12月17日 曇り

次元大介はいつものようにジャケットのポケットに手をつっこんで、少し猫背で歩きながら煙草を吸っていた。
ルパンたちとの仕事を終えて懐も暖かく、それぞれにハッピーなクリスマスを過ごせそうだと思っていた矢先。
 彼はインターナショナルまで出るドメスティックのブッキングミスなんていう、ありがちなトラブルで、ヨーロッパの田舎町に足止めを食ってしまった。
せっかくこれから暖かい国に渡ってのんびりと休暇を決め込もうと思っていたのに、こんなところで煙草の煙以外の白い息を吐くはめになるとは。

 まあいい。
 空港周りにいても何もありそうにないし、少し大きな町まで出て宿を取ることにした。
 まったくもって手持ち無沙汰な時間。
 こんな冷える日は、あとくされのない女を見つけて暖まるのが良い。
 日付が変わる前に一杯飲んで女を見つけ、やることをやったらさっさと追い出してぐっすり眠って明日には空港に戻る。
 そんなプランは意外と彼を上機嫌にさせた。

 まずは飯と酒だ。
 落ち着いた店構えのバーに入る。

 意外なことにデキシーランドジャズが流れていて、それも彼を上機嫌にさせた。
 肉と野菜のプレートを頼み、ビールで流し込んだ。
ドメスティックエアーの機内食はとても食えたものじゃなく、すっかり腹が減っていたのだ。
 食事を終えると、バーボンのロックを頼む。
 静かだが感じの良い主が、良い香りのするグラスを出してくれた。

 深い森のような、そんな香りを鼻腔から吸い込むと、ケチなトラブルでイライラしていた事も忘れてしまう。
こんなことで和むなんざ自分も歳をとったのか、とついおかしくなってしまった。

 そうっとグラスに口をつけていくと、背後で乾いた音がする。

 店の木製の扉が開く音。
 客が入ってきたのか。

 アナログ音源のデキシーランドジャズとブッカーズの世界に入り込んでいた彼だったが、その軽い足音と、かすかな甘い木のような香りはなぜだかふと現実にひきもどした。

 顔を上げると、その足跡の主はカウンターの自分からひとつ開けた席に腰をかけるのが目に入った。

 女だった。

 次元はつい帽子のつばを上げて彼女を見る。

 女はオレンジ色の長い巻き毛に古いレザーのテンガロンハットをかぶっている。
ムートンのジャケットを脱いだ下は、これまたレザーの思いきり胸元の開いたセクシーなタンクトップで豊かなバストがはちきれそうだったし、思いきりショートに切ってあるジーンズのパンツからは形の良い長い脚がすらりと伸び、そしてなにより細い腰からきゅっと締まったヒップがセクシーだった。
全体に手足は長く細身でありながら、グラマラスなスタイルだ。

彼女は主にオーダーをしながら、その帽子をとってカウンターに置いた。

その時にふと、次元と目が合う。

次元は息を飲んだ。

象牙のようなすべやかな肌に、くるりとした長いまつげ、薄い茶色の大きな瞳、ふっくらした唇、彼女のあまりに美しい造形にすいこまれる気がした。

次元が顔を向けていることに気付くと彼女はとても自然に、にこりと微笑んだ。

営業、というわけでもなく、お愛想、というわけでもなく。

女の笑顔に特有の「媚」とは無縁の、ある意味子供のようなあまりに自然なその笑顔に、思わずめんくらってしまった。

ついつい目を奪われていると、彼女の前にはオムレツのプレートとオレンジジュースが並べられた。
やけに子供っぽいオーダーが意外だが、その明るい色合いは、彼女の髪の色や笑顔にしっくりくる。

、今日も行くのか?」

 老齢だが矍鑠とした主は優しい笑顔で女に言う。

「ええ。結構楽しいわ」

 と呼ばれた女はオムレツをほおばりながら主に笑顔を向ける。

「アルザが生きてたら説教でもくらわせるだろうよ」

 主はくっくっと笑いながら、オレンジジュースを継ぎ足した。

「おばあちゃんなら、きっとわかってくれるわ。」

 女も笑ってオレンジジュースを飲み干した後、さっと立ち上がってジャケットをまとうと、大事そうにテンガロンハットを頭にのせた。

「じゃあアンディ、ありがとう。またね。」
 
 女が出て行った後、次元はすっかり氷が溶けてしまったロックグラスを再度口につける。

「親父さん、ここいらで、女が立っているようなところはないかな」

 次元は煙草に火をつけて主に尋ねた。

「…そうさな。この裏の4丁目あたりには良いねえさんたちが立ってるさ。今日は冷えるから、早く暖まりたいだろう?」

 主はいたずらっぽく笑うが、決していやみではない。

「…さっきの女も、これから立つのか?」

 次元はロックを飲み干して、少し迷いながら言った。
 主はグラスを拭きながらじっと次元を見て、また微笑む。

「そうさな。あの子も4丁目に立つさ。ただ、お前さんのニーズに合うかどうかはわからないがな。興味があるんなら、まあもう一杯飲んでから行ってみな。」

 主は今度はシングルモルトを次元の前に置いた。

「なんだ、ゆっくりしてたら、さっさと客がついちまうんじゃねえか?あの器量じゃ。」

 次元は柄にもなくあせったようなことを言ってしまう。
 主は声を上げて笑った。

「心配するな。これを飲んでから行っても十分と交渉はできる。それに他にもいい女が立ち始めるだろうよ。」

 そこまで言われて、あわてて席を立つほどに彼も子供っぽいわけじゃないし、シングルモルトの香りは彼をそこに落ち着かせるのに十分だった。

 しかし店を出たあと、次元は心なしか足早に4丁目に向かっていた。
さっきの女が目に焼き付いている。
美しいし、妙に心惹かれる女だった。
何だろう。
彼女に触れれば、きっと何かが。

何かの「乾き」が満たされるような気がした。

別にご大層なモンじゃない。

普通に太陽の下で過ごしているような、普通に笑う女。

そういったものが、急に自分の気分を高めるとは意外だった。
これもこの予定外の冬の寒空のせいか?
あの目を見つめて、そしてあの体を抱きしめて一晩すごすのは悪くない。

 4丁目にさしかかったところで、やけに人が多くなっているのに気付いた。
体格の良い男達が列をなしていた。
体格の良い、といっても妙に健全な雰囲気の男が多いのに気付く。
この通りに似つかわしくなかった。
人をかきわけて進んで行くと、さっきの女がその先にいた。
男達と談笑していた。そばに行くと、女が次元を見る。

「…あら、さっきのアンディの店にいた方ね?」

 さっきと同じ、嫌みのない明るい笑顔を次元に向けた。
成りにあわず、丁寧な物腰だった。

周りの男が怪訝そうに見る。
「ああ、そうだ。いい店だな」

 男達の様子を伺いながら次元は前に出る。
この男達は交渉中なのだろうか?
しかし彼女にならば、普段自分が女に払うよりも高い値をつけても良いと、次元は考えていた。

「さっきの店の主に、あんたがここいらに立つと聞いたんでね。いくらだったら、今すぐ俺と来てくれるんだ?」

 周りの男達を牽制しながらもストレートに言う。
と、男達がおかしそうにニヤニヤしているのに気付く。

「ありがとう、でも順番なの。そして私があなたのニーズに合うかどうかはわからないわ。お金は、30ユーロ」

 女は次元をじっと見て、ゆっくり言った。
コールガールが男を品定めするときは、その服装や靴、持ち物なんかで懐具合をチェックする。
でも彼女の視線というのはそうではなく、彼の手や肩、そんなところをじっと見ていた。変わった女だな、と思う。
 そして彼女の提示した金額にはっと気づくと、思わず声を上げてしまった。

「へっ?30?」

めんくらって次元は煙草を落とす。

「私がやっているのはゲームなの。30で1分あげるわ。その間に、ここに描いてある円の中で私の首のチョーカーを取ることができたら、一晩つきあう。そういうルール」

「…ここに並んでる野郎どもは、それに挑戦するって事か?」

 うしろを振り返って、ざっと20人はならんでる腕っぷしの強そうな男どもを眺めた。

「ありがたいことに、そうみたいね」

「ってわけさ、兄ちゃん。あんたも挑戦したけりゃ、並びな。」
 周りの男達に野次られる。

 次元はズボンのポケットに手をつっこんでため息をついてそこを離れた。
 どういうこった。
 あっけにとられていると、彼女の周りを囲んでいた男がすっと離れた。
先頭の男だけが残る。

女は帽子をおきジャケットを脱ぐ。長い髪を軽くまとめた。
男は正面に立ち、構えた。
その、本格的なかまえに次元はおどろく。
たかがコールガールの小娘に、こんな大男が何を本気で?
男はボクシングのかまえで、腕を女の方にまっすぐ打ち込む。
次元は息を飲んだ。この男は正気か?
思いがけず早いパンチが、彼女の体に吸い込まれることを予測して思わず駆け寄りそうになった次元をそばにいた女が制した。

「あんた、初めて?」
「は?」
「あの子とやるのがよ」
「あ、ああ…」

 いかにもコールガールという雰囲気のあでやかな明るい女だった。
先ほど、バーであの女に出会っていなかったら、手軽にこういう女を選んでいただろう。彼女は可笑しそうに笑いながら話しかける。

「あの子がここでゲームを始めて1週間くらいかな…。
あの通り、若くてびっくりするくらいきれいな子よね。
あんなとびきりの娘を30で抱けるなら、あっという間に男たちがやってきたわ。
けど、毎回あの子の出すルール、クロスを取るとか、ブレスレットを取るとか、髪飾りを取るとか、誰もできた試しがない。
そして集まってきた男たちはこてんぱんにやられて、あたし達の客になるってわけ。」

次元の方を見てウィンクする。
 コールガールとの会話も上の空で真ん中の二人を見ていると、女は恐ろしくするどい見切りで男の手足の攻撃をよけている。
彼女は手出しをせず本当によけるだけなのだが、その動きは無駄がなく速く、本当に美しかった。
 男は彼女をとらえようと必死なのだが、見ていると、女はわざと紙一重の見切りでよけているようだった。その、生き生きとした動き、楽しげな表情は本当に輝いて見えた。

「はい、1分よ!」

 息ひとつ乱さない彼女が微笑んで男に言い渡す。
 男はしりもちをついて肩で息をしている。
呆然としていながら、彼女の笑顔につられて、にかっと笑う。

「へへ、やられたな。また来るぜ!」

 立ち上がって、彼女と握手をした。
周りからは女への喝采が贈られる。

「ってわけよ。お兄さん、手っ取り早く女を抱きたかったら、あたしなんかどう?サービスするわ。」
「ああ、俺も挑戦して撃沈したらな。」
「待ってるわ」

 コールガールは艶っぽい笑顔で、さっそく第一回目の敗者の男の方へ歩いていった。

 見ていると、女は本当に舌を巻くほど鮮やかに男達をさばいていく。
男達も本当に試合でもしにきているように真剣に、彼女と向き合っていた。
「ケッ、なんでこんな健全な事をやってるんだか。」
 次元は短くなった煙草を地面に落とし、靴で踏み付けた。

彼女が男達と繰り広げる攻防は、それ自体でもかなり興味深いものであったが、今の彼は彼女とすごす夜の方に興味をそそられる。
 ようやく次元の番がやってきた。

「あら、待っていてくれたのね?」

「ああ、あんたが俺の直前で誰かに連れていかれやしねえか、ハラハラしたぜ」

「ふふ、ご心配なく。ご飯たくさん食べたから、元気なのよ」

 次元から30ユーロを受け取りテンガロンハットに入れて、にこっと笑う。

「さて、始めさせてもらおうか。」

 次元は煙草を投げて、ゆるりと構えた。

「はい、いつでもどうぞ」

 円の中を、次元はゆっくり回って彼女を観察した。
小手調べに一発手刀を入れる。彼女は次元の動きを全て知っているように軽やかに、そして思ったよりもたいぶ早いスピードでよけていた。
(ふうん、そうか…確かに、一筋縄じゃいかねえな。)
 また同じような体勢に二人は向き合う。凡庸な展開だな、と我ながら思った。
 先ほどとまったく同じように、次元は攻撃を仕掛けた。女は同じようにするりとよける。
(そうそう、いい動きだよ、ねえちゃん。)
 次元は左手で自分の帽子を取り、女の顔にかぶせた。

「きゃっ!」

 彼女はめんくらって、ほんの一瞬動きを止める。

次の瞬間、ターコイズのチョーカーは次元の手にあった。

 女は次元のソフト帽を手にして、おどろいたように目を丸くして次元を見上げた。

「さて、と」

 次元は言うが早いが彼女を肩に担ぎ上げ、開いた手には彼女のテンガロンハットとジャケットを持って走り出した。

「ちょ、ちょっと!」

 女が声を上げるのにも構わずそのまま走って、次元は一旦路地に入り女をおろす。
ふうっと息をついた。

「ちょっと、私、自分で歩けるわ!なぜこんな…」

「あんな裏技を使った俺を、あんたの取り巻きの男達が放っておくと思うかね」

 次元が言うと、丁度通りを男達がすごい勢いで走って行くのが見えた。

「いたか!?そっちはどうだ?」
「くそ、どこいきやがった、あの野郎!あんな卑怯な手をつかいやがって!」
「みつけたらたたじゃおかねえ!」

 女は驚いたような顔でそっと彼等を見ていた。

「あんたは皆から愛されているようだな。」

次元は煙草に火をつけて、またふうっと息を吐いた。

「で、あれは反則で認められないかね?」

 次元はにやっと笑って彼女に問いかけた。

「…いいえ、あれは私の負けね。私の動きのラインを読まれていたし、私の視界を遮ってからのあなたの動きも早かったわ。」

「じゃ、商談成立だな。俺の宿はもうちょっといったとこだ。歩くけどいいか?」

「ええ…もちろん」

 女はじっと次元を見上げる。
次元は自分の帽子がないのに気づいた。
 お互いに手にもっているのは、それぞれに相手の帽子だ。
 次元がレザーのテンガロンハットを女の頭にのせると、女も迷ったように少し恥ずかしそうに次元の帽子を彼に手渡す。
 次元はそれをしっかりとかぶりなおし、少しかがんだ。

「あと、これも返さねえとな。」

 手に持っていたターコイズのチョーカーを彼女の首に結んだ。
 少し甘い、春の森のような香りがする。
顔を近づける彼に、やけに恥ずかしそうに目を伏せるそぶりが新鮮だった。

「上着を早く着ておけよ。風邪ひくぜ。」

 言って次元は宿に向かった。すぐに彼女もついてくる。

「俺は次元。次元大介だ」

「ジゲン・ダイスケ…。日本の人?」

「ああ。次元、でいい。…あんたの事はなんて呼べばいいんだ?」

「私は、。気に入ってる名前なのよ」

、か」

 店の主がそう呼んでいるのを彼は聞いていた。
 それでも、初めて聞いたかのように、その名前を繰り返す。

 二人で歩いていると、夜でも曇り空が晴れてくるのがわかった。
 月が地面を照らし始めたからだ。
 思わず二人とも空を見上げると、日付が変わることを知らせる鐘が鳴った。