厚い胸板をむき出しにしながら煙草の煙を吐き出す次元は、左胸に妙な感覚を覚えた。
隣にいる裸の女がけばけばしい爪で覆われたひとさし指で、彼の傷跡をなぞっていたからだ。

「あなた、体のあちこちに傷があるけれど、この傷だけはやけにきれいなのね」

三時間ほど前にバーで拾った女が挑発的に彼の左胸の傷跡に触れてきた。
 去年のクリスマス前に出来た、彼の体の中では最も新参者で最も出来のよい傷跡。
 他の傷跡は弾丸の痕やらいかにも荒っぽい縫い目のもの。
 その中で、左胸の肋骨に沿ってすうっと一本線が入ったようなその新しい傷は、まだうっすらと赤みを帯びていて、女の興味を引いたらしい。
彼女がそこにぽってりとした唇を寄せようとすると、次元はその手と顔を払いのける。

「…その傷には触るな」

「なァに、感じちゃうの?」

 女は髪をかきあげながら艶っぽく声を上げて笑い、懲りずに彼の傷を愛撫しようとする。
 次元の気前の良い支払いに気を良くしたらしく、濃厚なサービスをまだまだ続行するつもりのようだった。
 次元は再びそれを払いのけてベッドを出た。
 女を振り返りもせずに服を着始める。

「なんだ、一回で終わり?見かけ倒しなのね」

 あからさまに不満そうな声が背後から聞こえる。

「出掛けることにした。アンタには支払い済みだし、宿も清算して行くからゆっくりしていってくれ。じゃあな」
 
 次元はそれだけ言ってさっさと部屋を出て行った。

(クソ、あの女が傷に触ったりなぞするから)

 次元は舌打ちをしながらまた煙草をくわえ、ホテルの階段を足早に降りてゆく。

(イライラして眠れそうもねェ)

 次元は車を出して、北へ向かった。
 こんな時間に出たら多分朝には到着してしまうだろう。
 
 自分が行きたいのか行きたくないのか、行っても良いのかどうなのか、よくわからない場所に。



 次元大介は去年のクリスマスから新年にかけて「寒いところにいながらも、南国のバカンスのように暖かくハッピーに過ごす方法」という、特許を申請したいような方法を思いつきそして実践していた。
 その方法とは、暖かい部屋で酒を飲んでそして美しい女とベッドで温めあう、という実に原始的なやり方ではあったが、ここ数年で行ったどんなバカンスよりも次元はハッピーに過ごす事ができた。
 ただ、彼が今まですごしたバカンスと違うのは女が非常に勤勉で、新年にかけてもしょちゅう仕事に出かけてしまうという事だ。
彼女がいない昼間、時に夜は、次元は彼女の部屋で一人酒をかっくらってはゴロゴロ寝ているというロクデナシっぷりであった。
 が、そんなロクデナシにも寒い外から帰ってくる女のベッドを暖めておくという非常に重要な任務があり、彼のその任務遂行への熱心さと確実さにかけては彼女からも高い評価を得ていた。

 雪のちらつくなか、そんな自堕落でハッピーなバカンスを過ごしていた次元だったが、それに幕を降ろしたのはいつもの如く、ルパン三世である。
 これまた仕事熱心な彼の相棒は、年が明けてしばらくするとさっそく彼に連絡をよこし、次の仕事の召集をかけた。
 集合場所がこれまた南米とふるっていて、しかも時間のかかる仕事と来た。
 次元はいちいちルパンにプライベートを話したりはしないが、まるで彼の様子を逐一見ているかのようなタイミングの仕事の持ちかけっぷりで、新年最初のルパンとの会話は次元の舌打ちで始まったのは言うまでもない。
 が、仕事内容はいかにもまっとうで、まさに取り掛かるのには絶好のタイミングというものであったし断るわけにもいかなかった。

 1月のある朝、珍しく女が出勤する時間に目を覚まして身支度をすませた次元は、彼女と一緒に家のドアを出て、これから仕事に出る旨を伝えた。

 女は驚いたような顔をしたがすぐに普段の表情に戻り、その頃にはすっかり彼女の癖のひとつになっていた仕草…次元の髭にそっと触れて、彼の唇の横に軽く口付けた。

「そう、気をつけて行ってきて」

 それだけ言うと、赤いゴルフに乗っていつものように出勤していった。
 そして次元も空港に向かった。

 それがもう半年以上前だ。

 予想以上に仕事に時間がかかった。
 ブラジルで宝石の原石をたんまりいただいてくる仕事だが、準備と決行、そしてその原石の始末やなんかでもうたっぷりと時間がかかった。
 それだけに実入りの良い仕事ではあったが。

 結局仕事中、女に連絡を取ることはしなかった。
 何を言ったら良いのかわからなかったし、そうやって連絡などする柄じゃない。

 そうこうするうちにあっというまに半年が過ぎたのだった。
 今回半年振りにこの国にやってきたのは、女に会うためではない。
 原石の一部を、あるマニアなバイヤーに高額で売りつける仕事のためだ。
 まあ最後の仕上げといったところか。
 普段ならこういう仕事はルパンがする事が多く、面倒くさがりの次元が珍しくそんな役目を買って出たのを、ルパンは事情を知ってか知らずかニヤニヤしながらも何も言わず送り出した。
そういうところがまたイヤラシイ男だと、次元はとにかく心の中で何にでも八つ当たりをしながらこの国にやってきたというわけだ。

バイヤーに会う仕事は終わった。
もうこの国には用はない。
自分にとっては嵐のように過ぎたあっという間の半年だったが、女にとっては恋をして、新しい世界を作るには十分すぎる時間だろう。

柄にもないセンチメンタルな気分をさっさと吹き飛ばそうと、久しぶりに女を調達して抱いたのだが、先ほどのザマだ。

イライラと普段よりもハイペースで煙草を灰にしながら、深夜、次元は彼女が住む北の方へ車を飛ばしていた。



目的地についたのは朝の10時くらいだろうか。
こんな時間に到着しても、女は仕事でいないにきまってる。
だから朝までゆっくりして出発すればよかったのはわかっていたのだが。

古いが瀟洒な一軒家の前に次元は車を停めた。
昨夜から疼いてたまらない左胸の傷を手でそっと押さえ、そして左胸の内ポケットを探る。
家の合鍵。
次元は門を開けて中に入り、ゆっくりと鍵穴にその鍵をさして回す。
ドアを開けて部屋に入った。
この部屋を出たのが、まるで昨日の事のような気分にかられる。

が、すぐに違和感を感じた。

かすかに漂う甘い煙草の匂い。
自分のものとは違う銘柄の匂いなのですぐにわかった。
彼が会いに来た女は煙草を吸わないし、彼にも喫煙を禁じる程だった。

次元は静かに居間に入って行った。
そして彼がよく横になって、ときには心地よいうたた寝をしていた快適で懐かしいソファを見る。

そこからはだらんと二本の脚が伸びていた。
明らかに男の脚、そして高らかなイビキ。
甘い煙草の香りは、そこから漂ってきたらしい。

次元は肩をすくめてため息をつく。

別に驚くような事じゃない。
男がいたとしたって。
「仕事に行く」とだけ言って、半年以上も連絡をよこさない自分には何も言えないという事は十分わかっていた。

しかしだ。

 女が仕事に出掛けているというのに、もう昼も近いというのに、のんびりと女の部屋で寝ている男。
 自分も他人の事を言えないのは重々承知だが、あの女はなんだってこういうロクデナシに次々と引っかかるんだろうか。

 忌々しく思いつつも、どんなロクデナシか顔でも見てやろうと、次元はそっとソファに近づいた。

 そして思わず声を上げそうになる。

 怪しい口ひげ、長い編みこみとドレッドの黒い髪、日に焼けた体。
 去年の年末、次元の左胸に傷を作った男、その人だった。

 ソファの前には煙草の吸殻がたっぷり入った灰皿に、ロックグラスとジャックダニエル。
 まさに深酒をしてそのまま寝入った、という姿。
 ロクデナシ中のロクデナシだ。
 
 ついついじっとその姿を見ていると、むにゃむにゃと男は体を動かして目を開けた。
 次元は彼を見ながら、向かいのソファに座って煙草に火をつける。

「…」
 
 男は目をこすりながら起き上がって次元をけげんそうに見る。
 次元は煙草の煙を吐き出した。
 そういえばこの家で煙草を吸うのは初めてだったかもしれない。

「お前ぇ…」

 男は次元を上から下まで何度も見て頭をひねり、顔をしかめながら目を閉じたり天井を見上げたり、両手をもぞもぞと組んでみたりして、はっと再度次元の顔を見た。

「思い出した!俺様の一人娘を食い散らかした、あのヒゲ野郎か!!」

 いかにも、つっかえたものが取れたようなすっきりした明るい顔で次元を指さし、身を乗り出した。
 次元は思わず煙草の煙でむせ返って激しく咳き込む。

「…手前ェで刺した男の面ァ忘れるんじゃねぇよ。それに、オイ、食い散らかしたって…下世話な表現だな…」

「いやいや男の面と名前ってなぁ、なかなか思い出せないんでね」

「相変わらずトンチキな野郎だぜ、BB」

 咳き込みながらも吐き出すようにつぶやく次元をよそに、BBはご機嫌な様子でキッチンに向かった。

「暑かっただろう、まあ、飲めよ」

 ハイネケンを一本差し出して、さっそく自分も旨そうに飲み始める。

「朝っぱらからビールか!?」

「…こいつの方がよかったか?」

 BBは意外そうな顔で、ジャックダニエルの壜を指した。

「いや…ビールでいい」

 次元もプルタブを開けて一口飲む。
 たしかに長距離ドライブの後のこの暑い夏、冷えたビールは旨い。

 ビールをごくごくと飲みながら、BBはあらためて次元の姿を頭のてっぺんから爪先まで何度か眺める。

「何をジロジロ見てやがる」

「安っぽい女の匂いがプンプンするぜ?女の髪はブルネットで、爪にはイミテーションのジュエリーがキラキラしてたんだろう?」

 BBはにやにやしながら言った。
 次元は思わず立ち上がる。拳が震えるが、そのまま再度ソファに腰を下ろし、ぐいぐいと残りのビールを飲み干した。
 BBは声を上げて笑いながらまたキッチンに向かい、二本目のハイネケンを次元の前に置く。そして彼の髭にさっと手をやり、魔法のように小さな小さなキラキラと光るビーズのようなものをつまんで見せた。

「最近の若い女はみんな爪にこんなもんつけてやがるからな。それにお前ェのシャツについてるその黒い髪は、俺のもんでもお前のもんでもないだろう」

 言われて次元は思わずシャツを両手で払う。
 そんな様を見て、またBBは笑った。

「…ケッ」

 次元は忌々しそうに二本目のビールを開けて何口か飲むと立ち上がった。

「邪魔したな、俺は帰る」

「おいおいせっかく来たんだ、もっと飲んで行けよ。どうせ夜通し走ってきたんだろうが。大人気ないぜ?」

 BBは次元の飲みかけのビールを彼に再度差し出した。
 次元はため息をついてあきらめたようにそれを受け取り、またソファに腰掛けた。

「どうせ、あいつに会いに来たんだろう?心配しなくても俺様は、お前ぇが安い女と寝てきたところだなんて告げ口はしねえよ。男にゃ、いろいろあるからな」

 次元は思わず自分の帽子をつかんでソファにたたきつけた。
 飲みかけのハイネケンをごくごくと喉に流し込む。
 まったく忌々しい。
 女の、新しい男でも転がり込んでいた方がいくらかマシだったかもしれない。
 彼のセンチメンタルな気分はすっかり吹き飛んでしまっていた。



 そしてセンチメンタルな気分がすっかり吹き飛んだ彼は、やけに自分の体が重い事に気づいた。いつの間にか馴染みのソファに横になっている。
 BBの大イビキの合間に聞こえてくる、カチャカチャとした音がやけに耳についた。
 うっすら目を開けると、山と散らかったローテーブルの上のハイネケンの空き缶が片付けられていっていた。

 次元はソファに張り付いたような重い体をひっぺがし、起き上がる。
 彼の前でゴミ袋を持って目を丸くしている女に、この半年何度も心でつぶやいた名を叫んだ。

「…!」