The unexpected

 

クリスマスイブの日からこちら、ほとんど睡眠も取れていない銭形警部だったがその目は生き生きとしていた。

 おそらく世界一速くて高価な車。

出版会の大物アダム・タウラー氏のブガッティ・ヴェイロンが、11日にトラファルガー広場でお披露目される。

それを頂戴しに参上、とまったく見飽きた文面の予告状をクリスマスイブの日によこしてきたのはルパン三世だった。

その知らせを受けた時、銭形警部はザーッと全身の血が思い切り元気よく駆け巡る音が聞こえたような気がした。

確かにこの化け物みたいな車そしてそれに装着されるダイヤやエメラルドがまばゆいばかりに散りばめられたアサンティのホイールは、いかにも奴が狙いそうな(というか、峰不二子が好みそうな)獲物だ。

しかし、ルパンの事だ。警部がスコットランドヤードに来ていて、そしてヴェイロンの警備にも関係していると知らないはずがない。

それを分かっていて臆面もなく予告状を出してくるとは。

なめたマネをしやがってという憤りの気持ちと、そしてまるでライバルの粋な挑戦を受けたようなやけに充実した気持ちと。

そんなフクザツな心持を抱えながら、しかし彼の頭は実際、ろくに休息も取っていないにかかわらずどんどん冴え渡ってゆくのだった。

四頭のブロンズのライオンに囲まれた、ネルソン提督の記念柱を中心に、ナショナルギャラリー、セント・マーティン教会、アドミラルティ・アーチ……周囲のあらゆる建物から、そしてテムズ川にかかる橋……。

このあたりの地図は完璧に頭に入っている。

ルパンの逃走経路をいく通りにも予測し、綿密な警備と封鎖の指示を出した。

 

なあ、ルパン、俺達ってのは……。

 

銭形警部は煙で空腹はごまかせないと知りつつも、煙草の煙を空に向かって吐き出した。

ルパンの行動形式、考え、価値観、美学……。

警部はそれらをまるで自分自身の考えのようにシミュレーションすることができる。

そしておそらく、ルパンも警部の行動やなんかを同じようになぞっていることだろう。

お互いの先の手を読み、さらにその先の手も読みの頭脳戦。

しかしそうやって互いが完璧な手を決めて来るのは、当然の前提のこと。

結局のところ勝負を決めるのは互いのほんの一瞬のミスであったり、予想外に発生する出来事であったりする。

そういうところのギリギリの勝負ができる人生ってのは、ルパン三世に出会わなければおそらくなかっただろう。それが望ましい事とは言わないが。

しかし、互いの仕事を完璧にキメたその先での、恐ろしく濃厚でピリピリと張り詰めたようなひとときの勝負。それはいつも銭形警部の全身を、その全細胞がざわつくように目覚めさせ、脳の働いてない部分などないように頭を澄み渡らせる。

この勝負はいつ、どのような形でキマるのか?

いや、キメることができるのか、この自分が。

心躍るなどというと語弊があるが、ルパンとの勝負の前というのは銭形警部は身も心も最高の状態になる。

 

タウラー氏のヴェイロンが搬入されてくるまであと1時間弱。

目立ちたがり屋の泥棒野郎の事だ。絶対にヴェイロンに乗って逃走するに違いない。

そして当然ヴェイロンは2シーターだから、少なくともあと二人の仲間はその逃走をサポートする役目を果たすはずだ。

さあ、どんなゲームになるか。

無線で警備の状態を再確認した。

煙草の火を消し、自分がやはりあまりに空腹であることも確認する。

何か食べるものでも、と思うが近くで何か入手できる期待はほとんど持てなさそうだった。

そう思いつつも周囲をきょろきょろ見渡すと、彼の目はナショナルギャラリーの正面の階段の柱のあたりで止まった。

無線機をポケットに入れると、思わず走った。

走った先には、ツイードのコートを着た女。

ベーグルサンドをほおばりながら目を丸くしたレナがいた。

「……びっくりした。どこにいるのかしらって思ってたとこだったの。よく私がわかったわね?」

「……俺の視力は2.5だ」

 警部は照れくさそうに言った。

「気にしないで。ヴェイロンを見に来たのよ。案内をもらってたし」

 レナはベーグルの屑をはらうと、笑って言った。周りには鳩が群がってくる。

 警部はクリスマスイブの日、その日付が変ろうとする頃、一度彼女に電話をした。

 

 仕事で行けそうにないが、年が明けたら必ずまた連絡をする。

 

 それだけ、ひとことを。

 彼女は、わかったわ気をつけて、と柔らかな言葉を返してきた。

 その声は彼の耳を通して脳を突き抜け、心の奥底に灯る火のように熱を持ち続けた。

「寝てないんでしょう?でも元気そうで安心したわ」

 レナは言うと、手に持った紙袋を彼に押し付けた。

 中を見るとベーグルサンドが二つ入っていた。

 警部はそれを左手に握り締め、クリスマスイブの日彼女の前でそうしたように思い切り背筋を伸ばし姿勢を正した。

「今日の仕事が終わったらまたすぐに連絡するが、今、あんたに言っておきたい事がある」

 大きく二回息を吸う。

「俺は今まであんたに車の運転を教えるために会っていたが、もうあんたに教える事はない。だからもうそういった口実はないのだが、それでも俺はまだあんたに会いたいと思ってる。構わないか?」

 腹筋に力を入れてひとことひとこと力強く発した。

 彼女はじっと目を大きく見開いて彼を見上げていた。

「……その……あんたみたいに若くてきれいな女に、俺のような男があつかましいかもしれんというのは十分わかっているんだが……」

 何度も心で繰り返したはずの言葉は、実際に発してみると妙に浮ついてそして自分に不似合いな気がして、彼は急に気恥ずかしくなってしまった。彼女のまっすぐな目を見ながらだとなおさらだ。

 一瞬うつむく彼の頬にひんやりとした、しかし柔らかいものが触れた。

 レナの手のひらだった。

 何かを言おうとする彼の唇を、暖かく柔らかいものが覆う。

 ふうわりとした熱と、かすかなオニオンベーグルの香り。

 銭形警部は手にした紙袋をばさりと落とす。

「……ほんとにヘンな人」

 唇を離すと彼女は耳元でささやいた。

「私がいい女だっていう事はちゃんとわかっているのに、どうして自分が魅力的だっていう事がわからないの?」

 レナは彼の髭の伸びかけた頬をそうっとさすると、落ちた紙袋を拾い上げもう一度彼に渡した。

「そうそう、この前は電話してくれてありがとう、嬉しかった。また、待ってるわ」

 言うと軽やかにナショナルギャラリーの階段を降りて行った。鳩の飛び交う中、一度振り返って笑って手を振った。

 警部はベーグルが潰れそうになるくらいに、紙袋を握り締めた。

 

 そう、勝負を決めるのは。

 お互いに起こる、予想外の出来事だったりするものだ。

ルパン、お前もよくわかっているだろう?

 さあ、いつでもかかってくるがいいさ。

 心の中でそうつぶやくと、警部は形の崩れたベーグルサンドを思い切りほおばり空を見上げた。

 

Fin