出世払い



 空の青がだんだんと濃くなってきている、そんな季節のある日、男は流魂街を歩いていた。
 真っ赤な髪の、死覇装を身につけた死神。
 その赤い髪は無造作にまとめただけであるが、両眼窩の上あたりから頭頂近くまでは鬼の角のように丁寧に剃り上げ、そこには墨一色で見事な彫り物が施されていた。
 彼は流魂街の比較的賑やかな通りを抜けると、街の外れに差しかかる頃、足を止めた。
 そこは「蓮彫」という古い看板のかかった、これまた古い町屋の前だった。
 入り口は開け放たれており、中の薄暗い三和土が見える。
 軒先の柱には、所狭しと鮮やかな図柄を描いた紙が貼り付けられていた。
 鳳凰、麒麟、渦潮、桜、虎、蛇、神亀……。
 それらは、軒先に置かれた小さな机で、熱心に筆を走らせる女の手元から生み出されていた。
 男がそこで足を止めてから少しして、女は顔を上げた。
 筆を置いて、眼鏡を外す。真剣だった顔がわずかにほころんだ。
「……しばらくじゃないか、阿散井」

 
 赤い髪の死神、阿散井恋次が初めて「蓮彫」の前を通ったのは、彼がまだ真央霊術院にいた頃だった。
 これといった理由もないが、瀞霊廷にも、馴染みの街にも居たくない。
 そんな気分だった彼は、滅多に足を運ばぬ方面の街を目的もなく歩いていた。
 軒先に無造作に貼り付けられている艶やかな絵の数々に、ふと目を奪われ、彼は足を止めた。そして視線を落とすと、机で女が熱心に絵を描いていた。
 波打った長い髪を束ね、薄紅い唇をきゅっと結び、整った容貌でありながらも眉間にしわをよせつつ絵を描き続ける彼女の手元を、ついつい眺めてしまう。
 女が、ふと顔上げた。目の前に立つ男を見上げる。
 恋次は一瞬その場から立ち去ろうとするが、なぜだかそのまま女と目を合わせ続けた。
 女はしばらく彼を見つめると、眼鏡を外して言った。
「……お兄さん、彫り物、入れてかないかい?」

 どうしてそんな気になったのか、はっきりとは覚えていないが、彼は女の勧めるままに彫り物を入れた。
 両眼窩の上から額の少し下まで、墨一色の彫り物を。
 彫り終わって鏡を見せられ、彼は驚いた。
 その黒い模様は、彼に今までなかったのが不思議なくらいに、しっくりとそこに在ったからだ。そして、その墨を入れた自分を見ると、まるで体の芯に一本、何かがすうっと通ったような、そんな気分になった。
 店を出る時には、彼がその街に足を踏み入れる前から抱えていた、もやもやとした思いは跡形もなく消えていた。
 その時彼女は、出世払いで良い、と代金を受取らなかった。
 確かにその時彼は持ち合わせもなかったので、その後に何度か金を持って店に行ったのだが、女は「出世もしていないくせに」と笑って、金を受取らない。
 聞くと女は彼と同い年という。なのになぜだか、会うといつも年下のように彼を扱い、そしてそれがしっくりきていた。
 恋次が護廷十三隊へ入隊し、初任給を貰って真っ先に店に行くと、
「仕官が決まったくらいで、出世とは大きく出たな」
 と女はまた笑いながらも、やっと金を受取った。
 そして恋次は、新しく彫り物を頼んだ。

 それからも彼は、何かにぶつかったり迷ったりすると、思い出したように「蓮彫」に足を向け、少しずつ彫り物を増やした。
 足が少し不自由だという彼女は、客に彫り物をしている時以外、大概軒先で絵を描いており、いつも突然に訪れる彼をすんなり迎えてくれた。
 そしてまるで準備をしていたかのように、迷う事なく彼に新しく墨を入れるのだった。
 その墨は、時には行くべき道を示すはっきりとした標に、そして時には自身を護る護符に、彼は思えた。
 いつしか彼は、胸に、腕に、背に、腰に、その美しい筋肉に沿って見事な模様を持つようになっていた。


「どうした? 今日は死覇装なぞで」
 からかうように問う彼女に、恋次は胸を張って言った。
サンにコイツを見せようと思ってな」
 椅子に座ったままの彼女に合わせて屈むと、彼女の前に左腕を差し出した。
 と呼ばれた女は、そこに巻かれている腕章を、目を丸くして見つめる。
 それは「六」という字と椿の絵の書かれた、副官章だった。
「どうだい? 今度こそホンモノの出世だぜ?」
 はもう一度眼鏡をかけて腕章を見ると、恋次の顔を見上げた。
 そして破顔一笑し、机に立てかけてあった杖を持つとゆっくり立ち上がった。
「やるじゃないか、副隊長……」
 がまだ全てを言い終わらぬうちに、恋次は一旦両膝を折ると、あっというまに彼女を右の肩に座らせ、立ち上がって走り出した。
「おい、阿散井、何をする!」
 当然ながら驚いて声を上げる彼女にかまわず、彼は街の外れへ走った。
 通りは徐々に傾斜が強くなって、小高い丘に続く。
 抗議の声を上げつつも必死で恋次の頭にしがみついていたは、丘の上に運ばれた。
「いい加減にしないか、阿散井! 一体、何だというんだ!」
 恋次はようやく足を止めると、を肩に乗せたままくるりと振り返り、街を見下ろす格好になった。
「……なかなか良い眺めだろう、ここから見る街は。一度見せてやりてぇと思っていたんだ。……ホンモノの出世払いさ」
 彼がそう言うと、しばらく間を置いて、は彼の肩の上で声を上げて笑った。
 おかしそうにいつまでも体をゆらす彼女を、ゆっくりと下ろす。
「大仰な出世払いだな」
 はつぶやいて街を眺めた。
「……なァ、サン。初めて会った時、あんたはなんで俺に彫り物をしてくれたんだい?」
 恋次は、今まで何度か尋ねてははぐらかされていた事を、彼女に問うた。
 彼女は黙ったまま、草の上に腰を下ろす。
 恋次もそれにならい、しばらくそうやって座っていると、彼女はゆっくり唇を開いた。
「……お前に会った頃、私は蓮彫を継いだばかりでね、まだ依頼される仕事は先代の図案ばかりだったんだ。私は子供の頃から足が悪いだろう。だから先代のようにあちこち出かけて見聞を広げたりする事ができなくて……自分の絵や彫り物に自信がなかったんだ」
 照れくさそうに言うと、一度うつむいてからまた街を眺めた。
「阿散井を見た時、私は彫師になってから初めて、この男にこんな風に彫りたい、と一瞬で模様が思い浮かんだんだよ。お前の中から、在るべきものが訴えかけてくるようにね」
 恋次がじっと彼女を見ているのに気づくと、は絵を描いている時のように眉間にしわを寄せた。
 少し間をおいて、また続ける。
「……お前に墨を入れてから、私は、何か特別な物を見て回らなくても良いのだと気づいたんだ。遠くの風光明媚な景色や、藤や桜の花じゃなくても……」
 は傍の草を撫でた。
「いつも暮らしている街や、名もない草木や……人が、全てが、ただそこに在るだけで美しく力強いのだと、わかったのだよ」
 あいかわらずきまりが悪そうに、しかし、じっと彼女も恋次を見た。
「……少し、歩きたい。」
 彼女が言うと、恋次は立ち上がって、手を貸した。
 の手は少しひんやりしていて、それとは対照的に恋次の体の彫り物はふうわりと柔らかな熱を持つようだった。
 そう、特別な力や霊圧などは関係なく、魂は、ただそこに在るだけで美しく力強い。
 心でそう繰り返しながら、恋次は、ゆっくりと歩く美しい彫師の手が、少しずつ自分と同じ温度になってゆくのを感じていた。






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