● 乾貞治の華麗なる噂  ●

 何しろ乾って、ああいう子だから。
 私は乾とたまたま1年の時から同じクラスなんだけど、当時から奴がマニアックなわけのわかんない事を言ったりすると、
『何言ってんのよ、このキング・オブ・童貞が!』
 なんてからかったりしたものだ。
 奴は、怒りもせずに
『キングとは光栄だな』
 なんて言ってしれっとしたもの。
 学年が進むにつれ、乾はびっくりするほど背が伸びて男っぽくなっていくんだけど、同時にマニア度もどんどん増して、私が新しい恋人を作るたびに、
が今度の彼氏と3カ月続く確率は、43%』
 なんて言ってきては、それがまた妙に当たるもんだから、ホントむかついて
『うるさいよ、童貞マエストロ!』
 と怒鳴ったりする。すると奴は、
『マエストロ……巨匠か、悪くない響きだ』
 なんてニヤニヤして、相変わらず童貞街道を驀進していたようだった。
 乾って、年上とか人妻が好きらしいよ。
 なんて噂もあり、そのあたりがこれまた童貞をくささを醸し出していたものだ。
 そうやって童貞童貞となじったりしてるものの、私たちはそう殺伐とした間柄というわけでもなく、1年の時からのなじみだし家も近いから、私は乾の家に寄ってPCのセットアップをしてもらったり、まあそんな気の置けない友達。


 あれ? 私はなんで乾の思い出なんかを振り返ってるんだ?
 教室で、斜め前の席にいる乾の大きな背中を、眉間にしわをよせて眺める私。
 思い出したくもないのに、思い出してしまう、1年のころからのオタクっぽい乾の言動の数々。
 そして
『あ゛ーー!!』
 って、頭を抱えて足をじたばたさせるのだ。
 わたくし、昨日、ついつい勢いで乾としてしまったのである。
 ああ、何をって? そりゃあ、ナニをです。
(そしてまた、頭を抱えて『あ゛ーーー!!』ってなる。エンドレス)
 なんで、あーいうことになったんだろ。
 


 昨日は授業が終ってから、職員室への呼び出しを食らった友達を待ちがてら、教室で雑誌をぱらぱらと見てた。もう6月だし、夏のワンピース欲しいなー、レギンスなしで着るような女らしいセクシーなの、なんて思いながら。
 友達は、かなり長い説教を聞くはめになってるのか、なかなか戻ってこない。
 いつのまにか、教室にはほとんど人がいなくなってた。
 私は雑誌のクロスワードに夢中になってたから、気にもしてなかったんだけど。
「ああ、、まだいたのか」
 その時、ふいに教室の扉が開く音とともに、乾の声がした。
 私ははっと顔を上げる。
「乾、丁度良かった! ねえ、『奈良時代から平安時代に東国に派遣された、太平洋側から進軍する軍隊を率いる将軍の呼称の一つ』って、一体何!?」
 唐突な私の質問に、乾は顔色も変えずクイッと眼鏡のブリッジを持ち上げて即答した。
「征夷大将軍だろ」
 セイイタイショウグン、と私はクロスワードのマス目を埋める。
「ありがと! 一体なんだって、ティーンのファッション雑誌に征夷大将軍なんて出てくるのよ! 歴史の問題集じゃないんだからさあ!」
 そう毒づきながら次の問いにさしかかろうとすると、乾の声が続く。
「そうそう、大野がさっき高等部の彼と門を出て行ったぞ」
「えっ、美有が!? マジ!?」
 私は雑誌をばさっと机に落として慌てて携帯を鞄から取り出した。
 あー、メール来てる! 『彼が急に部活休みになったから、一緒に帰ることになった! ゴメン!』だって。
 私は軽くため息をついて、携帯を仕舞った。ま、しょうがないな、こういうのはお互い様。友達をいいかげんに扱ってるからじゃなくて、お互いを信頼してるからこういうことできるの。女友達同士って、そういうもん。
には今、彼氏はいないのか」
 気にしない、と自分に言い聞かせつつ、美有は今日は彼とお茶してくのかーいいなーなんて思っていたところに、乾のそんな一言なのでちょっとカチンときた。
「童貞大将軍には関係ないでしょ」
 いつものように私が言うと、乾は声を上げて笑った。
「幾千の童貞を引き連れて進軍する将軍か。強そうだな」
 イヤー! 想像したくない!
 私は思わず頭をブンブンと振った。
「……それにしても、。改めて尋ねるのもなんだが、童貞というのはそんなにダメなものか?」
 私はブンブンと頭を振るのを止めて、ちょっとびっくりして乾を見た。
 彼がそんなことをしみじみと言うの、初めてだったから。
 いつものれんに腕押しって感じで受け流してる彼も、ちょっとは気にしてたんだろうか。
「ええ? ダメっていうか、いやまあ、私はちょっとネタっぽく言ってるだけであって、誰でも最初ははじめてなものだから、別にいいんじゃない? 一般的にそんなふうだと思うけど」
 突然キレられたりしたら面倒だなって思って、ちょっとマイルドに返してみた。
「そうか。じゃあ一般論ではなく、個人的にはどう思う? 忌憚のない意見として」
「ええっ、私!?」
 意外な変化球にちょっとびびってしまった。
「ええー……私個人的にはねえ……、私は同級生の子とかそういうのとはつきあったことないから実際にはわかんないけど、友達から聞いたりした範囲だと、やっぱりそういう子って、なんかがっついてて面倒くさいらしいから、正直なところ勘弁願いたいって思うかな……。あ、でも、女の子は皆が皆そう思ってるわけじゃないと思うから、気にしないで」
 正直に答えてから、一応フォローも入れてみる。
 なんだろう、もしかして乾の恋の相談?
 面倒くさそうだなあ。でも一応友達だし、むげにするのも悪いだろうか。
「ああ、なんだ。じゃあ、もイメージでものを言っていただけというわけだな」
「まあ、そうっちゃあそうだけど。なに、乾、童貞をバカにするなーとか言いたいわけ?」
「そういうわけじゃないけど。セックスなんて所詮、人と人のコミュニケーションのひとつなわけだから、ちょっとくらいの経験の有り無しなんて、たいして変わらないと思うだけだよ」
 乾はふふっと笑いながら言う。
 なに!
 乾のクセに、このわかったような台詞。『セックスなんて所詮、人と人とのコミュニケーション』なーんて。
 こいつのこういう理屈っぽいとこ、ほんっと、童貞くさい!
「あ、そ。えらく自信たっぷりだねー。イメトレの成果ってところ?」
 ちょっとムカッときた私は、これまたちょっと下世話なことを言いはなつ。
 乾はさらりと笑って、別にツッコミを入れてきたりしないしボケもしない。
 こういう時、たまにこいつは妙に大人びてて、ちょっとムッとしちゃうんだよね。
「さあ、どうだろうな。試してみるか?」
 彼が眼鏡を光らせてさらりと言うものだから、私は鞄をつかんで立ち上がった。
「ばーか。するわけないでしょ」
 乾、今日はえらく絡んでくるなあ。めんどくさい。さっさと退散するに限る。
 鞄を肩にかけて、スカートの裾を整えてると、乾はクックッとおかしそうに笑う。やけに、余裕たっぷり。
「そりゃそうだな、童貞大将軍の俺に、がいいように扱われたりしたら形無しだからな」
 私は肩にかけた鞄の底を、バンッと机に音を立てて置いた。
 同級生の男子は、大体が子供っぽい、っていうか実際に子供。
 乾だって、体は大きいけど、ガキ。
 なのに、ちょっと頭がよくて口がたつからって、彼女もいたことないくせにこうやって大人の男ぶるのって、ほんっと苛々する。ガキならガキらしくしてなよ。
「何言ってんのよ、ほんっとバカじゃない。やれるもんなら、やってみなよ」
 私は溜飲の下がる思いでそう言い放ったんだけど、今思えば、これが乾の思うツボだったのだろう。
 そうか、では早速、と私は乾の家に連行されることになった。
 道すがら、なんとか乾をギャフンと言わせた上に(できれば泣かせてやりたい)、やるわけないでしょ! と逃げ出す手はないかと考えたけど、さっぱりいい手が思い浮かばず、何度か訪れたことのある乾の自室に行って、まずは時間かせぎに宿題なんかをやってたんだけど、結局のところコトにおよぶに至ったわけだ。
 以上。



、どうかしたの? 今日、なんかヘン」
 心配そうに声をかけてきたのは、昨日私を置いて彼氏と帰ってしまった美有。
 いわば、A級戦犯の女だ。
美有がまっすぐ職員室から帰ってきてくれてたら、こんなことにはならなかったんだよ!
「……もしかして、昨日私が彼と帰っちゃったこと、怒ってる?」
 A級戦犯はちょっと申し訳なさそうに言う。
 でも私も、残された私の身に何が起こったかなど話すわけにはいかないので、ううんなんでもない、としか言えない。
 それにしても乾め。
 私は腕組みをして、斜め前の奴の背中を睨む。
 なんだかんだいって、私は彼とは1年の頃から同じクラスでそこそこ仲がいいから、彼がどういう子かよく知ってる。何しろ、頭はいい。
 昨日、あいつは全て計算ずくだったんだ。
 今、冷静になるとわかるのに、昨日ちょっとカッとなってた私はまんまと乗ってしまった。
 私がどう受け答えるかを彼はだいたいわかってただろうし、そして私が性格的に意地っ張りで、一度勢いで言ってしまったことはなかなかひっこめられないってことも、知ってるんだ。
 だからあんな風に言った。
 なんでそんな事をしたか?
 そりゃもう、いつも『童貞童貞』とからかってる私を一発逆転するために決まってる。さぞかし溜飲の下がったことだろう。
 それにしても!
 『友達』と、こうやって手違いで関係を持ってしまうって、本当に気まずいしなんというか、私的には黒歴史中の黒歴史だ。
 まったく、足をじたばたさせて頭をブンブンさせて『あ゛ーーー!!』ってなるのが、ほんと、エンドレス。



「体育祭の種目だが、ここにあげたものに、まず希望者は名前を書いていってくれ。重なったものは話し合いで決めよう」
 乾は学園祭実行委員のほか、体育祭実行委員も兼ねている。
 意外とお祭り好きなのか。
 今日のホームルームの議題は、体育祭について。そうそう、今月は体育祭があるんだったなあ。
 乾はいつものように淡々と体育祭に関する話し合いを進めていた。
 そう、私が今日ちょっと気分が穏やかではない理由の一つは、乾は昨日の今日で、まったく様子が変わらないということがある。
 正直、今日学校に来て顔を合わせるまでは、『一回したくらいで、乾が彼氏面してきたら超イヤ!』なんて思ってたんだけど、幸いそういう心配はまったくなかった。フツーに、ああおはよう、なんて言ってきただけだったから。
 いや、それならそれに越した事はないんだけどね。でも、オイオイ昨日まで童貞だったくせに、ちょっとくらいドギマギしろよ、なんて思ってしまうのが女心というもので、ま、勝手なもんなんだけど。
 私が『あ゛ーーー!!』ってなってんのに、どうしてアンタはそんなにシレっとしてんの、ちょっとくらい顔を赤らめるとか照れるとかしなさいよ、と。
 あーあ。
 宇宙人が突然来訪して、私と乾の脳から昨日のことの記憶を抹消してくれないだろうか。
 それか、一日時間が巻き戻るとかね。
 そんな具合で、当然ホームルームの議題には全くと言っていいほど参加していない私の意識を呼び戻したのは、乾のあの低い声。
「……坂本、柏原、あと。以上が、二人三脚の種目だ」
 えっ、私が競技に入ってる!? そんなわけないんだけど!
 あわてて立ち上がった。
「乾! 私、応援団のとこに名前書いたはずだけど!」
 体育祭は、私は毎年応援団を希望してる。だって、適当にサボれるからね。
「うん? は……」
 わざとらしく首をかしげて、乾は黒板を確認した。
「二人三脚に名前を書いてあるじゃないか」
「違う違う! その隣の応援団に書いたの! 応援団、希望が多かったからちょっとはみでてたんじゃない! 二人三脚じゃないよ!」
「そうか、悪かった。しかし、もう話し合いで応援団は決まってしまった。さっき、確認・話し合いの時間を取った時、は何も言わなかっただろう? まあ、今回は二人三脚で頑張ってくれ」
「えー!! それはないでしょー! 応援団がいいのにー! 乾! この、ど……」
 童貞営業部長め!! と言おうとして口をつぐむ。ああ、童貞じゃなかったんだっけ。くそー。私はがっくりと席に着いた。
「二人三脚は男女混合だ。一応身長順でソートして、ペアを決めた。後は個人的に話し合って交代するなど、調整してくれ」
 乾は私のクレームにはおかまいなしでノートPCを操作して、そしてそこから選手の名前を書き出す。
 それを見て、私はまた『えーっ!』と声を上げる。
 乾貞治・
 とばっちり書かれているではないか。
 いや、でも確かに私はクラスの女子では一番背が高いから、乾とあたるのは順当ではある。
 それにしても!
 私が思わず声を上げてしまったからか、クラスのみんなからはクスクスと笑い声が漏れる。
「童貞の面倒見てやれよー、!」
「乾、とかよー、うまくやったなー」
 腰を浮かせかけた私はため息をついて、また席に座った。
 乾と二人三脚って。
 まったく、どういう陰謀よ。
 ホームルームの後、私は一生懸命、『ね、二人三脚のペア、かわって!』といろんな友達に頼んでまわったんだけど、女子からは『乾はマニアックで二人っきりになるのはちょい苦手ー。は結構仲いいからいいじゃん』と断られるし、男子からは『俺、乾みたいにに怒鳴られたら、泣くかもしんねーから』と断られる。くそ、腰抜けどもめ。

「ねえ、。なんか、乾がさー」
 昨日一緒に行くはずだったカフェで、美有が言った。私はその名前を聞くだけで、びくりとしてしまう。美有に、乾との黒歴史だけは知られてはなるまい。
「あ? 乾がなに?」
 つとめて冷静に聞き返す。
「乾がのこと好きだって噂だよ。どうよ、乾」
 面白がった顔で聞いてくる。
「はあ〜!?」
 私は素で声を上げてしまった。
「なによ、それー」
「だから、そういう噂。体育祭も、とペアになって張り切ってるじゃん、あいつ」
「お祭り好きなだけでしょ。乾と私って、ナイよ」
 私は迷惑そうにため息をついた。だって、乾が私を好きって、あるわけない。好きだったら、あんなトンチみたいな手をつかって抱いたりしないでしょ。
「そう? でも乾ってちょっとオタクっぽいけど、テニス部レギュラーだし割と人気あるよ。背も高いしよく見るとイケメンだし、悪くないんじゃない?」
「ええー?」
 確かに、『乾貞治』のスペックとしてはそうかもしれないけど、なんだかなー。
が、二人三脚のペアの交代、必死だったけど皆断ってたじゃん。あれ、乾がを好きなんだって噂があるから、みんな乾を応援してんだよ。ま、面白がってるんだろうけど」
「なによそれー!!!」
 私は頭を抱えた。
 乾が私を好きって、ほんと、ないんだから。
 なんでそんな噂になってんのよ。
 そんな風に毒づいてたら、ふと頭に乾の顔がよぎった。
 昨日、乾の部屋に二人でいる時、久しぶりに見た眼鏡を外した乾の顔。
 一年の時にも見たことあったけど、あー結構カワイイ顔してんじゃんって思ったなあ。けど、昨日見た彼の素顔は、ひどく凛々しくなっててびっくりしたんだった。
あんまりじっと見るの照れくさいって思ったけど、乾は目が悪いから、私が見ててもわかんないかなって、その結構きれいな目をじーっと見てたら、『照れるから、あんまり見るなよ。眼鏡はずした顔を見られるの、慣れてないからな』なんて言われて、慌てちゃったんだっけ。
 そんなフラッシュバックは、びっくりするくらい突然に私の胸の鼓動を跳ね上がらせた。乾とのことは、つとめて思い出さないようにしていたものだから、余計にだ。
「もー、ほんと、やめてよね!」
 私が結構本気で怒った風に言うものだから、美有はちょっとあわててゴメンゴメンと謝ってくる。乾の話題は、それっきり。



 そして、翌日の体育の時間は、早速体育祭の練習だ。
 一応着替えをしてグラウンドまで行ったものの、騎馬戦のチームにまぎれてどっかに抜け出してしまおうとしたところ黒い陰が私を覆う。
、どこに行く?」
 聞きなれた低い柔らかい声。
「……やっぱり騎馬戦がよかったかなーって」
 私がため息をついて振り返ると、逆光で眼鏡を光らせた乾。
 手には二人三脚で足を結ぶ用の紐。
「じゃあ、トレードするか?」
「あ、ううん、いいや。二人三脚でいいわ」
 あんなハードなのできるわけない。
 皆、それぞれの種目を熱心に練習してる。
 私は乾に促されて、ベンチに座った。さっそく乾は私たちの足首を結ぶ。
「基本的に俺が合図をするから、それに合わせて走れ。最初はゆっくりで練習して、それから上手く行くようだったら徐々にペースアップしていこう」
 乾はまったく普段どおりだった。
「……そういえばは、ひどく俺を避けているようだが、俺との二人三脚はそんなにイヤか? 身長順で行くと仕方がないんだが」
 そして、冷静に私を見て言う乾。
 私ばかりが、乾とのペアをなんとか避けようとか、じたばたしてるのがバカみたい。
 私は深呼吸をした。
 もう、乾のことがむかつくのかなんなのか、よくわかんない。
 でも、とにかく、乾を見て気まずくて落ち着かないのはもうゴメンだ。そんな自分にイライラする。
「イヤっていうか、ちょっと気まずいだけ。……一昨日のこと、友達同士でああいうのやっぱりやめとけばよかったなーって。ま、お互い、なかったことにしよ。で、体育祭への練習に集中するとしましょか」
 私はさらりと言った。
 うん、なかったことにして、気まずい感じがなくなれば、ちゃんと二人三脚もできるから。
 珍しく私が張り切ってベンチから立ち上がると、乾ってば座ったまま。
「なによ、練習しないの?」
「するよ。でも、ちょっと……座ってくれないか」
 静かに彼がそう言うものだから、私はそれに従った。
「一昨日の火曜日さ、俺、誕生日だったんだ」
 彼はしみじみと言う。
「あー、そうだったんだ」
 そうつぶやきながら、一昨日のことを改めて思い出した。
 そうか、あの日、誕生日だったんだ。
 あの、教室でひどく私に絡んできた日、誕生日だったんだ。
「15の誕生日にさ、初めて女の子に触れたのに、それはなかったことにはしたくないな」
 彼はあの低い声で、ゆっくりと真剣に言う。
「あー……まあ、その相手が私だったのは、大変に申し訳ないというか……、でもそれは乾が言い出したことでもあるんだし、まあ狂犬に噛まれたとでも思って諦めてもらうしか……」
 私はなんて言ったらいいかわからなくて、なんだか素っ頓狂な返事しかできない。
「……、すまない」
 えっ、すまないって、一体今度は何なの!?
 私は驚いて乾をじっと見た。眼鏡の奥の、あの目を思い出す。
「俺はいろいろと策を弄したり、格好つけて大人っぽく振舞ってみたりしても、所詮はの言うようにガキだし、童貞将軍だよ。ずるいしね」
そう言うと、乾は大きく息を吸った。
「俺はが好きだよ。だけど、は俺のことは男としてはまったく鼻にもかけてないし、とりつく島がない。多分、突然に好きなんだと伝えても、即答で断られるだけだって、童貞の俺にもわかってたよ。だから、少々ずるい手を使ってでも、との距離が縮められたら、も俺を男として意識してくれるかもしれないって思った。と二人三脚でペアを組むように仕組んだのも、このタイミングで俺がを好きだっていう噂が流れるように仕組んだのも、当然俺だ」
 私が目を丸くして彼を見ていると、彼はまた大きく息をつく。今度はためいき。眉尻がきゅっと下がって、見る見るしょげていくのがわかる。
「……に触れた時、が嫌な思いをしないように、俺は精一杯落ち着いて振舞ったつもりだけど、当然、すごく緊張してドキドキしてたんだ。翌日顔を合わせた時、俺は眼鏡をしてて表情があんまり気取られないってことが本当によかったって思ったよ。素顔を見られたら、きっと妙にニヤけてて、にドン引きされただろうからな」
 グラウンドからは、それぞれの種目の練習ではりきってるクラスメイトたちの声が響いてるけど、それはやけに遠いような気がした。耳に入ってこない。
「……だから、つまり、そういう事なんだ。がやっぱり俺なんかではダメだって思うなら、仕方がない。諦めるよ。はっきり言ってくれ。ただ、あの日のことだけは、俺はなかったことにはしたくないんだ。俺の胸にだけ仕舞っておくから、墓場まで持っていかせてくれ」
 乾は自分の目の前で両手を合わせた。
 騎馬戦の練習をしているクラスメイトたちが、ふと、本物の馬に乗って戦ってる武将に見えた。そして、乾を通して、そこからの流れ矢が私の胸に刺さる。
 例えて言うなら、そんな感じ。
 一昨日、間近で見る乾は本当に体が大きくて、ああ男の人なんだっていう感じで、最初は少し恐かった。でも乾が私に触れる手は、ものすごく大きいけどあったかくて、本当にそうっと、子猫をなでるみたいに優しく触れてくれたことを思い出す。
 胸に耳を当てたら、確かにドンドンと激しく心臓が脈打ってたっけ。
 今、乾の足首と私の足首は強く結ばれたまま。
「……手」
「は?」
 私の言葉に、乾は顔を上げた。
「手、つないでない」
「うん?」
 私はもう一度立ち上がる。今度は彼もそれに倣った。
「私、乾と、手をつなぐとかもしてない」
 私がそう言うと、彼は少し迷った後、私の手を取った。
 そうっと足を出してゆっくり歩きはじめる。
「ね? 最初は手をつなぐ、から始めるんだよね」
 一昨日、乾の部屋で一つ布団に入った私たちだけれど、手をつなぐこともキスをすることもしなかったなあと思い出した。
 私たちの出す足のペースは少しずつ早くなる。
「同級生の男の子とつきあうなんて、初めてなの。あっ、乾の部屋で二人きりで宿題をしててお互いドキドキする、という設定も入れたいんだけど、どう?」
「ああ、いいんじゃないか。俺は別に設定を決められなくても、多分ドキドキすると思うが」
「そんで、初めてのキスは夏くらい。でね、それ以上のことはクリスマスイブね」
「かなり詳細にプロットを決めるんだな。設定マニアだったのか?」
 だって、毎日顔を合わせる同級生の男の子との恋なんだよ!
 ゆっくり、たくさん、味わうんじゃないともったいない。
「まあ、今のところのあらすじとしてはそんな感じ。必要に応じて打ち合わせをして、予定変更してもかまわないけど」
 私が真剣な顔で言うと、彼はくっくっと笑った。
 多分、私は打ち合わせナシで勝手に予定を変えるくせに、乾がそうしようとしたら私に怒られるんだって、目に浮かぶんだろう。
 ま、どんなに設定を考えても、とりあえず体育祭で私と乾が一着でゴールしたら、私は嬉しくって木に貼りつくセミみたいに乾に抱きついてしまうに違いない。
 隣で、乾は『イチニ、イチニ、イチニ』と張り切って号令をかけ始め、私たちの走るペースはどんどん速くなるのだった。
 あっ! 乾が年上の人妻好きっていう噂、あれは本当かどうか確かめなくっちゃ!

(了)
「乾貞治の華麗なる噂」
2008.6.7

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