テニプリエロバトンごっこ編


「君には注射が必要のようだな」と耳元で囁く乾とお医者さんと患者ごっこ



「あったあった」
 昼休みの化学室、私は忘れ物のファイルを取りに来たところ。課題のプリントを挟んだそれを、無事発見することができてほっとする。
 棚の下段からファイルを拾い上げた私は、腰を手で支えながら大げさに伸びをする。その時。
「調子はどうだ?」
 化学室に響く低い声に、私はびくりとして部屋を見渡した。
 窓際の実験デスクにいたのは乾。
「びっくりした。乾、いたの」
 彼の手元をちらりと見ると、おそらく噂の『乾汁』の開発中なのだろうことが伺えた。
「使用の許可を取ってるんでね」
 彼は、その決してかかわり合いたくない物たちをクイとあごでさして言った。
「熱心だねー」
「まあね。それより、相変わらず調子悪いのか?」
 私は腰に手をあてたまま。
「バタフライを練習すると、たまに痛むかな。あ、でも乾が紹介してくれた治療院に通うようになってから、だいぶましになったよ」
 私は水泳部なんだけど泳いでると時々腰が痛むことがあって、以前ちらりと乾に話したら、おすすめの治療院を教えてくれたのだ。
 乾の視線を感じて、私は姿勢を正した。『腰痛には正しい姿勢が重要だ』って以前言われたから。
 クラスメイトの乾は、なかなかに物知りだ。テニス部でコーチ的なことをやっているからか、トレーニング法や体のメンテナンスのことなんかにとても詳しい。   ちょっと変わった奴だけど、そういう点ではなかなか頼りになる男なのだ。
「水泳部だと、どうしても陸上トレーニングが不足がちになるからな。もう少し筋トレや走り込みの比率を増やすといいんじゃないか」
 彼は立ち上がって私の傍らに立つ。
「あと、姿勢を直した方がいいな。少々体を反らせすぎな割に、肩が閉じていると思うぞ」
 私は両手を腰にあてて、肩を前後に動かしてみるけれど、どうにも乾の言う『正しい姿勢』がわからない。
「両方の肩甲骨をぐっと中央に寄せるようなイメージで、胸を張るといい」
「うーん、でも私、肩幅が広いから、そうするといかつく見えちゃわないかなーって気になるんだよね」
 私がそう言うと、乾は小さく笑って、私の背後にまわった。
 両の肩に、乾の手がそっと触れる。
「こう、首を長くして肩を下に下げて、胸を張るんだ。アンジェリーナ・ジョリーみたいに」
 私は乾に矯正されるがまま、胸を張る。
「どうだ? 肩を下げて胸を張る姿勢を取ることで、結果的には肩のあたりがすっきり見えるだろう?」
 窓ガラスに映る自分の姿を見た。
「……ほんとだ。ぜんぜんいかつく見えないね。なるほど、アンジーのイメージねえ」
 私は感心して言った。
「乾、治療院の先生より詳しいじゃん」
「あと、やっぱり背中が反り過ぎだな。『背筋を伸ばす』っていうと、特に女子の場合は反りすぎてしまうことが多い。そういう姿勢は腰に負担をかける。もう少し……」
 乾は左手を私の肩に置いたまま、後ろから右手をすうっと私お腹のあたりにまわした。私はどきりとするけれど、いやいや、ただ姿勢の矯正をしてるだけだ。茶々を入れるのも自意識過剰すぎる。
「骨盤の角度を少し上向きに。臍を身体の内側にひっこめるようにするといい」
 私は少々戸惑いながらも乾の言うように、お臍を内側に、と試みる。けど、なかなか上手く行かない。
 どうしてだろう。乾の手は軽く触れているだけなのに、まるでその触れられているところからしびれてくるみたい。
「気を抜くと、すぐ肩が前に出るな」
 乾は肩にそえていた左手を、私のデコルテのあたりに添え軽く後ろに押した。その力で、思わず私は後ろによろめいてしまい、乾の胸に背中を預けてしまう。
「左右の骨盤を結ぶ線は地面と平行に。位置がずれていると、左右のバランスがくずれてまた腰に負担がかかる」
 乾は私のお臍のあたりにあてていた右手をすうっとずらして、私の左の腰骨、次に右の腰骨に触れた。
 軽くなぞるように触れているだけなのに。
 乾から体温が伝わっているはずがないのに。
 私の身体は熱い。
 何か、何か、話さなくちゃ。
「……乾、ほんと、詳しいよね。お医者さんになれるんじゃない? 頭、いいしさ」
「ん? なんだって?」
 乾は聞き取れなかった、というように、顔を私に近づけた。
 私の声、震えてた? ちゃんと声、出てなかった?
「俺が、何だって?」
 私の耳の側で、乾がいつものあの低い穏やかな声でささやく。
 ぞくりとした。
「……乾がお医者さんみたいだって言ったの。ほら、整形とかの、さ……」
 努めていつも通りにしゃべろうとするけれど、できているだろうか。自分で自分の声が遠い。
 私の耳元で乾が軽く笑い、吐息が耳をくすぐる。
「医者か。そうか、俺が医者だとしたら……」
 乾の声は、私の耳から脳に溶けこんでいくようだった。
 いつの間にか、表面に軽く触れているだけだったはずの手が、私のデコルテに、お腹に、ぴったりと密着していた。
「君には注射が必要のようだな」
 乾がどんな顔をしているのか、私には見えない。ただ、彼の手の熱と息づかいが伝わるだけ。
 乾の吐息はどんどん私の耳に近くなる。
「……注射って、私……別に病気じゃないからいらないもん。どんな効果があるっていうのよ」
 私の脳は乾の声で酔っぱらってしまったようだ。
 無駄な抵抗だとわかっていても、私は会話を続けてみる。
 乾の唇が耳に触れた。私はびくりと身体を震わせる。
「効果? そうだな、俺の注射は君の腰に対して効果的に働きかけることうけあいだ」
 耳に唇が触れるほどに近づいてささやく乾の声は、私にしか聞き取れないくらいなのに、頭の中でこだまするように響く。
 少しずつ位置を下げていく乾の両手の熱と感触に、なかなか言葉が出ない。
『腰痛、ひどくなったらどうしてくれるのよ』とだけようやく言うと、乾は緩く笑って、そして私の耳にゆっくりと舌を這わせた。

(了)




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