12月23日(曇のち雪)
窓から差し込む光は昨日よりも弱くて、悪天候が予想された。
しかし昨日の朝ように寒くはない。
次元の腕の中には、温かくやわらかい生き物がいるから。
目覚めに、彼女の寝顔を見るのは二度目だ。
しかし一度目の時のように、触れたりはしなかった。
起こさぬように。
そのうっすらと開いた唇や、時にぴくりと動く長いまつげをじっと眺める。
彼女がずっと目覚めなければ良いと思っていた。
外に春が訪れて、暖かくなるまで。
時折そうっと彼女の髪に顔をうずめて、そのかすかな熱や甘い香りを確認していると、彼の髭が触れたのか、くすぐったそうに顔を横に振って彼女の目が開いた。
「…おはよう」
眠そうに髪をかきあげて言う。
彼の腕の中から、外の光を確認した。
「今日は特に寒そうね」
「ああ。こんな日は、一日こうしてベッドにいるのが得策だぜ、多分」
「ばかね、また飛行機に乗り遅れてしまうわ」
はじっと彼を見て、その額を次元の胸に押し当てた。
何も言わずにしばらくそのままでいてから、両手を彼の胸に当てて、押しやるようにして体を起こす。
「着替えてくるわ」
ガウンを肩にかけて、部屋を出て行った。
一人部屋に取り残された次元は、左胸の管に触れた。
今日でお別れか、相棒。
次元大介にしちゃ陳腐だが、と彼をつなぐものがなくなるようでいささか名残惜しい。その陳腐な発想を頭から追い出そうと、彼も温かいベッドから体を起こした。
「いい?私が、ハイッ!って言ったら、その糸を引っ張って結ぶのよ」
「思いっきりか?」
「強すぎず、弱すぎずよ」
「難しいな、オイ!」
次元はまるでドラマに出てくるような滅菌手袋をはめさせられていた。
「なんで患者が自分で自分の体の縫い目を結ばなきゃならねェんだ」
「だって仕方ないじゃない。私、二人一組でしかやった事ないんだから。
いい?思い切り息を吸って止めて、そしたら私が管を抜くから、抜き終わってすぐにハイッて私が言ったら、その糸を、こう。」
何度目かの説明を繰り返す。
要は、管の入っていた1センチちょっとの穴を、抜いた後にすぐにふさがないといけないらしい。
「わかったわかった。もうわかったから、さっさとやろうぜ」
「じゃあ、いくわよ。息を吸って」
次元は肺に思い切り空気を吸い込む。
「抜くわ」
ずるずるっと、胸の奥からのなんともいえないイヤーな感触。
「ハイッ!」
合図で次元は糸をきゅっと縛った。
抜いたものを処理すると、がその糸はきれいに結んでくれた。
次元は自分の胸に入っていたモノを横目で眺める。
「…もしもこれを抜いた後に、やっぱり肺の傷がふさがってねえなんてことになったら、どうなるんだ?また手術か?」
柄にもなく心配そうに尋ねる。
「また手術って事はないけど」
はそれをビニール袋に入れて始末する。
「この硬くて太いモノを、再度遠慮なくブチ込ませていただくわ」
はビニール袋ごと彼の前に突き出し、おどけて笑って見せた。
次元は改めて自分の胸の傷口を見て、そのビニールに入った元相棒を見て、を見て、苦笑いをする。
「そんな下品な冗談が言えるようになったとは、お前さんも成長したな」
「だって、あなたと一週間もすごしたのよ」
「俺は品の良い男さ」
肩をすくめる彼にはスーツを手渡した。
「やっとマトモな格好に戻れるわね」
片付けに部屋を出て行った。
次元はシャツやネクタイ、ジャケットなんかを広げ、パジャマを脱いでそれらを身につける。
久しぶりのそれは、懐かしい家に帰ってきたようでしっくりと彼の肌になじんだ。
ネクタイを締めて、タイピンをとめ、ヒップホルスターに銃をしまう。
そして帽子をかぶる。
次元大介のできあがりだ。
戻ってきたが次元を見る。
「…やっぱりその方が格好良いわね」
「お姫様のおかげで、元の姿に戻ることができました」
次元はうやうやしく頭を下げながら内ポケットをさぐるが、案の定、煙草はなかった。
「…やれやれ」
思わず声に出してつぶやく。
窓の外には雪が降り出していた。
昼過ぎに次元の体調を確認してから、のゴルフは雪降る中、別荘を出発した。
「外を歩くのは久しぶりになるから、ちょっと疲れやすいかもしれないわ。空気も冷たいし。大丈夫?」
「あの管がなくなっただけでもう万々歳だ」
と、言ったそばから咳き込む。
彼女の言ったとおり、時折冷たい乾燥した空気が入ってくると刺激が強いようだった。
それを見て、しばらく走ってからは車を止めた。
「ちょっと待っていて」
薬局に入って、すぐに出てきた。
「空港や飛行機の中は乾燥しているし、マスクをしておいた方が良いわ。あなたのダンディズムには反するかもしれないけれど」
次元は何も言わず彼女から手渡されるマスクを不承不承受け取って、煙草の代わりに内ポケットに入れる。まるで空港についたら真っ先に煙草を買おうと思っていた事が、見透かされたようだ。
が再度車を出そうとすると、エンジンがなかなかかからない。
次元には何度も経験のある、いやな音だった。
「どうしたのかしら…?」
は不思議そうに何度もイグニッションをまわす。
「バッテリーじゃねえのか?そんなにしょっちゅうは乗ってねえんだろ?しかもこの寒さだ」
次元はボンネットを開けてバッテリーを見た。
「ほら、要チャージだ」
お知らせカラーを見て肩をすくめた。
「飛行機に間に合うかしら…」
は心配そうに言う。
「その辺の車にチャージさせてもらえば大丈夫だろう」
次元は周りを見回した。
ちょうど、古いフィアット・パンダが後ろに停まる。
おあつらえ向きだ。こういうタイプの車なら、ケーブルも持っているだろう。
「なあ、すまねえが、バッテリーがあがっちまったもんでね…」
降りてくるドライバーに、次元は声をかけてその後が続かない。
「ヨーホー、いいぞいいぞ」
掛け声の割にはけだるそうに身を縮こめて出てきたのは、まぎれもなく次元大介を刺した男だった。
後ろでが一瞬声を上げる。
次元は飛び下がっての前に立った。
が、はその彼の前に出て、BBに向かう。
「何かしたら、警察を呼ぶわ」
静かに言った。
そして手を上げて、タクシーを一台止める。
「次元、あなたはタクシーで空港へ行って」
BBはだるそうに次元とを交互に見て、ふらふらとした足取りで一歩近寄った。
「気が強いんだな」
ニヤニヤしながら言って、右手で彼女の肩に触れる。
その手の甲の、鎌首をもたげた蛇のタトゥーが二人を睨んだ。
「おい、女に触るんじゃねえ!」
次元は前へ出て、BBを殴り飛ばした。
驚いて見ているを、次元は止まったタクシーに押し込めた。
「おい運転手、俺は医師だ。この女は精神科の閉鎖病棟からの脱走者でね、危害はないが妄想症状が強い。市内の大学病院まで送ってくれ。金持ちの娘だから、謝礼はたっぷり出るはずだ。逃がすなよ」
「ちょっと、次元!!」
は叫んで車を降りようとするが、運転手は驚きつつもあわててドアをロックした。
「次元!」
だんだん小さくなる叫び声を残し、彼女を乗せたタクシーは見えなくなっていった。
「やれやれ…」
それを見送って、次元は振り返る。
BBはやっと立ち上がったところだったが、その頃にはもう次元の銃が向けられていた。
「俺は同じ失敗は二度はしねえ。その酔っ払いみてぇな風体には騙されねぇよ。
女は巻き込むな。用があるのは俺だろう?アンタの出方次第じゃ、今度は撃つぜ?」
BBは肩をすくめて銃口をじっと見て、また次元を見た。
「…殴る事ぁねえだろうに。しかしまったく冷えるな」
あごをさすってから、何枚も重ねた薄い派手なシャツの襟をきゅっと寄せて、その手を次元が差し向けている銃口に近づけた。
トリガーの指に一瞬力が入るが、すぐにその力は抜けた。
彼の持っている銃身に、グリーンダイヤが輝いていたからだ。
「…何のマネだ?」
きらきらと輝く大きなうす緑色のダイヤに思わず目を奪われそうになりながら、次元はめんくらって男に問いただす。
「それを、あの妄想症状が強いという女に渡してくれ。明日にな。」
「はあ?」
「明日はの誕生日だ。初めて会った時の、あいつの母親と同じ歳になる。
誕生日プレゼントを贈りたいんでね」
次元はBBの頭のてっぺんからつま先まで何度も見た。
そしてだいぶ考え込んで、間を置いてから言った。
「…父親だったら…、自分で渡しゃいいんじゃねえのか?」
BBは、「わかっちゃいない」という風に両手を挙げて首を振る。
「お前なあ、この俺様を見て、何か思わないか?」
次元は改めて彼を上から下まで観察する。
編みこみとドレッドの黒い長い髪にうさんくさい口髭。
薄い派手なシャツを何枚も着て、その胸元からはシルバーやウッドの派手なアクセサリーがのぞいている。細身のパンツの足元は、ビーチサンダルだ。指先は紫色になりかかっていた。
「…まあ、出来の良い娘の父親にしちゃあ、あまりにもイカれてるんで言い出しにくいのはわからないでもないな」
「バカヤロウ、あの年頃の娘の父親にしちゃあ、若く見えるしメチャメチャお洒落で格好良いじゃねえか、俺様は!!」
BBは本気で憤慨した様子で怒鳴った。
「見たらわかるだろう!俺は寒いところが苦手なんだよ!だからコートも何も持ってねぇ。原則、寒いところには足を踏み入れない主義なんで必要ねぇし、防寒具など身につけるのは俺の信条に反する。そんな寒さに弱い俺が、20年近く会ってない娘の前で、饒舌にしゃべれるわけがねえ!」
寒さのためか、時に身をよじってはベラベラしゃべり続ける彼を、次元は呆れて眺める。
「…それに俺は、お前を刺すところを、あいつに見られちまったからな」
次元は少し考えてからネックレスを手にとって、銃を腰にしまった。
「なんで俺に近づいた?」
BBはまた憤慨したように彼の古い皮の帽子を手に取った。
「お前ぇに、昔俺が女房に使ったのとおんなじ手を使いやがったからな!
何てコスイ野郎だ!と思ってよく見たら、ルパン三世の相棒・次元大介じゃねえか。それくらい俺でも知ってる。
…もしかしたら、俺がにダイヤを渡すってのをどこかでかぎつけて、あいつに近づいたのかと、気になったのさ」
「そんな事、知るわけねえだろう。それに、だからといって刺す事ぁねえんじゃねえか」
次元は自分の左胸をさすった。
「先に銃を出したのは次元大介、お前だぜ?まあ結果的には、お前はダイヤを狙っていたわけでもなかったようだし、刺したのは悪かった。俺も必死だったんでね。
しかし、お前もひとの娘と一晩よろしくやっておいて刺されたくらいで文句言うもんじゃねえよ。しかも、治したのは俺の娘だ。これで差し引きゼロだ。
ま、俺もお前に殴られたし、いろんな意味で痛みわけだったとには言っておいてくれ」
「…しかし、俺にこんなモン預けていいのか?このまま空港へ行って、ドロンかもしれねえぜ?」
BBはくっと笑う。
「お前はそんな事はしないだろう。グリーンダイヤが欲しかったら、さっきだってを逃がす前に俺から奪うさ」
次元は手に持っていたネックレスを、ため息をつきながら内ポケットに大事そうにしまった。
「…はいい女になっていたな。あいつの母親にそっくりだ。気の強いところはばあさん譲りだが」
楽しそうに笑った。
「…すぐに自分の娘だとわかったのか?」
BBは目を丸くして次元を見た。
「バカヤロウ。俺は女房が死んだと聞いてから、毎年の誕生日の頃には戻ってきて見てたよ。あいつがあんなゲームをやってみせなくても、わかってたさ」
言っておかしそうに笑う。
ここしばらく毎夜あの町に立つを、おそらくハラハラしながら見守っていただろうBBを想像すると次元もおかしくて仕方がなかった。
「ただ、このとおりあいつの誕生日は冬だ。寒いところではとたんに口下手になる俺は、ずっと声をかけられないまま何年も過ちまった。ばあさんがおっかねえのもあったがな。が、あいつとした約束だけは破りたくなかったんでね」
「会わなくていいのか?」
「約束は『誕生日のお祝いをする』だ。お前が明日それを渡してくれたら、約束は守れる。そして来年夏になったら…」
BBは空を見上げた。
「暑い季節は俺様の独断場だ。来年の夏は必ず俺のベイビーに会いに行く。それだけ、伝えてくれねえか?俺の、二回目の約束だ」
おどけて体を反らせてニカッと笑って言う。
雪のまじった風に吹かれながらも、まるで彼の周りだけは夏の空気に包まれているようだった。
まったく馬鹿げた男だ、と思いながらも次元はそんなBBをみて自分の口元がゆるむのがわかった。
「さて、次元大介。お前はもうひとつ俺に借りがある。が警察に通報しなかった事だ。あそこでが警察を呼んでたら、俺もお前もクリスマスは寒い拘置所ですごすところだった。つまりあいつへの借りは親である俺様への借りでもある。ついては、あいつにダイヤを手渡すに際して頼みたい事がある」
BBはパンダのエンジンをかけて、ケーブルを取り出した。
このオヤジは今度は何を言い出すのかね、と思いながらも次元はが残したゴルフのバッテリーの充電を始める。