モクジ

● 観月主任とわたし(1)  ●

 配属された先で紹介された上司は、シワひとつない真っ白でパリッとしたワイシャツ、色白のきめ細かな肌、長いまつげ。黒いつやつやの髪は少しウェイブがかかっていて、時々その前髪をくるりとほっそりした指でいじるのが癖のようだった。
「紅茶部・主任の観月です、よろしくお願いします」
 静かな、それでいてよく通る声で言うその上司を見て「わあ、なんてキレイな男の人だろう、こんな人が上司なんてラッキー」と思ったけど、社会人、そうそううまい話はありません。

 4月も後半になり新人研修が終わると、ついに本体事業部から配属先が発表された。
 私自身はファッションブランドの方を希望していたのだけど、配属された先はリビング雑貨・飲食の部署。それでも第一希望の会社だったから、曇り空の春のその日は張り切って出勤した。私が所属する部門は正式にはもう少し長い名前があるんだけど、通称「紅茶部」と言われている。その紅茶部での直属の上司が、くだんの観月主任。

 私は初日から、さっそくやらかした。
 
 フロア全体での新人の紹介がすんで、それぞれの机に移動し、さて細かい担当業務のオリエンテーションをとなった時、主任が「せっかくですから、お茶を飲みながらにしましょう」と言ってくれたのだ。
 オフィスの中には、業務内容のせいか給湯スペースも広々としており自社で取り扱っている洒落たキッチン雑貨なんかが使えるようになっている。私はわくわくして嬉しくて、それと着任して張り切っていたものだから。
「主任、私新人ですから、お茶は私がいれます!」
 と言って観月主任を制した。
「おや、そうですか。それでは、お願いしましょうか。茶葉のキャニスターはその棚にありますから、お好きなものを使ってよいですよ」
 カップやティーポットの場所も説明してくれた。
 きれいなだけじゃなく、物腰柔らかく優しい先輩だなあと思いつつ、棚を開けると。
 ……めっちゃくちゃ紅茶の種類があるんだけど。
 私、紅茶は嫌いじゃないし、出されれば飲む。けれど、家で飲むのはコーヒーが多いし、こんなに種類が沢山あってもわからない。自分で紅茶を入れるといえば、マグカップにティーバッグを放り込んでポットの湯を注ぐくらいだ。
 でも、私が配属されたのは紅茶部だし、これはほとんどが自社で扱っている製品だ。これから頑張って詳しくならないと。
 さっぱりわからない紅茶のラベルを見ながら、とりあえず「なんとかブレンド」って書いてあるものを無難に選んだ。
 あとはティーポットとティーカップを選び、とにかく割らないようにしなければ!
 と緊張しながら、使う茶葉とウェアをそろえた。メジャースプーンはその引き出しにありますよ、という主任の言葉に「メジャースプーン?」と一瞬戸惑ったけれど、あっ茶葉をすくうスプーンか、と気を取り直し引き出しから取り出す。
 メジャースプーンを指示されるということは、茶葉の量を正確にということね。よしよし、私は茶葉の容器に書いてある指示量を確認した。湯100CCにつき2〜3g……ええとこのスプーンは大匙より少し小さいかな? このポットに対してだと3杯くらいだろうか? 
 慎重に茶葉をすくって、ティーポットに放り込んだ瞬間。

「何をやっているんですか!」
 
 観月主任の鋭い声が背後から飛んできた。
 びくぅっとして振り向くと、秀麗な眉をぎゅっとひそめ、腕組みをしたままつかつかと私の傍にやってきた。
「あなた、まさかと思いましたが、ティーポットも温めずに茶葉を入れるとは……! そもそも、まだお湯を沸かしはじめていない。まさか電気ポットの湯をジャーッと注ぐつもりではなかったでしょうね」
 整った顔立ちでキッと睨まれ、静かながら滑舌よい良い声でびしっと怒られ、アワワワワ……と私はいっぺんに顔から血の気が引いた。
 なに、この人、めっちゃくちゃ怖い!

 当然その後は観月主任が紅茶を淹れることとなり、業務のオリエンテーションを受けたのだが、紅茶の味は覚えていない。オリエンテーション内容も、ものすごく緻密で厳しくて私は一気に落ち込んだ。
 紅茶部に配属されたその日に紅茶がトラウマになるなんて。
 でも、一日オリエンテーションを聞いていて、本当に自分がおろかだったとしみじみ思う。紅茶部に配属されるのに、紅茶にはきちんと沸かしたてのお湯を使うことが一番大事だっていうことも知らなかったなんて。観月主任は確かに厳しい人かもしれないけど、そりゃ誰だって怒るわ。

 その日に受けたオリエンテーションの復習と翌日のオリエンテーションの予習をしていたら、ふと気づくとすでに外は真っ暗。フロアの人もほとんど帰宅をしていた。お腹もぺこぺこ。
 大きなため息をつきながら、持ち帰り資料を準備していると、静かな足音。
「おや、まだ残っていたのですか」
 観月主任だ。思わずびくっとしてしまう。
「は、はい、もう帰るところです!」
 なるべく目を合わせないようにして、そそくさと帰宅の準備をしていると、彼は足を止めた。
「僕はもう少し残るのでお茶を入れようと思っていたのですが、あなたも一杯飲んでいかれたらいかがです」
 お茶、と聞いて、本日の恐怖を思い出しびくぅっとなる。いえ、いいです、と言いたいところだけれど上司にすすめられるお茶を断るわけにもいくまい。
 ありがとうございます、と消え入りそうな声で言いながら給湯スペースの観月主任を眺めた(お茶を入れてもらいながら、よそごとをしているのも気まずい)。
 恐怖の給湯スペースに行くと、当然ながらまず主任はやかんでお湯を沸かし始めた。
そうそう、お湯からだよなーと改めて心にメモ。
そして茶葉……と見ていると、主任は棚からキャニスターの茶葉ではなく、なんと、ティーバッグを取り出したのだ。それは私の家にもある、スーパーで売ってる黄色いパッケージのやつ。
主任、今日の私のダメさ加減を見て、こいつにはティーバッグで十分だと思ったんだろうか。がくっとうなだれてしまう。
うつむきながらも主任を見ていると、彼はマグカップを二つ取り出してそこに熱いお湯を注ぎ、さっと捨てた。次には、ティーバッグをパッケージから取り出して、そのきれいな指でふかふかとそのティーバッグを優しくほぐすように広げてマグカップに放る。
マグカップにお湯を注ぐと、その上にお皿でフタをして引き出しから取り出したタオルをかぶせた。給湯スペースに据え置かれたキッチンタイマーが時間をしらせると、主任はマグカップから静かにティーバッグを取り出す。

「どうぞ」

 おそるおそる、差し出されたマグカップを受け取って、湯気の立つ紅茶を一口すすった。
 私は目を丸くしてしまう。
「……美味しい!」
思わず声が出た。
 だって、これ、スーパーに安くて売って家にもあるティーバッグ。
 顔を上げると、観月主任が満足そうに口許をほころばせているので、またびっくり。この人、優しい顔とかするんだ!
「……僕が子供の頃、母や姉に淹れてもらって美味しいと思ったのはこのティーバッグでした」
そして、静かに話す。
「ティーバッグも、こうやってきちんとマグカップを暖めて沸かしたての湯を使う、茶葉が広がりやすいようにバッグをほぐしておく、それだけでぜんぜん違います。美味しいでしょう」
「……はい!」
私が大きな声でうなずくと、主任はまたキリッとした表情に戻り、指先で前髪に触れた。
「今日は少々きつく言ってしまって、すいませんでした。新しく部下が来たら美味しい紅茶を淹れて差し上げようと思っていたので、つい。……あなたが、紅茶を嫌いにならない事を祈っています」
気を付けてお帰りなさい、と付け加え、主任はマグカップを手にデスクへ向かった。
私はその背中に、いえ大好きです! と言って、一礼をした。
モクジ

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