それは彼にとって、望ましくはないがよくある状況だった。

 街中でルパンの黄色いSSKと追いかけっこ。

 そしてことごとくパトカーをつぶされ、憎々しげに走行不能になった車から銭形警部は走り出た。

 奇しくも彼の目の前にオレンジ色のクーペが停まり、運転席から男が降りてきた。

 自分のこういうところがダメなのだ、無茶なのだ、とわかっていながらもついその男を突き飛ばし、運転席に乗り込んだ。

 

「ちょっと借りるぞ!」

 

 言ってギアを入れてアクセルをふかした。

 女の悲鳴が聞こえる。

 走りながら隣を見ると、スーツの美しい若い女が驚いた顔で警部を見ていた。

 男の連れが乗っていたのか。

 

「すまない、俺は国際警察の銭形警部という者だ。凶悪犯を追っている、しばしこの車をお借りしたい」

 

 ギアチェンジの合間に警察手帳を見せて言った。

 

「…お借りしたいって言ってもねえ、これ、私の車じゃないし!」

 

 女はしばらく驚いて黙っていたが、怒りに震えた声をしぼりだした。

 

「あなたのあのお連れさんの車ですかな、では後でぜひお詫びを」

「あなた何を見てたの?あそこ、ロータスの販売店のまん前よ?

私はロータスの店の営業。これは試乗車の最新のエキシージ!あの人はお客!

試乗させるときは責任もって営業が同乗するのよ、何かあった時のために。こんな『何か』があるなんて、思いもしなかったわ!今すぐ引き返して!!」

 

 怒鳴りまくる女を、銭形は慣れっこだというように落ち着いてちらちらと見る。

 

「…それは悪かった。しかし、あの車を逃すわけにもいかない」

 

 前方にちらりと見える黄色い車をさす。

 

「言っておくけどねえ、このエキシージは1tもない車重で250馬力近くある6速MTよ、そんじょそこらの車においつけないってどういうこと?」

 

 女は頭を抱えてため息をついた。

 

「是非あなたが一台買ってくれるなら、鬼ごっこに使ってもかまわないけれど、いかが?このモデルから、エアコンだって、ドリンクホルダーだってついてるのよ」

 

 イライラしたように続ける。

 

「……値段はいくらなんだ?」

 

 少しは女が落ち着くかと、一応尋ねてみた。

 女は彼の姿を改めて上から下まで見てため息をついて、何も言わなかった。

 そして前方のどんどん姿が小さくなる黄色の車を見つめる。

 

「あれベンツのSSKだけど、当然ノーマルじゃないでしょ?ノーマルならいくらあなたの腕が悪くたって、最新のエキシージが追いつかないわけないわ。全長も少し長いし、エンジン乗せ替えてるわね、きっと」

 

 女はあきらめたようにシートに体を埋めてつぶやいた。

 

「さあ、もう追いつかないわよ。さっさと営業店に戻って。車を傷つけないうちに」

「そういうわけにいかん」

 

 警部はポケットから無線を出す。

 

「ルパンの車はそっちに向かっている、どうだ? 包囲できそうか? 俺は南から追い上げ続けているから、こっちはまかせておけ」

 

 やり取りをする彼を女は呆れた顔で見て、体を起こす。

 

「ちょっと、まかせておけって、まだ走る気?」

「すまん、あと少しなんだ、もう少し追わせてくれ!」

 

 女はぶるぶると美しい唇をふるわせて、ドリンクホルダーのペットボトルを取って、一口水を飲む。

 

「思い切りあなたにぶっかけたい気持ちで一杯だけど、会社の試乗車だからやめておくわ」

 

「すまない。包囲がすんでどこかで部下と合流できたら、お帰り願うことができるが」

 

「バカ言わないで! 私はマニュアル車なんか運転できないのよ! ちゃんとあなたが運転して会社まで送り届けて頂戴!」

 

 女は叫ぶ。

 警部は思わず女をじっと見た。

 

「あんた……ロータスの営業なんだろう?」

 

「営業でも、車に詳しくても、運転が上手いとは限らないでしょ! オートマチックしか運転したことないのよ! 悪い!?」

 

 女はイライラしたように言った。

 

 

 

 警部は無線のやりとりをしながら車を走らせる。

 あたりはすっかり暗くなっていた。

 女はすっかり諦めた顔で助手席で黙っている。

 

「その……なんだ……」

 

 銭形警部は申し訳なさそうな声で彼女に声をかける。

 

「なあに?お相手は捕まった?」

「いや、空に逃げられたらしい。一旦ゲームオーバーだ」

 

 トーンの下がったがっくりとした声の彼に、女は肩をすくめた。

 

「お疲れさま。じゃあ帰りましょう。私の上司への弁明もよろしく」

「……それが、あんたも察しがついてると思うが……燃料が残り少なく、どうもここいらのスタンドはもう閉まっているようだ」

 

 女は空になったペットボトルを助手席の床に投げつけた。

 

 

 

 二人は郊外のモーテルにチェックインする。

 質素な部屋に入った。

 

「重ね重ねすまん。俺も金がないので、一部屋しか取れなかった。カードを使いたいのは山々だが、このような経費外の事も多く限度額一杯なんで、申し訳ない」

 

 言わなくて良いような事までつい説明をして謝罪する。

 

「……私も身分証明書以外全部会社だし……。ほんと、どうしようもない事ってあるのね。今日は今年に入って一番の厄日だわ」

「申し訳ない」

 

 警部は改めて深々と日本式にお辞儀をした。

 ちょっと驚いたように、女はそれを見る。

 

「……もういいわ。今までは帰らなきゃと思ってあせってたけど、もう明日スタンドが開くまで身動き取れないんだし、イライラしても仕方ないもの」

 

 女はふうっと息をつく。そんな様子をみて、警部も少しほっとした。

 

「飯でも食わないか?それくらいならなんとかなる」

「もちろん。のども渇いたし、お腹ぺこぺこよ」

 

 女は笑って言った。

 そういえば、初めて女の笑顔を見た。

 きつそうな美女だったが、意外に愛らしい笑顔をすると思った。

 

 

 

 簡単な食事をしながら、警部は今までどんなにルパン三世という犯罪者を追ってきたのかという話をし、そして女は今までどうやってロータスの車を売ってきたのか、という話なんかをした。

 なんでもない話だ。

 でも、そんな話を他人にして、そして他人の仕事の話なんかを聞くのも久しぶりのような気がした。

 そしてそういうのも、悪くはないと思った。

 

 

 

 部屋に戻って、シャワーを浴びる。まったく疲れた一日だ。

 先にシャワーを済ませていた女はベッドで地図を見ながら、なにやら手帳に書き込んでいた。肩にかけたジャケットの下はキャミソールで、ついどきりとする。

 

「……何を書いているんだ?」

「せっかくの長距離試乗だから、燃費計算とか、回転数とスピードとかサスペンションの感じとかのインプレッション」

「……そんなに仕事熱心なら、マニュアル車の運転の練習でもしたらどうなんだ?」

「うるさいわねえ。いい女はいい車の助手席で良いの。それが私のポリシー」

 

 女は地図と手帳をジャケットのポケットにしまって、ベッドにもぐりこんだ。

 銭形警部はペットボトルの水を飲んでそれをサイドテーブルに置く。

 床に毛布を敷いて包まろうとする。

 女はばっと体を起こした。

 

「あなた、そこで寝るの?」

 

「……ああ、この部屋はソファもないしな。それとも車で寝ていた方がいいか?」

 

「このベッドで寝ればいいじゃない。一言ことわれば、他人の会社の試乗車に勝手に乗り込んで来てガス欠まで走る事よりは失礼じゃないわ」

 

 女はおかしそう彼を見る。

 銭形警部は驚いた顔で彼女とベッドを見比べた。

 

「エキシージのサスペンションは固めだし、あんな長距離運転したら疲れたでしょう?明日も一人で運転してもらわないといけないし、ゆっくり休めば?」

 

 警部は少し考えて、きまり悪そうに女の隣に滑り込んだ。

 かすかに触れた女の脚は暖かい。

 女は彼を見て、くっくっとおかしそうに笑う。

 

「…何だ?何か、変か?」

 

 警部は気まずそうに少し体を起こして言う。

 

「いいえ、ゆっくりしていて。ただね、男の人って、みんなそう?

大義名分があれば、あんなに強引に何でもできるのに、それがなくなったとたん、どうしてそんなにシュンとしてるのかしらって、思ったの。本当は疲れきっててベッドでゆっくり休みたいくせに、それも言い出せないくらい」

 

 相変わらず妙に愛らしい笑顔で、そのむきだしの細い肩を揺らしながらおかしそうに彼を見る。

 

「いや、俺は別に床で寝るなんてなんでもないし、今日くらいの事で疲れたなぞ……」

 

「車を貸せっていうのは言えるのに、ベッドで寝かせろは言えないのね、ナイーブな人」

 

 女はまるで一日の仕返しをするように、ゆっくりと言って、ベッドにもぐりこんだ。

 触れていなくても、なんだか彼女の柔らかい熱が伝わってくる。

 彼女の言葉が頭で何度かぐるぐる回り、ちらちらと彼女の髪が揺れるのを見た。

 そして何度かため息をついていると、いつのまにか眠りに落ちる。

 

 

 

 翌朝目覚めると、すでに隣に女はいなかった。

 窓の外から、エキシージのエンジン音が聞こえる。

 そうっと覗くと、エキシージがガレージから出ていた。

 そして、ニュートラルから半クラッチへの頼りない音。ドドッとエンジンが止まる。何度か繰り返し、やっとつながったと思ったら今度はノッキングの音をさせて、またエンスト。

 運転席からはイライラしたような女が出てきて、バーンと乱暴にドアを閉めた。

 銭形警部は笑い出しそうなのをこらえ、あわてて窓から離れる。

 急いで身支度をした。

 階下に下りると、彼は何も言わず運転席に乗る。

「さて、帰るか」

 女は助手席で機嫌悪そうに黙っていた。

 

 

 

 先行きの分からない昨日に比べると、帰り道は早い。

 昼にはなんとか戻れそうだった。

 

「……ねえ、朝、見てたでしょ」

「ああん?」

「私が運転練習してたの」

「……ああ、ちょっとな」

 

 言って、ついおかしそうに笑う。

 

「どうも、ダメなのよね。うまくいかない。エンストなんかすると、かっこわるいし、あせってしまうの。だから余計に練習するのもイヤになって」

 

 女はつぶやいて、運転席を見た。

 

「ま、私もあなたと同じね。かっこ悪いことして、恥をかいて、傷つくのが嫌なのね」

「……」

 

 銭形警部は思わずじっと彼女を見る。

 傷つく? 

 自分が傷つく、なんて事、あらためて考えた事があったろうか。

 そんなことを考えることはとうの昔に、やめていた。

 本当は女の言うことはわかっていた。

 大義名分もなしに、女の隣にちょっといいか?なんていう一言で、それで断られる時の事を考えたら、最初から言わなくていい。

 ルパン逮捕以外では、すべてにおいてそんなやり方でやってきて、別になんとも思っていない。

 しかしそれをいまさら、こんな年若い女に「ナイーブね」なんて言われた日にゃ、まったく落ち着かない。

 もうすぐロータスの店に到着する。

 銭形警部のすっきりしないような落ち着かない気持ちは変わらずだ。

 この車、この女とおさらばしたら、すっきりするのだろうか。

 

 

 

 営業店の駐車場に車を入れた。

 

「お疲れ様、車も傷つかなかったし、ほっとしたわ」

 

 女は本当にほっとしたように言って、シートベルトを外した。

 

「……なあ、あんた」

 

 銭形警部は自分のシートベルトを外す前に言った。

 

「なあに?」

 

「俺が、あんたに、マニュアル車の運転を教えてやろうか? あんたのエンストっぷりは十分見た。いまさら恥ずかしい事もあるまい」

 

 女は目を丸くして、じっと彼を見る。

 さて、彼女はどう答えるのだろう。

 そして自分はどんな気持ちになるのだろうか。

 女は外したシートベルトをもう一度閉めた。

 

「上司に見つかる前にもう一度車を出して。どうせなら、この最新のエキシージで練習したいわ」

 

 銭形は思わず笑いながら車を出す。

 

「言っておくけど、私は短気で打たれ弱いのよ。途中で音を上げたりしないでね」

 

「ああ、昨夜話したように、俺は粘り強い男だから大丈夫だ」

 

 エキシージの、すっかりあたりのついた滑らかなエンジン音は今度は南の方へと、小さくなっていった。

 

Fin