回収したSSKをジープ牽引しながら、なんとか南浩一郎の自宅のある場所まで戻った。
つまりは今回の仕事の振り出し地点だ。
ルパンの計画は、まず南の自室に侵入する事から始まる。
彼は年齢なりの、そしてやりたい放題の生活ぶりを反映して、かなりの糖尿病を患っている。そしてその検査とケアのために、定期的に医師と看護師が夜に彼を訪れているのだ。 次元とがそれになりかわって侵入するのは、存外簡単な事だった。
次元は医師に変装し、同じく看護師の扮装をしたをひきつれて南邸に堂々と入る。金庫内には見事な潜入ぶりを果たしただが、いかんせんこういう事には慣れていない。若干緊張した面もちだった。
二人で屋敷内を歩きながら、ふとが足を止める。
「おい、何をやっている?」
次元が小声せっつくが、彼女は廊下の肖像画に見入っていた。
次元もつい目を奪われる。
それはによく似た、振り袖を着た娘の絵だった。
聞かなくても分かる。の母親だろう。
「……よっぽど惚れてたんだなァ。」
次元はつぶやいた。
しばし歩を止めた後、二人は南の自室に向かう。
部屋のソファでは、南浩一郎がイライラした様で控えていた。
「また、採血か。どうせ治るわけでもないのに。」
「糖尿病は悪化させない事がなによりですから。」
次元は手早く道具を出して、彼の腕から採血をした。
は、糖尿病によって大きく変形した南の足の爪のケアを始めた。
「まったく何もかもが思い通りにならん。足の爪はまったくわけのわからん事になるし、持ち物どころか、体ひとつ思い通りにならん!」
声を荒げた。
「まあまあ、イライラするのは血圧にもよくないですよ」
次元は言って、採血の道具を片付けた。
「わしのような男に、イライラするなというのが無理な話だ」
南は目を閉じて、ソファに体をもたれかけた。
次元が、「今だ」というようににめくばせをする。
はそっと立ち上がって、彼の鎖骨の下あたりをすっと突いた。
彼はそのまま動かない。呼吸は穏やかだ。
しばらく様子を見て、次元は白衣を脱いだ。
「いいぜ、ルパン」
ソファの影からルパンが出てきた。
「よっしゃ、はじめましょか」
以下は、南浩一郎が見たという夢の内容である。
南浩一郎はほんのりとした白檀の香りに気付いた。
はっとする。
なんだろう。この香りは、彼の気持ちをかき乱す。
そうだ、烏丸モクレンがよく焚いていた香だ。
「モクレン?」
思わず体を起こす。そしてそこにまた別の香りがあるのに気付いた。
今度は、ぐっと心の奥底にもやもやとした感情がわき出るのを感じた。
そうだった。
この白檀の香りがすれば、この香りもするのだった。
武具に塗る油や、陶器の釉薬、土の匂い。
そんなものがいりまじった、竜雪のまとう匂いだ。
「竜雪もいるのか?」
思わず声を出して立ち上がる。
白檀の香りが強くなった。
香りのする方に浩一郎は目をこらす。白い顔がだんだんはっきりしてきた。
薄い明るい色の染め小紋。見覚えがある。
白い肌に、大きな目、ふっくらした唇が、見えた。
まちがいない。烏丸モクレンだ。
「モクレン!」
思わず叫ぶ。
自分が愛した女だった。
手を触れようとすると、彼女の手に観音像があることにはっとする。
「モクレン、なぜそれを……」
「浩一郎さん、だって、これは私の大切なものよ……」
彼女は静かに言った。その声は部屋に響き渡る。
ふと気付くと、となりに男が見えた。
目を凝らさなくてもわかる。竜雪だ。
憎々しげにそっちを見る。
浩一郎は昔から竜雪が嫌いだった。
大人しく財産があるわけでもないが、なぜだか人望もあり、モクレンも手に入れたこの男が。
「竜雪か……何をしに来た!」
大柄でがっしりした体型の彼は深い瞳で浩一郎を見た。
「これは私たちの観音像だ。」
竜雪も手に観音像を持っている。
浩一郎はぞくりとした。
「……うるさい!お前達はもう死んだんだ!もう観音像などいらないだろうが!」
「そうだ、私たちにはもう必要はない。が、今は、のものだ」
竜雪が一歩近づく。
思わずびくりと後ずさった。竜雪とは何度もやりあっては、あの厄介な技で気絶させられたり散々な目にあったからだ。
「今、やっとこうやってのもとで二体揃って、私たちは一緒になることができた。今はもうお前をどうする気もない。だが、今度我々がの手からばらばらになる事があれば、私は誰であっても許さないだろう」
「ま、待て、竜雪……。家から奪ったのは俺だが、二体をばらばらにしたのは、ルパンという盗賊で……」
「の手元にあればそのような事もなかっただろう」
竜雪の低い声がひびきわたる。
浩一郎はどきりとした。昔からそうだった。必ずやるのだ。
若い頃のいろんな苦い思い出がよみがえる。
何でも思い通りにやってきた自分だが、竜雪がからむといつも何かがひっかかった。
これは夢なんだとわかっていても、なんともいやな気分が甦る。
はやく醒めたい、と頭をかかえた。
しかし、白檀の香りはなかなか彼の周りから消えない。
「浩一郎さん。」
モクレンの声がする。
「あなたが、私の成人式の時の肖像画を大切にしてくれているのは知っているわ……。ありがとう……。でも観音像だけは、に……」
ふうっと周りの視界が暗くなるのを感じた。
「モクレン!」
叫ぶが、声にになっていないのがわかる。
やられた。竜雪に、またやられた。久しぶりだが、この感覚は忘れられない。
意識が遠のく。
南浩一郎がはっと飛び起きると、そこは自分の寝室でもう朝だった。
部屋を見渡すが、何も異常はないし、芳香剤のたぐいが嫌いな彼の自室には何の香りもなかった。
まったく嫌な夢だった、と息をつく。立ち上がってふと鏡を見た。
自分の左の鎖骨のあたりに目を奪われる。うすく赤くなっている部分があった。
どきりとした。昔、竜雪にやられたと同じ痕だ。
あわてて部屋に使用人を呼んだ。
「ゆうべ、わしはどうしていた?」
使用人は不思議そうに言う。
「いつもの先生の検査が終わった後、足のケアを終えられて気分が良いので、とそのままゆっくりお休みになられましたよ?」
「その後誰も来なかったか?」
「はい、来客もなくお電話もなく、ぐっすりお休みになっておいでのようでした。特に警備からも何も異変は聞いていません。」
「……そうか……」
南は使用人を下がらせ、ベッドに腰掛けた。
電話を取る。
「わしだ……。……観音像との捜索は一旦中止しろ。……いや、わしも体調がすぐれなくてな、そんな事にばかり関わってはおれなくなった。……とりあえず、一旦引き上げる……」
受話器を置いて、ため息をついた。
「くそ……。竜雪など……なんとも思ってはおらん……。モクレンにあんな顔をされてはな……」
あいかわらずのイライラした顔で頭を抱えた。
南邸から程なく離れたところから、彼の部屋の様子を盗聴器と望遠レンズで伺っていたルパンは大笑いする。
「ほらな、悪ガキにゃあ、悪ガキなりのお灸があるって言っただろう?」
南の部屋での出来事は勿論、に用意させた小道具を使ってルパンが演出したものだった。
は目を丸くしてルパンの様子と、南邸を交互に眺めていた。
「たまにはこういうやり方も良いんでないの?え?」
ルパンはご機嫌そうにに言った。
はくっくっと笑う。
「……おかしな人。私……観音像を取り返そうと思った時……場合によっては、南浩一郎と差し違えるのかもって……思っていました。でも、あなたはこんな風に物事を収めるのね。」
穏やかな表情でルパンをじっと見た。
「男ってなあ、いろいろあるもんさ。あいつは、間違いなくどうしようもない狸親父だけど、君の母親に惚れてたってぇ気持ちは本物だ。俺たちだって、どうしようもない泥棒野郎だけど、可愛い女の子が困ってたら助けてみようって事もあるってわけよ。」
ルパンは盗聴器や望遠鏡を片付けながら言った。
「てなわけで、ちゃん。生真面目もいいけどたまには肩の力をぬいて生きる事もおすすめするぜ。ま、俺みたいに抜けっぱなしってのもどうかって思うがな。」
言ってまたルパンは肩を揺らせて笑った。
「……そうね、そんなふうなこと今まで何度も言われた事はあるのだけど……あなたに言われると……なんだかわかったような気がする。」
言っては、南邸の方から3人の方に向き直った。
染め小紋に明るい色の帯がよく似合っていた。
「本当にありがとう。想念様や光明様にも、あなた方の事、よく伝えておきます。」
「ああ、俺たちゃぁ、紳士的だったって言っといてくれよ。そうそう、肝心のものを忘れんな」
ルパンは五右衛門にくいっと目をやる。
五右衛門は二体の観音像をに差し出した。
「美しい観音像で名残惜しいが、二体揃って殿の元にあれば、本望であろう。」
は二体を手にとってそれを、ぎゅっと胸に抱いた。
ルパンと五右衛門がSSKを修理に持って行っている間、次元は例のジープでを想念のいる寺まで送った。
の報告を聞いて安心した老僧の顔をみると、次元もやっと肩の荷が降りた気がした。
まったく成り行きとはいえ、面倒な仕事だった。しかも、一文の得にもなりゃしねえ。
心で悪態をついてみる。
「じゃあ、俺は行くぜ。ここからだったら帰れるだろう?」
初めて彼女に会った境内の木の下で、次元は言った。
「ええ、ありがとう。」
は石段を下りたところで立ち止まって彼を見送る。
「じゃあな。」
次元は言って背を向けた。車にむかって歩き出す。
自分が砂利石をふむ音が静かな境内に響き渡る。
その音を遮るように、背後からの声がした。
「待って、次元……。……次元……大介」
小さな声だけれど、それは次元の歩を止めるのには十分だ。
彼女が次元の名を呼ぶのは初めてだった。
それは想像していたよりも甘い響きで、次元の胸にしみわたる。
どんな表情で自分の名を呼んだのだろうかと思いながらも、次元は振り返らないまま足を止めた。
「教えて欲しい事があるの」
か細い声が続いた。
いつものはきはきとした声と、少し違う。
「あなたは最高に嫌いな男よ。あなたがここで私にした最悪なこと、忘れられないわ。……最高に嫌いな男なのに、どうして……最高に信頼できて、一緒にいると安心してしまうのか、わからない。どうしたらいいの?」
次元は彼女の声を聞くと、うつむいて小さく叫ぶ。
「クソッ!」
いつかの月夜の時のように、思わず足下の石を蹴った。
石は欅の木に当たって勢い良く跳ね返る。
次元は振り返って、ずかずかとに近づいた。
はなぜだか、叱られた子供のような顔で次元を見ていた。
「まったくお前ぇはバカな女だな。もうちったぁ利口かと思ったぜ。」
彼を見上げるの髪に触れて乱暴に抱き寄せた。
表情を伺う事もせず迷わずくちづける。
彼女の体の感触は十分すぎるほど知っていたはずなのに、まるで初めて抱きしめるような気がする。
そして初めて触れたそのやわらかい唇はあたたかく彼を受け入れていた。
「……俺にそんなことを訊いたら、答えは決まってるだろうが」
次元は唇を離して、うつむくの頬にそっと手を触れた。
「お前はもう一度俺に抱かれて、俺に惚れちまやぁいいのさ」
は黙って彼の胸に額を押し付けていた。
彼の背中にしがみついていた時のように。
「教えてやったんだ、何か言ったらどうだ、え?」
次元はを抱きしめたまま耳元でささやいた。
「……バカ」
少し震えたような彼女の声は、泣いてるのか笑っているのか、よくわからない。
バカはそっちだろう、こんな男に捕まりやがって、と次元は言いかけてやめた。
に初めて会って触れた時から。
とらわれてしまったのは自分の方だと、よくわかっていたから。