● 私のスーパーイエロー  ●

「まずい!」
 起床をした弦一郎は、慌てて登校の準備をしていた。
 普段は四時に起床することが習慣の彼であるが、この日は前日に無事終了した海原祭の疲れのためか大幅に寝坊した。テニスのトレーニングや試合ではどれほど疲れていても、生活習慣に影響することはないというのに。やはり普段と異なるイベントというものは気疲れがするのだろう。
「あら弦一郎、とっくに学校へ行ったのかと思っていたわ。まだ寝ていたなんて、気がつかなくてごめんなさい」
 母親は申し訳なさそうに、彼のための握り飯を用意していた。
「いや、朝練が休みだからといって油断をしていた俺が悪いのだ。すまない、朝食を食って行く時間がないので握り飯は持って行く」
 まだ遅刻をするような時間ではないが、風紀委員である彼はぎりぎりの時間に登校するなどあり得なかった。
 母親が包んでくれた握り飯をひっつかみ、家を飛び出る。
 彼はまた朝食を抜くということもあり得なかったため、行儀が悪いと恥じ入りながらも道々、握り飯をかじりながら駆け足で秋の空気を切り裂いていった。
 大通りへ出る手前の角を曲がった時である。
 弦一郎は、自分の身体に何か弾力のあるものが思い切りぶつかったことに気づいた。
 はっと見ると、ゴロゴロゴロと街路樹の方へ転がっていく物体。
 正確に言うと、スカートをはいた女子である。
「す……すまない!! 大丈夫か!」
 かじりかけの握り飯を片手にあわてて駆け寄ると、彼女はすっくと身を起こし、片膝を立て右手を天に向かって何やらポーズを取った。
「大丈夫! これは五点接地で衝撃をやわらげただけだから!」
 よく見ると彼女が身につけていたのは立海大附属中の制服。しかし、そのスカートの下には膝下までのコンプレッションウェア着用していた。
 彼女の様子に少々戸惑いながらも、何しろ自分がぶつかって転ばせてしまった相手だ。握り飯を持っていない方の手を貸そうと差し出すが、彼女はいまだ片膝を立てたポーズを崩そうとしなかった。
「よし!」
 ポーズを終えて満足したらしい彼女は、弦一郎の手を借りる事なく勢いよく立ち上がり、制服の汚れを払った。
 幸いコンプレッションウェアの膝小僧も破れている様子はない。
「あ、私の方こそごめんね。ちょっとぼーっとして歩いていたから」
 彼女は言いながら、弦一郎の手の握り飯を見て、くくっといたずらっぽく笑った。
「おにぎり食べながら走ってきて、曲がり角で転校生とぶつかるなんて、まるで少女漫画の王道のネタみたいだね。ほら、よくあるじゃん。ドジな女の子が『遅刻、遅刻ぅ〜』ってトーストくわえて走って来て、角のとこで転校生の男の子とぶつかるってやつ」
 食べかけの握り飯の残りを一口でたいらげてから、弦一郎は咳払いをした。
「一体何のことだ。俺はドジな女子ではないし、くわえていたのはトーストではなく握り飯だ。何か、そういう文献があるのか。なんという書物なのだ。著名なものなのか」
 難しい顔をして尋ねる弦一郎に、彼女は彼のマネをして咳払いをした。
「……ごめん、今の話は忘れて」
「それより、今の話だとお前は転校生ということなのか。その制服は立海だろう?」
「そう、よく知ってるね!」
「俺も立海だ。早く行かないと遅刻するぞ。これも何かの縁だ、案内してやるからさっさとついて来い」
「イエッサー! ありがと!」
 彼女が片手を勢い良く挙げてまた妙なポーズをとるので一瞬ぎょっとするが、無視をしてそのまま歩き出した。
「……先ほどの五接地転回法での受け身、なかなか見事であったな」
 ふと彼女の転がりっぷりを思い出して言った。
 隣を歩く小柄な彼女は、眼をきらきらと輝かせて彼を見上げた。
「でしょう! お父さんに習ったの」
「ふむ、そうか。父親は何か、武術でもやっているのか?」
「ううん、ただの山登りが好きな中年のサラリーマン」
「そうか……」
 こいつは少々変わり者の転校生なのかもしれないな、と思いつつ相槌を打つ。
「私ね、子供の頃からなりたいものがいろいろあって」
「うむ」
「幼稚園の頃は、大泥棒になりたかったの」
「……うむ、そうか……」
「小学生の頃は、海賊になりたくて」
「……うむ、そうか……」
 相槌を打つ以外のコメントが思いつかなかった。
「でも親にね、そういうのは法律に抵触するし捕まるから賛成できないって言われてて」
「うむ、その通りだろうな」
「で、中学生になってからはもっぱらヒーローになりたいって思うようになったんだよね」
「……そうなのか」
「って、お父さんに言ったら、それはいいことだなってこの五点接地の受身を教えてくれたの。相手に倒されそうになったり高いところから落ちそうになったら、足やお尻や背中や肩のあちこちで衝撃を受け止め、かつ衝撃をやわらげるために大げさなくらいごろごろと勢いにまかせて転がるんだって、習ったんだ。ヒーローになるには、まずこの受身をマスターすることだって。今はヒーローを目指す若者が多いから、基本は大事だぞって」
「ヒーローを目指す若者が多いかどうかは知らないが、なるほど確かに一理あるな。今日、早速役に立ったではないか」
「ね? 今日帰ったら、お父さんに報告しないと」
「そうしてやれ。他にも助言を受けているのか?」
「うん。勉強と運動をしっかりやれって」
「そうか、なるほど」
 この転校生自身は変わり者だが、父親はしっかり者らしい。
「そういう訳でお父さんの転勤で神奈川に来ることになったから、勉強も運動も有名な立海に是非行きたいなって思って頑張って編入試験受けたんだよね」
「そうか、感心ではないか」
「ヒーローに一歩近づいた気がする」
 それはどうだろうか、と思うものの弦一郎は口を挟まずにいた。

「あー! 大変!」

 と、転校生が急に叫んで駆け出した。
 何事だ!
 彼女が駆け寄る先は、公園の街路樹の根元。幼稚園くらいの男の子が木を見上げている。
「ミーにゃんが!」
 子供の視線を追って見上げると、そこには腰の引けた子猫が頭を下にして震えている。
 察するに、調子に乗って木に登ったはいいが降りられなくなったといったところか。
「きみん家の猫? 降りられなくなっちゃったの?」
 彼女がかがんで尋ねると、泣きそうな男の子がこくんとうなずく。
「ママに内緒で公園に連れて来ちゃったから……」
 打ち明けた安心感か、ついにべそをかきはじめた。
「大丈夫、お姉ちゃんにまかせて! 私、登山部だったから岩登りとか得意なの!」
 言うが早いが、彼女はバッグを放ると木に登り始めた。驚くほど身軽にひょいひょいと子猫のいる木の又のあたりまでたどりつき、子猫に手を差し伸べた。
 ところが。
「フギー!」
 見慣れない人物の登場に驚いたのか、子猫は更に高いところへ登って行ってしまった。
「あっ、こら! 助けに来たんだってば!」
 彼女も負けずにひょいひょいと子猫を追った。
「おい、気をつけろ!」
 思わず弦一郎は声を上げる。
 木の梢近くでようやく子猫を確保した彼女は、片手で猫をつかんでそろりそろりと降りて来る。
「あっ、こら! 暴れるなってば!」
 手の中で子猫が暴れ出したらしく、扱いに難渋しているようだ。空いている方の手で枝を掴んで身体を確保し、足場をさぐりながら降りて来るが、ついに足を滑らせた。ばきばきと小枝の折れる音がする。
「おい、転校生!」
「お姉ちゃん!」
 ギャラリーが叫ぶ中、彼女は片手で太い枝につかまりぶら下がった。
 地面まではあと3〜4メートルといったところ。
 弦一郎は通学鞄とテニスバッグを放って彼女の真下に駆け寄った。
「大丈夫! 私は五点接地の着地をマスターしてるから!」
「たわけが! 無茶をするな! 俺が受け止めるからお前はしっかり猫を持っておけ!」
 木の枝から手を離した彼女を、弦一郎ががっしりと受け止めた。小動物のような彼女は弦一郎の腕の中で、愛しそうに気の立った子猫をみつめていた。
「はい、ミーにゃん」
「お姉ちゃん、お兄ちゃん、ありがとう!」
 男の子は子猫を抱いて、家の方に走って行った。
 後ろ姿を眺める彼女は、この上なく満足そう。
「ヒーローを目指すのは良いが、無茶をするものではないぞ」
「すごいね!」
 彼女は明らかにひとの話を聞いていなかった。
「あなた、すごい! 生まれながらのヒーローじゃない? スーパーレッドだよ!」
「スーパーレッドだと?」
 つい聞き返してしまう。
「そう、ヒーローの主役は赤って決まってるの。見たところ、身体も大きいし強そうだし、頭もよさそうだし運動も得意そう。あなたはスーパーレッドね。となると、私はイエローかな。女子はたいがいピンクとかイエローなの。私はピンクって柄じゃないから、イエローだな」
「……自分がヒーロになりたいんだったら、お前がレッドになればいいだろう。女子だからどうだとか、誰が決めるものではない。自分で決めろ」
 弦一郎が言うと、彼女はその大きな目を更に見開いて彼を見上げた。
「……じゃあ、あなたは何色?」
「いや、俺は別にヒーローではなく……」
 弦一郎が言い終わる前に、彼女はまた「あー! 大変!」と叫んで駆け出した。
 今度は何なのだ! 弦一郎はあわてて後を追う。
 転校生が走って行った先には、車椅子の年配の女性がいた。
「どうかされました?」
 転校生が問うと、路肩で立ち往生をしていた女性は困ったように地面を指した。
「挟まっちゃってねぇ……」
 曲がって広がったグレーチングの隙間に、車椅子のタイヤが挟まり動けなくなってしまったのだ。
「大丈夫、まかせてください!」
 勢い込んで車椅子に手をかけようとする彼女を、弦一郎は制止した。
「お前はグレーチングを押さえていろ。緩んでいるから、タイヤと一緒に動いてしまうんだ」
「私もこの車椅子も重いけど、大丈夫かねえ」
 心配そうに見上げる女性に、弦一郎は力強くうなずいた。
「ご心配なく。力には自信がありますので」
 弦一郎は車椅子に手をかけ、ふんっと力を込めて持ち上げる。しばし奮闘していると、ざりっと音がして車輪がグレーチングから抜けた。
「よし!」
 思わず弦一郎も声を上げる。
 無事脱出した車椅子の女性をタクシーの通る道まで送る間、彼女はなんどもなんども二人に礼を言う。
「ありがとうね、ありがとうね、ほんと助かったわ。携帯は家に置いてきちゃってたからねえ。あなたたちには本当にお礼をしなくちゃ。その制服は立海でしょう? お名前はなんて言うの?」
 目を細めて振り返る女性に、車椅子を押す転校生は足をとめて、にかっと笑った。
「私は通りすがりのヒーロー、スーパーレッド!」
 でたらめなポーズを決めてみせる。
「そして、こっちの彼は……」
「お、俺は……」
 弦一郎はバッグの中からテニス部のユニフォームを取り出して袖を通した。
「俺は、スーパーイエロー……」
 ジャージ姿の弦一郎を見て、転校生はまた嬉しそうに笑った。
「そういう訳なので、改めてのお礼などご無用です! お気をつけて!」
 彼女がタクシーに乗り込むのを見届けて、転校生はふうーと息をついた。
 そして、くるりと弦一郎の方を振り返る。
「すごい、スーパーイエロー、すごいよ! そんな衣装まで用意してあるなんて!」
「これは衣装ではない、部活のユニフォームだ」
「すごい! ヒーロー部?」
「たわけ、俺の荷物を見てわからんか。テニス部だ」
 眉間にしわを寄せて、テニスバッグを掲げてみせた。
「あ、そっか」
 弦一郎は時計を見て、更に険しい顔になった。
「いかん、このペースではぎりぎりどころか遅刻をしてしまう」
 気を取り直して、テニスバッグをぐいと背負った。
「急いでバス停へ行くぞ、転校生!」
 顔を上げると、彼女はそこにはいなかった。
「大丈夫ですかー!」
 彼女が駆け寄っていたのは、少し先に止まっているタクシーの扉のところ。
 今度はどうしたというのだ!
 弦一郎がずんずんと歩み寄ると、そこには沢山の荷物ととともに身体を屈めた若い女性がいた。
「スーパーイエロー! この人、これから出産のために病院に行くんだけど、結構しんどいみたい。家族の人とは急遽病院でおちあうことになってるらしいんだけど、一人でなんてほっとけないよ!」
 そういえば、青春学園のテニス部副部長がこのような状況になったと聞いた事があるような気がする。
 まさか自分の身に降り掛かるとは……。
「スーパーイエロー! まず、荷物を乗せてあげて!」
「あ、うむ、そうだな」
 弦一郎は運転手が積み込みきれていないギャリーバッグやなんかを、どんどんトランクに積み込んだ。
「ありがとう、親切な子たちね、でも学校があるでしょう」
「大丈夫! 病院まで行ったら、すぐに学校まで向かいます!」
 転校生の勢いに負けて、弦一郎はタクシーの助手席に乗り込んでしまった。
 後ろでは妊婦の隣に転校生。
「……転校生、言いにくいが、俺たちがついていたとて何もできることはないのでは……」
 弦一郎が言うと、転校生はミラー越しにキッと彼を睨んだ。
「交感神経・副交感神経!」
 突然、彼女らしからぬ漢字の言葉を発する。
「出産の時って、自律神経のバランスが大事って聞いた事ある! 何をどうすれば交感神経だか副交感神経だかがどうなるのかはよくわかんないけど、一人で心細いより応援する人がいてリラックスできる方が良いに決まってるよ!」
 彼女が言うと、隣の妊婦がふわっと笑った。
「……うん、ほんとそうみたい。病院までタクシーですぐだし、そこに行けば夫も母親もすぐに来るんだけど、ちょっとの時間が心細くて。でも元気なあなたたちがいてくれて、なんだかほっとしてすごく楽になった」
「本当ですか? よかった!」
 隣で転校生がにかっと笑うのが、またミラー越しに見えた。

 目指す病院について、そこで妊婦と別れ彼らはようやくバスに乗った。
「ここからだともう一本バスを乗り継がねばならない。完全に遅刻だ」
 弦一郎は軽くため息をついた。
「……スーパーイエローは遅刻とかしなさそうだもんね。ごめんね」
「幼稚園の頃から、公休以外は無遅刻無欠席なのだ……。まあ、仕方がない」
 隣では転校生が少々しょんぼりした顔でつり革を握っている。小柄な彼女は、つり革をつかむために片腕がまっすぐに伸びていた。
 いくつかのバス停が過ぎ、乗り継ぎをする目的の停留所が近づいた。
「小銭はあるか? 210円だぞ」
「うん、多分ある」
 ごそごそとバッグの中を探っている。その停留所は降車する客が多いようで、幾人もの上客が降りる支度を始めていた。
 減速したバスが揺れ、降車ドアが開く。
 その先のバス停を見て、弦一郎は目を見開いた。
「まずい!」
「どうしたの? スーパーイエロー!」
「立海大付属中前に行くバスがすでに来ている。もう発車寸前だ……」
「あー、次のバスを待たないといけないかー」
 呑気に言う彼女を、ぐいと押した。
「この降車客の列を待っていては間に合わない。210円は俺が立て替えて払っておく。俺に構わず、お前は先に行ってあのバスに乗れ! 転校初日にあまりに大遅刻をしては格好がつかないだろうが!」
 真剣に言う弦一郎を、転校生はじっと見た。
「わかった、ありがとうスーパーイエロー! あなたの死は無駄にしない!」
 そう言うと、降車客をすり抜けて「私のバス賃はスーパーイエローが払います!」と叫んでバスを飛び降りて行った。
「俺は死なんぞ! 210円を立て替えるだけだ!」
 彼の声を背に走った転校生は、立海行きのバスの乗車ドアが閉まる寸前でなんとか乗り込んだ。
 ほっと胸をなでおろす。
 ゆっくりとバスを降りて、ロータリーからバスを見送った。
 一番前の、運転席から反対側の席に座った転校生が、窓から大きく手を振った。
 少々の遅刻になるが、転校生ならばなんとか許される程度だろう。
 あの厚かましさならば、一人で遅れて職員室に行くこともさして苦になるまい。
 そんなことを思いながら、立海行きのバスを見ていたのだが、一旦動いたバスはロータリーから出て行く気配がない。信号待ちにしては長過ぎる。
 どうしたことか、と弦一郎はバスの近くに近寄った。
 ぐずぐずしていては、どんどん遅刻してしまうではないか。
 窓際の転校生の様子を覗き込もうと近寄った瞬間、背後からぐいと肩をつかまれた。

「近寄ってはならない! 緊急事態の発生だ!」

 弦一郎よりやや背の高く、かなりいかつい、見るからに警備会社の警備員という男だった。
 周りを見渡すと、似たようないでたちの警備員達がぞくぞくと集結し、そして仕上げにパトカーがやって来た。

「……一体何事が……」
 弦一郎が呆然として尋ねると、警備の男がため息をついた。
「バスジャックがあったらしい。が、乗客に課外活動で乗った子供達がいてね、それぞれがすぐさまキッズ携帯のセキュリティーを作動させたものだからあっというまに契約している警備会社や警察に通報がいったというわけだ」
 バスジャックとは!
「……俺の知人も乗っているのだが……」
「警察も到着した。手配を待つように」
 警備員にポンポンと肩をたたれた。
 弦一郎はバスをみつめる。
 窓際の転校生と目が合い、彼女は嬉しそうに手を振った。ばかもの、犯人を刺激するようなことをするな! と心で思いながら、弦一郎は胸が痛む。
 気を利かせたつもりで彼女を一人で先にバスに乗せたりしなければ、こんなことにならなかったのに……。
 周りにはパトカーが集結し、テレビで見たような立ち入り禁止のラインが用意されつつある。
 しかし、なぜバスは止まったままなのだろうな。普通、バスジャックをしたらバスでどこかへ行かせるのではないか……などと考えていたら、突如ガラスの割れる音がした。
 犯人とおぼしき男が、バットでバスの窓を割って廻っているのだ。
 弦一郎は心臓が飛び出そうになる。
 幸い、窓の近くの乗客たちは皆身を屈めているようで、割れたのは窓ガラスだけだ。
 割れた窓から、子供の泣き声が聞こえた。子供達は、みな後部の方にまとまって座っているようだ。
 転校生が後ろを見て、何か言っている。多分、泣かないで、と元気づけているのだろう。
 ちょうど、転校生の隣で犯人とおぼしき男が立ち止まる。
 おい、まずいぞ、大人しくしていろ、と弦一郎が内心思っていると、男が急に両手で頭を掻きむしり何かを叫び始めた。
 丁度、弦一郎や警備の方を向いている。
 弦一郎は迷わずテニスバッグを開いてラケットとテニスボールを手にした。

「スーパーレッド! 伏せろ!」

 そう叫ぶと、ラケットを振った。
「侵略すること火の如し!」
 彼の打球は、割れたガラス窓を通り抜け、叫んでいるバスの男の口に見事に命中。

「今だ!突入!」

 同時に警察がバスに突入し、あっという間に男は確保された。

「スーパーイエロー!」

 転校生はバスの窓に足をかけるとそこから飛び降り、夏の蝉のように、スーパーイエローに飛びついた。
「……これがヒーローの挨拶か? 落着きがないぞ、それに女子としてはしたない」
 彼女を引きはがし、弦一郎は彼女に怪我がないかをあらためる。
「女の子がレッドでもいいって言ってくれたじゃない」
「それとこれとは話が別だ」
 ふい、と弦一郎は目をそらした。
 周りでは警察や救急車、消防などで一度に騒がしくなった。
「ありがとう、すごくかっこよかった。私、立海に転校してきてよかった!」
「……まだ学校にたどりついてもおらんだろうが」
「ううん、スーパーイエローに会えて良かったっていうこと」
 小走りでやってきた年配の警官が二人の前で足を止め、頭を下げた。
「少々無茶ではあったが、非常に機転の利いた判断と見事な技だった。ありがとう。きみの名前は?」
「立海大附属中3年A組 真田弦一郎。テニス部の副部長です」
「そうか、今年は全国大会優勝は逃したらしいが、君はきっと強い選手になるだろうね。こちらの彼女は?」
 スーパーレッド、と言い出しそうな彼女に先んじて、弦一郎は口を開いた。
。本日、立海大附属中3年A組に転校してきたばかりです」
 隣では彼女がぽかんと口を開いている。
「そうか、では二人のヒーローを学校まで送ろう。遅刻扱いにならないよう、警察からきちんと正式な書類を出すので心配はいらない。学校が終ったらまた一度話を聞かせてもらいたいので、改めて連絡させていただくことを許して欲しい」
 二人はパトカーに促された。
「転校生、行くぞ」
 あいかわらず驚いた顔の彼女の背をぽんとたたく。
「スーパーイエローってやっぱり普通の人間じゃないよね? どうして私の名前を知ってるの?」
「言っただろう。俺は立海大附属中3年A組の真田だ。テニス部副部長で、そして風紀委員長。海原祭が終った後に自分のクラスに転入してくる転校生の名前くらい聞いている」
「……同じクラスなの!」
 転校生でスーパーレッドのはあわてて彼の後を追った。
「そうだ、よろしくな」
「やったー!」
「……言っておくが、学校では決してスーパーイエローと呼ぶなよ。何があってもだ」
「ヒーローは正体を知られてはいけないからね?」
「……そういう事にしておこう。いいか、そもそもヒーローになるのは大人になってからだ。未熟な段階で、あまり無茶はするな」
 パトカーの後部座席に乗り込んだ彼女はじっと弦一郎を見た。
「でも、スーパーイエロー……じゃなくて真田くんは私と同じ中学生だけど、今日、あんなにかっこよく私を助けてくれたじゃない。私にとっては、誰よりもヒーローだよ」
 彼女のきらきらとした目を見て、急に決まりが悪くなった弦一郎はテニスバッグのショルダーを握りしめたり離したり。
「まあ、時と場合による」
 そうつぶやく彼の隣で、ぐぅーと音が響いた。
「……朝ご飯は食べて来たんだけど、いろいろヒーロー活動してたらお腹減っちゃって……」
 が照れくさそうに笑った。
「これでも食え」
 朝持たされた握り飯をバッグから出してひとつ差し出した。
「わー、ありがとう! スーパーイエローはほんとすごい!」
 夢を壊すようで悪いが、俺がヒーローになったことがあるのはお前の前でだけなのだ。
 と、言おうとして、やめた。
 そんな事を言えば、まるで違う物語が始まってしまいそうではないか!!

(了)

2015.2.11

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