いきなり起き上がった次元の頭は思い切りクラクラし、胃から食道にかけての焼けるようなむかつきに襲われた。
 目の前には緑色の空き缶の山と、ジャックダニエルの空瓶、泥酔した素っ頓狂な男。
 そしてマーマレード色の髪をした女。

「…次元、飲みすぎよ」

 はゴミ袋に空き缶をガシャガシャと捨てながら心配そうに彼を見て、一言。

「…そうだな、気持ち悪ィ…」

 次元もそれ以外の言葉を発する事はできず、そしてそのままソファに倒れ記憶が途絶えた。



調子っぱずれで耳障りな鼻歌で目を覚ました次元は、憂鬱な気分で目を開ける。
そうっと体を起こすと、BBがトランクス一丁にバスタオルを首にかけてうろうろしていた。
「よう、起きたか、男前」

 BBは鼻歌をやめて、次元を見た。
 次元は返事もしない。
 外を見ると日はすでに高い。
 ソファから体を起こして腰掛け、床に落ちていた帽子を拾い上げて頭にのせる。
 大きなため息をついて煙草をくわえた。
 火をつけて吸い込んだが、猛烈な吐き気に襲われすぐに灰皿に置く。

「シャワーでも浴びて来いや。朝っぱらから、酒くせぇぞ」

 次元はムッとしながらも極力彼の方を見ずにバスルームに向かった。

 熱いシャワーを浴びて水を飲み、いくぶんかすっきりした気分で居間に戻る。
 香ばしい匂いがした。

「飲んでばかりいないで、飯でも食おうぜ」

 BBはフライパンをふるって、卵と野菜を炒めていた。
 次元が何も言わずに水を飲みながらテーブルについていると、BBは彼の分のプレートも並べ、さっさと自分はぱくつき始める。
 次元も恐る恐るフォークでプレートの野菜をつつき、口にした。
 BBの料理の腕前に疑問を持っての事ではない(こういう、女にだらしなさそうなロクデナシは大抵料理が上手いと決まってる)。
 胃に食物を入れてから自分を襲うかもしれない吐き気を危惧しての事だった。
 しかしスッキリとした顔でガツガツと食べているBBを見ていると妙に腹が立ってきて、無理やりに口に押し込んだ。

「おい、飲みすぎで口がきけなくなったか?」

 BBは言いながら、気にする風もなくコーヒーを飲む。

「…お前ェ、なんでこんなとこにいるんだ?」

 次元はトーストをかじりながらつぶやいた。

「なんでって、忘れっぽい男だなァ。お前さんに伝言を頼んだんじゃなかったけか?今年の夏は必ずに会いに来るってな。第一、ここは昔俺も住んでた家だ。居ちゃ、おかしいか?」

「…」

 次元は何も言わずにトーストを置いて、コップに水を注いだ。

「一週間程前から来てるのさ。もうすぐが夏の休暇を取れるんで、一緒に旅行にでも行こうってな」

「それはそれは、何よりで」

 次元は言って、夕べのとの半年振りの会話を思い出す。
 夜通し車を飛ばしながら、顔を見たら何て言おうかと考えていた。
 特別な事を言おうとしていたわけじゃない。
 元気だったか、とか、久しぶりだな、とか。そんな程度の選択肢。

 しかし、ああいう選択肢はまったく自分の中にはなかったはずだ。

 一体自分は何をしにここまでやってきたんだろうか。
 太陽の光の浴びすぎで頭のイカレた男と二人、お互いパンツ一丁で向かい合って飯を食うためか?
 二日酔いの彼の頭でも、まずぜったいにそんな目的ではなかったということだけは断言できる。確実にできる。

 昼下がりまでダラダラすごしていたが、次元もBBもそれぞれ煙草を買いに出掛けるくらいでさしてする事もない。

 BBはそんな時間のすごし方には長けているのか、TVを観たり実にリラックスしてすごしていた。次元は所在無さげに煙草を吸ったり、新聞を読んだり。

「…ところで、アンタ」

 退屈そうにチャンネルをカチカチ変えるBBに、次元はつぶやいた。

「ああん?」

 BBは振り返りもせずに生返事をする。

「…20年近く顔を合わせていない娘に会った時ぁ、何て言ったんだ?」

 BBは振り返って、不思議そうに次元を見た。

「何って…『俺のベイビー、パパが帰ってきたぜ!』って言って抱きしめて、いろんな旅の土産話を聞かせたさ」

「…それで、あいつは?」

 次元はライターの火をつけたりけしたりしながら尋ねる。

「楽しそうに俺の話を聞いてくれたよ」

 BBは目を閉じて満足気に、にやけた顔をする。

「…」

 次元は黙って新聞を広げた。
 BBもまたTVのリモコンをいじり始める。
 と、その時、玄関のチャイムが鳴った。

「何だぁ?」

 BBがダルそうに体をおこす。

「出ろよ。アンタの家なんだろう」

 次元は新聞から顔を上げない。
 BBはかったるそうに玄関に向かった。
 ドアを開ける音と、そしてすぐさま大きな音をたててドアが閉まる音が聞こえてきた。
 眉間にしわをよせたBBが戻ってくる。
 ドアの向こうからは、いかにも腹を立てた女の声が聞こえた。

「…何事だ?」
 
 次元が顔を上げると、BBは真剣な顔で彼に向かう。

「ちょいと前までいたリゾート先でつきあってた女だ。…酔った勢いで、ダイヤをやるよなんて言いながら楽しく過ごしてたんだが…」

「…で、トンズラしてたところ、ここまで来られたってワケか?」

 次元は興味なさそうにまた新聞に顔を戻した。

「おい次元大介。お前、ちょっと上手いこと言って追い返してくれ」
「冗談じゃねェ、なんで俺がそんな面倒なコトを」
「…ここを上手く収めてくれたら、お前の髭に光ってたモノの事は墓場まで持っていくと誓うよ」
 BBは敬虔そうな顔で目を閉じて十字を切った。
「…ケッ」
 次元は新聞を床にたたきつけてから玄関に向かい、ドアを開けた。
 そしてすぐに先ほどのBBと同じように大きな音を立ててドアを閉め、居間に戻った。

「おお、仕事が早いな」

 嬉しそうな顔をしたBBの前に、次元は腹立たし気な顔で立ちはだかる。

「…あれは、俺が一昨日バーで拾った女だ」

 BBは目を丸くして芝居がかった表情で次元を見た。

「…俺とお前は、女の好みが似てると見た」

 おかしそうにおどけて見せる。

「うるせェ!」

 次元は思わず叫んだ。
 玄関の外の女の声は相変わらずだ。

「次元大介、お前も何かを踏み倒したのか?」

「まさか!俺は払うモン払って、やることやっただけだ」

「じゃあ、別にお前はあいつに恨まれてるわけじゃねェ。何とかしてくれ」

「自分で何とかしろ!いつまでもあそこで喚かせておく訳にもいかねェだろ」

 BBは肩をすくめる。



 そして数分後、居間のソファに二人並んだBBと次元の前に、ブルネットの女が座る。
 二人をジロジロと眺めた。フンと鼻を鳴らす。

「…見掛け倒しのアンタの方は、まァどうでもいいとして」

 女は次元を見て、フウッと煙草の煙を吐き出した。
 彼女の長い爪には今度は花柄の模様が入っている。

「BB、アンタはあれだけダイヤだのなんだの言ってて、いきなりドロンはどういう事?」

 煙草を灰皿でギュッともみ消しながら女はきつい目でBBを見た。

「いや、まァ、でも二人で楽しいラブアフェアを過ごせたじゃねぇか」

 BBはまた芝居がかった身振りで言う。
 女は立ち上がって一発、BBの横っ面に平手をくらわせた。
 BBは驚いたようだが、さしてあわてもしない。
 慣れてるんだろうなァなどと、半ば感心しながら次元は彼を見る。
 しかし一体なんだって自分はこんな場に、おとなしく座っていなければならないのだろう。

「ベイビー、俺が愛しくてここまで追ってきたのかい?」

 懲りずにBBは言った。

「バカ言わないで。夏の休暇で実家に帰ってきたのよ、今日!
 前から友達に、フィジーで会った腹の立つバカ男の話をしてたら、まさに特徴どおりの男を近所で見たっていうから、来てみたんじゃない。まさか本当にアンタだとは思わなかったけど!」

 女は鼻息を荒くしながらまくしたてる。
 一体どうやって場を収めるのか、次元には想像もつかなかった。
 しかし次元にとっても、一刻も早く彼女にお引取り願いたい事だけは確かだ。

 女が二本目の煙草に火をつけた時、外で車の音がした。
 のゴルフのディーゼルエンジンの音だ。
 二人の男はそろって飛び上がって、窓に向かった。

「…なんで今日はこんなに早いんだ?」

 次元は思わずつぶやく。
 彼女の仕事の帰りは早くて20時過ぎ。夜中になることなどしょっちゅうだ。

「そういえば、今日は国際免許の手続きに行くって言ってたからな…。仕事を早く切り上げてきたんだろう」

 さすがにあせった顔で言いながらBBは車庫入れをするゴルフを見つめた。

「それを早く言えよ、クソジジイ!」

 次元は思わずBBの襟元を締め上げそうになるのをこらえた。

「次元大介、お前は外に出てが家に入ってこないよう、時間稼ぎをしろ。どっかに連れ出せたら尚よし。その間に俺がなんとかする」

「時間稼ぎって、オイ!」

 言っている間にが車から出てくるのが見えた。
 それ以上言い合っている間はなく、次元は外に飛び出す。

 玄関に歩いてくるの前に飛び出してきた次元を、彼女は驚いた顔で見つめた。

「…どうしたの、次元?」

 そういえば、半年振りに会って、まだマトモに話もしていない事を次元は思い出した。

「いや、その…。お前ぇとゆっくり話がしたいと思ってな」

「そう。じゃあ、お茶でも入れるわね」

 ドアに向かおうとするの前に次元は立ちはだかる。

「…その辺のカフェにでも、行かねぇか?」

「いいけれど…、仕事の書類なんかを一度部屋にしまってくるわ。重要なデータだからあまり車の中とかには置いておきたくないの」

 次元は何も言わずドアの前からどかない。
 はけげんそうに彼を見上げる。

「どうしたの、次元」

「いや…、どう、したって訳じゃねぇ」

 落ち着きなく視線をそらす彼を、は困ったように見上げる。

「だいたい話って、なあに?家じゃできないような事なの?」

 じっと彼を見る、の目。
 夕べは泥酔していてぼんやりとした記憶しかない。
 半年振りにまじまじと見るは本当に美しくて、その目を見ていると頭の中で、クリスマスの日の鐘の音が甦った。
 次元はそっと彼女の髪に触れた。
 
 本当に。

 本当に自分はこの女に会いたかったのだな、と思った。
 のやわらかい髪の感触は、彼女の熱や何もかもを、彼にしみこませてくるような気がした。

「…話か…」

 次元は思わずつぶやく。

「実は俺も…わからねぇんだ。半年振りに会って、何て言っていいのやら」

 の髪に触れたままため息をついた。
 その手に、の指が触れる。
 少し冷たい、きれいに爪を切りそろえた細くて滑らかな指。
 そう、次元は彼女のこの指の感触がたまらなく好きだった。

「…私だって何て言ったらいいのかなんてわからないけれど…」

 は言って指先で触れていた次元の手をそうっと握り締める。

「…あなた、私を好きだから戻ってきたんでしょう?」

 くすっと笑いながら次元を見上げた。
 の目をじっと見て、そしてその頬に手を滑らせる。

 ああ、そうか。
 次元は目を閉じる。

 図らずも、BBの満足そうな微笑を思い出した。

 の唇は相変わらず柔らかくて、朝摘みのフルーツのような味がするのだろうか。
 そんな事を考えながら彼女にそっと顔をよせようとすると、背後のドアが思い切り開く。
 
「もういいわ、バカにしないでよね!」

 ブルネットの女が金切り声とともに現れた。
 あわてて後を追ってくるBB、そして次元と目を丸くする

「…BB!また女!?今度はこの女なわけ!?ほんっとにサイテーな男だね!!」

 ブルネットはBBのシャツの襟首を思い切りつかみ上げる。
 次元の頭の中に響いていた鐘の音は、いっぺんにパトカーのサイレンに変わった。
 まったく何ともなっていない上に、事態は悪化している一方じゃないか。
 今ここで、この二人を銃殺できたらどんなにいいだろう。

「だいたいアンタだってねぇ…」

 ついに次元を指差して口を開くブルネット。
 次元の頭には、両腕に手錠をかけられる瞬間が甦った。

 が、女の言葉は続かない。
 BBが彼女を思い切り抱きしめて、その色っぽい唇をふさいでいた。
 二人の前で、しばし濃厚なキスシーンが展開される。

、悪いな。女がダダをこねだした。パパとの旅行はクリスマス休暇に延期してくれないか、ベイビー」

 若干呆けてあっけに取られている女を抱えて、BBは自分の車に向かった。

「じゃあな、男前」

 二人の前を通り過ぎる時に、BBはポンポンと次元の胸をたたいて目配せをした。
 ポンコツのカブリオレに女を放り込み、調子の悪そうな音を立ててそれは去って行った。

 口をあけたままはそれを見送る。

「…来るときも出て行く時も突然なんだから…」

 言って、おかしそうにくっくっと笑い出した。

「あなたにそっくりね?」

「はあっ!?俺が、あいつとか!?ぜんっぜん違うだろう!!」

 次元は思わず憤慨して叫ぶ。

「似てるわよ」

 は笑いながら言う。

「似てねぇ!!」

 次元はふと自分の懐の違和感に気づく。
 内ポケットに何か入っていた。封筒だ。
 取り出して開けてみると、エアチケット。

「…ああ、お父さんと行く予定だったチケットね。レユニオン島にバカンスに連れて行ってくれるって言ってたの」

 は次元の手元をのぞきこみながらため息をついた。
 次元はパラパラとその二人分のチケットを眺め、あっと目を留める。
 一人分は当然の名前で、そしてもう一人分には次元の名前が入っていた。書類にはパスポートナンバーまで。

「…あいつ、いつのまに!?」

 もそれを手にとって、じっと見ていた。

「二枚とも、往復よ…?」

 言われて、次元は自分が往復のエアチケットになぞ、ついぞ縁がなかったことに気づいた。

「…そりゃ、そうだろ。行ったら…帰ってこなきゃなんねぇからな」

 なんでもないように言う次元に、はふふっと笑ってチケットを差し出した。
 次元はそれを大事そうに内ポケットにしまう。

「…今日は買い物でも行くか?女は旅の支度がいろいろあるんだろう?」

「行き先はレユニオンよ。身一つで行ってサンドニでショッピング。空っぽのスーツケースを一杯にして帰って来るに決まってるじゃない。覚悟しておいて」

 は笑って、バーンと次元の懐を撃ちぬくマネをした。
 次元は思わず手のひらでスーツの胸を押さえる。

「言っとくがバカンス先じゃ、明日仕事が早いからなんてなぁ、通用しねェんだぜ?お前ェの方こそ、覚悟しておくんだな」

 次元もバーンと言って、人差し指をの額にあてた。
 が彼の髭に触れるよりも先に、彼女を抱きしめる。

 頭の中には、レユニオン島の太陽とフルーツの香りが広がっていった。

fin