12月22日(曇時々晴)

 病院よりもはるかに上等のベッドで次元は目覚めた。
 分厚いカーテンで光がさえぎられているが、もうとっくに朝だろう。
 起き上がってカーテンを開ける。
 どんよりした雲の間からところどころ青空が見えていた。
 が、昨夜と転がり込んできたこの郊外の家は冷え込む。

 が1時間ほど北に車を飛ばしてやってきたのは、大学病院でもの自宅でもなく、の祖母が持っていた別荘だった。
静かな郊外にあるしっかりとした建物で、きっと彼女の祖母は良いとこのお嬢さんだったんだろう。

少し高台にあるその家から町並みを眺める。良い景色だった。
こんな時じゃなきゃ、いい骨休みになるようなところなんだがな。

部屋がノックされて、が入ってきた。
真中の小さな丸いテーブルに、サンドイッチとコーヒーを置いてくれる。

「寒かったでしょう。ここ、本当は蒔ストーブの暖房がメインだから、他のヒーターだけじゃ弱いのよ。
夏は時々時間のあるとき気分転換に来ていたけど、今年の冬は使う予定じゃなくて蒔をほとんど用意してなかったの」

 言いながらカップにコーヒーを注いだ。

「まあちったぁ寒いが、我慢できねぇって程じゃない。
しかし…あんたも強引だな」

 次元はサンドイッチにかぶりつきながら言った。
 いつも落ち着いているが、あの男の事を聞いただけであれだけ慌てて、こんな手段に出るとはまったく意外だった。

「…ごめんなさい。ここならば、まずぜったいみつかることはないと思ったから…」

「俺ぁ助かるが…こういうのぁ、アンタみたいなマットウな人間にゃまずいんじゃないのか?診療所の仕事だってあるだろう?」

「…ミセス・デイジーに連絡して休診にしてもらったわ」

 はコーヒーを飲んで、トマトを一つ食べた。

「自分でも…びっくりした。こんな事をするなんてね」

 言ってナプキンでトマトの汁をふき取る

「あなたが刺されるところを見たって言ったでしょう」

「ああ」

「…とても、とても怖かったのよ」

 はナプキンをテーブルに置いて、小さくつぶやいた。

「あの男が近くにいると聞いて、自分でも驚くくらいにあの時の事が頭に蘇ったの。ナイフが…あなたの胸に深く刺さっていって、みるみる血が噴出すところ。不思議ね。血や傷なんていつも見慣れているはずなのに、一瞬倒れそうになったわ」

 次元は口元についたパン屑をはらって、コーヒーを飲んだ。

「だから、いてもたってもいられなくなってしまったの。
あなたがまた刺されるところなんて、見たくないわ」

「…俺は二度も同じヘマなんかしやしねぇよ」

 次元は言って、の肩が小さく震えているのに気づいた。

「寒いのか?…それとも怖いのか?」

 はゆっくりうつむいた。

「ちょっと怖いわ。あなたをちゃんと守りきれるかしらって」

 次元は頬杖をついて、じっと彼女を見た。
 細い肩に、長いきれいな髪。何度も彼を感じさせた細い指をぎゅっと白くなるまでにぎりしめている、まじめでまっすぐな目をした、美しい女。
 そんな奴が、次元大介を守るだって?

 煙草を吸いたい。

 久しぶりにそんなことが頭をよぎった。
 そうすればもう少しまともに頭が働くだろう。

 初めてを見たとき、どうしても彼女に触れてみたいと思った。
 そして彼女を抱いて、自分がどんなに生に渇望しているかがわかった。
 彼女の熱は、彼をこの世につなぎとめる。
そんな感覚だった。
 だから、何度も何度も朝まで彼女を抱いた。

 そんな女が彼を守るという。

 次元はゆっくり立ち上がって、椅子に座ったままの彼女の髪に触れそっと抱きしめた。
 それはあまりに自然だったので、は逃げることもしない。

「…どうしたの?」

「いや、あんたは健康だなと思ってな」

「とりあえず今のところ、怪我も病気もしてないわ」

「太陽の下をまっすぐにまじめに生きているって事さ」

 そんな人間は自分と別世界にいると思っていた。
 出会うとしても、うわべだけのつきあい。
 真剣に「命」を語り合う事はないと思っていた。

 そんな事に、次元はいまさらながら、驚く。
 次元がの事をわからないように、も彼のこんな気持ちはわからないだろう。

 から手を離し、立ったままコーヒーをもう一杯飲む。



 日中、時々太陽が顔を出すが、すぐに厚い雲で覆われてしまう。
 部屋はヒーターのまん前以外は相変わらずの寒さだった。

 そういえばいつも次元と一緒だった、「コポコポ」とした音がないのにふと気づく。

「ああ、機械での吸引は朝から止めているのよ。レントゲンで確認できないのは心細いけど、これで調子良かったら、明日にはその管を抜こうと思うの。
 血液検査で感染も見られないし、栄養状態も良いし、ちょっと早いけど問題ないと思うわ。それが抜けたら、後は自由よ。風邪ひかないようにさえ気をつけてくれたら」

「そうか、それはありがてぇな。この相棒にはそろそろうんざりしてたところだ」

「…明日の遅めの飛行機を予約して。
 明日の朝、その管を抜いてしばらく様子を見たら、空港まで送っていくわ」

 次元はぎょっとしてを見る。

「急だな。まだ支払いも済んでねぇってのに」

「体が回復したら、すぐにここを出た方がきっと安全だわ。
 クリスマスには間に合うかどうかわからないけど、あたたかいところで療養して」

 はスイッチの止まった次元の足元の機械と管を観察しながら静かに言った。

 次元はしばらくそんな彼女の様子を見ていたが、仕方なく自分の電話を取り出してチケットの手配をした。

「…エアー、取れたぜ」

「そう、よかったわ」

 は彼を見上げて微笑んだ。

 

 結局すかっと晴れることのなかった一日で、日が暮れると相変わらず冷え込む。
 昨夜と二人でこの別荘の鍵を開けた時の、冷蔵庫の中に入るかのような寒さに比べればはるかにマシではあるが。

 次元はなるべくヒーターを近寄せてベッドに入るが、なかなか暖まらない。
 まあいい。明日までの辛抱だ。
 これからは思い切り暖かいところへ行くんだからな。

 自分に言い聞かせるように頭で反芻するが、どうしてだかすっきりしなかった。

 の判断は正しい。
 正しい…。

 考えていると、戸口で物音がした。
 いつものようにノックをして、が入ってくる。

「寒いわね。大丈夫?」

「ああ、こういうのにゃ慣れてる」

「これ…」

 は封筒を出した。

「昨日から飲んでもらってる内服の痛み止め、これだけあったら当分大丈夫だと思うから持っていって。あと、もし具合が悪くなって他の国で病院に行くことになった時のために、大体の経過を書いた紹介状みたいなものを入れておいたから」

「ああ、ありがとう」

 そういえば、ありがとうと言ったのはもしかしたら、これが初めてかもしれない。
 次元ははっと気づいた。

「息苦しくない?」

「大丈夫だ」

「ちょっと呼吸の音を聞かせてもらえる?」

 は毎日何度もやっていたように、聴診器で次元の胸の音を聞いていた。

「大丈夫そうね。きっと明日には抜けるわ」

 ほっとしたように言って、次元のパジャマの胸を閉じた。

「じゃあ、おやすみなさい」

 言って布団をかけようとするの手を、次元はそっとつかむ。

「…どうしたの?」

 朝、抱きしめた時のように静かに、は聞いた。

「やっぱり寒くて眠れそうにねぇ。あんたの部屋もそうだろう?ここで一緒に寝ていかねぇか?」

 はびっくりしたように次元を見るが、その手を払いのけることはしなかった。

「別に何もしやしねえ。あんまりにも寒いから一緒に寝るだけだ。やりたいんだったら、いつかの夜みたいにハッキリと言うさ、俺は。」

 次元の手からするりとその手を離し、はガウンを脱いだ。
 下にはガーゼを重ねたような愛らしい寝間着。
 夏にしか来ないと言っていたから、夏用のものしかないのだろう。

 何も言わずに、するりと次元の右側に入ってきた。
 ふわりとした髪の香りに、暖かい体。
 次元はその髪をかきわけて、肩を抱きしめた。

「…ほんと寒いから、私も助かるわ」

 次元の腕の中では言う。
 広く開いた寝間着の肩のところからは、いつかたっぷり愛撫した鎖骨が顔を出していて、「何もしねえ」なんて言ったことを、すでに後悔しはじめた。
 が、安心した表情で彼の腕の中で暖まるを見るのも悪くない。

「足、冷てぇな」
 
「じゃあ暖めて」

「言っておくが、俺ぁ、水虫持ちなんだぜ?」

「知ってるわ」

 くっくっと笑う。
 の冷えた足先に、彼のそれをからめる。
 彼の胸にの体をぎゅっと押し付け、二人の体温が同じになってゆくのを感じた。

「ッイテテ…」

「どうしたの?」

「管を、ちょっとひっぱちまったみたいだ」

「気をつけて」

 は彼の体に手をまわし、管を整えた。
 その手をつかんで、次元は彼の首にまわす。
 そしてまた彼女を抱きしめる。

 ははっと何かに気づいたように次元を見上げた。

「どうした?」

「初めて会った時と何か違うなあって思ったら、あなたから煙草の匂いがしないからね」

「こんなに長いこと禁煙したのは久しぶりだぜ」

「その方が良いわ。禁煙なさいな」

「ばーか。無理に決まってる」

 はくすくす笑う。
 肩を震わせながら笑うをまた強く抱きしめた。

「…あったけぇな」

「ええ、ほんと。あったかいわ、よく眠れそう」

 それに関しては次元はノーコメント。

 彼の腕の中で寝息を立て始めるを、抱きしめて髪の香りを感じたり、少し離れてその寝顔を眺めたり、また抱きしめたり。
 そんな事をしながらしばらく時間をすごさざるをえなかった