12月21日(曇)

 次元は昨夜と同じように、真夜中の鐘を聞いた。
 昨夜と違うのは、体はだいぶ楽になったしイライラもしていない。
 ただ体が楽になるにつけ、不自由さやコポコポとした機械の音が気になってくる。
 バーボンのロックでもあればゆっくり眠れるだろうに。

 そんな事を考えていたら、聞きなれたブーツの音。
 そっと部屋の扉が開いた。
昨夜と同じように。

「…ただいま」

 ベッドの上で体を起こしている彼に、はそっと声をかけた。

「ああ、お疲れさん」

 次元の声を聞いてすっと出て行った彼女は、しばらくしてまたガウンをまとってやってきた。

「もともと宵っ張りな方?」
 
 彼の胸の傷やなんかを確認しながら言う。

「はっきり言って、こんな時間宵の口だ。大体俺みたいな男が早寝早起きに見えるか?」

「それもそうね」

 は言って、手に持ってきた籠から何かを取り出す。

「本当は昼間のうちにミセス・デイジーにお願いしようと思っていたんだけど、彼女も忙しくて。あなたの髪を洗ってあげないとと、思っていたのよ」

 次元は目を丸くして彼女を見る。
 なんだか調子が狂う。とことんまじめで仕事熱心な女だ。
 しかし彼はこう見えてもきれい好きな方なので、髪がさっぱりするのはありがたい。

「こっちへ来て」
 
 彼を洗面台の前で座らせて、タオルやビニールのケープを首に巻いた。
 洗面台にうつむいた彼の頭に、ゆっくりと湯をかけてゆく。
 それはまるで全身に熱いシャワーを浴びているようで心地よかった。
 そしてシャンプーが泡立てられ、の細い指が彼の頭をくるくると滑ってマッサージする。彼女を抱いたときに彼の首に触れたその指の感触を思い出して体が熱くなるのと同時に、心地よさにまぶたが重くなる。

 次元の濡れた髪を拭いて、はそのままドライヤーをかける。
 頭が軽くなったようで、快適だった。
 は乾いた髪をその指で軽く梳いて整えると、彼をベッドに促した。

「じゃあ、おやすみなさい」

 言いながら、ケープやドライヤーを籠にしまった。
 次元の首や耳の周りには、彼女の指の感触が残る。

「なあ、アンタ。男はどうやったら、落ち着いてぐっすり眠れるか知ってるか?」

 は籠を置いてベッドの上に座る次元の前に立った。

「…お酒?わかってると思うけど、まだおすすめしないわ」

 次元はの流れ落ちる髪に触れた。
 彼女はその行為にびくりとして、それまでの笑顔がふっと途切れるが、そのまま次元を見る。

「もっと健康的なやりかたさ。
…一度、射精をすれば、あっという間にぐっすり安らかに眠れる。
寝る前に、アンタを抱きたい」

次元はの髪をたぐりよせて、そっと髪の一房に口付けた。

「…ねえ、次元、大介。
私はそういう話を切り返すのが、あまり上手ではないの。だから、あまりからかったりしないで頂戴」

 は怒った風でもなく、じっくり言葉を探すようにしてゆっくり言った。
 次元は髪に触れたまま、彼女の顔を見上げる。

「からかってなんかいねェ、本気で言っている。今、あんたとやりたい」

どうしてこんな事を言い出してしまったのか、自分でもわからない。
実現するとも思っていない。
けれど、彼女を欲しいと思う体と心の欲求がどうにも強かった。

 次元は髪に触れている手をそっと彼女の首筋にまわした。
 はじっと彼を見ながら、その首に回されている彼の手をそっとつかむ。

「…あなたが本気ならば、私も本気で答えるわ」

 言って、もう片方の手で次元のベッドサイドに置いてある心電図の機械から伸びているコードを手に取った。

「あなたの呼吸機能は、まだ急激な心拍数の増加に伴う酸素消費量の増加に耐えるまでには回復していない。だから、あなたの心電図と呼吸を機械でモニタリングしながら、場合によっては途中でドクターストップも考慮して、という条件で良いなら、私があなたの上に乗ってもいいけれど」

 一気にそれだけ言って、じっと次元の目を見続けた。
 次元はため息をついて彼女の首から手を離し、降参、とでも言うようにその両手を挙げた。

「わかったよ。結構元気になってきたんで、いけると思ったんだが主治医がそう言うんじゃ、あきらめるとするか。」

 はほうっと大きく息をつく。

「それにアンタが提案したプレイは極めて興味深いんだが、どっちかってぇとアンタの心臓の音をモニタリングしながらヤル方が断然興奮しそうなんで、それができるようになるまでお楽しみに取っておくさ」

 はその手に籠を持つと、すたすたと扉の方へ歩いた。

「ヘンタイね!」

 言い捨てて部屋を出てゆく。

 次元は思わず大声で笑った。
 多分、廊下まで響き渡っているだろう。
 わかっていても、その笑い声を止める事ができなかった。



 翌日、ぐっすり眠った次元大介は爽快に目覚めるが、外は曇天だった。
 冷えるはずだ。雪が降らなきゃいいんだが。
 立ち上がって洗面台で髪を整え、ミセス・デイジーが食事を運んでくるのを待った。
 妙に腹が減る。
 そりゃあ普段じゃ考えられないくらい早くに晩飯を食べているのだから、当たり前か。

 部屋の扉を開けて食事を運んできたのはベテランナースではなく、だった。
 次元は思わずぎょっとする。
 
 長い髪をタイトにまとめて白衣を着たは、次元のベッドサイドに食事をセッティングした。

 次元は気まずい思いでその前に行き、ベッドに腰掛ける。
 今日、顔を合わせたら一言侘びでも言おうと思っていたが、朝一とは思わなかった。

 次元が腰掛けるとは少し迷ったように、傍の椅子に腰を下ろす。
 
「…昨夜は、ごめんなさい。取り乱して、変な事を言ってしまって」

 次元は面食らう。

「は?いや、お前ぇが謝る事ぁないんじゃねぇか?
俺が調子に乗りすぎたと、謝らなきゃなんねぇなと思ってたところだ」

はまだ戸惑ったようにうつむいていた。

「…その、まあ、昨夜アンタとやれなかったのは残念だが、俺みたいな男にピシャリと言うのは、健全でいいと思ったぜ」

 次元は卵の殻をむき始めた。

「アンタはまっすぐで一生懸命だ。こんなヘンタイにでも丁寧に接してくれる。ありがたい事さ。でも俺を厄介だと思ったら、昨日みたいにはっきり言ってくれていい。その方が俺もほっとする」

 次元はゆで卵を一口でほおばった。
 むぐむぐと口を動かすが、固ゆでの卵にむせて咳き込みながら水を飲んだ。
 そんな彼をみて、はくすっと笑う。

「…飛行機に乗りそこねて、ぶらりと立ち寄った町で女を買って、やっと飛行機に乗れると思ったら見知らぬ男に刺されて…って、もちろんとんでもなくツイてない事だと思うけど、あなたの人生においては、ごくごく珍しい事?
それともこれくらいの事って、結構どうって事ないのかしら?」

 次元は水を飲みながらを見た。

「…そうだな。しょっちゅうって訳じゃねぇが、もっと厄介なトラブルに巻き込まれることもあるし、正直なところ人生初の一大事って程じゃねぇな」

 言ってチーズをかじった。

「そうでしょうね。
 私にとっては、あなたと会ってから、初めての事だらけよ。
 言ったように、ゲームに負けて、初めて会った人と寝る事になるのも初めて。
 人が刺されるところを見るのも初めて。
 自分がメインで手術をするのも初めて。
 銃を触ったのも初めて。
 多分お尋ね者の人と、ずっと過ごすのも、初めて…」

 は深呼吸をして外を見ながら言った。
 学校から帰ってきた子供が親に一日の事を報告するかのように。
 もちろん次元は子供もいないし、そんな報告など聞いた経験はないのだが。

「俺が刺されるところも見たのか」

「ええ。派手な男が走っていったわね。警察を呼ぼうと思ったけれど、あなたも手に銃を持っていたから…。
別に警察を呼んで、あなたを大きな病院に搬送して、知らない男だと言えばそれで済むのはわかっていたけど、なんていうか…。」

 は視線を窓の外から次元に向けた。
 すっと手をのばして、次元の髭についた卵の白身のかけらを取る。

「あなたは怖いけれど、そんなに悪い人には見えなかったし、クリスマスを警察やなんかで過ごす事になるのは気の毒かなって、思ったのよ」

 次元はの明るい茶色の瞳をじっと見た。

「…そんなに俺とのセックスはよかったか?」

 次元のとがった鼻がの指でぎゅっとつまみ上げられる。

「イテテテテ!」

「そういう事を言うからイヤなのよ!」

 は言って声を上げて笑った。

「…昨日、両親の事を話したでしょう。私、ひとつだけ父の事で覚えている事があるの。
私が、父と初めて会った時の母の歳になったら、その時はお祝いをしてやるって言っていたわ」

 次元は鼻をさすりながら聞いた。

「私は別に親の事を恨んだりしているわけでもないし、今更、どうしても会いたいとか、そういう訳じゃないんだけど…。やっぱり会いたいのかな…」

 言って、くすっと笑った。

「もうすぐ私は、母が父と出会った歳になるわ。大人しく待っていて、多分きっと何も起こらないって事になるのはわかっているのだけど、ちょっと努力してみてもいいかと思ったの。
 誕生日が来るまで少しの間、父が私を見つけやすいようにしてみてもいいんじゃないかって。
 祖母は父や母のことを散々言うけれど、私には、父も母もとても楽しそうにしていた記憶しかない。父がいなくなっても、母は一度も恨み言を言わなかった。
 私の今までの生き方がつまらないとか間違っているって思ってるわけじゃないけれど、父や母は、どんなものを見ていたのかって、知りたくなったの」

 は言いながら立ち上がって窓の近くへ歩いた。

「どうして私があんなゲームをやってるのかって、聞きたかったでしょう?
そういうわけよ」

 白衣のすそを整えて、は診察室へ戻っていった。



 次元はなんとかバッテリーの充電ができたセルラーフォンで、ルパンに電話をかけた。
 遊びほうけていると見えて、電話がつながるまでにはだいぶかかったが、なんとかご機嫌な男の声が聞こえてきた。

「よ〜ぉ久しぶりだなぁ。って程のことでもないか。お前も今頃仕事の上がりでゆっくりしてんだろ?」
「まあな。しかしドメスティックの手違いでまだ国外に出られずにいる。こっちは寒いぜ」
「なにぃ?そりゃ災難だなァ」
 受話器の向こうから女の嬌声が聞こえてくる。
 ルパンはさぞ早く電話を切り上げたいだろう。

「お前ぇ、BBってぇ、イカれた感じの男を知ってるか?キャプテンBBと自分で名乗っていやがった。バカっぽい派手な男だ」

「はあ、BBねえ。会った事はねぇが、話だけは知ってるぜ。詐欺師みたいなケチな男で、神出鬼没。大体は南の国で女ァはべらしてる事がほとんどってぇ話だが、ときたま思いついたようにデカイ山をこなしたりするらしい。ま、俺たちの仕事とバッティングする事はまずないけどな。で、その男がどうした?」

 当然次元は、そんなバカに刺されたなどと言えるハズがない。
そして、彼が首にかけていたダイヤの件も、なぜだか話す気にならなかった。
あまりに胡散臭すぎる。

「いや…ちょっと見かけたもんでね、気になっただけさ。お楽しみのところ邪魔して悪かったな」

 言って電話を切った。



 午後になって、が次元の傷の処置をしに来た。
 傷の処置が終わったら、丁寧に聴診器で彼の呼吸の音を聴いている。

 美しく一生懸命な、太陽のような女。
 名残惜しいが、傷が治り次第さっさとここを去るのが彼女のためだろう。
 あのバカはもしかしたらまだ次元を狙っているかもしれない。
 バカなヤツほど、何を考えているかわからなくて恐ろしいと、経験から知っている。
 彼女をそんな厄介ごとに巻き込むわけにはいかない。

 静かに深呼吸をしていたら、ミセス・デイジーが私服に着替えてやってきた。

「先生、じゃ私、今日は言ってありましたように早めに帰りますね」

 にこやかに挨拶をする。

「ああ、ミセス・デイジー、今日もどうもありがとうございました」
 
 は聴診器をはずして振り返った。

「今日はクリスマスの買い物?」

「そうです、いろいろと大変ですよ家族も多いから。しかし町もすっかりクリスマスの雰囲気になってますね、ヘンな若者とかで一杯」

「この辺て毎年そうなの?」

「ふふふ、そうですね。でもさっきなんか、この寒いのに派手な薄いシャツの重ね着だけの男がうろうろしてて、びっくりしました。ホームレスなんかが増えないといいんですけどねえ」

 次元はミセス・デイジーの言葉にぴくりと反応する。

「ミセス・デイジー、その男は黒い髪で口ひげがあって、派手な首飾りをいくつも胸にかけていたりしたか?」

「そうそう、その通り。最近の流行なんですか?」

 もはっと次元の方を見る。

「さあ、俺はコンサバな男なんで、わからねぇな」

 ミセス・デイジーはコートを着て、再度挨拶をして部屋を出て行った。
 は次元のパジャマの前を閉じる。

「なあ、…」

 次元が何かを言おうとすると、はロッカーから彼のスーツを出した。
 いつの間にかきれいにクリーニングされていた。
 それを彼の手にぎゅっと持たせる。

「あと、これを持っておいて。」
 
 次元の胸につながっている機械のコンセントを抜いて、機械と台を彼に持たせた。

「お、おい」

 彼が何も言う間もなくは部屋を走って出て行くと、黒い大きなかばんを持ってやってきた。

「こっちへ来て」

 帽子と銃とスーツと、そして胸の機械を持たされて両手の塞がった次元を診察室に通して、その裏口へと促す。

 そこには赤いゴルフが停まっていた。

「乗って」
 
 トランクに黒いかばんを入れると、後部座席のドアを開けた。

「おいおい、一体どうするんだ」

 次元はそのまま後部座席に押し込まれ、は何も言わずに車を発車させた。

「おい、こら!どこへ行くんだ!」

「だって、聞いたでしょう。ミセス・デイジーが見たという男。
どう考えてもあなたを刺した男よ。まだこの辺をうろうろしてただなんて。
治療環境に悪すぎるわ!」

 狭い路地をゆっくりと出て、大通りに合流しようとする。
 一時停止したその時、歩道を歩く男と次元は目が合った。
 ぎょっと目を丸くした、派手なシャツを何枚も重ねて着て寒そうに肩をすくめる、髭の男。まぎれもなくBB。
 も彼には気づいたようで、あわててノッキングしながら大通りに合流してゆく。

「おいおい、落ち着けよ。どこへ行くってんだ」

 次元の何度目かのそんな質問に答える事なく、はゴルフのスピードを上げてシフトアップしていった。
 くそ、なんて気の短い女だ。