12日20日(晴のち曇)

 眠っているんだか起きているんだか分からない、ぼうっとした意識。
 そんな次元の頭が、真夜中を知らせる鐘の音ではっとした。
 くそ、眠りかけていたのに。

 が戻った気配はなかった。

 古いこの診療所は、外の物音や診察室の出入りの音など、彼の部屋まで聞こえてくる。
 怪我をしてるとはいえ用心深い彼が、聞き逃すはずがなかった。

 は今夜、戻ってくるのだろうか。

 ゲームを始めてから次元と会うまで負けたことはないと言っていた。
 しかし次元が、乗る予定だったエアーが出なかった上にわけの分らない男に刺されてしまったように、ツイてない事というのは続くものだ。
 今頃、彼自身のような小狡い男にやられているかもしれない。
 この町の安宿に連れて行かれる彼女を想像した。

 どうだっていいじゃないか。

 別に痛みが強くなってきてるわけじゃないし、そもそも彼はちょっとした傷の痛みになど慣れている。
 が朝まで戻ってこなかったとしても平気だ。

 一体何をぐだぐだと考えている?
 考えるべき事は他にもあるはずだ。
 
 彼を刺したBBとかいうふざけた男。

 彼は何者で、何の目的で次元を狙ったのか。
 今でもまだ狙い続けているのか。
 そして、あの男が首からかけていたもの。

 ルパンに助けを求めるべきなのか…。

 そういった事を考えるのがまず先決のはずだ。
 分かっているが、頭がどうにも働かない。
 あせっても仕方がないとも分かっているのだが。

 しかしだからといって、体と頭を休めようとしてもどうにも気持ちが昂ぶって落ち着かない。
そういえば怪我をしたりヘマをしたりした時、いつも次元はそういう傾向にあった。
そういうところがルパンと違うところだな、とあらためて思う。

 今、彼に出来る最善の事はまず眠る事だ。
 いろんな思考をシャットアウトしようと目を閉じるが、そうそう上手くいくはずもなく。
 日が暮れてから何度目か数えることも試みていない大きなため息を、またひとつついた。
 そのたびに走る、左胸の痛み。

 やれやれ。
 もしも俺が傷の痛みでのたうちまわっていたりしてたらどうしてくれるんだ、俺の主治医よ。
 
 隣の診察室から物音がした。
 そして、カツカツという足音。

 次元は思わずホウッとまた大きなため息をつく。
 が、不思議とその時には胸に痛みは走らなかった。

 しばらくすると静かに彼の部屋の扉がそっと開いた。
 薄暗い中で、次元が目覚めているという事をはすぐに理解したようだった。

「痛む?」

 静かな声で言った。
 次元はその、砂にしみこむ水のような声を、一瞬のうちに頭で何度も反芻した。

「いや」

 数秒あけて答えた。

「眠れない?」

「ああ」

 部屋は暗いし廊下の薄明かりの逆光でよく見えないが、が戸口で微笑んでいるのを感じた。
 ずっしりと重かった部屋の空気がふわりと揺れた気がしたからだ。

「シャワーを浴びてくるわ」

 は戸口から、そのセクシーなシルエットだけを見せてまた扉を閉めた。

 さほど時間が経つ事もなく、はガウンをまとって現れた。
 今日は冷え込む。
古い診療所の廊下はさぞ寒かっただろう。

「泊り込みか?」

「ここで仕事している間は、時々泊まってたのよ。朝も早いから便利で」

 のオレンジのようなマーマレードのような色の髪からは、彼女の湯上りの体温とともに良い香りが漂ってくる。

「睡眠薬でも飲む?」

「いらねェ。元々あんまり薬は好きじゃないんでね」

 次元がまたぶっきらぼうに言うと、は何も言わずにベッドサイドのライトをつけて、部屋にあった洗面器に湯を張った。
 それにタオルを浸しながら、ベッドの彼の足元に腰掛けて布団を少しまくって彼の毛むくじゃらの足に手を触れる。
の手のふんわりとした熱。
そして絞った熱いタオルで彼の左の足先を包み、その暖かい手でそっとさする。

「…言っておくが、俺ぁ水虫持ちなんだぜ」
 
 次元は自分の足が冷たかったのだという事に初めて気づいた。
 彼女の行為に、一瞬どうしたらいいのかわからず、とりあえずそんな事を口走る。

「大丈夫、ちゃんと後で手指消毒をするから。医師の基本よ」

 彼女は笑って言いながら次元の足を暖めた。
 次元はガリガリと頭を掻く。
 約48時間前には、自分の体の下で思いのままになかせていた女。
 そんな女に、まるで爺さまのように扱われるとは、次元大介も落ちたものだ。
 温まった足の血管がふわっと開き、体全体が布団にすいこまれていくようになるのを感じながらもそんなことを考えてしまう。

「医師の基本ねェ…。…そういえば俺のアソコに入ってた、小便の管。
あれもアンタが入れてくれたのかい?ああいうマニアックなプレイは上手いのか?」

次元は体を起こして、わざとイヤラシイ手つきを彼女にしてみせる。
は次元の手元と顔を交互に見て、ちょっと肩をすくめながらも、彼の足をさすり続けた。

「あれはミセス・デイジーが入れてくれたの。手術を手伝ってくれたベテランのナーススタッフよ。10年ぶりって、張り切っていたわ」

 次元は食事を運んでくれていた50台半ばくらいの恰幅のよいナースを思い出して、更に体を起こす。

「張り切るって、オイ、俺のに何をしたってんだ!」

 はタオルをもう一度洗面器に浸してから絞り、今度は反対の足を包んだ。

「この診療所で手術をするのが10年ぶりってことよ。緊急のためにいつでも準備はしてあるんだけど、とんと手術はなかったらしいから」

 はくっくっと笑う。
 次元は体をどんっとベッドに横たえた。

「ケッ…」
 
憎々し気につぶやくのがせいぜいだった。
右足も温まると、急に睡魔が彼を襲う。
彼女のやわらかく暖かい手の感触を感じながら、すとんと意識が失われていく。



件のミセス・デイジーが朝食を運んでくる音で目が覚めた。
次元がだるそうに体を起こすと、彼女は部屋のカーテンを開けてくれた。
相変わらずいい天気だった。

「よく眠れたようだねぇ」

 ミセス・デイジーは快活に声をかける。

「まあな」
 
 次元はノンガスの水をごくごくと飲んだ。

「そうそう。水分を沢山取ってご飯しっかり食べて頂戴よ。若いからすぐ回復するわ」

 大きな体を揺らして黒い目で笑う彼女を見ながら、夕べのとの会話を思い出して次元は思わずぷっと笑ってしまう。

「なんだアンタ、怖いお兄さんかと思ったら、笑うとかわいいじゃないよ」

 ミセス・デイジーは言いながら、食事をセッティングしてくれた。

「光栄だ」

 ニッと笑った次元はベッドから足を下ろして座り、ゆで卵をむき始めた。

 食事を終えて歯磨きなんかをしながら窓の外を見る。
 こんな風に規則正しく、酒もタバコもなしで生活するなんざどれだけぶりだろう。
 刺されてから二日か。
 痛み止めのコントロールが上手くいっているのと、痛み自体にも慣れてきたせいか、動き回るのも、深い呼吸をするのも咳をするのも楽になってきた。
 深手だった割に自分で思っていたより回復は早い。
 そりゃ、いつもは五右衛門の荒っぽい治療だからな、と彼の足元で相変わらずコポコポと音をたてる機械を見つめた。



 昼下がりになって、隣の診察室が静かになってくる。
 じっとしてないでなるべく動いておけといわれても、狭い診療所内、どこへ行けるわけでもなく退屈していた次元は、診療室でカルテを書いたりしているのそばに座り、レントゲン写真やらいろんな写真の載った本やらを眺めていた。
 診療室は古いけれど、いろんなものがきちんと並べられ、意外に新しそうな機械が置いてあったりしていかにも現役といった感じだ。

「ああ、あなたのレントゲン写真でも見る?」

 次元があまりに退屈そうにしていたためか、は袋から何枚かフィルムを取り出してライトにかざして見せてくれた。
簡単に怪我の程度と処置を説明してくれる。

「心臓はここで、刺されたところがここ。これが手術中のレントゲン写真で、左の肺がぺしゃんこになってるでしょ?昨日のレントゲンがこれで、ほらその管から空気を引いて、肺を膨らましているのよ。良い感じだと思うわ」

「ふうん」

 わかったようなわからないような感じだが、まあ悪い方には向かってはいないのだろう。

「で、この忌々しい管はいつになったら抜けるんだ?これがある限り、何もできやしねェ」

「そうね、要は肺自体の傷がふさがって空気漏れがなくなれば抜いてあげられるんだけど。大体は手術してから5日から7日てとこかしら。クリスマスの予定はだいぶ狂ってしまったわね?」

「ケッ、ツイてねェ」

 次元は頬杖をついてそっぽを向いた。
 クリスマスはともかくそれだけの間、こんなクソ寒いところで酒もタバコもお預けかよ。

 はレントゲンフィルムを袋にしまうと、書きかけのカルテを仕上げて棚に戻す。

「うちのおばあちゃんが言っていたわ。
 ツイてるとかツイてないとか、本当はそんなことはないんだって。
 良い事があっても、悪い事があっても、それは自分が選択して行動した結果だから」

「…さらりと説教くせぇ事を言いやがんなァ」

「だから、私が言ったんじゃなくておばあちゃんが、よ」

 は椅子をくるりと次元の方にむけて肩をすくめる。

「私だって、そこの路地からあなたを連れてきて手術しながら、ツイてないって思っちゃったわ」

 二人顔を見合わせて、くくくと笑う。

「アンタは、ばあさんっ子なのか?」

「そうね、ほとんどその母方の祖母に育てられたから…。
私の両親はなんていうか変わってて…、私が5歳くらいの時に父はいなくなってしまったらしいし、母はその数年後に事故で亡くなるし…。
祖母が言うには、二人ともバカみたいに奔放だったらしいわ。祖母は至ってマトモな人間で、私も小さい頃から、あなたはマットウに生きなさいと口を酸っぱくして言われてた。
私が大学を卒業したら、安心して死んでしまったんだけど」

「ばあさんの願いどおり、さぞマットウな人生を歩んでるんだろうな。が、これまたどうして俺みたいな男に関わっちまったのかってのが問題だ」

 次元は見ていた本をパタンと閉じた。

「今夜も…行くんだろう?」

「ええ、あなたに痛み止めを打ってからね」

「…ああいうゲームをするってのも、マットウな人生のひとつなのかい?」

 はくるりと椅子を横に向けて、机に置いてあった彼女の帽子を手に取った。
 古いレザーのテンガロンハット。

「これ、母の形見なの。母があそこであのゲームをやって、そして父と出会ったのですって。私の身が軽いのは母譲りなの」
 
 はくすっと笑う。

「あのバーのアンディは母があそこに立っていた頃を知っているって。私は母によく似ているって言われたわ」

 帽子を持ったまま立ち上がった。

「そろそろ食事よ。部屋に戻って。」
 
 次元は肩をすくめて、胸からつながっている機械を転がしながら診察室を出た。
 今日は外が暗くなるのが早い。
 日中はあれだけ晴れていたのに、天気が崩れてきたようだ。