銭形警部は彼のあわただしい仕事の合間、数日のオフが入るとに電話をするのが習慣になってしまっていた。
ひょんなことで知り合った、ロータスの営業の女。
彼女の番号を発信する時は、毎回戸惑う。
まったく自分は何をやってるのだろう。
セルラーのボタンを押し、呼び出し音を聞く。
数回の呼び出しの後、聞きなれた声がした。
「ああ、俺だ。最近調子はどうだ?」
「……久しぶり!」
変わりのない声にほっとする。
「調子はどうって、すごい事があったのよ、びっくりしないでよ! 警部さんこそどう?元気にやってるの? 例の彼を捕まえることはできたの?」
楽しげにまくしたてる。
「俺はまあ、元気だが、奴は……捕まってない」
つい機嫌悪そうに言う。
「そうだ……びっくりするなって……何かあったのか?」
いつも彼女に会うのは、かなり間が開く。
彼女に電話するたびになんとなく戸惑うのは、若い娘の、その間の生活の変化を考えてだ。
そもそも彼とは、特別な仲ではない。
彼の時間の空いている時に、車の運転を教えるというだけのことだ。
ロータスの花形営業をやっているくせに、マニュアル車の運転がからきしダメな彼女に。
言い出したのは彼だ。
そのちょっとした逢瀬は、銭形警部にとって意外に気分転換となったし、思いのほか彼女も楽しそうに練習していたと思う。
しかしそんなちょっとしたやりとりが、いつまでも彼女に必要なわけがない。
恋人なんかができれば、彼女の休日も忙しくなる。
車の運転ができるようになれば、もう彼は必要ない。
そんな考えが、いつも電話をする前に頭をよぎった。
だから何というわけではないのだが。
「私ね、車を買ったのよ。勿論マニュアル車」
電話口の彼女は嬉しそうに言った。
「ほうほう、それはすごいじゃないか。もう遠出はしたのか?」
つられて彼も明るい声で尋ねる。
「まだよ。先週手続きすんだばかり。……車、見たい?」
「ああ、そりゃあ勿論。あんたの運転もな」
「……いつ時間あるの?」
「あるから電話している」
「……明日は土曜日だけど、大丈夫?」
「ああ、いつものところに行ったらいいか?」
「ええ、ありがとう。いいの? いつもいつも、たまのお休みに」
「何もすることがないと言ってるだろう。じゃあな」
ついついそっけなく言って、電話を切った。
新しい車か。
わくわくするような、それでいて妙に落ち着かない、複雑な気分だった。
運転できるようになって、車を買って。
卒業って奴か?
いつもの待ち合わせ場所で警部はベンチに座って女を待つ。
目の前に、白いオープンの2シーターが停まった。
運転席には笑顔の。
太陽の光を受けたその明るい茶色の髪に同じ色の瞳。
相変わらず美しくて、毎回会うたびにどきりとする。
薄い光沢のある青のワンピースが、粋なオフホワイトの車に良く似合っていた。
「そこのあなた。乗っていかない?」
いたずらっぽく笑ってサングラスを外す。
警部はくっと笑って助手席に乗り込んだ。
「いい車を買ったじゃないか」
「展示のエリーゼを安く買うことができたの。警部さんと最初に運転の練習をした車のオープン版よ。この色、素敵ってずっと思ってたから」
嬉しそうに笑った。
初めて会った日の彼女は当然ながら怒ってばかりで、最初に彼女の笑顔を見たときはそのまぶしさに驚いたものだった。
彼女の楽しそうな明るい笑顔は、本当に彼をほっとさせる。
「ねえ、どこに行く?」
「おまかせするさ、オーナーに」
「ちゃんと運転みててね、先生」
はギアを入れてゆっくり発進させた。
エキシージの時のようにエンストはせず、そっと動き出す。
高速道路に入って、海の方へ走った。
「やっぱりオープンカーは、海よね?」
すっかり安定した運転で海まで走ってきたは、車を止めて嬉しそうに海を眺める。
海岸線の道路はずっと素晴らしい景色が続いていたが、警部は楽しそうに車を走らせるを見ているほうが楽しかった。
そんなこんなで生返事ばかり。
「無理やり連れてきちゃって、つまらない?」
少し心配そうに彼女は尋ねる。
「まさか。こんなとこに来るなんざ久しぶりだからな、ゆっくりできて楽しいさ」
「よかった」
しばらく二人で砂浜を歩いた。
いつものように、彼が今回はどんな仕事をしてきたのかなんて事を話した。
彼女は警部とルパンのおいかけっこの話を、本当に楽しそうに聞く。
「帰ったら丁度夕方ね」
「ああ、いい時間に来たな」
二人は車に乗り込んで、やって来た道を戻る。
「食事、どうする?何が食べたい?」
いつも彼女と会って運転のトレーニングを終えると、お礼にとあちこちで食事をご馳走してくれた。いいというのに、聞かない。そういうところが妙に律儀な女だった。
「また何かお勧めの店でもあるのか?」
警部が尋ねると彼女は少し間をおいて、ちらりと彼を見た。
「そうね、お勧めの店もあるし……それか、たまには私の手料理でも召し上がる?」
言ってまた前を見て運転を続けた。
警部は驚いた顔で運転席の彼女を見る。
「……気が進まないなら、いいのよ」
「ええ?手料理?ああ、その、是非それをいただこうかな」
彼はなんだかあわててしまって、妙な反応しか返せない。
言った言葉のまったく無粋な感じを振り返って、やけに恥ずかしくなった。
町に戻って、そして初めてのマンションへ行った。
地下の駐車場に車を入れる。
警部はなんだか緊張した面持ちでエレベータに乗った。
そんな彼をはちらちらと見る。
「……どうしてそんなに緊張した感じなの? 他人の部屋に入るのはあまり好きじゃない?」
少し心配そうに彼女は言った。
「……いや、別に。仕事以外で女……女性の部屋に招かれるなんざ、久しぶりだと思ってな」
彼が思っている事をそのまま言うと、はくすっと笑う。
「やあね、そんなに緊張しないで。初めて会った時だって、一緒の部屋に泊まったじゃないの」
当時の事を思い出したように笑う。
警部もつい思い出して、きまりの悪い気分になった。
彼女の部屋で上着を脱いでテーブルに座っていると、手際よく料理が運ばれてきた。
準備をしていてくれたのだろう。
「私が、無事に運転できるようになって車も持てるようになったお祝い」
かしこまって、彼にVEUVE CLICQUOTのボトルを差し出した。
二人顔を見合わせながら、ポンッという景気の良い音。
フルートグラスに泡が踊る。
ワインソースのかかった柔らかい肉をほおばりながら、その金色の液体を二人で口にしていった。
警部がこんなにゆっくりと食事をとるのはいつも彼女と会うときくらいだったし、そして今回彼女が作ってくれた料理はとても味わい深く美味しかった。
ゆっくり流れる時間と、食事、シャンパン、そして部屋に漂う彼女の甘い香りと温度が、彼の体に染み渡る。
豊かな食事をすませ、コーヒーをいただく。
ああ。
本格的に、彼女は「卒業」なのだな、と改めて考えた。
約1年くらいだろうか。
なんだかんだ楽しい時間を過ごさせてもらったと、キッチンで後片付けをする彼女を見ながらしみじみと思う。
あの白いエリーゼで、彼女はこれから誰とでもどこにでも行ける。
楽しい人生を歩めるだろう。
初めて会った時には肩より少し長いくらいだった美しい髪が、そういえば今では腰のあたりまで伸びていた事に、ふっと気づいた。
「ねえ、警部さん、ちょっとゲームをやってみない?」
コーヒーを飲みながらは言う。
「ゲーム?」
「そう、テレビゲームよ。最近友達にもらったんだけど、結構面白いの」
言って彼女はテレビのスイッチを入れ、彼にコントローラを渡した。
カーレースのゲームだった。
こういうものがあるのは知っていたが、実際にやるのは初めてで、結構面白い。
「おい、それはないんじゃないか!」
「ないことないってば、ぶつけたっていいんだから!」
二人は夢中になって、対戦レースをする。
いつものように揉めたり、けんかをしそうになりながら。
「ふう、あんたゲームのほうが上手いんじゃないか?」
「だって、暇な時には一人でずっとやってたんだもの」
は笑いながら満足そうにコントローラーを置いた。
「恋人でも呼んでやればいい」
「……残念ながらいないわって、前も言ったじゃない」
そういえば彼女の別れた男についての愚痴を、助手席で聞いたことがあったような気がする。
「あの車があればすぐにできるさ」
警部は上着を手にした。
「……遅くまでお邪魔した。俺はそろそろ……失礼する」
「……何時? もう、バスも電車もないんじゃない?」
「ああ……本当だな。つい夢中になってしまった」
時計を見てつぶやく。
「送ってあげたいけれど、シャンパンを飲んでしまったわ」
「飲酒運転はいかん」
はじっと、上着を手にした警部を見た。
「明日も休みなら、泊まって行けば? 私の部屋はあの時泊まったモーテルよりは広いわ」
警部は困ったような戸惑ったような顔をする。
は彼の返事を待たずに立ち上がった。
「確かにもう遅いわね。 私はシャワーを浴びてくるわ」
すっとバスルームに歩いて行く。
決まり悪そうな顔をした警部が、テレビの前に取り残された。
結局シャワーを借りた警部は、その短い髪を拭きながらリビングをうろうろしていた。
はコーヒーやなんかを片付けている。
薄いグレーのナイトウェアからはその細い白い肩がのぞいていて、つい彼は目をそらす。
「ええと、俺はここで寝てもいいか」
タオルを肩にかけて、ソファの背に手をやった。
はキッチンで濡れた手をタオルでふきながら彼の方を見て、そして目の前にやってくる。。
「私の家は客間はないんだけど、あなたの好きなところで寝て構わないわ」
「……じゃあ、あの、お言葉に甘えてここで寝かせてもらう」
警部はソファに腰掛けようとする。
「……好きなところで、って言ったのよ。」
彼女は一歩彼の前に近づいて、きっと彼を見上げた。
「選択肢は、ソファ、床、私のベッド、と大体三つあって、多分一番寝心地が良いのは私のベッドだと思うわ。それでもソファがいいなら、お好きに」
は警部の顔を見上げたままはっきりとした声で言って、そして背を向けて自分の寝室に入っていった。
警部は目でそれを追う。
寝室の、開いたドアから、彼女がベッドにもぐりこむのが見えた。
リビングのソファを振り返る。
しばらく考えこむ。
初めて会って、そして一緒のベッドに寝た時ことを思い出した。
そして、彼女に言われたことを。
そういえば、彼女に運転を教えようと言い出したのは彼だ。
どうしてそんな事を言い出したのか?
突然にそのときの自分の気持ちが甦る。
そうっと寝室のドアをノックする。
ベッドから半身起こしたままのはじっと彼を見ていた。
「……好きなところで寝かせてもらうことにした」
言ってからまた少しおいて、大きく息を吸って、ベッドに近づいた。
初めて会った時のように、彼女の隣にすべりこむ。
暖かい足があった。
あの時こうやって隣に入った瞬間彼女の足に触れて、あわててひっこめたんだった。今回はじっとそのまま。
じっとを見ながら、彼女がやっているように枕に背中をあずけゆったりと座った。
何なんだろうな。
どうしていいか、わからない。
女の自室に食事に招かれて、泊まる事になって、ひとつのベッドに入って。
もし彼の同僚や部下からそんな話を聞いたとしたら、そりゃやる事ァ決まってる、と鼻で笑うだろう。
なのに自分が当事者だと、どうしてこうも戸惑ってしまうのだろう。
思春期のガキでもあるまいに。
柔らかな羽毛の布団は、ゆっくりと彼女の体温を伝えてくる。
じっと彼を見つめていたはふと目を伏せた。
「……ごめんなさい、困らせてしまった? 気に、しなくていいのよ」
はもう一度彼を見て笑って、布団を肩まで引き上げて体を縮こめる。
警部は彼女のしぐさをじっと見る。
手を伸ばして、彼女の長く伸びた髪に触れた。
その一房を手に取る。
は驚いたように彼を見た。
手に取った髪に、そっと唇を寄せた。
甘い彼女の香り、柔らかな髪。
目を閉じて、目の前にいる彼女の事を考えた。
彼女と過ごしている時の事、彼女との逢瀬を思っている時の事。
彼女と会えなくなったら、どうなのだろう。
そうだった。
彼女とまだ話がしたい。
そう思ったから彼は「運転を教える」なんて、言い出したのだ。
そんな彼の願いはかなえられた。
でも今、彼女と会う「口実」は消えつつある。
どうする?
もうこれで十分なのか?
今まで彼女と過ごした、決して長くはないけれど、心に残る時間。
が怒り出したり、一生懸命だったり、彼の話を楽しそうに聞いてくれたり、うまく運転ができてうれしそうにしていたり。
そんな様子を思い出す。
どうして自分が傷つくことばかり恐れているんだろう。
初めて会った日に彼女が言ったことを思い出す。
の髪に触れながらいろんな事を考えた。
一体全体いつのまに、自分はこの女に、こう気持ちを引っ張られていたんだろうか。
顔を上げて、あらためてを見た。
彼よりもはるかに歳若い、美しい女。
時々気が強くて、それでも愛らしく笑う女。
警部は大きく深呼吸をして彼女の髪から手を離し、そして彼女の腰と肩を抱きしめた。
その柔らかな体の感触と熱は、彼の頭の芯を蕩かしそうだった。
もしこのまま失ってしまうのだとしても。
腰抜けのように逃げて帰るのだけはよそう。
欲しいものを欲しいと言う事。
彼女から教わった一番大事な事だ。
彼の厚い胸の中で、が少し震えているのに気づいた。
はっとして彼は腕をゆるめる。
覗き込むと、まるで泣きそうな困ったような顔。
「す……すまん、やっぱり嫌だったか……?」
あわてて手を離して小声で言う。
「……ほんとに、どうしようもない人!」
は言って彼の胸をこぶしでたたく。
「どうしてそんなふうなの? 嫌だったら、部屋に呼んだりしないわ。私の精一杯だったのよ」
泣きそうな顔で言って、言ってから、くすっと笑う。
「……私だって、こわいの。あなたは大人だから、私の事なんてさらりとかわしてしまうのかしらって」
警部は彼女のほほに触れた。
何て言ったらいいのかわからない。
何度も何度もそのほほに触れ、髪をなでた。
そして、やわらかそうな唇をそっと指でなぞる。
は長いまつげを伏せた。
警部は、ゆっくりとそこに自分の顔を寄せていく。
その時。
けたたましく警部の電話が鳴り響いた。
びくりと体を離して、ジャケットのポケットの電話を取った。
「す……すまん」
顔を赤くして、通話ボタンを押す。
「ああ、俺だ」
何事もなかったように電話に出た。
「何!? 今か!? 場所は!? わかった、すぐ行く!」
警部は飛び上がらんばかりに声を張り上げて、そして電話を切った。
はっとを見て、また顔を赤くした。
「その……キングスストリートで、ルパンが日本人の怪盗と追いかけっこをしてるらしい。行かにゃならん」
頭の中はルパン逮捕モードにに切り替わったものの、彼の腕にはまだ彼女の柔らかな感触と熱が残っていて、そしてその先に味わうであろうと想像したことが生々しくて、妙に混乱する。
はあきれたように彼を見ていたが、やがてくっくっと笑い出す。
「わかってるわ。いつもあなたが楽しそうに話してくれる彼の事でしょう?」
言ってするりとベッドから立ち上がった。
タクシーを呼んだ後、身支度をした警部をは玄関先まで見送る。
「……今日こそは必ず奴を捕まえて、すぐに連絡する」
「だめよ」
背を向けてドアを開けようとする警部に、はぴしゃりと言った。彼は驚いて振り返る。
「逃げられてしまってたとしても、ちゃんと連絡してちょうだい。私、彼の話をしてくれる時のあなたがとても好きなのよ」
まじめな顔をして言う彼女を、警部は嬉しそうな悔しそうな複雑な心持ちでじっと見た。
「必ず逮捕する!奴の話は今回でおしまいだ!クソ!」
怒鳴ると同時にほんの数秒彼女を抱きしめて、玄関から走り出た。
ルパンめ、ルパンめ!
fin