● 悪魔とトゲトゲ王子  ●

「ねえ、日吉。私が、日吉とつきあいたいって言ったら、どうする?」
 報道委員会の集まりが終わった後の教室で、角川文庫の「怪談 新耳袋」を二人の間に置いたまま、私は日吉にささやいた。
「……別にかまいませんよ」
 一学年下のクールな男の子は、一瞬顔を上げて長めの前髪の向こうから強い目で私を見てから、すぐにいつものような冷静な顔に戻って静かにつぶやく。
 私は何でもストレートに言う方だけど、これでもストレートさが足りなかっただろうか。
 このやりとりじゃあ、私が日吉とつきあいたいって勝手に言ってるのは、別にかまわないってだけのことになるよね。
 何事も確実でないと。
「ん、じゃあ、実際に私と日吉がつきあうっていうのはどうなの?」
 私は真剣な顔で身を乗り出して、よりストレートに尋ねてみた。
 彼は、そのサラサラの前髪の向こうの目を伏せて眉間にしわをよせる。
「だから、かまわないって言ってるじゃないですか、先輩」
 いつものように、ちょっととげとげとした生意気な言い方。
 にこりともしない。
 でも私は、うれしくて思わず顔をほころばせた。
「じゃ、つきあおうよ。今から」
 そう言うと、彼は手元の文庫をぱらぱらと繰りながら小さくうなずくだけ。



 春になったのとほぼ同時につきあい始めた私の年下の恋人は、頭も良くてかっこよくてスポーツもできる素敵な男の子なのだけど、なかなかに気難しくてちょっと変わった子だ。
 私も彼も、去年から同じ報道委員で前からの顔見知り。
 彼はうちの学校では超人気のテニス部の有力選手の一人で、学年は下だけど割と顔は知られている方。けど、私はあんまりそういう健全な優等生タイプは興味がなかったから、同じ委員会で顔を見ても最初は『ふーん、1年の日吉くんね。あの跡部のテニス部なんだ』って思っただけだった。
 けど、彼はちょっと変わってた。
 うちの委員会は報道委員っていうだけあって、学園誌の記事用に各委員にはカメラが支給されて報道用の写真を委員から募るわけだけど、彼の出してくる写真はなんか変わってるの。変わってるっていうか、何の変哲もない夕暮れの理科室や、階段の踊り場や、ぼけーっとした青空だとか、そんな、報道とはほど遠い、わけのわからない写真ばかりなのだ。
 最初は、だるくてやる気なくてテキトーな写真を出してるんだろうな、何しろ忙しいテニス部様だから、なんて思ってた。けど、学園誌に採用される写真が決まって、レイアウトなんかを決める段取りになると、彼は自分の撮った写真を見返してはそれはそれは悔しそうな顔をしているのだ。
 私自身、そんなに熱心な委員じゃないから、というよりできるだけ作業はしたくない方だから、ある時サボりがてら彼に聞いたんだった。
 その写真、一体何なのよって。
 そしたら彼はとても真剣な顔で私を見た。
「これ、理科準備室なんですけど、このロッカーの陰のところ、ものすごく空気がゆがんでいると思いませんか? 俺、ものすごい瞬間を撮ったと思ってるんですけど」
 日吉はシャーペンの先を使って、私にていねいに説明してくれた。
 残念ながら、私にはその「空気のゆがみ」はわからなかったんだけど、話しているうちに、彼がその時図書館から借りて愛読しているシリーズが、角川文庫から出てる「怪談 新耳袋」シリーズだということが判明した。私は、兄が持っているそのシンプルな現代百物語の文庫を読んだことがあって、『ねえ、それに載ってる、恐怖の「山の牧場」の現場がどこか、知ってる? それね、兵庫のおばあちゃんの家の近くで、私、探検したことあるんだ』なんて言ったら、日吉はいつも『フン』といった感じで細めている目をキッと見開いて、

「マジですか! どうだったんです! 写真は撮ってきたんでしょうね! 謎のトイレや、謎の牛の解剖図なんかもあったんですか! 階段のない謎の2階の部屋も!?」

 と、考えられないくらいに食いついてきたのだ。
 そんなわけで、それ以来私は彼と『不思議もの』友達になった。
 愛想のないクールな男の子だと思っていた彼は、怪談とかUMAとかオーパーツとか未確認飛行物体とかになると、異様なくらい饒舌になって本当にいろいろ話をしてくれる。私もそういうのは嫌いじゃないから、話を聞くのが楽しい。今までつきあったり仲良くした男の子は、フツーにテレビドラマやお笑いのことなんかを話したり、とにかくフツーにノリのいい男の子ばかりだったから、彼みたいに意外にマニアックで愛想がいいんだか悪いんだかよくわからない子っていうのはちょっと新鮮で面白かった。
 私たちは会うたびに、ペルーの遺跡のことや、水晶のドクロのことや、スカイフィッシュのことなんかを話してたんだけど、たまに私が『ねえ、日吉って女の子とつきあったことある?』なんて尋ねると、急に困った顔をして黙った後に怒ったように『ありませんよ』なんてぶっきらぼうに答えたり、『じゃあ、どんな子が好き?』なんて聞くと、更に怒ったように『清楚な人が好きです』なんて言ったりするのが、おかしくて仕方なかった。
 だって、かわいいんだもの。日吉。
 背が高くてかっこよくて、男らしくて、テニスも強くて。
 だけど、なんだかちょこっとぎこちなくて見栄っ張りな感じ。
 本人に対して口に出して「かわいい」なんて言ったら、絶対にすごく機嫌が悪くなりそうなプライドの高いタイプの子。
 年下だからよけいかもしれないけど。
 そういうとこがなんだかすごくかわいくて、いつもいつも真剣に話す彼が、私はすぐに好きになってしまった。
 だから、学年が上がってまた同じ委員になったことがわかったら、すごくうれしくなっちゃって、冒頭のように私はあっさり自分から彼に告白をした。
 そしてかえってきた、ぶっきらぼうな返事。
 でも、私は結構ポジティブな方だから、すごくうれしかった。
 それからの私と彼のつきあいは、多分周りが思う以上に順調。
 私の友達は、『えー! があの日吉くんとー!?』なんて言って、つまりはああいうまじめそうで正統派なタイプの子と私がつきあう意外さに驚いたりしてたけど。
 でも、ほんと、私たちは順調。
 元々話の合う私たちだから、彼の部活のない日に一緒におしゃべりをしながら帰るのもすごく楽しいし。
 最初はとにかく話をしながらまっすぐに歩くだけの彼だったけれど、ある時私がそっと手に触れたら、それからはいつも彼が手をつないでくれるようになった。もちろん、学校からだいぶ離れて誰も近くに同級生が見当たらなくなってからだけど。
 私と彼の家は割と近いから、一緒に帰るようになって間もなく、週に1回は彼の家で一緒に宿題をやっていくようになった。学年が違うから、当然内容は違うんだけど、面倒くさい宿題も一緒に時間をすごしながらこなすんだと思うとがんばれる。日吉は頭がいいから、私に勉強をきいてくることもないし、宿題なんか苦でもないようだったけど。
 古武術の道場をやっているというそれはそれは広い家の、渡り廊下をはさんだ離れにあるの彼の自室はとても静かですごくたくさんの本やビデオやDVDがあって、宿題が終わると、彼の大好きな映画の一つという「少林寺」のDVDを見せてもらったりした。
『リー・リンチェイのこの映画が少林寺ものでは一番有名だけど、少林寺を題材にした映画というのは何十とあって……』
 と、これまた真剣に熱くいろいろと教えてくれる彼は、ほんとうに面白くて素敵だった。
 私は本当にこの、熱く真剣で男らしい子がかわいくて大好きで仕方なくて、彼がジェット・リーの華麗なるアクションに見入っている隙に、そうっとそのちょっと薄い唇の横に自分の唇を寄せた。
 彼は前髪の奥から驚いた顔で私を見て、次のアクションを起こすまでには相当に時間がかかったけれど、でもきちんと、私の肩に手を添えて私の唇に彼のそれを重ねてくれた。
 そんなふうに最初は触れるだけだった私たちのキスだけど、すぐに私は彼の舌がベルベットみたいに柔らかいんだっていうことを知り、そして、二人で「燃えよドラゴン」のクライマックスの鏡の間の対決シーンを見る頃には、私は日吉の体の温度が、私よりちょっと低くてひんやりしてるんだなあっていうことを知った。そういえば、手をつないだときいつもちょっとひんやりしてたっけ。
 彼は私の体に触れるたび、自分の手が冷たいことを気にしてか、いつも両手をこすりあわせる。そんな何気ない仕草が、『ちゃんと私のこと、気遣ってくれるんだなあ』ってポジティブであつかましい私には十分うれしかった。彼は、好きだとかどうとか、そんな甘い言葉はちっとも言わないし、いつもぶっきらぼうでとげとげとした態度ばかりだけど、私はぜんぜん気にならないし、十分に『日吉は私のこと好きなんだー』って実感してきた。
 


 そんなふうに、私としてはこの上なくハッピーに上手くいってる二人の恋、と思っていたわけだけど、このところ彼のとげとげ感がいつもと違うような気がするのだ。日吉の生意気とげとげぶっきらぼうはいつものことなんだけど、そのとげとげがね、今までは私に対しては何の殺傷力もなかったんだけど、最近はちょっと痛いの。上手く言えないんだけど。
 そして、どうして急に日吉のとげとげが痛くなってきたのか、私に、心あたりがないわけではない。
 サロンで食後のヨーグルトを食べながら、私の向かいで無言で文庫に目を落とす日吉を見つめた。
 私は結構なんでもストレートにものを言う方で、無口ってわけじゃないけどあまり肝心なことを言わない日吉にはそれくらいでいいんだって勝手に思ってたけど、もしかしたらついに私も失言をしてしまったのかもしれない。
 私は自分の一言を振り返った。
 それは数日前、日吉の部屋で「酔拳」を流したまま、彼のベッドに入っていたときのこと。ジャッキー・チェンが師匠と喧嘩をして走り去るシーンの頃にことを終えた私たちはちょっとけだるくてベッドでうだうだしてて、私は日吉の前髪を触りながら、こんな風に言っんだった。

『日吉、私、別に毎回いかなくても、こうしてるだけで気持ちいいから』

 とか、そんなふうなことを。
 すると日吉は私の目を見て何も言わず、前髪に触る私の手をそっと払うと、一度布団にもぐりこんでからさっさと服を着始めた。
 終わった後に愛想ない、というのもいつものことだから私はさっぱり気にしてなかったんだけど、どうもそれ以来日吉のとげとげが痛いんだよね。
 一応私とお昼を食べるという習慣はそのままに続いているんだけど、彼は本を読んでるだけで何も話さない。
 そんな彼を眺めながら、私もいろいろと考える。
 何しろプライドの高い彼だから、やはりああいった一言はさすがに無神経だったのだろうか?
 少々反省しつつ、私もどうして自分があんな風に言ってしまったのか、思い返す。
 私は日吉に触れられて抱き合うのがとても気持ちよくてとても好きなんだけど、彼はなんというか、本当に熱いまじめな子だから、なにしろ毎回『いざ、真剣勝負!』といった様相なのだ。
 それですごく丁寧に私に触れてくれるから、もちろんとてもいい感じで、日吉が思い描いただろうようにことがすすむと、まあ当然私も満足だし、日吉もすっごくうれしそうでまさに顔に『下剋上』とでも書いてあるかのようでめでたしめでたしなんです。
 だけど、こういうことって多分お互いの体調やバイオリズムなんかもあるから、そりゃあ日吉の思うようにならない時もあるじゃないですか。そうすると、彼はまるで切腹でもしかねない様相なのだ。
 恋人同士でいちゃいちゃしてるっていうのに、切腹はないでしょう?
 まあ、なんていうか、彼はもっとリラックスして普通にがつがつしてたらいいんじゃないかなあって思ったわけです。それに、私も気を遣って言ったわけじゃなくて、別に、毎回毎回クライマックス的なセックスじゃなくていいんだけど、と実際に思ったから。
 日吉は、太古から伝わる謎の遺跡だとか、ブルース・リー親子の謎の死、とかになるとものすごく饒舌なんだけど、私たちのことになるとさっぱり何も言わない。だけど、それは彼の芸風なので、私が言いたいこと言って上手くいったらそれでいいや、なんて思ってた。
 で、こうなってしまったと。

 とにかく、心あたることといえば、あのときのあの一言しかないわけだけど、彼はそれに関して何も言わないし、私もさすがにこの雰囲気で、『何で怒ってるの? もしかして、あのときのあれ?』とは聞けない。
「ねえ、日吉。兵庫県某所に、大村崑の息子がやってる『ブルース・リー博物館』ってあるの知ってる? そこにね、アメリカのオークションで落札したっていう、ブルース・リーの本物の免許証があるんだって。あと、丹波哲郎や松田優作の眼鏡もかざってあるらしいよ!」
 少々動揺した私は、とっておきのネタを振ってみた。
 日吉は一瞬文庫から顔を上げるけど、また下を向いた。
「ふーん、そうですか。兵庫はちょっと遠いですね」
 山の牧場の時はごっつ食いついてきたくせに!
 これは本格的に機嫌をそこねてる。
 いつものぶっきらぼうやとげとげは単なる日吉の芸風にすぎないけど、これはマジでとげとげしてる。
 私は思わずため息をついた。
 だって、今まで彼との間はずっと順調で、こんなこと初めて。
 まったくどうしたらいいのかわからない。
 私がもう一度ためいきをつくと、日吉が静かに文庫を閉じる音がした。
「ああそうだ、さん」
 そして言う。
「俺、明日の昼はグループワークの課題のことでちょっと集まりがあるんで、サロンには来れないです」
 彼の一言に、私は肩をすくめた。
「あ、そうなんだ。じゃあ、教室で友達と食べるわ」
 時計に目をやると、そろそろ昼休みも終わり。
 私たちの、ビミョウに気まずい昼食時間は終わった。



 どうにも気分はすっきりしない。
 つまんないことでひっかかっちゃったな、私たち。
 もっと明らかな喧嘩ならまだいいけど、なんだかはっきりしないいやな感じの暗礁。いつまでたってもなおらない、しつこいイヤーな捻挫みたい。
 日吉が、あんまりというかほとんど私たちのつきあいの事に言及しないのは、まあ照れ屋だったりプライドが高かったりなんだろうし、そういうところもかわいいからって思ってたけど、もう少し何か言ってくれたらいいのに。私に、どうしてほしいんだとか。自分がどうしたいんだとか。
 そういうのは、私のわがままなんだろうか。
 いっこだけとはいえ、年上なんだし、もっとちゃんとわかってあげないといけない? 



 翌日、購買にサンドイッチを買いに行った私は、見慣れた長身の人影を目にした。日吉だ。ああ、今日はお弁当じゃないんだ。パンでも食べながら、みんなで課題をやるんだろうな、なんて思って見てた。
 クラスメイトらしき男の子や女の子と一緒だ。
 日吉は割と大人っぽい方だから、改めて、二年生の子ってちょっと幼いんだなーって新鮮な気持ちで日吉の同級生を眺めてた。
 女の子が、日吉に何か話しかけてる。
 ああ、日吉ってばやっぱりクラスメイトの女の子にもとげとげぶっきらぼうなんだ。
 私に話す時と一緒。
 ちょっとおかしくて、そんな彼らを見てた時。

 そんな時、まったく突然に、私の中に悪魔が入り込んできたのだ。

 日吉は私以外の他の誰にでも、同じようにとげとげしてる。ということは、つまりは私に対しても何も特別じゃないってことだ。
 同級生の子と一緒にいる彼を改めて見つめた。
 そういえば日吉は『清楚な人が好きです』なんて言ってたっけ。その時はまったく気にもとめなかったけど、彼は本当は年上の女の子じゃなくて、同級生だとかそういう子の方がいいんじゃないだろうか。つまりは、恋をするのも手をつなぐのもセックスをするのも、日吉が初めてっていうような、そんな子。
 私とつきあうことに関しての返事は「別にかまわない」って言ってたけど、あれは本当に言葉通りで、たいして好きではないけれど別にかまわないっていう、そういうこと?
 私は今まで、あまりにポジティブすぎたのかもしれない。

 多分、普段の私ならこんな考えにとらわれることはないと思う。
 でも、心がちょっと弱ってるそんな隙を、悪魔はやっぱり見ている。
 突然に入り込んできたそんな悪魔の考えは、どんどんと私の中を占領していった。



 日吉は本当に、私に一度も「好き」だとか言ったことはないのだけど、何かの折に彼が自動販売機で私にジュースを買ってきてくれることだとか、ちょっとひんやりとした彼の手が、しばらくぎゅっと握りしめているとだんだんと私の手と同じ温度になっていくのだとか、そんなひとつひとつのことで『うん、これで大丈夫』って、私は思ってた。
 そういうの、間違ってたのかもしれない。
 べつにかまわない、という程度でつきあっていた私とのつきあいを、彼は何気なく終わらせることができるのかもしれない。

 悪魔の作戦はなかなかよくできていて、その日の夜、日吉から『課題がまだできなかったんで、明日もういちど集まることになりました。サロンには行けません』とメール。
 普段、滅多にメールをよこさないくせに。
 それ以来、私はもう日吉に昼の確認をすることはせず、教室で友達とお昼を食べた。
 最初の頃、友人たちは『ついに日吉君と破局〜?』なんてからかってきたけど、私が結構マジでへこんでるのを見ると、あわてて話題を変えて、週末のプランなんかを提案してくれるようになった。
 


 そんな女友達とのにぎやかな週末をすごした後の月曜、昼休みに購買でサンドイッチを選ぶ私。ライ麦パンのチーズサンドが残っていないか探していると、誰かが私のお目当てのそれをすっと前に差し出してきた。
 顔を上げると、その親切な行為とは真逆にきわめて不機嫌そうな顔をした日吉。
「……昼、どうしてたんですか。俺がキャンセルしたのは二日間だけでしょう」
 怒った声で言う彼から、とりあえず私はライ麦パンのチーズサンドを受け取ってレジに向かう。
「俺はサロンに行けない時は、ちゃんと連絡しましたよね。二日とも。どうでもいいようなメールはよこすくせに、どうしてこういう事はきちんと連絡してくれないんですか」
 梅雨時の蒸し暑い中、私たちはサロンを抜けて校庭の木陰のベンチに向かった。
 こういうことになると饒舌な日吉は、ネチネチネチネチと説教を続けた。
 私が連絡なしに昼にサロンに行かなかったということで、彼は機嫌を損ねているらしい。
 まあ、それは確かに悪かったけど。

 だけどね。

 普段だったら、ごめんごめん、なんて私が言って仲直りだろう。
 でも、例の悪魔はまだ私の中にいるようだ。

 だって、日吉、それ、違うでしょ。

 その前の、日吉の妙なとげとげで私は痛いまま。
 もう、こういうのはちょっと疲れるし、何しろ痛いから。
「……お昼に私が行かなかったのは、その前から日吉がなんだか怒ってて、私のことはいやになったのかって思ったから。もう、日吉が何を考えてるか、よくわからないし」
 私は、自分でもびっくりするような、今まで言ったことのないようなことを口にして、足を止めるとくるりと校舎の方へ引き返した。
 悪魔はすごいな。
 ポジティブであつかましい私に、こんなことを言わせてこんなことをさせる。
 引き返す私よりも、日吉は当然コンパスも長く瞬発力もあるから、あっという間に私の前に立ちはだかった。
「何を言ってるんです。いいかげんにしてくださいよ」
 そう強気で言いながらも、ちょっと困ったような顔。
 私はもう一度足を止めて、彼を見上げた。
 あーあ。
 私の方がおねえさんなんだから、彼を困らせたりしちゃいけないのに。
 でも一度言い出したことは止まらない。
「だって日吉、怒ってたでしょ? あの時から」
 彼は眉間にきゅっとしわをよせて、怒ったような困ったような顔で口をつぐんだ。
「多分、あのことで日吉は怒ったんだろうなって思ったけど、だけど日吉は何も言わないでぶすっとしてるだけだし、私は私で、そんなに怒らなくてもって思ってしまうし、どうしたらいいかわからなくて、私だって困る」
 私の言葉に、彼はいっそう不機嫌そうになる。
「ごめん、いちゃもんをつけて困らそうって思ってるわけじゃないの。日吉は私を好きだって、そもそも私が勘違いしすぎてただけのことのかもしれない」
 そう続けると、日吉はものすごく怒った顔で私の腕をぎゅっとつかんだ。
「何を言ってるんです。いいかげんにしてください!」
 そして、また同じことを言った。
 怒った顔だし語気も強いけれど、少し声が震えている。
「俺は……」
 彼はそういうと、私の腕から手を離して自分の前髪をかきあげ、ため息をついた。
「俺も、いつも困ってるんです。……俺がさんより年下だからって、ガキでいいわけないじゃないですか。男なんですからね。なのに、さんは大人で余裕があるから……腹が立つんです。ああ、もちろん自分自身に対してです」
 日吉は本当にイライラしたように、自分で乱してしまった前髪を整えながら言う。
「……日吉は、自分がガキっぽいのいやなの?」
「ああ、当然絶対にいやですね」
 聞くまでもないか。彼は本当に怒ったようにつぶやく。
 困った子だなあ。
 せめて、『ごめんなさい、本当はちゃんとさんが好きです』くらい言ってくれるといいのに。
 私も彼も、宙ぶらりんで困ったまんま。
 だけど、ふと気づくと私の中のあの悪魔はいなくなってた。
 だって、目の前のこの日吉が、やっぱりかわいいなあって思えるから。
 困ったなあ。
 こんなこと言う日吉は、やっぱり年下の子っぽくて、でもそこがかわいいから好きよ、なんて言うと怒るだろうな。なんて言ったらいいんだろ、と私が困っていると、彼は私の腕をもう一度つかみ、ぎゅっと自分の胸に寄せた。

「めちゃくちゃにして、泣かせてやる」

 そして相変わらずの怒った声で、腰を抱きながら耳元でそう言うと、私の耳に口づけた。

 日吉ってば、どこでそんな言葉を覚えてきたの。

 あーあ、きっとこういうときに恥ずかしそうに照れた顔をする子が、日吉は好きなのかもしれない。
 でも仕方ないよね、一生懸命こんなことを言う彼がかわいくて、うれしくて、にやにや笑いが止まらない。
 彼の胸に額をくっつけて、そのにやにや笑いを見られないようにしていると、日吉はそっと私の髪をなでてくれた。
 あー、日吉のとげとげはもう痛くない。
 好きなだけ、とげとげするといいよ。
 悪魔が去った今は、日吉のとげとげは殺傷力ゼロだからね、私には。

(了)
「悪魔とトゲトゲ王子」
2008.6.21

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