12月19日(晴)
コポコポとコーヒーサイフォンのような音が耳につく。
視界はうすぼんやりと白く、そしてコーヒーの香りは漂ってはこなかった。
次元大介は意識がはっきりしてくるとともに、急いで起き上がって自分の状況を確認したい衝動にかられるが、おそらくそうすれば激痛にさいなまれるだろう事を今までの経験から知っていた。
自分が静かな部屋のベッドに寝かされている事をまず確認し、そしてゆっくり頭を動かして周囲を見た。
古い白いしっくいの壁の部屋。
あれからどのくらいたったのだろう。
窓からさしこむ明かりで、今が夜ではないという事だけはわかった。
反対側に頭を向けると。
部屋の壁よりも真っ白な服を着た、あの時の天使。
それとも、あの日の朝まで何度も抱いた女、と言った方が適切か。
は次元と目が合うと、別段驚いた風でもなくゆっくり立ち上がり、彼の腕につながっている点滴のラインに何やら操作をしていた。
そしてまた座って彼を見る。
「気分はどう?」
「最悪だ」
「深呼吸はできる?」
「したくねぇな」
ぶっきらぼうに続けた。
深い呼吸などすれば、彼の熱く重たい左胸の痛みが一層強まる事が容易に想像できるからだ。
「それじゃ困るのよ」
思いがけないの強い言葉に、次元はしかたなく大きく息を吸った。
案の定左の肋骨あたりにびりびりとした痛みが走る。
「痛み止めを入れたからもう少ししたらマシになると思う。そうやって、しっかり呼吸をしておいて」
苦々しい次元の顔を見て、はおかしそうに笑った。
「今日は何日だ?」
次元はムッとしながら尋ねる。
もちろん他にも尋ねたいことがあるのだが、本当に知りたいことについては仕事での尋問以外、なかなかストレートに聞くことができないのが彼の癖だった。
「19日。多分、まず間違いなく飛行機には乗り遅れてるわね」
「…だろうな」
次元はじっと天井をみつめた。
「左胸を刺されて、肺と周りの血管が傷ついたの。手術で止血をして、肺は縫い合わせたわ。あとはそこがくっつくまで、その機械で残った血を吸い出しながら肺を広げておくのよ。他の臓器には損傷がなくてよかったわ。ただ肋骨の間をサックリと遠慮なく刺されているから、神経が傷ついていて、しばらくは痛むかもしれないけど」
次元は自分の左胸を改めて見た。
太い管がつながっていた。
こんなモノをブチ込まれてちゃ痛いはずだ。
そしてその先にはアタッシュケースくらいの大きさの四角い機械につながっていて、それがコポコポと音を立てていたのだ。
「あんたがやってくれたのか?」
「だいたいはね。私は普段は大学病院の研修医なんだけど、今月は臨時にこの診療所の留守番をしているの。昨日、昼から仕事だって言ったでしょう?
往診の帰りに、あなたが刺されて倒れるのを見てびっくりしたわ」
「俺だってびっくりだ」
言ってまたの顔を見た。
「…どうして警察に通報するなり、他の病院に回すなりしなかった?」
は黙って立ち上がり、ロッカーを開けて何かを取り出して見せた。
ビニールに入った次元の血まみれのスーツと、帽子。
そして使い込まれた彼の銃。
「あなたがどうしてほしいのか、判断しかねたからよ」
スーツをロッカーに戻すと、かろうじて汚れずにすんでいた帽子と黒く光った銃を彼に手渡した。
次元は愛しそうに銃を手に取ってつるりとなでた。
「…いいのか、俺にこんなモノを持たせておいて」
「あなたのお守りみたいなものなんでしょう?」
はふふっと笑う。
次元は肩をすくめて銃を枕の下にしまい、帽子を大事そうに手に持った。
「あんたの判断は、あんたにとって正しいのかどうかはわからねえが、俺にとっちゃありがたい判断だな」
はそのまま屈んで次元の肩に手をまわす。
覚えのあるその体温と香りにどきりとするが、次に感じるのは左胸の激痛。
ベッドの上に起こされたのだ。
一瞬頭がくらくらする。
「気分はどう?」
「最悪だ」
本日一番最初の会話が繰り返さる。
はまた笑った。
「ここは本来入院業務はやっていないし、私以外ほとんどスタッフがいないの。だから、早くよくなってもらわないと困るわ。お昼には食事を出すから、それまでなるべくこうやって起きておいて。午後には少しずつ立って歩いてもらうから」
「俺ぁ、昨日刺されたばっかりなんだぜ!?」
次元は面食らって叫ぶ。
「あなたが邪魔だからって意地悪で言ってるんじゃないのよ。そういうものなの。大丈夫よ」
バーで初めて会った時と同じようには笑った。
次元はため息をつく。
くそ、ため息ひとつにも痛みやがる。
サンタさんよ、クリスマスプレゼントの前借をさせてくんねえか。
時間を、この町の空港に降りた時に戻して欲しい。
が言ったとおり、痛み止めはだいぶと効いてきたようで一時間もしないうちに呼吸や咳も楽になってきた。
少しではあるが昼食も食す事ができ、夕刻近くにはの手助けで立ち上がり、なんとか便所まで歩くこともできた。
は何かと次元の部屋に様子を見に来てくれるが、このごみごみとした街角の診療所は近所の何でも屋の様相で、ばたばたと忙しそうだった。
が、忙しそうにしながらもひとつひとつの事を丁寧にこなしてゆくその感じが、彼女らしいところなのだろうと、じっと見ながら思った。
「この診療所は私が卒業した学校の、古いOBの先生がやっているの」
は次元の胸の傷口の処置をしながら話す。
「もう70歳になる先生なんだけど、今は調査で南米に行ってらしてね、代わりに留守を頼まれているのよ。まあ、あんまり細かい事にうるさい先生じゃないけど。あなたには少なくとも実費を請求させてもらうわ。良い?」
「かまわねえよ。がんがん何でも使って請求してくれ」
「言っておくけど、薬代や材料費って結構高いわよ」
「…じゃあ、エコノミーコースで頼む」
夕食は昼よりもだいぶ食べる事ができた。
輸血はしなかったらしいので、がんがん食えとに言われた。
外が暗くなっても隣の診察室では相変わらず物音がしている。
点滴台と胸の機械をころがしながら立ちあがって外を眺めていると、がやってきて、本日二度目の痛み止めを打ってくれた。
「気分はどう?」
本日三度目の質問だ。
「…まあまあだな」
二人顔を見合わせて笑う。
「まだゴタついてんのか?忙しいんだな」
「もう片付けてるところよ」
白衣のすそをひらめかせながらあわただしく部屋を出て行った。
30分くらいたったろうか。
足音が聞こえた。
の足音であるのは間違いないが、なんだか違和感があった。
ノックをして部屋に入ってくる。
ベッドに横たわっていた次元は思わず体を起こした。
初めて会った時の、あのいでたちだった。
「12時前後には戻ってくるわ。それまで、大丈夫ね?」
は帽子を置いて、日中とまったく変わらない様子で次元の胸の管やら脈やらを点検していった。ほどいている長い髪がさらりと次元の手にかかる。
一日何度も同じ事をされていたのに、今更なんでこう戸惑ってしまうのだろう。
「…今夜もあそこに立つのか?」
「そうよ。ええと痛み止めは打ったから、ちゃんと眠れると思うわ。ちょうど効いてきてるでしょう?」
は時計を確認した。
「夜中に切れて痛むかもしれねぇ」
「また打ってあげるわ。6時間くらい間があいてたら追加しても大丈夫だから」
「…お前ぇがゲームで負けて朝まで帰ってこれなかったら?」
は少し驚いた顔で次元をじっと見た。
次元は言った事を少し後悔して顔をそむける。
「多分、それはないわ。心配しないで」
窓のガラスに、の笑顔が映っていた。
バーで会った時も、彼の腕の中でも、彼の治療をする時も。
いつも同じ笑顔だ。一生懸命で、ひとをほっとさせるような、やわらかな笑顔。
彼の頭に一瞬その手を置いて、そして帽子をかぶった。
「じゃあ、私は行くわ」
カツカツとブーツの音をさせて、部屋を出て行った。
そして後には、コポコポという機械の音だけが彼と残る。