● やくそく  ●

1.関東大会決勝

 7月のその日は、パフのようなふわふわとした雲が真っ青な空に現れては消え、現れては消えを繰り返していた。ねばりつくような熱い日差し。そして、日差しとは別の熱は、周りの沢山の立海大附属中の応援団から伝わって来る。
 テニス部の関東大会の表彰式を眺めながら、は大きな渦に翻弄されるような感覚を体感していた。
 はテニス部の試合を観るのも、そして、真田弦一郎の試合を観るのも初めてだ。
 皇帝と呼ばれている真田弦一郎はシングルスの試合で東京の学校の1年生の選手に敗け、その瞬間に立海大付属中は関東準優勝となった。
 つまり、優勝を逃したということだ。
 文字にするとそれだけのことであるが、現実にその試合が繰り広げられている空間に居合わせた者としては、とてもそんな言葉で片付けられるものではなかった。

 真田くんは敗けたけれど、ものすごい試合だった。
 真田くんは、本当に「強い」人なんだ。

 は胸の奥を震わせながら改めて思った。
 東京の1年生、越前という選手は素人目に見てもわかるほどに天才肌で強かったけれど、きっと弦一郎はその1年生に勝って当たり前という立場だったのだろう。実際、弦一郎は日本の中学テニス界では皇帝というふたつ名の通りトップクラスだ。そんな弦一郎が全力でまっすぐに試合をして敗けた。
 遠目に見える真田真田弦一郎は、もちろんとても悔しそうであり猛っているように感じた。
 でも、それは決して、自分を負かせた1年生に対して腹を立てているだとか、憎いと思ってるとかではなく、とてもまっすぐに「二度と敗けない」と心に決めているような。
 そんな、今までよりも更に強い気持ち。
 はスポーツに詳しくはないが、このテニスの試合には、個人の試合の勝ち負けのみならず、チームの勝敗という二つの意味があるということはわかる。思い返せば、弦一郎はいつも「我が立海の勝利が」などと言っていて、自分一人で強くあることだけでも大変なことだろうに、彼は当然のようにチーム全体と向き合い背負っている。そう、それが彼に取っては当たり前のことなのだ。
 すごいな、真田くんは。
 は開場の熱気の渦の中から、試合を終えた立海大付属中テニス部のチームを眺めた。


『応援頼んだぞ』


 が心の中で拠り所としていたそんな彼の言葉は、今はやけに遠い。
 弦一郎は、この渦の真ん中にいる。
 立海テニス部の選手たちや応援の生徒たちの膨大な熱を、決して臆する事なくまっすぐ受け止めている弦一郎。
 その強い姿勢は、試合に勝っても負けても、きっと変わらないのだろう。
 そんな彼を見つめながら、試合が終って胸の奥の熱が落ち着いた瞬間、の頭をよぎったのは、が今携えているしわしわになった青い包みのこと。
 去年、弦一郎に渡せなかった誕生日の贈り物。
 きっと今の弦一郎にとっては、思い出しもしないだろう、小さな約束。

『関東大会で俺が勝ったら、あれをもらうことにする』

 そんな言葉を胸の奥で宝物にしながら、試合を観ていたは、自分の気持ちが不純なのかもしれないという思いに陥った。
 急に自分が恥ずかしくなって、胸が苦しくなった。
 こんな試合を観せられたら、自分の今までの弦一郎への数々の言動は、まさに「たるんどる」としか言いようがないだろう。

「……真田、敗けちゃったね。でも、なんか、すごかった……」

 隣から遠慮がちに声をかけてくるのは、友人の香里奈。めずらしく日焼けをすることも気にせずに、額に汗をにじませながらと一緒に試合を観てくれた。

「うん、すごかった……」

 今はそれだけしか言えない。
 表彰式が終って、たちがいる応援席の前を立海テニス部の選手たちが通った。
 はまるでお守りのように持っていた青い包みをぎゅっと両手でにぎりしめた。ただでさえしわしわになっていたのに、もう包装紙が破れてしまうかもしれない。
 弦一郎がたちの前を通る時、一瞬、弦一郎の視線がに止まった。

 もしかしたら、何か言ってくれるのだろうか。

 そう思ったのは一瞬で、弦一郎はそのまま無言で通り過ぎて行く。
 別段、意外な事じゃない。
 当然のことだ。
 自分が期待するのが、いけない。

 そう、私が真田くんを好きになったのがいけない。

 弦一郎を好きにならなければ、胸の奥を焦がしてその痛みに苦しむこともなかったし、弦一郎に迷惑をかけることもなかった。
 こんなに大きなものを抱えている弦一郎に対して、自分などの個人的な気持ちはとてもふさわしくない。
 今日、試合をする彼を見て、彼は自分と違う世界に生きている人なのだと思い知らされた。

 やっぱり、私は真田くんを好きにならなければよかった。
 
 弦一郎の後ろ姿を見送りながら、は自身の意識が遠のくことを自覚した。
 自覚しても、もう遅い。
 外気の熱に比して、顔や手足が冷たく感じる。
 香里奈がの名を呼ぶ声が、遠い。




2.立海大附属中テニス部

 関東大会決勝が終わり、テニス部のメンバーは普段どおり一旦学校に戻り、ミーティングを行う。
 この日、部員全員が心待ちにしていた報せがひとつある。
 幸村精市の手術が無事に終了したという報せだ。
 その連絡を受けた柳蓮二が、部員全員に報告をし、全員が安堵の息をもらした。
 そして次に直面するのは、手術が終った精市に勝利の報告ができないという事実。

 弦一郎は立ち上がり、レギュラーメンバー全員にコートへ出るよう命じた。
 そして自ら、レギュラーメンバー全員からの鉄拳制裁を要請し、それを受け止めるのだった。

 
 水道の水でタオルを濡らし、さすがに熱を持つ頬を冷やそうと軽くそれを絞った。
 アイボリーのその肌触りの良いタオルは愛用のもののひとつだ。
 今年の誕生日に、から贈られたもの。
 弦一郎の脳裏には、試合会場の彼女の姿がよぎった。
 そして、彼女の手に握りしめられていた青い包み。
 の前を通り過ぎた一瞬に、その青い包みが破れそうに強く握りしめられていることまで見えた。
 けれど、彼女の眼を見ることができなかった。
 本当は、言うべきことがあるはずなのに。
 守れなかった約束のこと。

 水道の前で、弦一郎はキャップを脱いで、頭からざぶりと水をかぶった。
 硬く絞りなおしたタオルで、髪と顔を拭う。
 大きく深呼吸をしてからキャップをかぶり直し、部室へ向かった。
 その時、ちょうど弦一郎より一足先に部室へ戻ろうとしている柳蓮二の背中が見えた。
 そして、彼に駆け寄る女子生徒の姿。

「あっ、柳くん、ちょうどよかった! が大変なの!」

 柳蓮二を呼び止めるその横顔には見覚えがあった。
 が親しくしている女子生徒だ。今日も確か、会場のの隣にその姿を見た記憶がある。
 立ち止まった蓮二が弦一郎の方を振り返ったので、その女子生徒もつられて顔を向け、そしてぎょっとしたような表情。

「……がどうかしたのか」

 思わず弦一郎が尋ねると、その女子生徒はうろたえた様子で蓮二と弦一郎を交互に見比べた。
「あ、うん、たいしたことじゃないんだけど。あっ、ねえ、柳くん、ちょっといい?」
 蓮二のジャージの裾を引っ張って、その場を離れようとしていた。
に何かあったのか」
 弦一郎がもう一度尋ねると、女子生徒は助けを求めるような視線を蓮二に向けた。
「弦一郎、とりあえず木元は俺に話があって来たようだ」
 彼はそれだけ言うと、軽く手を振って、部室の横の木陰のベンチの辺りに彼女と向かった。
 少々苛立った気持ちを抱えたまま、弦一郎は部室に入ろうとするが、脚が動かない。
 木元という女子生徒と蓮二は、ベンチに腰掛けることもせず木陰で立ち話をしている。
 男女の事には疎い弦一郎であるが、その二人の様子が艶っぽい雰囲気でないことはわかった。
 部室の前に立ったまま、弦一郎が話し込んでいる二人をにらみつけていると、その木元という女子生徒と目が合い、彼女は困ったような表情で視線をそらした。
 ひと通り話が終ったようで蓮二は部室に戻ろうと、仁王立ちになっている弦一郎の前を飄々と素通りしようとした。
「蓮二、がどうしたというのだ」
 そんな彼を呼び止める。
 当然、想定済みのことだろう蓮二は足を止めて、弦一郎の方に顔を向けた。
「……心配することはない。会場が暑かったのだろう。軽い熱中症になったそうだ」
 彼の言葉と、先ほどの女子生徒の慌てた様子には少々違和感を感じながらも、弦一郎はその言葉に反応した。
「何? 熱中症だと? それで、今はどうしているのだ」
「病院で休んでいるらしい」
「入院をしたのか!」
 弦一郎がつい大声を上げると、女子生徒が蓮二に駆け寄った。
「ちょ、ちょっと、柳くん! 話が違うじゃない! 真田くんには言わないようにって、あれほど頼んだのに!」
 今度は弦一郎は彼女をにらみつける。
「なんだと! 蓮二に報告をして、なぜ俺には言わん! 俺は立海大付属中テニス部の副部長だぞ! 応援に来ていた生徒に何かあったとなれば、俺が把握しておく義務がある!」
 怒鳴りつけると、彼女は蓮二の後ろに隠れるようにしながら、鼻白んだ顔をする。
「そんなに怒鳴らないでよ。柳くん、ちょっとなんとかして」
「こうなったら仕方ないだろう、木元」
 蓮二はちらりと彼女を振り返ってから、弦一郎に向きなおった。
「先ほど言ったとおりだ、弦一郎。が熱中症で病院にいる。ひとまず、俺がテニス部を代表して見舞いに行くことにした」
「だったら、俺も行く。俺は副部長としてその責務がある」
 蓮二の背後で、女子生徒が「言わんこっちゃない」という顔をする。
「たいしたことはないということだ。あまり大人数で行っては返って迷惑になる」
 蓮二はぴしゃりと返した。
 幸村精市が入院をしたことで、病院の雰囲気などを十分に思い知った弦一郎は、一瞬言葉につまった。
「……だったら、蓮二、お前は行かなくていい。俺が行く」
「えー! 私は柳くんを呼びに来たんだよ、真田くんと二人で病院に行くなんて、ちょっと無理……!」
 蓮二の後ろで女子生徒が、かんべん!とばかりに声を上げた。
「だったら、お前も行かなくていい! 病院の場所さえ聞けば、俺が一人で行く」
「女の子が入院してるのに、真田くんみたいないかつい男子が突然一人でお見舞いに行ったりするの、おかしいでしょ!」
 負けじと言い返して来る彼女。真田はまた反論の言葉につまる。
「そ、それは……! しかし、俺がテニス部の副部長の責務として出向いているということさえ伝えれば……」
「いや、真田くんが一人で行くの、絶対おかしいって! もし、のお母さんとかが見たら、びっくりしちゃうって!」
「なんだと! 俺が、の親御さんを驚かせ心配させるような男だというのか!」
「ほら、そのリアクションがすでにおかしい!」
 弦一郎が彼女と言い合いを続けていると、頃合いと思ったのか、蓮二が割って入った。
「まあまあ二人とも、それくらいにしておけ。……木元、もう仕方ないだろう。弦一郎に本当のことを話してやれ」
 蓮二の言葉で、それまで機関銃のように弦一郎にまくしたてていた彼女がふと黙った。
 その気の強そうな整った眉を、一瞬困ったようにハの字にする。
「……本当のことったって、どう言ったらいいの、柳くん」
 言いよどむ彼女を尻目に、蓮二が穏やかな口調で彼女の話の導入を始めた。




3 入院

 関東大会決勝の試合会場でが倒れてから、周囲の対応は迅速だった。
 応援団の顧問の先生が居合わせたので、すぐさま応急処置がなされ自動車で病院に連れて行ってもらうことができ、自宅に連絡が入った。
 幸い、の意識はすぐに回復し、「、心配しちゃったじゃない!」と手を握る香里奈を、彼女はいつものあの大きな目をまん丸にして見つめ返した。
「熱中症だって。びっくりしちゃった」
 香里奈が言うと、は恥ずかしそうに、ごめーんと苦笑い。そして、一瞬考えを巡らせるような顔。
「あれ、ねえ、そういえば私たちがさっきまでいたのって、テニス部の試合会場だったよね。私たちって、どうして試合の応援に行ったんだっけ? 香里奈ちゃん、誰かを応援してたんだっけ?」
「え? 何言ってんの? が応援しに行きたいからつきあってって言って、一緒に行ったんじゃん。今日は負けちゃったけど、すごい試合だったよね」
「うん、あの東京の学校との試合だよね。でも、私が応援しに来たいって言ったっけ? 香里奈ちゃんじゃないの?」
「えー? ちょっと、、どうしちゃったの!」

 香里奈があわてて医師を呼びに行くと、医師はの瞳をライトで照らしたりいくつかの質問をしたり、簡単な検査をした。
 その時にちょうどの母親がかけつけ、医師と香里奈に深々と頭を下げた。
「香里奈ちゃん、ごめんね、そしてありがとう。ほんっとこの子って、ぼーっとしてるから。暑い会場に行くのなんて慣れてないから、ちゃんとお水飲むの忘れないようにねってあれほど言ったのに」
「やだ、お母さん、ちゃんと言われたとおり飲んでたよー。でも、ごめんね。お母さん、今日はお友達と中華街行くって言ってたじゃない」
「うちの子が熱中症で倒れたって聞いて、豚まんたべてられないでしょう」
「頼んでたお土産は?」
 ばーかと言って頭をはたこうとして、医師にいさめられていた。
「まあまあ、大した事のない様子で何よりです。軽く頭を打っているかもしれませんが、痛みもないようですし、心配する事はないでしょう。念のため、今夜一晩は入院をして様子を見て、明日帰られてはどうですか」
「どうする、
「その方がいいっていうなら、それでいいよ。入院なんて滅多にないし」
がいいなら、そうしときましょう。ほら、一応タオルとか着替えとか少し持って来たから」
 の母親は小さなバッグを持ち上げてみせた。
 医師は、の母親に、もう一度症状と処置の説明をしていた。熱中症の症状があり、点滴をしたこと、軽い記憶の混乱があったようだが、今は問題なく脳に異常があることもまずはないだろう。念のため今夜一晩様子を見て、変わった様子があれば明日にCT撮影をするが、変わりなければそのまま家に帰ってもらうことにする。
 そんな説明だった。
「わかりました、よろしくお願いします」
「お母さん、もう帰っていいよ。あとは大丈夫」
 はそろそろ母親にあれこれ言われることに辟易したのか「晩ご飯の支度もあるでしょ」とかもっともらしい事を言ってみせる。
「そお? まあ元気そうで安心したし、じゃあお母さんは一旦帰るね。何かあったり、必要なものがあったら電話しなさいね、夜にでもまた来るから。香里奈ちゃん、今日はほんとありがとうね」
 の母親が医師と話しながら病室を後にした。
 香里奈は改めてに向き直り、医師を呼ぶ前の話に戻ろうとしたら、は母親が持参した荷物の中の紙袋を開けて笑顔を見せた。「わー、お母さん、なんだかんだ言って桃まん買って来てくれた! 二つあるから、食べよ、食べよ」と言って差し出すので、香里奈もぱくりとそれにかぶりついた。そういえばお腹が減っていたんだ。饅頭の甘みがじわりと身体に染み渡るのを感じる。
「あのさー、
「うん?」
「さっきの話だけどさ」
「さっきのって?」
「ほら、どうしてテニス部の試合観に行ったのかって」
「ああ、うん」
、テニス部に好きな人がいるから応援しに行きたいって言ってたんだよ」
 もぐもぐと桃まんをほおばるの口の動きが止まり、目がまん丸に見開かれた。
「えっ、えー!? 私が!」
「そう」
「うっそ! だ、誰を!?」
「……え、うーん、それはまだ教えてもらってなかったかなー」
 香里奈は動揺を隠しながら、の様子を観察した。
 は平然と嘘をついたり、知らん顔ができるタイプではない。筋金入りの泣き虫で、喜怒哀楽や心に思っていることがすぐ表情に出る方だ。こうやって香里奈をからかっているとは思えない。
「やだ、そんなのぜんぜん思い当たらないよ……」
 香里奈は残りの桃まんを一口でたいらげると、不安そうな顔をするの背中をばんっとたたいた。
「でもさ、ほら、テニス部レギュラーって結構みんなカッコいいじゃん。人気あるしさ、そりゃ好きにもなるって。そのうち思い出すんじゃない?」
「……うーん、でも気になるなあ。香里奈ちゃんは誰だと思う?」
「えっ、私が好きってわけじゃないんだからさ。こそ、今の時点で敢えて誰かと考えたら、誰だと思うの」
「うーん」
 は腕組みをして考え始めた。
「確かにみんなカッコいいよね。でも……ひとまず柳生くんはないかな。あまりに真面目すぎて……」
「ああ、確かにそうだね。同じクラスの子が言ってたけど、授業中、すっごい挙手するらしいよ」
「へー、そんな感じ。あとは……あ、そうそう、香里奈ちゃんが結構仲がいい柳くんなんかは割といいよね。親切だけどさっぱりしてて。香里奈ちゃんたち、ほんとにつきあってないの?」
「ないない。1年の時に同じクラスだったから、仲がいいだけだよ」
「ふーん、そっか」
「で、他には?」
 香里奈は我が事のようにどきどきしながら、考え込むをじっと見た。
「部長の幸村くんって入院してるんだっけ。早く元気になって戻って来られるといいね」
「ほんとだよね。……でも部長が不在の間は、ほら、副部長の真田っているじゃん。部長の留守をあずかって、頑張ってるみたいだよ」
 副部長の真田くん、とつぶやくの表情をじっと見守った。
「あの最後の試合をした子だよね」
「そうそう、真田弦一郎。ほらー、が好きなのって、真田だったりしないの?」
 言うと、はまた目を丸くして、そして吹き出した。
「えっ、私が? いやー、ないよ。だって、あまりに怖そうすぎるじゃない」
 さらりと一言。
「……あ、ま、そうだよね」
「あとは、テニス部のレギュラーって言ったら、丸井くんと仁王くん、ジャッカルくんだっけ」
「もう一人、2年生の子がいるよ」
「ああ、そうだ、あのやんちゃそうな子ね」
 はもう一度腕組みをして、うーんと考え込んだ。
「丸井くんって結構いいよね。可愛いし、話しやすいし。購買で会って、何回か話した事ある」
「えっ、そうだったの!」
 香里奈は初耳のことだったので、驚いて声を上げてしまった。
「ぜんぜん知り合いでもないけどね、私がお菓子を買おうとして棚を見てると、それはイマイチだとかこっちが美味いとか教えてくれた事があるよ」
「へえ〜」
 何しろが真田弦一郎を好きだという話は有名だから、テニス部の丸井ブン太も面白半分でちょっかいを出して来たのだろう。
 それにしても、そんなことは覚えているというのに……。
「……どうしよう。私が好きな人って、丸井くんかな?」
「えっ!?」
 意外な展開に香里奈はまた声を上げた。普段は冷静な方だと思っているのに、今は動揺しっぱなしだ。
「確かに丸井くんは、可愛いしかっこいいしイイ奴っぽい……。好きと、思えなくもないし、ちょっとしばらく丸井くんのことを考えて思い出してみるよ」
「ちょ、ちょっと、! 今日はさ、ほら、あんまり深く考え込まないでゆっくり休んだ方がいいんじゃない?」
 香里奈があわてて言うと、は「そりゃそうだね」と笑ってポンと布団をたたいた。
「じゃ、私、ひとまず帰るね」
「うん、今日はほんとごめん。でもありがとう。香里奈ちゃんがいてくれて、ほんとよかった」
 バッグを肩にかけながら「ぜんぜんいいんだよ」と言って、ふと思い出したように香里奈は視線をに戻した。
「あのさ、が試合会場で具合悪くなっちゃったこと、一応テニス部の柳くんには報告しといていい? ほら、応援団の顧問の先生が対応してくれたから、きっとそのうちテニス部顧問を通して耳に入ると思うんだよね。先に報告しといた方がいいかなって思って」
「あ、そうだよね。心配かけちゃうもんね。大した事ないからって言っておいて」
「うん、じゃ、またね」
 香里奈はの病室を後にすると、立海大付属中に走った。
 こういったことは柳蓮二に相談するに限る。



4 お見舞い

「記憶喪失か!?」
 校庭中に響き渡るような弦一郎の声に、木元香里奈は耳を塞いだ。
「というほどの事でもなくて、今日はのお母さんが中華街に行く予定だったこととか、昨日私とメールでやりとりしたこととか、今日の試合の展開のこととかはちゃんと覚えてるの。覚えてないのは……」
 木元香里奈は言いにくそうに、言葉につまる。
「……が真田くんを好きだったっていうことだけだよ。真田くんのことだって、ちゃんと覚えてはいる。テニス部の副部長で風紀委員長だってね」
 制服に着替え終わった弦一郎は、すっかり乾いた髪に一度手を触れ、ぎゅっと拳を握った。
「私が柳くんに相談したかったのは……」
 木元香里奈は言葉を続けた。
に、は真田くんが好きだったんだよって教えた方がいいのか、そっとしておいた方がいいのかってこと。だって、」
 言葉を区切って、ちらちらと弦一郎の方を見た。
「あー、もう、真田くんがいると話しにくいなー! だから、柳くんに話をしに来たって言ってるのにー!」
「俺に関わることならば、俺がいてもさしつかえないだろうが!」
「ほら、すぐそうやって大声で怒鳴る!」
「これは地声だ!」
 まあまあ、と蓮二が二人を宥めた。
「弦一郎がかまわないと言っているんだ。気にせず話せ。弦一郎も黙って聞いておけよ」
 弦一郎はわかった、というかわりにキャップのつばをぎゅっとつまんだ。
「あのね、はもちろんぜんぜんいつもののままなんだけど、私やっぱり気になるの。……2年生の時に転校して来てから私たちずっと仲が良くて、そして仲良くなってからすぐのことだったんだよね。が真田に泣かされたの」
「あれは別に泣かせたというわけではない!」
 蓮二にじろりと睨まれ、弦一郎は口をつぐんでキャップを目深にかぶり直した。いつの間にか、真田くんから、真田、と呼び捨てになっている木元香里奈はおかまいなしに続けた。
「その時からずっとは真田が好きで……私の勝手な思い込みかもしれないけど、が真田を好きだっていうことが私にとってはのすっごく大きなアイデンティティの一つみたいに感じてたんだよね。……今、それがすっぱりと抜け落ちてしまってるっていうのが、なんていうかこれでいいのかなって……。いや正直なとこね、が真田って、怒鳴られて泣かされてばかりだし、もういい加減にやめときなよとは思うんだけどね、でもそういう問題じゃなくさ」
 弦一郎はまた何かを言い出しそうになるが、蓮二の顔を見て顔を伏せた。
「木元が心配な気持ちは十分にわかった。ひとまず、俺もに会ってみようと思う。木元、二度手間になるがもう一度病院まで一緒に行ってくれるか」
「もちろん! そのつもりだったから。に連絡しとくね。個室だから、メールは見られるはず」
 木元香里奈はバッグから携帯電話を出して手早くメールをした。
「じゃあ、早く行こ」
 駅に向かって歩く二人に、当然のようについていく弦一郎を木元香里奈が不満そうに振り返った。
「……真田くんも行くつもり?」
「当然だ。何度も言うように、副部長は俺だからな」
「だから、そういう問題じゃないって、もう説明したからわかったでしょ!」
「木元、まあいいじゃないか。弦一郎が行きたいという気持ちも察してやれ」
「……柳くんが言うんだったら、仕方ないけど」
 木元香里奈がようやく苦笑いのような顔を見せるので、弦一郎は「仕方ないとはどういう言い草だ」とつぶやきながらも、ようやく二人に加わって並んで歩いた。
  
 電車を乗り継いで降りた駅から少し歩き、が入院したという病院に着いた。
 ナースステーションで面会の手続きをして、病室に向かう。
 弦一郎は、木元香里奈が話していたことを頭の中で何度も反芻していた。
 果たして、木元香里奈の話していたことは本当なのだろうか。
 本当なのだとしたら、そのことを自分はどう受け止めたら良いのだろうか。
 木元香里奈が病室の扉をノックした。中から、はーいという聞き慣れた声。
、入るよー」
 スライド式の扉を開けて3人が病室に入ると、ベッドの上で半身を起こして雑誌を手にしたが顔を上げた。
「あ、香里奈ちゃん……」
 そう言うと、あとの二人を見てぎょっとしたような顔をした。
「ほら、メールしたじゃん。テニス部の柳くんと真田くん。やっぱりテニス部の試合の応援に来て体調悪くなったのが申し訳ないから、どうしてもお見舞いに行きたいって」
「あ、ほんと、そんなわざわざ……」
 あわててベッドから降りようとするを、蓮二が制した。手慣れたように、立てかけられていたパイプ椅子を広げた。
「今は部長が不在なので代理に、この柳蓮二と副部長の真田弦一郎がテニス部の代表としてお見舞いさせていただく。このたびは大変だったな」
「ううん、私の自己管理が悪かったせいで、かえって心配かけちゃってごめんね」
 は相変わらずの驚いた顔で、蓮二と弦一郎を交互に見ていた。
「そういえば、部長の幸村くんも入院しているんでしょう? 今日が手術だとか。そんな時に、ほんとごめんね」
「おかげさまで手術は無事に終了したそうだ。どっちみちしばらくは面会はできないからな、気にするな」
 流れるように蓮二と会話をするを、弦一郎はちらちらと観察した。確かに、いつものとなんらかわりはない。驚いた時に目を丸くして、両手をコミカルにひょいっと上げてみせる癖も普段どおりだ。
 けれど、言いようのない違和感。
 弦一郎を目の前にしたは、こんな風ではなかった。うまく言葉にはできないが、彼と同じ空気の中にいたは、もっと落着きのない、それでいて必死にこちらに何かを伝えようとする熱があって、弦一郎の表情や言葉のひとつひとつに大げさなくらい一喜一憂をして。
「体調はもう大丈夫なのか」
 弦一郎が言うと、は笑ってうなずいた。
「うん、点滴をして、あとちょっと食べたらもう元気。今日は念のため一泊するけど、明日はもう退院して家に帰るよ」
 蓮二と会話をする口調となんら変わりのない温度。
 弦一郎の前で大泣きをして、それでも翌年の誕生日にはふたたび贈り物をしてくれたは、今はここにはいない。
 ふとベッドの横の床頭台に置いてあるものに、視線を奪われた。
 表面がしわしわになった青い包み。同じ青い色のリボンがかけてある。
 今日、1年と数ヶ月ぶりに目にしたものだ。
「……それは、見舞いの品か何かか?」
 弦一郎は言って、注意深くの様子を伺った。
「ああ、これ?」
 は身体をひねってそれを見ると、苦笑いをした。
「今日、私のバッグに入ってたんだけど、わからないの。家の何かを間違って持って来ちゃったのかなって。包装紙もしわしわでしょう。バッグに入れたままにしとくと、これ以上くしゃくしゃになっちゃうかなーと思って出してあるの」
 木元香里奈が言っていたこと思い出した。
 は確かに、嘘を言ったり平然と人をからかったりができるタイプではない。絶対に顔に出る。こう言っているということは、つまり、そういうことなのだ。この青い包みにまつわる出来事も、約束も、彼女の記憶からは欠落しているのだろう。
 弦一郎が顔を上げると、木元香里奈と一瞬目が合ったが彼女は気まずそうにすぐに視線を逸らした。おそらく、彼女はこの包みの来歴を知っているのだろう。
 目の前にいるは、去年の5月以来の弦一郎との間の出来事は一切覚えていない。
 その事実を咀嚼し、弦一郎は大きく深呼吸をした。
 病室の中が静まり返った一瞬、携帯電話のバイブレーター音が響いた。
「あ、ごめん、私。多分、お母さんからだ」
 が枕元の携帯電話を手にした。
「あ、うん、大丈夫、別にいるものないよ。タオルも大丈夫。明日? 別に一人で大丈夫だよ。あ、入院費ね、どうしたらいい? あっそうか、あとでお母さんが払いに来るのね。じゃ、私、看護師さんたちに挨拶だけして帰ればいいね。うん、うん、わかった。じゃ、明日帰る時に一応メールするね」
 手早く話をすませ、電話を切った。
、どうかしたの?」
「ううん、別に。お母さんが今夜行こうかっていうから、大丈夫って言って、あと明日帰る時も別に迎えに来てくれなくていいよって言ったの。明日、弟のサッカーの練習で車を出す約束をしてるらしいから」
「あ、そうなんだ。弟さん、頑張ってるんだねー」
「だったら、俺が来よう」
 いきなり会話に割って入った弦一郎の言葉に、木元香里奈ももぎょっとした顔で彼を凝視した。
「えっ、どういうこと?」
 驚いたが怪訝そうに言う。
「いくら元気になって心配ないとはいえ、女子ひとりで退院・帰宅をさせるというのはしのびない。俺が来て、家まで送り届けよう」
「えっ、えっ、真田くん! そんな、いいっていいって、ほんっと大丈夫なんだってば」
 遠慮している、というより明らかに困惑をした様子ではぶんぶんと手を振った。
、気にするな」
 蓮二が穏やかな笑顔で口を開いた。
「何も特別なことではない。そういった付き添いなど、風紀委員では普段から業務として行っていることだ」
「……へえ、そうなんだ、すごいね」
 戸惑った表情は隠せないまま、はちらりと弦一郎を見た。
 当然、弦一郎は風紀委員の業務としてそのようなことに携わったことなどないわけだが、柳蓮二が言うともっともらしいから不思議だ。
「そういうわけで、明日、退院する時間が決まったら俺に電話をしろ」
 弦一郎は、バッグから取り出したメモに電話番号を書き記した。
「これが、俺の携帯の番号だ」
 は知っているはずだがな、と心の中で付け加える。
「あ、うん、わかった。なんか、ごめんね、ありがとう……」
 はそれを受け取って、不思議そうに弦一郎を見た。
「よし、それではあまり長居をして迷惑になる。我々はそろそろ帰るとしよう」
 蓮二が立ち上がってパイプ椅子を畳んだ。木元香里奈と弦一郎もそれに倣う。
「じゃあね、。今日は何度もごめんね」
「ううん、こっちこそありがとう」
 3人は病室を後にした。
 病院から駅に向かうと、傾いた太陽が容赦なく3人を照らした。まだまだ日は長い。
「……明日、本当にを迎えにくるの? 真田ひとりで?」
 木元香里奈が心配そうにつぶやいた。
「何か問題でもあるのか」
「私も一緒に来ようか? だって……、真田とのこと覚えてないんだよ」
「別にそんなことは関係ない」
 弦一郎が言うと、蓮二がぐいと二人の間に割り込んだ。
「いいんだ、木元。弦一郎は一人で来る」
「でも」
 何かを言いかける木元香里奈を制して、蓮二は弦一郎を見た。
「真っ向勝負か、弦一郎」
 ぴりりとして、それでいて優しい蓮二のまなざし。
「……俺はいつだって真っ向勝負だ」
 弦一郎は西日に眼を細めたまま、それだけをつぶやいた。



5 退院

 は病院で朝を迎え、早い朝食を済ませたらすぐに帰宅をする準備を始めた。
 退院する時間は、朝の検温と回診を終えた10時頃ということになっていた。
 言われていたとおり、真田弦一郎に昨夜その旨を連絡した。

 あのテニス部の副部長の男の子が本当に来るんだろうか。

 手荷物(といってもたいした量ではない)をまとめて母親にメールをして、着替えをすませベッドを整えていると、病室の扉がノックされれた。
「あ、どうぞ」
 入って来たのは真田弦一郎。
 登校する用事でもないのに、制服を着ている。そういえば、風紀委員長だったしそれでかな、とは一人で考えて納得をした。
「早すぎたか?」
「ううん、大丈夫。朝の回診も終ってるから、あとは帰るだけ」
「調子はどうだ」
「ぜんぜん問題なし。追加の検査もいらないって」
「そうか、それは何よりだ。じゃあ、もう帰れるか」
「うん、もう忘れ物もないと思う」
 二人で病室を出て、ナースステーションで声をかけてからエレベーターに向かった。
「それは俺が持とう」
 の荷物を、弦一郎がぐいと奪い取った。
「えっ、そんな、軽いものだし大丈夫なのに」
「これくらいしなければ、わざわざ付き添いに来た意味がない」
 ぶっきらぼうに言う弦一郎に、はだまって従った。
 正直なところ、とまどっている。
 これといって親しいわけでもない、厳格な優等生という印象の彼と、一体何を話して家まで帰ればいいのだろうか。
 一方彼を間近で見ていると、不思議な気持ちになる。気になることがあった。
 病院を出て、駅まで歩き電車に乗った。
「……あのね、真田くん」
 電車の中、隣に座った彼に向かっては口を開いた。
「なんだ」
「昨日、真田くんが電話番号を書いたメモを渡してくれたでしょう。携帯に登録しようとしたら、もう登録してあったんだよね。私、前に真田くんに電話番号教えてもらったみたいだね」
 弦一郎は一瞬の間をおいてから、軽くうなずいた。
「そうだな、俺もの携帯の番号を知っている」
 は目を見開いて彼を見る。
「……そうなんだ。あの……」
 は一度うつむいてから、言葉を探した。
「昨日、香里奈ちゃんと話しててわかったんだけど、私、倒れてからちょっと覚えてないことがあるみたいなんだよね。ほとんどのことは、ちゃんと覚えてるのに。私、真田くんと携帯の番号交換したのって覚えてなくて……あの、何か他にもあったかなあ。忘れてて迷惑かけるといけないなーって、ちょっと心配になってきちゃった」
 どうしてだろう。
 絶対に自分と接点のないはずの弦一郎がこうして隣にいて、きっとこういうの気まずいだけだと昨夜は憂鬱な気分だったのに、実際に一緒にいると不思議な気分。胸の奥が、やけに騒いでいる。それなのに、落ち着くような安心するような。
「……そうだな、ひとつだけ」
 弦一郎が言って、はそんな彼をじっと見た。
 彼の横顔はきりりとしていて、視線が合わないことをいいことに、じっと見とれた。「怖い」という印象しかなかった彼は、男らしく意外と綺麗な顔立ちをしている。
と約束をしていたことがあった」
 そして、彼は言った。
「えっ、私と真田くんが? 約束を?」
 つい声を上げると、ちょうどの自宅最寄り駅が近づくアナウンスが流れた。
 弦一郎は荷物を手にして立ち上がった。
 改札を出て、自宅方向へ歩く。

「ねえ、真田くん、ごめん私、その約束って覚えてないの。どんな約束だった?」
 妙に不安になってきて尋ねるを、隣を歩く弦一郎が見下ろした。
 並んで歩くと、彼は本当に背が高くて、先ほど隣で座っていた時のようにその顔をじっと見る事はできない。
が謝ることはない。……事情があって、その約束は果たせなかったからな。悪いのは俺だ」
 彼はそれだけを言ってずんずんと歩き始める。
 ちょっと説明をしただけなのに、家の方向をしっかり把握しているようだ。
「えー、そうなの?」
 どんな約束だったの?
 そう聞きたいけれど、聞くことが少し怖くてその言葉が出ない。
 それだけではない。
 こうやって弦一郎と歩いていると、まるで胸の奥から何かが溢れ出してきそうな気がする。
 何か熱い、ふつふつとしたもの。
 それが何か、知りたい気もするし、知らない方がいいような気もする。

 真田くん、どうして昨日、お見舞いに来てくれたの。
 どうして、今日、こうやって退院に付き添ってくれるの。
 
 きっと聞けば彼は「テニス部副部長で、風紀委員長だからだ」と答えるだろう。
 でも、それだけではない気がして仕方がない。
 の自宅まで、あとは歩いて5分ほどだ。
 その間に自分が思い出さなければ、この「ひっかかり」は永遠にしまい込まれるのだろうか。



 遊歩道の街路樹の下で弦一郎は立ち止まり、を見た。
「はいっ!」
 思わず緊張の声を上げる。
「お前が思い出せないことは、もういいんだ」
「えっ、はあ……」
「だから、新しく約束をしたいが、構わないか」
「えっ!」
 は頓狂な声を上げてしまうばかりだが、彼の言葉をきちんと聞いておきたいという気持ちの方が強かった。気持ち、というのだろうか。自分の胸の奥からの命令のようなもの。
「あ、うん、もちろんいいけど、どういう約束?」
 一呼吸してからが言うと、弦一郎も大きく呼吸をした。
「……昨日の、青い包み、あっただろう」
 は弦一郎が言っていることが一瞬わからなかったが、すぐに思い当たった。昨日、床頭台に出しておいたくしゃくしゃの包みのことだ。一体何かわからない、謎の包み。青い色だし、弟がもらった何かを間違えて持って来たのかと思っていたけれど。
「あ、うん。そのバッグに入ってるけど」
 弦一郎がバッグを持ち上げるので、はそのファスナーを開けて中から取り出してみせた。
「これのこと?」
 くしゃくしゃになった包み紙のそれを弦一郎に見せると、彼は一瞬目を細めたような気がした。
「そうだ」
 弦一郎はバッグを手にしたまま、こほんと咳払いをする。
「……約束というのは他でもない。我が立海大付属中は次は全国大会を迎える。三連覇という目標を掲げてな。もちろん、俺もシングルスで試合に出る。その試合に勝ったら、俺はそいつをもらい受けたいと思う」
 の胸の奥のマグマが、何かを突き破った気がした。
 こういうこと、前にもあった。
 なぜか、弦一郎の怒鳴り声が頭の中で甦った。
「その事だけではなく、俺はに言っておかなければならないことがある」
 の胸で急激に感情の波が暴れだした。自分は昨日よりももっと以前に弦一郎に電話をかけたことがある。その呼び出し音の間、心臓が破れそうなほどドキドキしたことがある。
「今、お前が俺をどのように思っていても構わないが、俺はを好きなので、少なくともこれ以降、俺とやりとりしたことや今の約束を忘れないでいて欲しい。俺と同じ世界にいて欲しい」
 の胸の奥の熱は完全に心臓をつきやぶり、そして全身を駆け巡った。
 弦一郎に誕生日プレゼントを渡そうとして怒られて泣いたこと、弦一郎に間違えてメールを送信して大慌てをしてしまったこと、電話番号を交換してどきどきしながら電話をしたこと、試合に行くはずだったのに寝坊してしまって大泣きをしたこと。
 そして、その時に約束をしたこと。
 弦一郎が大好きだったこと。
 試合会場では、弦一郎があまりに遠い人だと思い知らされ、胸が苦しくなったこと。
 自分は、その苦しさから逃げたんだ。
 溢れ出すものを受け止めることに必死で足下がふらつき、その肩を慌てて弦一郎が抱きとめた。
「大丈夫か!」
「真田くん、私! 忘れてない、ちゃんと胸の奥にあった。私……真田くんより先に言ったよね。好きだって」
 が必死でそう言うと、弦一郎はぎゅっと眉をひそめこころなしか顔を赤らめる。
「……あれは……仕切り直しだと言っただろう。今、俺が、を好きだと言ったんだ」
 肩に添えられた弦一郎の大きな手からは、彼の体温が伝わって来る。
 まぎれもなく、同じ世界に生きている。遠くなんかない。
 周囲の空や木々の色が急に生き生きと鮮やかになった気がした。
「……私も、ちゃんと前に言ったよ」
「前に、ではない。今はどうなんだ」
 目の前にいる弦一郎は思い切り眉間に皺をよせて、どう見ても怖い顔をしているのに、ちっとも怖くない。
「好きに決まってるじゃない……」
 言ったとたんに涙が溢れた。
 が弦一郎の前で泣いた回数は数えきれない。けれど、今はまるで初めて泣くような気がした。
 肩に添えられた弦一郎の手に力が入り、彼の体温が一層近くなった。
 その時だった。

「ちょっとー! あなた、うちの子に何をするんですかー!」

 遊歩道の垣根を飛び越えて走ってくるのは、の母親だった。
「お母さん!」
 あわてて身体を離して、叫んだ。
「警察を呼びますよ! 、走って逃げなきゃだめじゃないの!」
 ものすごい剣幕でまくしたてる母親に、はとびついた。
「お母さん、ちがうちがう。不審者じゃなくて、学校の同級生の真田くんっていうの。風紀委員長で、テニス部の副部長なの! 今日は私の退院に付き添ってくれたの!」
 あわあわと大慌てで彼の不動のプロフィールを伝えた。
「えっ! の同級生!」
 母親は弦一郎の頭のてっぺんから足の先までを改めて検分して、口元を押さえた「そういえば、立海の制服……。ごめんなさい、あまりに大柄なものだから、大人の人かと思って……」
 車で帰る途中だった母親はたまたま遊歩道での二人を見かけて、慌てて車を路肩に止めてかけつけたらしい。しばし気まずそうにしていた弦一郎は気を取り直したように、キャップを脱いでぺこりと頭を下げた。
「立海大付属中3年A組、真田弦一郎です。先ほど紹介にあずかったように、テニス部副部長と風紀委員長を務めております。そして、このたびさんと交際をさせていただくこととなりました」
「えっ!」
「えっ!」
 母親とが叫ぶのは同時だった。
、あんた、いつのまに」
「えっ、ちょっと待って真田くん、」
「何、そうじゃないというのか、
「ううんううん、そうじゃなくないけど、たった今の話をいきなりお母さんに発表しなくても」
「不審者と間違われて、今後親御さんに心配をかけるといけないからな。こういうことはきちんとしておかねばならん」
 今度はの母親が、ほんとにどうもすいませんでした、と申し訳なさそうに深々とお辞儀をした。
 弦一郎は預かった荷物を差し出した。
、俺はこれで失礼する。当分はしっかり養生しろ」
「うん、ありがとう」
 次にはの母親にまた改めてお辞儀をした。
「今回、立海大付属中は関東大会で優勝を逃してしまいましたが、全国大会では負けません。また、このたびはこのようにご心配をおかけするに至り、申し訳ありませんでした」
 では、と言って二人に背を向け、駅の方へ引き返してから、振り返った。
、全国大会の日程は改めて連絡をする。……約束を忘れるな」
 は彼に大きく手を振った。
「うん、大丈夫! ……電話、待ってる!」

 遊歩道を歩いて車に向いながら、母親はおかしそうに思い出し笑いをした。
「ほんと、ごめんごめん。ちゃんと見たら、ものすごくカッコいい男の子だったね。それにすっごくしっかりして真面目そう。立海のテニス部って有名じゃない。不審者と間違えて、悪かった」
「お母さん、あれはないよー」
「そういえばが去年からずっと好きな男の子がいるっていってたけど、あの子?」
 プレゼントは渡せたの? いつ好きだって告白したの? どうしてつきあうことになったの? なんていう母親からの質問攻めに、は先ほど溢れ出したものをひとつひとつ拾い集めていった。
 そう、が胸の奥に閉じ込めていたのは、恋。閉じ込めたのは、悪魔にそそのかされた弱い自分。その閉じ込められた恋を真正面から助け出してくれてを生き返らせてくれたのが、あの、背の高い声の大きな王子様。

2014.9.28
 

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