● T.T.B  ●

 それは3月の、晴れた暖かい日だったと思う。
 学校帰りに漫画雑誌を買った私は、家に帰りつく前に近くの公園に寄った。家に帰る前に買った漫画を読むのが、私のちょっとした楽しみ。だって、家に帰ると「漫画読む前に、宿題やっちゃいなさい!」とか言われるし、それに私は弟が3人もいるから、漫画を買って帰ろうものなら弟たちにすぐ奪われてしまう。
 その日は晴れてふわふわと暖かくて、私のそんなお楽しみタイムには絶好の午後だった。
 気に入りのベンチに座ってバッグから買ったばかりの漫画を取り出して、さあ読もうと思った瞬間、ふと視界にふわふわとしたものが目に入ったような気がした。
 改めて顔を上げると、道を挟んだ向かいの木陰に横たわる男の子。
 私と同じ、氷帝学園の制服だ。
 横たわる、と言っても、具合が悪くてということではないというのは一見して分かる。
 ものすごく気持ち良さそうに眠っているのだ。
 視界に入ったふわふわしたものっていうのは、彼の明るい色の髪が風にそよいでいるのが見えたんだ。
 私は、漫画を読む事を忘れて、しばし彼を見た。
 なんて思い切り眠ってるの!
 木陰の芝生の上とはいえ、外だし地べただというのに。
 バッグを枕にして、まるで家のお布団で寝ているみたいにリラックスして眠っている彼は、なかなかに整った可愛い顔をしていた。
 見かけたことはあるような気がするけど、名前はわからない。多分、同じ学年。
 半開きになった唇は、ときおりむにゃむにゃと動いてて、まさにガン寝だ。
 こういう感じの男の子って、まさに爆睡なんだよね。
 うちの弟たちがそう。
 ちょっとやそっとの物音じゃ起きない。
 うちの弟も、学校帰りにこんな風にどっかでふらっと昼寝しちゃったりするのかなあ、なんてふと心配に思ったり。
 だからっていうわけじゃないけど。
 漫画を読み出しても、私はその男の子がちょっと気になってちらちらと顔を上げて様子を伺ってしまう。
 ほら、今、お腹をぼりぼりと掻いたと思ったら、そのままシャツがめくれ上がって、思い切りお腹出ちゃってるんだけど。うちの学校の制服のシャツってショート丈だから、すぐお腹出ちゃうんだよ。あのお腹、出しっぱなしで風邪引かないのかな? 上からジャケットをかけて寝ればいいのになあ。
 などと、私にしみついた姉根性がだまっていないものだから、なかなか漫画に集中できない。
ふと気がつくと、そろそろ家に帰らないといけない時間だ。
 今日は、あの子の爆睡っぷりが気になってあんまり読めなかったよ。
 漫画や携帯をバッグにしまって、帰ろうかと思いつつふと顔を上げてまた彼を見た。
 そろそろ、空気も冷えてくる時間だけど、いつまで寝てんだろ?
 まさかこのまま夜までってことはないよね?
 起こした方がいいのかな?
 いや、でもウチの弟ってわけでもない知らない子なんだから、それはおせっかいだよなー。
 なんて考えてると。
 眠っていた彼はぶるると一瞬身体を震わせたかと思うと、身体を起こして、ふわーと大きなあくびと伸び。
 あー、よかった、ちゃんと起きたんだ。
 起きたと思ったら、彼は即、次の行動。
 こういうタイミングで、弟たちが取る行動と同じことに、彼は至った。
 かちゃかちゃとベルトを外してズボンを下し、側溝に向かって気持ち良さそうに立ちションをするのだ。
 私は、というと実は別にさして慌てない。
 だって、弟たちいつもこうだもん。
 ただ、あー、こんなとこでオシッコしちゃだめなのに! と周囲が気になって、そういう意味ではらはらしながら彼を見ていた。
 すると。
 あくびをしながら空に向けていた顔を正面に戻した彼と、私は思い切り目が合ってしまったのだ。
 うん、さすがに気まずい。
 けど、慌てて目をそらすのも何だし。
 と、私は目を合わせたまま。
 彼は、その目をちょっと丸く見開いて、ちょっと照れくさそうにニカッと笑って、ズボンを履き直してベルトを締めた。
 彼が私に背を向け、バッグを手にする隙に、私も立ち上がってその場を後にした。
 
 別に、見ようとして見たんじゃないもん。
 お互いに顔見知りじゃないし、向こうは覚えてないだろうから、別に大丈夫だよね。

 それ以来、何度か、校庭のベンチで彼が寝ているのを見かけた。
 テニス部の制服を着て、テニスラケットが傍に立てかけてあったから、テニス部なんだろうな。あの、TTBは。
 あ、TTBってのは私が勝手に彼につけたあだ名。
 弟たちが、夏場に風呂上がりに素っ裸でうろうろしてると、うちのお母さんがそう呼ぶの。「服を着なさい、このTTB!」って。TTBってつまりチ○チ○ボーイってことね。弟たちが小さいころは、そのままに呼んでたんだけど、面白がって「チ○チ○ボーイ!」と連呼するようになっちゃって。それは露骨すぎるよと、「ティ○ティ○ボーイ」って呼ぶようにして、そして更に最近ではそれがオシャレになって、TTBとなったのが、我が家のどうでもいい歴史。
 というわけで、あのテニス部のお昼寝立ちション男子が私の中でTTBと命名されるのは自然な流れなのでした。


そして、そのTTBの寝顔を間近で見ることになったのが、まさに今。
3年生になって、同じクラスになったのだ。
しかも隣の席。
当然ながら、彼は思い切り寝てる。
クラスの役員とか係を決める話し合いの間中もずっと寝てる。
クラス委員になった責任感もあって、一応彼を起こそうとしてみるけど、案の定ぴくりともしなかった。
幸せそうな寝顔、ふわふわの髪。これは確かにあの時のTTBだ。

「ああ、ちゃん、だめだめ」
近くの席の友達が笑って言う。
「ジローくん、去年同じクラスだったけどさ、ずっとこうだよ。テニス部の跡部くんも公認だから、先生たちも半ばあきらめてる」
TTBの名は、芥川慈郎というらしい。
気持ち良さそうに眠り続ける彼を指差して、授業のノートとかクラスの皆で手伝って大変だったよー、なんて言うけどまんざらでもなさそう。
幸せそうな寝顔の彼を見て思う。
きっと、憎めない感じの、皆から好かれてる子なんだろうな。
このTTB……芥川くんは。
という訳で、同じクラス・隣の席になったものの、ほとんど寝てばかりの彼と会話をすることなく終った一日に、実はほんのちょっとだけ、ほっとしていた私。


しかしさすがの芥川くんも、教室で朝からずっと寝ているわけでもない。
「あれー」
翌日、始業ぎりぎりに眠たそうな顔で教室にやって来た彼は、珍しくその目を大きく見開いて私を指差した。
「……どっかで会ったよね!」
そう言って、ぱあっと笑う。春の太陽みたいな笑顔。
「え? ほら、昨日からこの席だよ。芥川くんでしょ、昨日ずっと寝てたから……」
私はなんとなくごまかした。
「そっかそっか、そうだね、隣の席なのに名前も聞いてなくてごめん。なんて言うの?」
「あ、えーと、
彼の、唐突でストレートな会話運びにちょっと驚く。
ちゃんかー。そうそう、思い出した!」
芥川くんはバッグを床に置いて、教科書を出す事もせず椅子に腰を落ち着けた。
ちゃん、見たでしょ。俺のチンチ……」
私は思わず、芥川くんの机をバンッと叩いた。
「芥川くん、そういう事は露骨に言わないの! せめて、TTって言いなさい!」
思わず発動してしまった、私の姉モード。
芥川くんは目を丸くしたまま、ちょっと驚いたように私を見る。
そして、私の耳元に顔を寄せると小さな声で言った。
ちゃん、どうして俺がチ○チ○って言おうとしたって分かったの? やっぱり、見たから?」
その顔は、弟たちが楽しそうにいたずらをする時のわくわくした表情とまったく同じだった。
中学3年生が、小学生の弟たちとほとんど同じパターンってどうなの。
私が芥川くんに向けていたのは多分、弟たちを叱り飛ばす時の表情だったと思う。
「あ、ゴメンゴメン。チ○チ○じゃなくて、俺のTT。見た?」
それでも、彼は楽しそうに笑うのだった。
ちょうど、その時授業開始のチャイム。
あわてて教科書を準備して、ふと隣を見ると、芥川くんはもう眠りについていた。
先生も、他のクラスメイトたちも当然のようにそのまま授業が始まる。
芥川くんのライフスタイルの定着具合、おそるべし!


それから、芥川くんは妙に私に懐いてくるようになった。
「ねえねえ、ちゃん、今日の英語って、提出する宿題あったっけ?」
宿題やって来てないから見せて、どころじゃなくて、宿題があったかどうかっていうことから!
他にも当然のように、ノート見せてとか、移動教室では何を持ってったらいいんだっけ、とか。
「あのさー、芥川くん。ノート見せるくらいは別にいいんだけどさ。テストとかもあるんだし、寝てばっかりいないでちょっとは自分でやんないとだめなんじゃないの?」
「わかってるけどー、どうしても眠たいC」
いつもののんびりした笑顔。
「それに、宿題とかも私のばっかり写して同じことばっかり書いてると、先生にだってばれちゃうじゃん。たまには他の子から借りなよ」
言うと、彼はいたずら弟の笑顔。
「どーせ先生もわかってるからいいんだー。ちゃんのノートが見やすくて、お気に入り。それに、ちゃんは俺のTTを見たんだから、責任取ってもらわないといけないC」
そう、これが彼の決まり文句なのだ。
私は軽くため息。
「あのさー。見た見た言うけど、ほんと、そんなには見てないし! だいたい、ウチは弟たくさんいるから、あんなのしょっちゅうだし」
見慣れてる、とまではハッキリとは言わないけど!
すると芥川くんは、またウキウキした笑顔。
「まじまじ? すっげー! 弟何人いんの?」
「え? 3人だよ。小3の弟が双子で、もう一人は5年生」
「すっげー、楽しそうー!」
「もう毎日うるさくって仕方ないよー。芥川くんは?」
「うちは、兄ちゃんと妹! 俺、姉ちゃんが欲しいなーって、ずーっと思ってたんだー」
「言っとくけど、私はもうこれ以上弟はいらないから」
一人くらい増えてもいいじゃんー、と彼は笑う。
こういうとこが憎めない子だんだよなー、とか思ってると。
「でさ、ちゃん。弟’sのTTと比べて、俺のってどうだった?」
なーんて言うものだから、私は彼の頭をばしんと叩く。
彼のふわふわの明るい色の髪は、見た目どおりやわらかかった。

**********

初夏のころになると、私はいつのまにか芥川くんのことをジローくんと呼ぶようになっていた。彼はあいかわらずTTネタで私をからかってばかり。そして、いたずらワンコみたいに、弟みたいに私の周りをうろちょろしてばかり。
「ジローくんって、ほんっとにテニス部なの?」
ある日の午後、私はふと聞いてみた。
うちの学校のテニス部は、あの跡部くんが部長をやってるっていうのもあるし、伝統的に強い部だしで、とにかくすっごい有名。そして、当然ながら人気がある。
ということは、練習なんかも厳しいわけで。
「え? ちゃん、俺の雄姿見たことないの? 俺、テニス部の正レギュラーだC」
「ええっ、正レギュラーってまじで!?」
テニス部って200人以上いるんだよ!?
「まじまじ! 俺、結構テニス強いんだぜ」
 ちょっと気取ってみせる彼のお尻のあたりに、ちょっと違和感。
「……ジローくん、昼休みどっかで寝てた?」
「え? うん、中庭のベンチで寝てたよ。寝ぼけてちょっと落っこちちゃったけど」
 ニシシと笑う。
 ちょっと後ろ見せて、と背中を向けさせると、見事にズボンのお尻のところが破けていて、中のしましまパンツがばっちり顔を出している。
 落っこちる時にひっかけたでしょ、と指摘するとジローくんはアレッなんていって首をぐるりと廻してお尻を見て、さして慌てもせずに堂々とズボンを脱いだ。
「うわー、ほんとだ、ばっちり破けてるC!」
「ちょっとジローくん、教室でパンツはないでしょ。ジャージくらいはいたら!」
 私が叱ると、彼はニカッと笑う。
「これ、トランクスじゃなくてハーパンだC。着替えるの面倒だから、いつも下に履いてるの」
 制服の下だけがハーパンという間抜けな格好なのに、得意げな笑顔なのがジローくんらしい。私は思わず言ってしまった。
「……それ、繕ってあげよか?」
 言うと彼は目を丸くする。
 そして私が、しまった、と口を押さえると同時にジローくんはニコニコしながらズボンを私に差し出す。
「マジマジ? 縫ってくれんの? ちゃんすっげー! うっれC!」
 今度は私が目を丸くしながら、彼の敗れたズボンを受け取る。
 ま、応急処置くらいだけど……と言いながら、バッグからソーイングセットを出した。
 ジローくんはハーパンのまま、自分の席について机に頬杖をついて私の方を見てる。
 私は少々落ち着かないけれど、ほっとしたようななんとも言えない気持ち。
 私、実は自分の姉根性に少しコンプレックスを持ってる。
 家にいるときはそりゃ、三人の弟の姉だから姉なのは仕方ないよね。
 でも、学校でそれは控えたほうがいいんだって、去年、思い知らされたの。
 2年生の時、実は私はクラスメイトの男の子と短い間だけつきあってたことがある。
 向こうから告白されて、わけの分からぬまま付き合うことにしたけれど、結局二週間で別れることになったのだ。それも向こうから言い渡されて。
 私が口うるさいということが、理由。
 自分では気づかなかったんだけど、多分私は家で弟たちを取り扱うみたいに、男の子の雑さについつい口出ししがちだったんだよね。
 その時つきあっていた子に別れを言い渡されたきっかけは、『ボタンが取れそうだから、つけてあげる』だったことはしっかり覚えてるんだ。『そーいうの、いいんだってば』って言われて、その日でおしまい。
 彼のことが好きだったのかどうか、それはもうわからない。
 でも、自分が否定されたようなショックな気持ちだけは確か。
 そして『そりゃそうだよなー』って思ったのも確か。
 だから、ちょろちょろとなついてくるジローくんに、つい姉的スタンスで接してしまうのにも、本当は気をつけてたんだ。
 なのに、意外や意外。
 私がちくちくとズボンを繕ってる間、鬱陶しそうな顔ひとつせず子犬みたいに待っているジローくん。
 私が家でお姉ちゃんでいるみたいにフツーにしてても、この子は別にいいんだ。
 弟でもない男の子のズボンを繕ってるなんて、我に返るとなんだか照れくさくて、ささっと仕上げると『家で、お母さんにミシンで縫ってもらってね』と言いながら、彼に返す。
「やったー、ありがとー!」
 浮かれたように机の上に立ち上がってズボンを履くジローくんは、とても氷帝テニス部の正レギュラーには見えない。
 そんな私の心を見透かしたように、彼は私を見下ろして言った。
ちゃん、俺のかっこいいとこもたまには見に来てよ、テニスコートにさ」
「えー、テニス部の見学っていっつも人がいっぱいだし」
私が冷たく言い放つと、彼は子供みたいに唇をとがらせてみせる。
「いーじゃん、ちょっとくらい見に来てよー」
暇だったらねと言うと、彼は顔を輝かせて、約束だC!と笑う。
思わずつられて吹き出した。
ジローくん見に来る女の子なんていっぱいいるだろうから、別にわざわざ私が行かなくてもにぎやかだろうに。

 彼の笑顔を言い訳に、私がテニスコートを訪れたのはその数日後。
テニス部って、興味がなかったわけじゃない。
見てみたくなかったわけじゃない。
でも、なんていうの。
テニスコートの周りでキャーキャー言ってる女の子たちとは私は違う、なんて感じの妙なプライド。っていうのは、なにも私が特別なわけじゃないと思うんだよね。氷帝テニス部に対する女子のスタンスって、すっごく簡単に分類すると、テニス部にキャーキャー騒げる子と、『何、べつにそんなの興味ないわ』って感じにまず分かれて、そして、『興味ないわ』って風にしている中でも、内心ちょっと興味はあるっていう群がいる。そんなもんでしょ、中学女子なんて。つまり、私はその後者のタイプ。
というわけなので、この日は『クラスメイトのジローくんが見に来てっていうから、仕方なく』っていうことを、誰に言うわけでもないけど心に思いながらテニスコートに向かったわけ。
テニスコートに近づくと、遠くからでも熱気を感じる。
大会が近いっていうこともあるんだろうな、運動部は。テニス部は全国大会を目指してるから、こんなまだ夏前の試合なんて楽勝だろうけど。
テニスコートのあたりから感じられる熱気というのは、部員たちが発するものだけではなかったということに、近づくほど気づかされる。
見学するために群がっている女子たちからの熱気が、まずはテニスコートを取り巻いていた。
うん、だいたい想像はついてたけど。
テニス部の男子って、跡部くんを筆頭としてかっこいいもんね、それは間違いない。
見学って、どこでどう見てたらいいのか勝手がわからなくて『あーあ、クラスの誰かを誘ってくればよかった』と後悔。でも、なーんか、テニス部見に行こうよなんて言いにくくてさ。私、そういうキャラじゃないから。
女の子たちがたくさんいるところが、たぶん見学スペースなんだろうなあと思って、私もそのあたりで足をとめた。
コートは見えるけど、おんなじジャージを着た子が沢山いて、ジローくんを見つけることができない。周りの女子たちの話題を耳にすると、とにかく跡部くんファンが多いということは間違いなくて、あとはそれぞれ忍足くんだとか、2年生の鳳くんだとかそれぞれにファンがいるんだなーとわかった。へー、結構面白いな。
 周りの会話に少し慣れたころ、『ジローくんが』という声が耳に入った。
 顔を向けずにちらりと見ると、髪の長い眼鏡をかけた可愛らしい女の子。
「ジローくんは去年、よく甘えてきて仲良かったよー」
 彼女は嬉しそうに隣の友達に話していた。
 私は思わずハッとする。
 目線はコートを眺めていて、その実、何も目に入ってこない。
 隣にいる眼鏡の女の子の話ばかりが耳に入る。
 隣の席になったジローくんはいつも授業中寝てばかりで、宿題やってこなくて、ノート見せてあげて、忘れ物をするから世話ばっかり焼かせて……。
 さんざん私にも記憶のあるようなことを、彼女は嬉しそうに話していた。
 そうか、そうだよね。
 ちょっと考えれば分かること。
 そういえば、去年はクラスみんなで彼のノートの面倒みてたとか友達が言ってたっけ。ジローくんが甘えるのは私だけじゃないし、世話をされるのも何も特別なことじゃないもんね。テニスコートに練習を見に来て、なんて言うのも別に私にだけじゃないだろう。
 TTネタで私をからかうのも、何も特別なことじゃない。たまたまだ。
 うん、私がジローくんのTTを見たことだって何でもないんだ。そう、最初から自分でそう言ってたじゃない、私。
 テニスコートを後にしようとした瞬間、ベンチで横になってるジローくんを見つけたけど、私はそのまま家に帰った。3人の弟が待っている家に。


 翌日、始業ギリギリに教室にやってきたジローくんは、シャツの裾がちょこっとだけインになってて、いつものように寝ぼけた顔。多分、あれだ。ジローくんはいつもトイレでオシッコする時、ズボンを下げるんだね。そんで、またベルトを締める時に、シャツが入っちゃうんだ。なーんて思いながら、いつもみたいに『ほら、シャツ!』と注意することをしなかった。
 そういうの、私の自己満足でしょ。
 彼にそういうことを言うのは、別に私じゃなくてもいい。
 ジローくんは、席につくなり、『ちゃん、おはよ』と言って、ふぁーとあくびをするとそのまま机につっぷして眠る。
 おはよ、と言って寝ちゃうってどういうことよね、と思わず私は苦笑い。
 1時間目は漢文で、授業が終わると同時に目を覚ましたジローくんは眉毛をハの字にして、私を見た。
ちゃん、ノート見して。はー、俺ほんっと漢文って見てるだけで眠くなるからすっごい苦手なんだけど、もうすぐテストだし赤点取ると、跡部や監督がうるさいし……」
 両手を合わせて笑ってみせる彼に、私は黙ってノートを差し出した。
 ジローくんはそれを受け取ってパラパラとめくりながら、ちらりと私を見る。
「あのーちゃん、できればいつもみたいに、ここんとこがテストに出そうとかそういうのも教えて欲しいんだけど……。ほら、テニスの練習もあって、なかなか一人じゃ勉強できなくて……」
 頭を掻きながら言う彼を、私は見上げた。
「テニスの練習って、ジローくん昨日、ベンチで寝てたじゃん」
 思わず言うと、彼はぱあっと顔を輝かせる。
「えー、ちゃん、昨日見に来てくれたの!」
 私はしまった、と眉間にしわを寄せてしまう。
「なんだなんだー、声かけてくれればよかったのにー! 俺のマジックボレー見てくれた!?」
「見てないよ。……だって、寝てるだけかーって思って、すぐ帰っちゃった」
 帰った理由は本当は違うのに。
「えーっ、もうちょっといてくれたら、俺のかっこいいとこ見せられたのにー。俺はTTだけの男じゃないんだからー! そんで、俺のTTを見たちゃん、今日の漢文のポイント教えて」
 そして、またひまわりみたいな笑顔。
 私はため息をついた。
 特別、みたいに言われながら、それは特別じゃないんだってわきまえて平気でしてないといけないの、私みたいな子って。長女だから?
 私が眉間にしわをよせてると、ジローくんがちょっと目を丸くした。
「あれ、ちゃん、何か怒ってる?」
「怒ってないよ」
 あわてて答えた。
 だって、怒る理由はない。ジローくんは、怒られるようなことしてないよね。
「だけどさ」
 これだけは言わせて。
「TTはもういいから。私だって、見たくてジローくんのTT見たわけじゃないし、もういつまでも言わないで。もう忘れて。そんなこと言わなくても、ノートはいつでも見せるから」
 まるで甘い切り札みたいに、からかって言われることがほんとはちょっと嬉しかった。特別な秘密みたいで。
 でも、それももういいや。
 だって、どうせ彼にはどうってことのない出来事のひとつに違いないんだから。
 その日に漢文のノートを貸してから、テスト前の期間、ジローくんは私にノートを借りに来なかった。
 授業中に隣の彼を見ると、居眠りはするものの、難しそうな顔をして授業中自分でノートを取ったりしている。
 どーしたの、無理して起きてたりして、大丈夫なの? スポーツマンなんだから、ペースを崩さない方がいいんじゃないの? なんて口出しをしたくなったけど、そこはほら、控える。
 だって、私はジローくんの姉でも彼女でもお母さんでもないもの。
 私の一言が、説教に感じたんだろうか、単にムッときたのだろうか。
 彼の気持ちはわからないし、それは考えても仕方がない。
 ただ、私はちょっと自分で自分が嫌いになった。
 別にどうってことないって思うなら、ジローくんに余計なこと言わず、今までどおりノートを見せたり先生がテストに出るよって言ったとこを教えてあげたりしてればよかったのに。
 私、きっと、みっともなかった。
 なんだかジローくんと顔をあわせにくいなと思いながら、席替えの時期が近づいてるっていうことにも気づいてた。
 まあ、ちょうどよかったかなー。
 ジローくんは、きっと次のお姉さんを見つけるだろう。


 テストも終わって成績も発表された日の放課後、校舎を出る私を久々の声が呼び止める。
ちゃーん!」
 ジローくんがテニスバッグを背負って走ってやってきた。
 久しぶりな気がしてどきっとするけれど、よく考えたら別にけんかをしてたわけでもないし、そもそもけんかをするような仲だったわけでもないし。
「あ、ジローくん、どしたの」
 なんでもないように言って振り返った。そこには、見慣れた笑顔。
「俺の成績見てくれた?」
「はあ?」
 私が間抜けな声を出すと、ジローくんはポケットからくしゃくしゃの成績一覧を出して見せる。
「ほらー、俺の成績」
 自慢げに見せてくれるジローくんの成績は、まあ良くもなく悪くもなくといった風でなんともリアクションに困る。
「はあ……」
 私が言葉につまっていると、ジローくんはじれったそうに足を踏み鳴らした。
「だからさー、ちゃんに比べると俺のテストの成績は良くないよ。でもさー、俺、今回ちゃんの助けなしでいつもどおりの成績だよ? すごくねー? 頑張ったと思わねー?」
 キラキラした目で私を見るジローくんは、とにかくキラキラしてるんだけど、その頑張りがなんと評価していいものかよくわからなくて、私は思わず笑ってしまった。
ちゃん笑うけどさー、授業中起きてると俺、まじ眠いC、教科書読んで一人で勉強してるとどんどん眠くなるC!」
「……だったら、そんなに無理しなくても、聞いてきたらいいし、私じゃなくても他の人にでも教えてもらったらいいじゃない。……去年までそうしてたみたいに」
 あー、なんで私、言わなくていいような一言を口にしちゃうんだろ。
「だって、ちゃんがあんなこと言うから!」
 ジローくんは成績表をくしゃっとポケットにしまうと、真剣な顔。
 ジローくんの眠っている顔と笑った顔と困った顔以外って、初めて見た気がする。私はぽかんと口をあけてその顔を見上げていると、彼はずいと一歩近づく。私が後ずさると、また一歩。私の背中には校庭の欅の幹が触れた。
ちゃんが、俺のTTなんて見たくて見たんじゃないって言うから!」
「ちょ……だからもうTTの話は……!」
 あわてて言うけれど、ジローくんは真剣な顔のまま。
「なかったことになんかしないC。俺のTT見せるのはちゃんだけだC、ちゃんも俺のTT以外見ないでよね」
 そして、そんなことを怖いくらい真剣な顔でさらりと言うのだ。
 一方私は、多分アホ面で彼を見上げてたと思う。
 ジローくんは、ふにゃっと表情を崩した。
「意味わかる? 正式名称で言った方がいい?」
「だめだめだめー!」
 私はあわてて声を上げて、彼は大笑いをする。
「ごめん、俺、ふざけてない。本当は俺、ちゃんにかっこいいとこ見せたいよ。だからテニスコートにまた来てほしい。俺はいつもちゃんに甘えてるけど、本当はちゃんを守れるくらい強い男だよ。テストの成績はこんなもんだけど、やればできる。だからちゃん、俺のTT見たことどうでもいいなんて言わないで」
 いつのまにか欅の幹にぴったり背中をくっつけた私の目の前に、ジローくんが近くてまた真剣な顔で。
 言ってることはヘンなのに、男らしいのはどうして。
 っていうか、こんな風に言われたらどう返事をしたらいいの!
 彼にじっと見下ろされながら、私は顔がカーッと熱くなる。
「……私、一緒にいたら多分すっごく口うるさいと思うんだけど……」
 私がそう言うと、次の瞬間ジローくんは両手で私の手をぎゅっと握って目を閉じた。
「俺、ちゃんにいろいろ言われて世話焼かれんの大好き。だけど、いつかちゃんに言われなくてもちゃんと何でもできるようになるから、席が離れても俺の傍にいて」
 あ、席替え。
 ジローくんももうすぐだって、気づいてたんだ……。
 私は胸がぎゅーっと熱くなる。
「……シャツの裾、また端っこが入っちゃってるんだけど……」
 うつむきながら言うと、彼はあわててシャツをひっぱった。
「あっ、ほんとだ! さっき、トイレ行ってきたから……!」
 へへっと笑うと、私の手を引いて当然のようにテニスコートに向かう。
 ちゃんと手、洗った? と聞いたら、モッチローンといい返事。調子に乗った彼は、『ちゃん、俺のTT見たんだから、そのうちパンツ見せてね』なんて言うので、頭を一発パシンとやろうとしたけれど彼は握った私の手を離さない。
 力が強くて、男の子だ。
 どうしよう。
 このTTBは、ものすごく私をどきどきさせる男の子だったんだ。
 いいのかな。
 大好きって思っちゃって。
 ねえ、TTB。

(了)
2012.12.17

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