●● 恋のT.K.O(4) ●●
いわゆる本命用チョコレートというものは一体どういうところで調達するのか、という事すらも今ひとつわかっていなかった私は、仁王くんにデパートのやけに高級そうなお菓子売り場に連れて行かれた。
「ねえ、手作りとかじゃなくていいの?」
私が尋ねると、仁王くんはまた呆れたようにため息をつく。
「バカか。どうせ作った事なんかないじゃろ? さすがに俺もチョコ作りまではつきあえんわ」
私はコクコクとうなずいた。
「けど、なんだか高そうなチョコばかりだなあ」
私は恐る恐るウィンドウを眺めた。
「バレンタインのチョコなんざ、量じゃない。センスの良い美味いモンがちょっと入っとる奴でええんよ」
仁王くんは私を引き連れてチョコレート売り場をぐるぐるとまわると、ふと足を止めた。
「ああ、これがええ」
私の意見など聞く必要もないといったように、仁王くんはウィンドウを指差した。
それは小さな可愛らしい箱に、きれいな丸いトリュフが四つ入ったものだった。
「……仁王くん、これ食べた事あるの?」
私はそれをじっと見てから、彼を見上げて尋ねた。
「去年、親父が会社でもらってきたのを食ったが、すげえ旨かった。おすすめじゃ」
自信たっぷりに言う彼に私はちょっと感心してそのチョコレートを眺めた。四つしか入ってないけど、まあそれなりのお値段。でもそんなに無理のある値段でもなかった。
「へえ、じゃあこれにしようかな」
私はその可愛いパッケージを見ているだけで嬉しくなって、仁王くんを振り返って言った。
「あ、そうだ、いろいろ付き合ってくれたお礼に、仁王くんにも買うよ。すいません、これを二つください」
私が言うと、仁王くんは笑って首を横にふった。
「ええよ、一つにしときんしゃい」
そう言って、彼はレジのお姉さんに、一つ、と訂正した。
「ええ? 好きでもない子とキスしても、私からの義理チョコは受け取らないの? お堅いんだか何だかわかんないねぇ、仁王くんも」
私が冗談半分でそんな憎まれ口をたたいてみても、彼はあのきれいな目で笑うだけだった。
翌日、バレンタインデーの日。
私は朝から落ち着かない。
だって、こんな事するの初めてだから。
つまりは告白するって事じゃない?
私はそう考えると、頭からさーっと血の気が引くような気がした。
朝、教室に行く途中でいつものように四組の前を通る。
そういえば、最近、佐橋くんは廊下にいたりいなかったりだ。
この日はいなくて、挨拶はできなかった。けれど私はかえってほっとする。
教室に入って自分の席に着くと、真っ先に頼みの綱の総監督の姿を探した。
が、仁王くんはまだ来ていないみたい。
私は深呼吸をして、なんとか落ち着こうと試みる。
今日、この学校で、私みたいに好きな男の子にチョコレートをあげようとしてドキドキしている女の子は何人くらいいるんだろう。でもきっと間違いなく、その中で私が最高に緊張しているんじゃないだろうか。
「オイ、気分でも悪いんか?」
ポンと背中をたたいて覗き込んでくるのは、総監督の仁王くんだった。
私は彼の姿を見て、ついついほっとしてしまう。
「ううん、なんかすごく緊張してどきどきしてきたから、心拍数を測ってみてたの」
私は右手で自分の左手首を押さえながら言った。
「へえ、なんぼくらいじゃった?」
「……わかんなくなっちゃった」
仁王くんはくっくっとおかしそうに笑う。
「……勝負は放課後じゃ。それまで、落ち着いときんしゃい」
そして静かに言う。
不思議な事に、彼のそんな一言で私はふうっと落ち着いた。
ほんの一ヶ月ほど前までは、彼の姿を見るたび逃げ出さんばかりだったのに、今では一番頼りになる私の先生だ。
「……どうしたらいい? どうしたらいいの?」
それでも放課後になればなったで、やはり私はどんどん緊張してきて仁王くんにすがりつかんばかりだった。
「だからな、そろそろ奴が部活で武道場に行く頃じゃろ? その頃を見計らって、チョコを渡しに行きんしゃい」
私と仁王くんは、校庭の武道場の近くの木陰で小さな作戦会議をしていた。
そういえば、ここは私が仁王くんとあの女の子がキスをしているのを見てしまった例の場所だった。
でも今はそんな事はどうだってよくて。
「……わかった」
言いつつも、私は両手で自分の頭をぎゅーっと押さえて目を閉じて懸命に自分が佐橋くんにチョコレートを渡すところを想像した。そしてたまらなく胃がキリキリしてきた。
「そろそろ行きんしゃい」
仁王くんは冷たい北風に髪をなびかせながら、いつものように笑って私に言った。
もし今回、上手くいったら、もう仁王くんにガキだガキだと説教されずに済むんだな。
私はそんな風に自分を元気づける。
でもそれは思った程、ほっとするような事でもなくて。
「ほら、さっさとせんと、部活始まってしまうぜよ」
彼にせっつかれて、私は飛び上がってその場を走り出した。
武道場の方へ向かって。
武道場の近くでは、剣道部や柔道部の部員達がぽつぽつと歩いてきている。
私は少し遠くから、佐橋くんの姿を探した。
このまま見つからなくてもいいかも、と、ふとそんな事も考えてしまう。
けれど、あっさりと佐橋くんのあの姿勢の良い歩き姿が私の目に入ってきた。
どきん、と大きく心臓が合図をする。
でも、その次の瞬間。
私の心臓はもっと大きく飛び上がる。
だって、佐橋君の隣を歩いていたのは、美紀だったから。
私は仁王くんが女の子とキスをしていたのを見た時よりももっと驚いて、そしてすごい早さで心臓が動くのがわかる。でも足は動かない。二人をじっと見た。
佐橋くんの手には可愛らしい紙袋。
鈍い私でも瞬時に理解した。
美紀があげたチョコレートだろう。間違いなく、手作りの。
その時、美紀がふと私のほうを見て、そして目が合った。
美紀は一瞬驚いた顔をして、佐橋くんに一言何かを言う。
佐橋くんは照れくさそうに微笑むと、私に目礼をした。
そして、美紀が私のところに走ってくる。
「やだ、見られちゃった。ごめん、黙ってるつもりはなかったんだけど……」
美紀の顔は照れくさそうだけど、本当に嬉しそうで幸せそうで。
「には、私、仁王くんが好きでって相談してたから、なんだか言いにくくって」
「……あ、うん、ちょっとびっくりした。いつから?」
私はなるべく平静な声で言った。
「……が仁王くんとウチのクラスに来るようになって、ちょっとしてからかなあ。仁王くんは愛想よくいろいろ話してくれるんだけど、なんだか……仁王くんはが好きなのかなあって私、考えちゃって。一度、佐橋くんに相談したの。そしたら、佐橋くんも前からが好きだったんだけど、は仁王くんと仲いいみたいだしってちょっと悩んでて、『お互い上手くいかないねー』なんて話してるうちに、なんだかね……」
私の心臓は相変わらずバクバクと、大きくそして早く動きっぱなし。
美紀は本当に幸せそうだった。
「はどうなの? 仁王くんにチョコレートあげた?」
「えっ? ううん、私たち、ぜんぜんそんなんじゃないよ?」
「そう? だってすごくいい感じじゃない。があんな風に楽しそうに男の子と話してるの、初めて見たし」
私は美紀の言っている事の半分も頭に入らなくて、それでもなんとか、ちょっと世間話をして、そして手を振って別れた。
私はさっき仁王くんに送り出されたところへ走って戻る。
彼がそこで待ってると言ったわけじゃないのに、なぜかまだ彼はそこにいるような気がしたから。
そしてその通り、彼は例の木陰で立っていた。
でも仁王くんは一人じゃなくて、周りには沢山の女の子。
ああ、そうだ、チョコレートをもらってるんだ。
そんな風に思って彼を見ていたら、仁王くんは私が歩いてきた事に気付いたようで、女の子たちに何かを言った。すると彼女たちはちらりと私を見て、そして全員ゆっくりとその場を去ってゆくのだった。
「……どうじゃった?」
私にそう尋ねる仁王くんの顔は、結果は聞かずともわかるという表情で。
私は嫌な予感がした。
「……佐橋くん、美紀と歩いてた」
私は小さな声で答えた。
「そうじゃろうと思うとった」
仁王くんは別段気の毒がる風もなく、平然とした顔で私を見下ろす。
「仁王くん、知ってたの?」
私は震える声で聞く。
「何をじゃ?」
「美紀と佐橋くんが付き合うようになってた事」
「確実にそうなったとは、知らんかった。けど、俺の事を好きだった島崎が佐橋の事を好きになって、の事を好きだった佐橋が島崎の事を好きになってきちょったんは、知っちょったよ」
彼の言葉は、さっき美紀と佐橋くんの姿を見た事よりも、私にははるかに衝撃的だった。
だって。
ずっと仁王くんを信じて一緒にやって来た事が、全部崩れてしまったのだから。
仁王くんは私の味方だと思っていたのに。
「……じゃあどうして? どうして私に協力するなんて嘘をついて、騙してたの? 仁王くんは……テニス部では詐欺師って言われてるって丸井くんはよく言ってたけど、そういう事? からかって、操って、面白かった?」
私は泣きそうになるのを我慢しながら、一気に言った。
仁王くんは黙って真面目な顔で、私をじっと見たまま。
「俺は……に嘘はついちょらんよ」
そして静かだけれど、よく通る声で言った。いつもの、あの澄んだきれいな目で。
「俺は嘘はついちょらん。本当の事を言うちょらんかっただけじゃ。俺は佐橋がの事を好きなのを最初っから知っちょったよ。けど、それをお前さんに言わんかっただけじゃ」
「でも、私に協力するって言ったじゃない! あれは嘘だったじゃないの!」
「協力するちゅうのは、お前さんに彼氏ができるようにっていう件じゃ。その相手が佐橋だとは、俺は言うちょらん」
相変わらず真剣な顔で言う彼を見ながら、私は廊下で仁王くんが私に言った言葉を思い出した。……確かに、仁王くんは、私に彼ができるよう協力すると、そう言った……。
「でも……!」
「俺は、お前さんの片思いの邪魔はしちょらんよ。俺はお前さんが佐橋と話せるように協力した。けど、俺は佐橋や島崎の前で、俺がお前さんを好きじゃいう態度をひっこめる事もせんかった。それだけの事じゃ」
いつも通りにさらりと言う彼の言葉に、私は思わず目を丸くする。
「えー!?」
私が叫ぶと、仁王くんは、いつだか二人でゴミ集積所に向かった時のようにおかしそうに笑う。
「俺と付き合うてみんしゃい」
ちょっとひとをからかったような、でも優しいきれいな目で笑いながら仁王くんは言った。
「えー! なんで!」
私はまた叫んでしまう。
「言うたじゃろ。俺がお前さんを好いちょるからじゃ」
「えー!なんで、また!」
とにかく私はびっくりしてしまって、バカみたいにそんな事を叫ぶばかり。
仁王くんは我慢できないというように、クククと笑う。
「そういうとこが、好きなんじゃよ」
そして、木陰から校舎の方を指差した。
「あの時……お前さんはあそこに立っちょった」
あの優しい目をして、指をさした方をじっと見る。
「俺が、告白してきた女の子と何気ないキスをしちょった時、それを見てたのあの、子供みたいにびっくりした顔が可愛いらしぃてな、一目で好きになった」
そう言うと、片手でクセのある髪をぐしゃぐしゃとかき回す。
「けどさすがに……他の女とキスしながらそいつの肩越しに目が合った子に惚れたなんちゃ、すぐにはちょいと言い出しづらい。特にお前さんみたいに、真面目な奴が相手じゃな。だから……どうやって仲良うなろうかと、だいぶ作戦を考えたんよ。正面からはなかなか難しそうじゃから、テクニカルノックアウトを狙うてな」
髪をかきまわしながら、恥ずかしそうに言った。
仁王くんのこんな顔を見るのは初めてだった。
「俺と付き合うてみんしゃい」
仁王くんはもう一度繰り返した。
「俺はがどうしようもなくガキなんを知っちょるし、も俺がろくでもない男じゃと知っちょる。けど、は俺と話しちょって楽しかったじゃろ? 佐橋と話しちょる時より楽しかったじゃろ?」
そう言われてみて、私は、仁王くんが恋の総監督になってからの事を思い返した。
からかわれたり、相談をしたり、教えてもらったり、くだらない話をしたり。
一つ一つの事が楽しくて、どうしてだか仁王くんといるとほっとして、たまにドキドキして。
何度か頭の中でイメージした、佐橋くんと話したり一緒に歩いたりする自分よりも、実際に仁王くんといる自分の方がずっと自然でしっくりきていた。
確かにそうなのだ。
でも……。
「……俺は、もう、せんよ。がおったら、他の女と遊んだりキスをしたり、絶対にせんよ」
そして、仁王くんはまるで私の心を見透かしたように言うのだった。
「……でも、さっき、女の子たちがチョコレート持って来てたじゃない」
「ああ、全部断った。今から、本命チョコが来るからちゅうて」
彼は笑って言うと、私に手を差し出した。
「あのチョコ、どうせ佐橋に渡しちょらんじゃろ? だったら俺のモンじゃ」
私は思わずあっと声をあげる。
昨日、一つで良いって言ったのは……。
「仁王くん、昨日買いに行く時から、わかってたの?」
「まあな。だから、俺の食いたい奴を選んだ」
私は呆れてしまって、またバカみたいに口をあけたまま。
それでも私はゆっくりと鞄の中から、昨日二人で買いに行った小さな可愛らしい箱を取り出す。
仁王くんは私の手の上に乗ったそれのリボンをといて箱をあけると、一粒つまんで口にほうりこんだ。
「うん、旨い。も食ってみんしゃい」
そして私の開いたままの口に、トリュフを一粒放り込むのだった。
ころころとしていながらとろけるような上品な甘さのそれは、仁王くんの言うとおり、本当に美味しかった。
私たちは黙ったまま、残りをひとつずつ平らげる。
仁王くんは空になった箱とリボンを、大事そうに自分の上着のポケットに仕舞った。
「……私、ガキだからね、そんな……すぐにキスしたりとか、できないから」
私がうつむいて言うと、仁王くんが優しく笑うのを感じた。
「かまわんよ。俺はそんなにがっついちょらんから」
「……手つなぐとかも、しないから」
「そんなん、がしとうなった時でええよ」
仁王くんは笑って、私の頭にポンと手を置く。
その手は本当に大きくて優しくて、暖かくて。
私は、手をつながないなんて言った事をちょっとだけ後悔した。
すると、彼はまったく私の心の中をそのまま読み取ったかのように、すっと私の手を取るとゆっくりその手を引いて歩き出すのだった。
まったく、仁王くん。
反則ぎりぎりのテクニカルノックアウトだよ。
<タイトル引用>
ローリー寺西:作詞,作曲「恋のT.K.O」, アルバム「恋のウルトラ大作戦」(すかんち)より
(了)
「恋のT.K.O」
2007.6.29