に食事をした時は昼食だったから酒は飲まなかったが、今回は女将が丹波の銘酒を出してくれ、彼女も嫌いではないようでその淡い色の唇は少しずつ、これまた実に旨そうに甘露な液体を含んでゆくのだ。

 ほっくりした薩摩芋と、おそらく女将の手作りであろう品の良い香りの味噌で仕立てられた猪の肉はなんともいえない歯ごたえと味わいで、二人のそれぞれの口は、話をしたり料理をたいらげたりでまったく忙しかった。

「石川さんは本当にいろんな国の歴史にお詳しいのね」

 彼女は頬を少し蒸気させ、純米酒をまた少し口にふくんで感心したように言う。

「ああ、その……仕事で海外に行くことが多いので、調べ物などが必要になり自然とそうなる。佐々木さんこそ、読んでない本などないようではないか」

 五右ェ門もぬる燗をあおって彼女をみつめた。

 こんなに旨い食事と酒は久しぶりな気がした。

 彼女との食事の時間は、なぜこんなにも早く過ぎてゆくのだろう。

「……子供の頃から図書館が大好きだったから……」

 笑って恥ずかしそうにうつむいた。

「今日は、本当に美味しい食事に招いていただいて、本当にありがとうございました。石川さんはいつもとても熱心に本を読んで行かれて……そういう利用者の方がいるのは、本当に嬉しいです。それに……石川さんとこうやって本の話をするのも、とても楽しいわ」

 お猪口を置くと、そっと指先口元をぬぐって言った。

「この前の夏に食事をして……それが俺もとても楽しかったので、ぜひまたご一緒したいと思っていたのだ」

 酒のせいだろうか。心に思っていたことがするりと言葉に出た。

 すっかり平らげた料理が片付けられ、二人の前には美しい色をした緑茶が出された。

「如何でした?よろしいお肉だったでしょう?」

 女将は自慢げに二人に問う。

「ぼたん鍋なんて久しぶりにいただきましたけれど、本当に美味しかった。お酒も美味しくて、なんだか飲みすぎてしまったくらい。すっかり温まりました」

 佐々木さおりは嬉しそうに女将に伝えた。

「喜んでいただいて、用意した甲斐がありますわ。お嬢さん、せっかく温まったところやし、お部屋をつくるから今日は泊まって行かれたらどう?今から帰ったら、体が冷えてしまうでしょう」

 佐々木さおりは驚いた顔で女将と五右ェ門を交互に見た。

 五右ェ門もあわてて女将の顔をみて、そしてあわてついでに膳の上のお猪口をひっくり返してしまった。

 女将はおかしそうに上品に声をたてて笑う。

「もちろん、ちゃんと五右ェ門さんのお部屋とは別に用意しますゆえ。お嬢さん、図書館は明日月曜は休みでしょう?ここのお風呂は檜でね、これまた自慢なのよ」

 佐々木さおりは戸惑った顔で、また五右ェ門と女将の顔を交互に見るが、女将の顔を見てうつむきながら笑った。

「それじゃあ女将さん、お言葉に甘えて。大倉屋さんに泊まる機会なんてなかなかありませんから」

 女将は食事の後片付けをすると、佐々木さおりを風呂に案内した。

 五右ェ門もその間に風呂をいただく。

 思ってもみない事になった。

 檜の香る湯船に肩までつかりながら、隣の風呂で同じように湯につかっているだろう彼女の白い細い肩を想像してつい顔が熱くなる。

 湯を上がって囲炉裏の前で茶をいただいていると、借りた浴衣を身につけた佐々木さおりがまだ少し濡れた髪のまま出てきた。

 彼と同じように囲炉裏の前に座ると、旨そうに茶をすすった。

「本当に良いお風呂でした。近くにこんなところがあるのに、地元だとなかなか訪れる機会もなくて、今回は本当にありがとうございます」

 柔らかい笑顔で彼を見上げる。色白の肌がうす桃色に蒸気して、なんとも幸せそうな顔をする。見ているだけで幸せになるような、そんな空気が彼女にはあった。

「……石川さん、旅に出るのはもう直ですか?」

「うむ、ああ、明日には出発だ」

「そうですか……」

 彼女は五右ェ門を見上げて、そしてコートのそばにおいてあったバッグを取る。

 中から一冊の文庫本を出した。

「図書館の本は返却期限があるから貸し出しはできませんが、これは私の私物ですから、よろしかったら道中にお読みになりませんか?」

『世界短編傑作集2 江戸川乱歩編』

 彼女の差し出された文庫にはそんなタイトルが書いてあった。

「……お借りしてよろしいのか?」

 五右ェ門は彼女の手からそっとそれを受取った。

「ええ。返却はいつでも結構ですから」

「ありがとう。大切に読ませていただく……」

 文庫を五右ェ門は大切そうに両手で抱えた。

「俺は明日から……英国に行かねばならぬのだが……佐々木さんになにか土産を買って来たい。どんなものがよろしいか?その……女性への土産など何が良いのか、俺はちょっとわからぬゆえ……」

五右ェ門は照れくさい気持ちながらも精一杯に言った。

 佐々木さおりは意外そうな顔で彼を見る。

「英国ならば、あの、カレイドスコープがあったら、それを……」

 少し迷ってから言った。

「カレイドスコープ?」

「ほら、あの、万華鏡」

五右ェ門は子供の頃縁日で見かけた、あのクルクルまわる不思議な望遠鏡のようなものを思い出した。

「ああ、万華鏡!」

「私、カレイドスコープを集めていて……万華鏡はイギリスが発祥なんですって。本場のものを見てみたいなあって思ってたんです」

 恥ずかしそうに言った。

「……わかった。あのキラキラしてくるくると回るヤツだな。しかと心得た。次に来るときには、必ず持ってくる」

 妙に発奮して大声を出す彼の様子がおかしかったのか、佐々木さおりはくっくっと笑った。

「道中、お気をつけくださいね。それではおやすみなさい」

 言って立ち上がると、女将に用意された部屋に向かった。

五右ェ門は彼女から受取った文庫本を手にしたままその後姿を見守った。

小柄な彼女をつつむ、大きな優しい暖かい空気。それがまだ彼の周りに残っていた。

幸せな気分だった。

本をぱらぱらとめくる。

江戸川乱歩が編集した、短編ミステリーの珠玉の名作集だ。

最初の章は、奇しくもアルセーヌ・ルパンとガニマール主任警部のやりとりの短編で五右ェ門は思わず吹き出してしまう。

さて、明日からはまたルパンとのあわただしい日々だ。

なにやら宝石をいただくとかいう仕事。

さっさと終わらせて、そして世にも素晴らしいカレイドスコープを手に入れて帰ってこよう。

五右ェ門はなぜだかまだその場所から動くのが惜しい気がして、本を胸に抱いたまま囲炉裏の前で目を閉じた。気がつけば彼の周りをふんわりと、彼女の空気が包みこんでいる。

なんとも暖かい冬じゃないか。

 

fin