● 夜の闇に紛れて  ●

 中学二年っていったらさ、だいたい皆14歳だよね。
 僕の場合、誕生日が2月だから、中学二年をながらく13歳で過ごしてしてきた。
 そして、あれは、僕がようやく中学二年で14歳というつかのまの時期をすごしていた頃の出来事だった。


 1月から2月の、一年で最も寒い時期が終わり3月になると、まるで破裂寸前の風船のように、春がそこまできて溢れ出しそうな気配の日が時々訪れる。それはまさに、気難しいしかめっ面ばかりしている先生が、突然手のひらを返してニコニコと笑い出すかのようにね。
 そんなご機嫌な日の夜は、虎視眈々と自分の時代がやってくるのを待っている木の芽や花々や、そんなものの、ほんのかすかななんともいえない匂いがそこらじゅうに漂うのだ。
 その夜、僕は、自室の窓から侵入してくる、そんななんとも落ち着かない空気の動きにじっとしていられなくなって、コンビニに行ってくると家族に伝えて家を出た。
 空にはどんどんやせ細ってゆく月。
 悪くない。
 月明かりに邪魔されず、星の光を見上げる事ができる。
 僕はヘリンボーンのシャツジャケットのボタンを留めもしないで、歩いて10分弱くらいのところにあるコンビニへと足を向けた。
 そこでペットボトル入りのホットの紅茶を買うと、そのコンビニを通過してあてもなく歩く。
 こういうのは、ロープにつながれたままの気球で空を漂うようなもので、大変気楽で気分が良い。長い旅に出るわけじゃないから何の準備も要らなくて、それでもしばし、完全な孤独と沈黙が得られるのだ。
 僕はどこかゆっくり腰をおろせるところがないかと、ちらちら辺りを見回しながら歩道を歩く。
 バス停のベンチを見たけれど、女の子が一人座っていた。先客あり。
 その先の小さな公園のベンチを見つけて、僕はふうっと息をついて腰をおろす。
 何をするというわけじゃない。
 自宅の自分の部屋で一人でいるのと変わりないじゃないかと言われれば、そうかもしれない。
 でも、深い青い夜空の少し冷ややかな下、爆発を待つ春の予感を感じながら一人でいるのは、僕の胸を躍らせるしそして不思議にどんどん静かに落ち着かせるのだ。
 僕は、日に日に右側から黒に侵食されてゆく月を眺めつつ、自分が、天の深い青と、夜露に湿った匂いを立たせる地面と、その両方に体が溶け込んでいく事を感じる。
 昼間の青空と太陽は、テニスコートに立つ僕をぴりぴりと奮い立たせ、高みに上らせ、何よりこの『不二周助』の輪郭と輝きを際立たせるものだけれど、夜の闇は僕の輪郭をあいまいにする。勿論それはネガティブな意味ではなくて、僕と、大地と、空と、あらゆるものを溶け合わせていくということ。そんな感覚が、ここ最近の僕はとても好きだった。
 この日、僕はその感覚を十分に愉しんだ後ゆっくりと立ち上がり、また家の方へ足を向けた。
 公園にいたのは、そんなに長い時間ではない。
 なんといっても、ほんの一瞬の旅なのだから。
 空になったペットボトルを手に、僕は自分の来た道を戻る。
 ふと。
 バス停のベンチに、例の先客がまだ座っているのが目に入った。
 彼女は、最初に見かけた時と同じく、じっと一点をみつめたままずっと座っている。
 バスは少なくとも1台は通過しているはずだった。
 そんな事に少々気をとられつつも、僕はそのまま帰宅した。


 14歳になった僕は、いや、14歳になる前からそうだけれど、自分は何でもできるような気がしていた。
 学校の部活動でやっているテニスも、順調にレギュラーをとっている。練習をすればする程、自分が強く、上達してゆくのがわかる。小さな子供の頃とはちがって、世の中のしくみや人の心の事も、どんどんわかってゆく。恋らしきものも経験した。
 他人に問われれば、うん、まだ14だからね、なんて自分の幼さを認めるポーズはするけれど、その実、僕は自分に知らない事など、できない事などないと、そんな風に思っていた。ああ、まあ、勿論今でも僕にはそんな傾向はあるんだけどね。


 そんな僕の、やっと14歳になったばかりの中学二年の3月初旬は、本当に暖かい良い日が続いて、新月にむかって月の欠けてゆく僕の好きな夜空。
 夜の散歩がすっかり気に入った僕は、翌日、またひっそりと短い旅に出る事にした。
 前回と同じく、紅茶を買って歩いてゆくとバス停にはまた例の女の子が座っている。
 僕と丁度同じくらいの年頃の、大きな目をした女の子だ。
 彼女が一点を見つめているから、その目がよけいに大きく見えるのかもしれない。
 僕は彼女の前を通り過ぎようとして、そしてその瞬間、ふと実験をしてみたくなった。
 ベンチの前で足を止めると、僕は彼女の隣に、一人分くらいのスペースを空けて腰をおろした。
 彼女は少々意外そうに僕を見る。
 僕は軽く会釈をして、そしてそのまま黙って紅茶を一口飲んだ。
 彼女もそのまま何も言わず、またあのまなざし。
 彼女は道を挟んだ向かいの、何かをじっと見ているようだった。
 僕の実験とは、物理的に他人が近くにいても、僕は完璧な沈黙と、夜空と大地との一体感が得られるのかどうか、ということ。
 僕は昨日と同じく、空を見上げては時折紅茶を飲む。
 うん、悪くない。
 なぜだか僕には分かった。
 隣で、彼女も僕と同じく、誰にも邪魔をされない沈黙を心地よく蓄えているのだと。
 しばし、僕らはそうやってそれぞれの沈黙を愉しみ、そして僕がまた空を見上げた瞬間、ふと何か空気の色が変わったような気がした。
 はっと視線を落とすと、隣の彼女が立ち上がり、静かに去ってゆく。
 僕はちらりと視線の端でそれを捉え、また空を見上げた。



 別にミステリアスな何かを期待していたというわけではないが、その不思議な沈黙を共有した相手とは、あっけない再会を果たした。
 それは僕が通っている青学中等部でだ。
 ゴミの集積所へ運ぶ台車から、だらしなくこぼれ落ちたゴミ袋や不要図書なんかを四苦八苦しながら拾い上げている彼女を、僕はすぐに見つけてしまった。
「大丈夫?」
 ちらばった古い学級便りのファイルの束なんかを拾い集めるのを手伝いながら僕が言うと、彼女は驚いた顔で僕を見上げた。
「……ああ、不二くん、ありがとう」
 名前も知らない、僕がその存在を認識したのもほんのここ最近である彼女が僕の名前を知っている事に、さほど驚きはしなかった。まあ、それくらいには、僕は自分自身を分かってはいるって事。自意識過剰と言われるかもしれないけどね。
「同じ学校だったんだ」
「うん……」
 台車からあふれたものを一通り収めなおすと、僕は台車を押すのを手伝った。
 ルールというわけじゃないけれど、太陽の光が照りつける昼間は、彼女と話をしても良いような気がした。
「バス、待ってたの?」
違うと分かっていながら、僕は尋ねてみた。勿論、あの夜のことだと彼女にはすぐわかるはず。
 無粋は承知。だけれど、僕は彼女が一体何を見つめてあそこに座っているのか、ちょっと興味があったから。
「ううん、違う」
 彼女はそう言うと、少し恥ずかしそうに笑った。
「あんな風にぼーっとしてると、ヘン?」
 彼女が言うので、僕は首を横に振った。
「ヘンじゃないよ。僕だってぼーっとしてたわけだし」
「……ちょっとね、なんだろう、月を見てるようなものだよ」
 彼女は少し考えてから言った。
 月? 
 昨夜は、彼女は一度だって月の出ている方を見なかったと思うけれど。
 僕のそんな考えが顔に出ていたのだろう。彼女は続けた。
「……あそこの通りの向かいが、おばあちゃんの家でね。おばあちゃん、気楽だからって一人で暮らしてるの。けど、最近心臓の具合がちょっと悪いらしくてね、なんとなく心配で……ちゃんといつもの時間に電気消え
るかなーって見てるんだ」
 ああ、なるほどね。
 昨夜僕が空を見上げている時に、一瞬何かが変わったような気がしたのは、通りに面する家の明かりが一つ消えたからだったんだ。
 僕は、何万光年も離れた夜空の星を気にしてはいたけれど、目の前の家の明かりには気付かなかった。ヘンな話だけど。
「そうか、確かにいつも夜空に現れる月や星を観察するみたいな感じだね。もっと手の届くところの灯りだけれど」
 僕が言うと、彼女は一瞬不思議そうな顔をしてから、ふふっと笑って肯いた。
 台車のゴミを集積所に全て下ろすと、彼女はぺこりとお辞儀をして僕に礼を言い、それを押して教室へ戻りかけた。
 しばし僕は逡巡する。
 彼女がごろごろと空の台車を押してゆくのを、呼び止めた。
「ねえ、名前、何て言うの?」
 彼女は足を止めて振り返る。
 まだ、十分普通の声が届く範囲だ。
「…… 。2年4組」
 そう言ってまたぺこりと頭を下げると、再び校舎の方へと向かってゆく。
 そうやって、僕の『沈黙の友』の名前が判明したのだった。



 その3月の最初の週は、匂いたつようにふわりと暖かい日が続いたので、僕は毎日のように夜の旅に出かけた。乗り込むのは、例のあのバス停のベンチ。勿論、となりには
 爪の先のように鋭く美しくやせ細ってゆく月の下、僕らはじっと黙ってベンチに座る。
 まるで条件反射のように、僕はそこに彼女と座ると、自分が一人きりであるという安心感、そして春に向けての力を充填しつつある大地、青い夜空との一体感、それらを得る事ができた。
 僕がそれまでと違うのは、夜空の細い月や星を眺めるのではなく、彼女が見つめる、通りを挟んだ家の明かりを彼女とともに見つめていたという事だ。
 口には出さないけれど、僕は心の中で僕と彼女を『夜の騎士団』と呼んだ。もちろん、冗談半分にだけどね。
 僕は彼女の祖母の家の明かりを眺める。
 平屋作りの、古いがしっかりとしたよく手入れのされた家。
 そこからは、オレンジ色の暖かい光が漏れている。
 それは毎晩10時くらいになると、静かに消灯し、 さんはそれを確認するとほうっと安堵の息をつき立ち上がって歩き出すのだ。
 彼女の祖母の神聖なる孤独を守る、 さんの孤独と沈黙。
 そして、その隣の僕の孤独。
 まるで夜の空の、隣り合う星々みたいだと、僕は柄にもないことを考えて苦笑いをした。
 一人だけれど、一人ではない。一人ではないけれど、完全に一人。
 僕は、大地と空への一体感に慣れて来たように、何も言わない彼女との沈黙にもなじんでいった。夜の闇は、人と人との輪郭もあいまいに溶け合わせる。
 


 あと少しで月が消え入るという頃、僕は紅茶を手にいつものベンチに向かい、そして意外な光景に思わず足を止めた。
 ベンチに座る さんは下を向いて何やら微笑んでいた。
 何かつぶやいたと思ったら、彼女の膝に竜巻のように飛び乗る何か。
 痩せた灰色の猫だった。
 彼女が愛しげにその頭をなでながら何か声をかける、その姿を見た僕は、不意に高鳴る心臓をかかえたまま、くるりと踵を返した。
 そのまま家へ引きかえす。
 僕は驚いてしまったのだ。
 だって、僕の胸には嫉妬が渦巻いた。
 僕以外のものが、あの空間に割り込んで彼女の沈黙を破るなんて。
 驚いたのは、そのことにではなく、そんな猫に激しく心を乱される僕自身にだ。
 この世の大体のことはわかっている、特に自分自身のことなんて、と思っていた僕が、こんな不可解な気分に陥るなんて。
 僕が彼女に恋をしているのかとか、彼女を独占したいと思っているのかとか、まずそんなことからして考えたもないのに。
 嫉妬だなんて。



 翌日、後1〜2日で月は完全に姿を消すというその夜、僕はあらためてあのベンチに向かった。彼女は、昨日僕がいなかったことなど何も気にしていないように、変わらずそこにいた。いつものように僕は静かに隣に腰をおろす。
 僕の胸には、昨夜のあの時の気持ちが熾火のようにかすかに残ったまま。
 それは僕の夜の孤独の旅への出発をひどく邪魔するので、僕はベンチにもたれながらそうっと を観察した。
 小さな白い手、ジーンズの先から出た足には、スリップオンのレザーのサンダル。
 やわらかな前髪の下の目は、いつもあの家を見つめている。そして、その先の何かを一人、見つめている。
 学校で、廊下で、すれ違ったりする彼女と軽く挨拶を交わす以外、僕はまだ彼女とほとんど話をしたことはないけれど、不思議と彼女のことはわかるような気がするのだ。
 何が、とは上手くいえない。
 けれど、これだけ沈黙を共有した相手というのは、他にいないように思う。
 僕は、自分で自分のこころの中の動きを、上手く表現できないなんてことがあるなんて思いもしなかった。
 その日の僕のこころは、いつもと違って沈黙ではなかった。
 何も言いはしないけれど、こころは妙にざわつき、視線は空や家の明かりを見つめている振りをしながら、彼女を見る。
 そんな、夜だった。
 不意に、彼女が落ち着かなさげに腕時計を見る。
 僕もはっとして、自分の時計を確認した。
 10時を、いつもより大分まわっている。
  さんは不安げに、時計と彼女の祖母の家の明かりを交互に見つめた。
「……電話、してみたら?」
 僕は、そのベンチで初めて彼女に口をきいた。
「あっ……うん!」
 彼女は僕の言葉で初めてそれに気付いたように、あわててポケットから携帯電話を取り出すと、番号をプッシュした。
 電話を耳にあてている彼女の不安そうな顔はかわらない。どうやら電話に出ないようだ。
 僕は立ち上がって、彼女の手を取った。
「行こうよ」
 彼女は電話をポケットに仕舞うと、不安そうな顔のままで僕について通りを渡った。
 僕は迷わず、彼女が見つめつづけていた家の庭に通じる枝折り戸から中に入る。
 不思議だけれど、こういう時、関係のない人間であるはずの僕みたいな者の方が落ち着いて積極的に動けるみたいだ。
 庭の敷石の上を静かに歩いて、中から灯りのもれる玄関の前に立つと さんを振り返った。彼女は僕の視線を捉えると、一歩前に進み出て人差し指で力強くインターホンを押した。数度繰り返す。中から物音はしなかった。
 彼女はもう一度僕の目を見て、そしてドアノブをそっと回した。
 それは、あっけなくくるりと回って僕らのいる方へ開いた。
「おばあちゃん!」
 中に入ってすぐに彼女は叫ぶ。
 玄関先のところで、山吹色のカーディガンを着た さんのおばあさんと思われる人が苦しそうにうずくまっていたのだ。
「……あれまあ、 ちゃん……」
 おばあさんは、胸を押さえたまま苦しそうに笑って僕らを見上げた。
 僕はすぐに自分の電話を取り出して救急車を呼んだ。



 結果から言うと、 さんのおばあさんは軽い心筋梗塞で、一週間ほど入院し処置をしてすぐ退院になった。春先は、寒暖の差が激しくなるので具合が悪くなるケースが多いらしい。
 その夜、僕は さんと一緒に救急車に乗って病院までついていった。
 病院で、家族の到着と処置を待ちながら彼女はつぶやいた。
「心配は心配だったんだけどね、私、おばあちゃんが一人で凛としているところ、好きだったんだ。だから……ああやって、私も一人で、おばあちゃんも一人で、まるで月でも見るようにじっと見てる時間、好きだったの。でもこんな事なら、普通にさ、心配だからって遊びに行ってたらよかったのかもしれないよね」
 少し後悔するように言う彼女の隣で、僕はしばらく黙ったまま、夜の闇に紛れてこの町をはるか上空から見守っている小さな星々を思い描いた。
 彼女に、何て言ったら良いのかはわからなかったので、結局何も言わない。
 けれど、きっと彼女の祖母は、自分の孤独と沈黙を彼女が大切にしてくれたことを喜ばしく思うだろう。
 僕はなんとなくそう思った。
 黙ったままの僕に、となりの彼女は小さな声で、ありがとう不二くん、とつぶやいた。



 春になって僕らは三年生になり、 は僕と同じクラスになった。
 そして、 さんのおばあさんは、この春から彼女の家で一緒に住む事になったらしい。
 つまり、僕と さんの『夜の騎士団』はひとまず解散だ。
 あれから一度昼間におじゃました さんのおばあさんの家の屋根は、夜に見ていた時には黒だと思っていたけど、明るいところで見ると深緑色だった。
 おばあさんは、引越しで全部は持っていけないと悲しそうに鉢植えを眺めていたので、僕はその中の『月下美人』をいただくことにした。大切にしてかならず花を咲かせますよ、と言うとおばあさんは嬉しそうにしていた。毎年、夏の一夜にひっそりと花を咲かせていたというその立派なサボテンの鉢は、今、僕の家の庭の木陰に大切に置いてある。

 さて、僕は同じクラスになった さんと、孤独と沈黙以外も共有してみたいと思うようになった。
 そして、彼女が灰色の猫を抱いているのを見た時に僕が感じた、妙な感覚の正体もつきとめてみたい。
 3月の優しい夜の闇で、僕は彼女といつまでもどこまでも黙ったまま空を旅することができるような気がしたように、今、太陽の下で彼女と話したい事も山ほどある。
 あの夜、病院の廊下で握り締めていた彼女の手の温度を、また確かめてみたい。
 僕の今年の春は、一見静かに見えて、それでいて暖かい風がほうぼうから吹き荒れ、きっと心は熱で溢れかえるだろう。

(了)
「夜の闇に紛れて」
2008年誕生日企画 heart is always 様 に参加させていただきました

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