コモからミラノの方向へパンダは走る。
屈託のない明るい緑色の丘や小高い山並、瀟洒で上品な家々。うっすらと赤みがかってきた空。
 これでもかと、嫌味なくらいに平和で美しい景色だった。

 に運転をさせて、次元は助手席で渡された資料に目を通す。

 サッチモは、丁度今の次元と同じような仕事をしていた気の良い男だった。
 腕は良くて、こんな業界にいる割にまっとうな事を言う奴で、そして大体そういうまっとうな奴は長くはいられないのが、この業界だ。
 奴が足を洗ったらしいと聞いたのは、次元がサッチモと最後の仕事をしたすぐ後だった。
 多分、この娘が物心ついてしばらくした頃だったのだろう。

 彼に何を教わったとかは特に印象はない。
 ただ、ひとつだけ覚えている言葉がある。

「お前は何だかんだ言って、自分がイチバンだと思っているんだろう?それがお前のいいところだな」

 最後に組んだ仕事を終えて一杯飲んだ時、次元に向かってそんなことを言った。
 いきがってたあの頃は、大体の年寄りは彼の鼻っ柱の強さを煙たがっていし、彼はそういうベテランのことをロートルだと思っていた。
 そんな事を言われたのは初めてで、だからそれがどうというわけではないのだが、今回サッチモから連絡があって真っ先に思い出したのはその言葉だった。
 それがなかったら、ここまで来る事もなかったかもしれない。

「おい、そろそろ燃料を入れておけよ」

 次元はにガソリンスタンドの方をアゴで指した。

「あっ、はい」

 はっと気づいたように、少女はウィンカーを出してスピードを落とした。
 運転は手馴れているようで、とりあえず次元もほっとする。
 華奢な少女だが教会で見たその体は、スポーツでもやっているのか知らないが、そこそこにトレーニングをされているようだった。
 実戦で使えるかどうかは別にして、なんとか銃も扱える。

 しかしまあ、今までの仕事相手としてはまったくの最低レベルだ。
 運転席の窓を開けて、ガソリンスタンドの親父にカードを手渡すをじっと見ながらため息をついた。

 窓から吹き込む風が、の柔らかい巻き毛をふわふわとなびかせていた。
 ガソリンスタンドの親父はくわえ煙草で、怪訝そうに次元を見る。
 無理もないだろう。
 まじめそうな美少女が運転する車の助手席に、うさんくさいロクデナシ然とした東洋人がダッシュボードに足をのっけて煙草をふかしてたんじゃ。
 目が合うと、思わず次元はニッと笑った。

「…次元さん、何か飲み物はいりますか?」
 親父にカードを渡した後、は次元を見て言った。
「いらねえよ。…それに俺はお前ェの子守でもなけりゃ、護衛でもねェ。相棒っていう依頼だ。次元、でいい」
 遠慮なく煙を吐き出しながら言う。
「…はい」
 は静かに返事をして、背筋を伸ばして前を向いた。

 さて、業界から足を洗ったサッチモだが、まっとうな警備会社のガードマンとして、元同業者の女房とそして娘と安泰に暮らしていたっていう話だった。
 それは次元も風のうわさで聞いたことがある。
 しかしなかなか世の中は上手く行かないもので、2年ほど前から女房のニコル、つまりの母親が病気を患っていたという。
 いわゆる、癌だ。
 若い人間の癌の進行は早く、あっというまにそれはニコルの体を食い尽くして行った。
 サッチモは、なんとかならないかと最新の治療を行う専門の病院に移して療養していたのだが、それも空しく先週に亡くなったそうだ。
 とまあ、ここまではよくある話。

 サッチモも元は業界の人間だ。
 ニコルの死後、馴染みの情報屋と連絡を取った。
 するとどうもどす黒い話が浮かび上がってくる。
 治療を任せていた病院と深く癒着しているC&S社だ。
 北イタリアで大きな力を持つC&S社の製薬部門が、そこの病院では幅をきかせていた。
 確かにサッチモは治療において、ニコルとともに新薬の使用…治験を承諾した。
 が、どうもその病院での治験のやり方は度が過ぎているのでは、といううわさが流れているという。要はデータを得る事をあせるあまり、きつい薬の多量の投与。
 ニコルの死は、それも大きく関係しているのではないか。
 そんな疑惑がわいた。

 そして、サッチモは病院の研究棟に潜入してニコルに使われていた薬のデータと血液サンプルを持ち出す事に成功した。
 本当はニコルの遺体があればいろいろ調べることができたのだろうが、遺体はニコル本人の意思で火葬にし、遺骨にした後だった。

「で、そのデータを南に持っていくってのかい?」
 
 ガソリンスタンドを出て走りながら、次元はに尋ねた。

「はい。父はナポリの病院の研究者と連絡を取って、そこで調べてもらえるという事になったそうです。南の方へ行けば、C&Sの力が及ばない病院も多いそうなので。
抗がん剤はDNAに作用するタイプのものだったら、骨からでもなんとか調べることができるだろうからって。そして、薬そのものや使用法が不適切だったら、その病院と製薬会社を摘発することができるだろうって」

 は窓を開けたまま運転を続ける。
 さすがに次元の煙草の煙が気になってきたのだろう。

「で、サッチモは?」

 尋ねると、は半分まで開けていた窓を全部開ける。
 強く吹き込んできた風に、思わず次元は帽子を押さえた。
 運転をしながらがゆっくり大きく深呼吸をしているのがわかる。

「データを運ぶに当たり信用できる相棒を頼んだと私に言って、二人で家を出ました。
あなたと落ち合う予定のコモに行く途中立ち寄った町で一泊して…私がホテルのロビーで清算をしている間に父は車を取りに行って、私を乗せるためにホテルの前のロータリーに入ってきた瞬間、車は爆発しました」

 少女は静かに、一気にそれだけしゃべる。

「…私はロビーのソファに座ったまま動けなくて…。まるで私の魂が空に浮いて、自分の体とそして燃えている車を上から見ているみたいだった…。
レスキューや警察が来ていろいろ言って、父は死んだと言って、何を言われても私はまったく動けなくて口も開けなくて…」

 次元は何も言わずに、美しい髪をなびかせる少女を見ていた。

「でも、ふと、老人の声が聞こえたんです」

「…老人?」

「自分のカバンがない、盗まれた!と、騒ぎ出した老人がロビーにいて、ふと見ると、そこに黒くて古いアタッシュケースがありました」

 次元は手元のアタッシュケースを見る。
 中に入っているのはサッチモが集めたデータと、美しい布に包まれたニコルの遺骨。
 黒い傷だらけの古いものだった。

「父は時々おっちょこちょいで。それって、ありふれたアタッシュケースでしょう。車に乗り込むとき、間違えて他人のを持って行ってしまったのね」

 は言って悲しそうにくすっと笑う。

「私はそのとき初めて体が動いて、そのアタッシュケースを開けると、やっぱり父の持ってきたデータだった。それが無事だったとわかったら、どうしてだか急に私の体は動いて…」

 言ってまた大きく深呼吸をした。

「警察にも何も言わず父の遺体も車も後にして、ホテルを飛び出してバスに乗り込んで。
あなたとの待ち合わせ場所に向かったの。
なんだか途中、どうやって来たんだか覚えてないけれど、気づいたらあの教会に着いていたわ」

 全開にした窓から強く吹き込む風はの髪を大きくなびかせ、その長い前髪が顔に何度もかぶさる。
 それを邪魔そうにかきあげながら、やっとは窓を閉めた。

「そんなヤバいブツを持って、会った事もない俺に仕事を頼むってわけか」

「父が…」

 髪を整えながらはつぶやく。

「腕の良い、信頼できる奴だって言っていた。次元、あなたの事を」

 田舎道が暗くなるのはあっというまで、は車のライトを点ける。

「…あなたが来るまで何時間もあの教会にいて…、ずっと考えていたわ。
どんな人が来るのか、私にできるのか。私はどうしたいのか。本当に来てよかったのか…。
 あなたがやって来て、会ってみたら初めはびっくりするくらい怖くて。
 でも、どうしてだか…、あなたと会って教会でやりとりをしていたら、ああ私は本当に強くならないといけないんだなと思ったの。
 今まで父から銃の練習をさせられるのなんかも、ずっとイヤイヤで…、そんな風に思ったのは初めてだった。
 だから…何て言ったらいいのかしら…ありがとう、仕事を引き受けてくれて」

 次元は帽子を深くかぶりなおし、足を投げ出したまま、その帽子の影からじっとを見た。
 この数日で立て続けに両親を亡くし、しかも父親が殺されるのを目の前で見た少女。

 そんな子供が一体どんな気持ちでいるのか。

 彼にはさっぱりわからない。
 ただ、その事実だけを受け止める。
 ルパンや五右衛門だったら何か優しい言葉の一つでもかけるのだろうか。
 しかし次元にはまったくそんな言葉は思いつかなかった。


 十代の頃の事なんか、思い出したくもない。
 張り詰めて無様で、毎日余力も残せず一日をすごしていたギリギリの日々。
 勿論、は自分の若い頃になんか、ぜんぜん似てはいない。
 けれど彼女を見ていると、思い出したくもない自分の若い時の気持ちがよみがえる。
 今よりも閾値の低い恐怖のリミット、力のない自分に対する悔しい気持ち、周りのすべてにナイフを振り回すような感覚。

 大なり小なり、みんな若い頃っていうのはそんなものなんだろうか。
 次元は改めて運転席の少女を見る。
 どう見たって、これから大学にでも入って大人になって、優しい男でもみつけて幸せに暮らしていく人生しか想像できないような、少女だ。

 どうしたらよかったのか。
 が考え迷っていたように、次元大介だってあっさりと答えが出るわけじゃない。
 この娘の依頼を受けていいのか、それとも放り出すべきだったのか。
 どっちがこの娘のためによかったのか。
 今だって、正直わからない。

 大人だって、何でもかんでも正解を知ってるわけじゃないんだぜ、お嬢ちゃんよ。
 次元は心の中でつぶやいた。

 空がすっかり暗くなる頃、二人の乗った車はトリノの手前、パエサタという古い町にさしかかる。