● 昇段試験  ●

 お昼休みは、私たち女の子にとって一日で一番の楽しみだ。
 私と友達の千佳ちゃんがお弁当を広げていると、購買にジュースを買いに行った美穂ちゃんが、ものすごい勢いで帰ってきた。

「今! 今ね、師匠に稽古をつけてもらったよ!」

 息を切らせて、満面の笑顔で彼女は言った。

「えっ、なになに? どんな風だったの!?」

 私と千佳ちゃんは興奮して尋ねる。

「私が購買の列からはみ出て、学食の入り口近くまで並んでたら、『邪魔だ、どけ』って言われた!」
「キャーッ!」

 私たちは声をそろえて叫んだ。
 これが、私達のお昼休みの楽しみ。
 尚、ここで私達が言っているのは、明るい『隠語』。
 私たち三人は、三年生で同じクラスになってからの仲良しで、同じクラスの跡部景吾くんの大ファン。彼のあまりのかっこよさに、私たちは彼の事をひそかに「跡部師匠」と呼んでいる。
 そして、ごくたまに彼と話をする事を、「師匠に稽古をつけてもらう」と言っている。
 跡部君の事を好きな女の子は、そりゃあ学校中に沢山いて、その中では跡部くんとよく話したりする子や積極的に話しかけて仲良くなろうとする女の子たちもいる。でも私たちは、とてもそんな風にはできなくて(そういう女の子たちは、大抵とてもキレイな子たちだし)、跡部くんを見てドキドキワクワクするばかり。でも、そんなひとつひとつの事で、私達は毎日楽しい思いをしている。
 だから、私は跡部くんにとても感謝をしているのだ。

 凛々しくて、頭もよくて、かっこいい、大好きな跡部くん。
 あなたは、本当に私の毎日をとても楽しくしてくれている、素敵な男の子だよ。

 私達は、跡部くんの事を話しながらお弁当を食べてお昼をすごすのが、何よりも好きだった。

* * * * *

 そして今日は、これまた私達の大好きなホームルーム。
 なぜかって、そりゃあクラス委員の跡部くんが前に出て話をするのを、じっと見てられるから。
 ホームルームがあった日は、今日の師匠がどれだけ凛々しくキマってたかを語り合いながらお茶をするのが、また私達の定番。
 一年や二年の時のクラスでのホームルームは、ざわついてなかなか話し合いが進まなかったりもしたけれど、さすがに跡部くんがクラス委員だと違うんだ。みんな、ぴりっと静かになって、てきぱきと進む。
 この日は、来月の一月にある合唱コンクールに関する事が議題だった。

「まず、伴奏者。クラシックピアノを弾ける者は手を上げてもらえるか?」

 跡部くんがコンコンと教卓を叩きながら言った。
 そういえば、私は去年も一昨年も、合唱コンクールではピアノをやったんだった。あれ、結構練習がいるし面倒だから、押し付けられちゃうんだよなあ。
 なんて思っていたら、後ろの席の美穂ちゃんがシャーペンで私をつっついてきた。
 手、上げなよって事だろう。
 周りを見渡すと、誰も上げる人がいない。
 私は仕方がないな、というように渋々手を上げた。

、ピアノ弾けるのか。じゃあ、伴奏を頼んでいいか?」

 すかさず跡部くんが言う。はい、と私は小さな声で言ってうなずいた。

「ひとまず伴奏は決まった。じゃあ指揮者はどうする?」

 彼の言葉に、私はハッとした。
 そういえば、毎年合唱コンクールで学年優勝しているクラスは、跡部くんが指揮をしていたような気がする。
 私は思わず振り返ると、美穂ちゃんがVサインを出してきた。
 その時の私は、どんなニヤけた顔をしていたか、ちょっと想像がつかない。

 満場一致で跡部くんが指揮者に決まり、そして曲目はモーツァルトの『Ave verum Corpus』となった。練習スケジュールが決まったら、ホームルームは解散。
 今日の私達のお茶会は、史上最高に盛り上がるに違いないと、私は張り切ってバッグに教科書を詰め込んでいたら、跡部くんがやってきた。

、これからちょっと時間あるか?」

 非常に端的に言うので、私は少し驚いて顔を上げる。

「うん、ぜんぜん大丈夫だけど」

 つい、にこにこ笑いながら言ってしまう。

「『Ave, verum Corpus』(跡部くんはすごく発音が良い)の楽譜、榊先生が持ってると思うんだが、伴奏だったら早く欲しいだろ? 一緒に音楽室に来てもらえるか?」

 私が一瞬、美穂ちゃんの方を振り返ると、美穂ちゃんはすかさず言った。
ちゃん、じゃ、私たち先に帰ってるね」
 そう言って、千佳ちゃんと教室を出て行った。

 私はバッグを持って立ち上がると、跡部くんと音楽室に向かう。
 跡部くんと並んで歩くのは勿論初めてなのだけど、やっぱり背も高いし、姿勢も良くてかっこいいなあ、と感心した。
 音楽室に入ると、グランドピアノの前にいつものように榊先生がいた。
 そうだ、音楽の榊先生はテニス部の顧問なんだっけ。

「榊先生、ウチのクラスの合唱コンクールでの曲が決まったんで、楽譜をお持ちでないかと伺ったんですが」

 榊先生はピアノを弾く手を止め、私たちの方を見た。
「曲目は?」
 先生は静かに言った。いつ見ても、威圧感のある先生で私は少々緊張する。
 跡部くんが答えると、榊先生は手早く楽譜を探し出して私たちに手渡してくれた。

「私は職員室に戻るから、ライトだけ消しておいてくれ」

 榊先生はそれだけ言うと、音楽室を後にした。
 私は譜面を見て、曲を思い浮かべた。確か聴いた事はあると思うんだけど。

「……、初見でいけるか?」

 跡部くんが私に言った。

「えっ、今?」
「ああ。ちょっとイメージをつけたい」

 私は緊張しながら、ピアノの前に座った。
 何度か音をだして、ゆっくり曲を奏でてみる。
 ちらりと跡部くんを見ると、両手を上げて目を閉じて、タクト(指揮棒)を振る動きをしていた。まったく、何をやっても絵になるなあと、私は思わずにやけてしまう。
 割と短い曲で、すぐに演奏は終わった。
 目を開けた跡部くんと、私はばっちり目が合ってしまう。
 跡部くんは少し変な顔をして私を見ていた。演奏、初見ではやっぱりマズかっただろうか、と私はちょっと不安になった。

「……は、なんで、いつもニヤニヤしてんだ?」

 私は譜面台から手に持った楽譜を、思わず落っことしてしまった。

「……私、そんなにニヤニヤしてる?」
「ああ、してる」

 跡部くんはぴしゃりと答えた。

「まあ、親にも、もっと口元しゃんとしなさいって言われるから、地顔なんだと思うけど……。多分、今は、跡部くんが指揮者で合唱コンクールかぁって、浮かれちゃってるんだと思うよ」

 今もニヤニヤしてるんだろうなあと思いながら、私はそう言った。

「あーん?」

 跡部くんは眉をひそめて、言う。

「だから、跡部くんの指揮でピアノ弾けるなんて嬉しいなあって、ニヤニヤしちゃうんだよ」

 跡部くんは、フンと鼻をならしながら私を見ると、ちょっと笑った。

「何、お前、俺が好きなの?」

「女の子はたいがい皆、跡部くんの事が好きだよ」

 私は若干強引に決め付けたような事を言った。でも半ば本気でそう思っているから。

「じゃあ、お前、俺にバレンタインのチョコくれた事とかあんの?」

 跡部くんはからかうように私に言った。

「ええ? それはないよ。だって、女の子がバレンタインチョコ渡すって結構、準備や勇気やなんかが要る事なんだよ。私みたいな白帯じゃあ、とてもとても……」

 私が首を振ると跡部くんは、眉をぴくりと動かした。

「白帯?」
「あ……」

 私はあわてて口元を手で押さえた。

「何だよ、白帯って」

 私はしばらく黙っているけれど、跡部くんは聞かなければ気がすまないようで、私は仕方なくおずおずと口を開いた。

「……私みたいな、ほんとに跡部くんを見てるだけなのが『跡部道場白帯』、よく話をしたりちょっと仲の良い子は『茶帯』、一緒に遊んだ事があるような子は『黒帯』とかね、友達と勝手に言ってるんだ」

 もじもじと言うと、跡部くんは呆れたような顔をして、髪をかきあげた。
 ああ、こんな何でもないしぐさでも、跡部くんがするとかっこいいなあ、なんて私は思っていたり。

「なんだ、そりゃ。じゃあ、俺の彼女なんかは何ていうんだよ」
「それは、師範代」

 私が答えると、跡部くんは大声で笑い出した。

「くっだらねえ〜! お前ら、バッカじゃねえの!」

 そう言って、跡部くんは笑い続ける。

「しかもさ、お前、バッカじゃねえの、とか言われてまた、なんでそうニヤニヤしてんの」

 跡部くんは笑いながら、言った。

「だって跡部くんの、そういうハッキリ物を言うところ、やっぱりいいなあって思って。まわりくどくなくてね、いいよ」

 私はくすくす笑った。
 跡部くんは一瞬目を丸くして、フンと鼻を鳴らすと、またくくっと笑う。

「……もしかして、俺に告ったりすることは……昇段試験って言ったりするのか?」

 今度は私が目を丸くした。

「そう、その通り! どうして分かるの? やっぱり跡部くん、すごいなあ!」

 私が本当に感心して声を上げると、跡部くんはまた大声で笑う。

「バーカ、そんなもん、分かるに決まってるだろ。お前ら、ほんっとダッセーな!」

 跡部くんがあまりに楽しそうに笑うものだから、私はついつい調子に乗って、例えばこうやって白帯の私が跡部くんと話すのは、『師匠に稽古をつけてもらう』って言うの、なんて説明したら、跡部くんはまた私に「バカ」とか「ダセぇ」とか言いながら笑って、私もつられて一緒に笑う。
 よく考えたら、跡部くんがこんな風に笑うところを私は初めて見たので、なんとも嬉しくなってしまった。男の子の友達同士で話して笑う時って、こんな風なのかもしれない。
 これが合唱コンクールに向けて、私と跡部くんの一番最初の練習だった。

* * * * *

ちゃん、昨日どうだった?」

 翌朝、学校へ行くと、当然ながら二人の友人からは質問攻め。
 勿論、跡部くんの事についてだ。

「どうって、うーん、実際に話しても、いつも見てるあのまんまで、かっこよかったよ」
 私は思い切り自信を持って言った。
「そうなんだー。いいな、私もピアノやっとけばよかった」
 嬉しそうな顔で、千佳ちゃんが言う。
 私の前で美穂ちゃんが何か言いかけてから私の背後を見上げ、あ、と口をつぐんだ。
 その時、私の頭にコツンと何かが当たる。驚いて振り返ると、跡部くんが立っていた。

「あ、おはよ」
「おう。ピアノ、練習したか? 昨日は二回つっかえただろ?」
「うん、練習したよ。昨日は初見だったし、勘弁して。もう大丈夫だから」

 私は言いながら、またニヤニヤしちゃってんだろうなあと思う。

「これ」

 跡部くんは私にCDを差し出した。さっき私の頭にコツンと当たったものは、どうもこれだったらしい。

「貸してやるから、聴いとけ。ムーティの『Ave verum Corpus』だ。これはベルリン・フィルの演奏でピアノじゃねぇけど、俺はこんな感じでやりてぇから」

 私はそのEMIレーベルのCDを受け取って、跡部くんを見上げた。

「わかった、ありがと。家で聴いてみる」

 跡部くんは私と、そして千佳ちゃんと美穂ちゃんをちらりと見て、ちょっと意地悪く笑った。

「なんだっけ、こういうの、『稽古つけた』っていうのか?」
「うん、まあね」

 私もまた、つられて笑ってしまった。

「バーカ。じゃあな」

 跡部くんはそれだけ言うと、自分の席へ向かった。

* * * * *

 合唱コンクールまでは、音楽の授業はすべてその練習に当てる事ができる。
 何度かパート練習を重ねて、今週になってようやく全員で合わせての練習が始まった。
 胸を張ってタクトを振る跡部くんは、本当に凛々しかった。
 今まで、合唱コンクールで跡部くんのクラスがいつも優勝していた理由がわかったような気がする。合唱コンクールって、私の今までのクラスだと、いつも不真面目な男子がいたり、なかなかまとまって一つになるっていうのが難しい。でも跡部くんがこうやって指揮棒を持って前に立つと、どうしてだか、ものすごく皆一つになる。跡部くんが怖いからだとか、注意されるからだとか、そんな事じゃない。
 ものすごく惹きつけられるんだ。男子も女子も。
 そして、跡部くんが目指す「音」に向かって、そのタクトの動きをじっと真剣に読み取って、歌ってゆく。
 クラスの合唱コンクールで、こんなふうにぴりぴりと心地よい緊張感のある演奏ができるんだ、と私はちょっとびっくりした。跡部くんて、やっぱりすごい。
 
 練習が終わって、私は借りたCDの合唱を頭に思い浮かべながら廊下を歩いていると、跡部くんが隣に来る。

、今日、放課後は時間あるか?」

 いつかのように、ぶっきらぼうに言う。

「うん、大丈夫だよ」
「だったら、音楽室でちょっと練習していかねぇ?」
「いいよ、放課後すぐ?」
「そうだ」

 いつものように用件だけ言って、さっさと先へ行く。
 きっと、テニスもこんなふうにとことん真面目に真剣に、自分が納得行くまで取り組んでるんだろうな。ううん、テニスだけじゃなくて、何にでも。そりゃあ、沢山の人を惹きつけるはずだよね。私はそんな跡部くんの後姿を見て、何だか嬉しくなった。
 放課後、私は友達に「今日もぶつかり稽古!」と言って音楽室に走った。
 跡部くんと練習するのも楽しいけど、あのグランドピアノに触れるのもとても楽しみだったから。
 誰もいない音楽室に入って、ピアノの前に座る。
 一人で演奏をした。

『Ave verum Corpus』は教会音楽で、短い曲だけどイエス・キリストが生まれてから受難に至るまでを表したドラマティックな曲だ。
 荘厳に始まって、時に抑揚をつけて盛り上がり、最後に思い切り盛り上がって、そして静かに終わってゆく。私のイメージではそんな感じ。それを頭に浮かべながら、何度か演奏していると、跡部くんが入ってきた。
 私がピアノを弾く手を止めると、跡部くんは何も言わず、指揮棒を上げる。
 そして、振り下ろした。
 私はすぐ、それに合わせて演奏を始める。
 跡部くんの指揮は、ピーカンに晴れた朝の雪景色みたいに澄み渡っていて、私が「こんな風に演奏したいんだけどな」と思いつつもなんだか上手くたどり着けないところが、すべてクリアになる世界を見せてくれた。
そして跡部くんの指揮を見てピアノを弾いていたら不思議な事に、クラスの皆の声の合唱が、とてもリアルに頭の中に響いてきた。それはまるで、跡部くんの頭の中に響いているものが私の中にも入り込んできたような感覚で……。
 曲が終わり、跡部くんのタクトが静かに下ろされた。

「……うん、だいぶイメージついてきたな」

 跡部くんが満足そうに笑う。そして私を見て、あーん? とおかしな顔をする。

「お前、どうしたよ?」

 跡部くんに言われて気づいたけれど、私はどうしてだか、涙が出ていたのだ。

「あ、ごめん……」

 あわてて指で涙をぬぐった。

「なんかね、こんな風に誰かと、同じ音を目指して……世界を共有するような演奏って初めてなの。ちょっと胸にぐっと来た」

 なんだかすごく嬉しくて、涙を流してるのに口元がほころぶのが分かる。

「あのね、忘れないうちに、もう一度いい? 『Vere passum immolatum in cruce pro homine』のとこ、もう一度振ってもらえる?」

 跡部くんは少し笑って、うなずいた。

「ああ、そこ、どう思った? もう少し上げていった方がいいか?」
「最後のところを聴かせるために、押さえ気味がいいのかなあとも思うし、難しいね。とにかく、もう一度やってみよ?」

 なんだか私は急にものすごくやる気になっちゃって、私たちは何度も演奏を繰り返した。
 何度目の演奏だかもうわからなくなった頃、突然音楽室の扉が開けられた。

「なんだ跡部、まだやってるのか? もう時間だから、施錠するぞ」

 榊先生だった。
「ああ、すいません、もう帰ります」
 跡部くんが言って、私もあわてて譜面をバッグに仕舞って、ピアノを閉じた。
「相変わらず熱心だな」
 部屋を出ようとする私達に、榊先生は笑って言った。


「……しかしお前、いつ声かけても時間あるって、よっぽど暇なんだな」

 歩きながら跡部くんは、改めて言った。ある意味失礼なんだけど、でもそのストレートな物の言いは彼らしくて、私は笑ってしまう。
 校舎の外に出ると、まるで雪が降りそうな空模様。
 北風が侵入しないよう、私はきゅっとコートの衿を合わせた。

「うん、そうだねえ。結構暇だよ」

 私が笑いながら言うと、跡部くんもくっくっと笑う。

「そして、またいつも笑ってばかりだしな」
「……いつもヘラヘラしてるって、不愉快?」

 ふと思って私は尋ねる。

「いや、別に不愉快って事はねぇけど。ただ、変わってんな。お前の言う、なんだっけ、『茶帯』とか『黒帯』の……」

 跡部くんは自分で言って、くっと笑った。

「そういう女は、ちょっと仲良くなると大抵、すぐにフテクサれたり拗ねたりする奴が多いからな」
「それは、きっと好きだから構って欲しいんだよ」
「……も、つきあってる奴にはそんな風にすんのか?」
「私? 私はつきあってる男の子いないから、わからないなあ。でも、跡部くんの彼女っていつもきれいな子ばかりだから、そういうのも似合っていいんじゃない?」

 私がそう言うと、跡部くんは不機嫌そうに前髪をかきあげた。

「はっきりした理由があって怒るなら仕方ねぇが、意味もなくフテクサれるのはウゼー」
「へえ、師匠、厳しいねえ」
「当たり前だ、バーカ。昇段試験は難しいんだぜ?」

 私はつい笑ってしまう。

「くだらねーって言ってたくせに、結構そのネタ気に入ってるじゃん」
「なワケねーだろ。お前に合わせてるだけだ」

 言いながら、跡部くんも笑った。
 バス停に向かって歩いていると、周りの家の庭のクリスマスイルミネーションが光り出しているのが見えた。私は思わず足を止めてしまう。

「どうした?」
「そういえばもうすぐクリスマスだったんだなあって」

 言って私は跡部くんを改めて見上げた。

「うん、この時期に跡部くんと教会音楽の練習ができるなんて、ちょっとクリスマスプレゼントみたいだった」
「あーん?」
「ぶつかり稽古どうもありがとう、師匠! って事だよ」
 話していると、バスが来たので私はあわてて走る。
「じゃあね、また明日!」
 私は胸に暖かいものをもらったまま、バスに乗り込んだ。
 
* * * * *

 それから間もなく冬休みになって、私は何度もあの日の練習を思い出しながら、家でピアノを弾いた。音楽室で私の目の前でタクトを振る跡部くんを思い出すと、まるですぐ傍に彼がいるような気がしてしまう。あの時の跡部くんは、とてもリアルに私の中に残っていた。
 テニス部の練習をしているところや、ホームルームで前に立っている跡部くんは何度も見てたし、それをふと思い出す事は今までもあったけれど、こんなにリアルに思い浮かぶ事は初めてで、私は少し戸惑ってしまう。

 どうしてだろう。

 今まで、跡部くんの事を思い出すと、嬉しい気分になるだけだった。でも今は時々、胸がちくりと痛む。

 どうしたんだろう。

 学校が始まって友達とワイワイ話したら、またいつも通りに戻るだろうか。

* * * * *

 始業式の日が来て、また普段の学校生活が始まる。
 合唱コンクールはもうすぐだ。
 跡部くんの的確なリードでクラスの合唱はめきめきと上達していった。あの日、私と跡部くんで練習してイメージした合唱が、どんどん現実になってきて、私はちょっと感動した。やっぱり跡部くんはすごい。
 そして私は。
 指揮をする跡部くんをピアノの前から見るたび、冬休み中に感じていたチクチクとした痛みにふいに気づかされては、落ち着かない毎日だった。

* * * * *

 コンクールの日、私たちのクラスの発表は午後。
 他のクラスの曲を聴いては、うん、絶対うちのクラスの方が良い、と思いながらも私は何だか緊張してくる。
 発表の合間に、私はしばらく外に出た。
 合唱の練習を始めてから、あっという間だったな。
 今日で終わりか、と思うとまた胸がチクリと痛んだ。
 そう、これでまた、ただの『白帯』に戻るだけだ。
 そんな事を考えながら空を見上げていたら、ばんっと背中をたたかれた。
 振り返ると、跡部くんがいた。

「……お前、今年になってからの練習、なんか集中してなかっただろ」

 あいかわらず跡部くんは前置きもなしに、すばりと言う。
 私はどうしてか、かあっと顔が熱くなるのを感じた。

「そんな事ないよ」

 あわてて答える。

「……休み中に何かあったのか?」
「ううん、何もないって。……ちょっと緊張してるだけ」
「ふうん」

 跡部くんはつぶやいて右手を上げると、パチンと指を鳴らした。

「今日はずっと俺様を見てろ。あの時の練習みたいに一緒にやりゃあ、優勝間違いないんだからな」

 いつものようにキメて言う跡部くんを見ると、私はなぜかほっとしてふふっと笑う。

「うん、いつも跡部くんを見てるじゃない」

 去年は何度も言っていたような事なのに、なんか妙に照れくさくて、笑いながらうつむいてしまい、くっくっと笑う跡部くんの顔が視界の隅に残像として残った。


 跡部くんがパチンと指を鳴らしたのは、まるで催眠術みたいに私をリラックスさせた。
 ステージでは、私は跡部くんをじっと見て、とても落ち着いて演奏する事ができた。そして合唱は、本当にずっと頭に思い描いていたような素晴らしい唄だった。きっと跡部くんのイメージ通りだと思う。指揮棒を振る跡部くんはとても誇らしげに、生き生きとしていた。
『Esto nobis praegustatum in mortis examine』
 最後のフレーズの後、静かにゆっくりとピアノをフェイドアウトさせ私達の発表は終わった。
 あの日の練習の時のように、私は涙が出そうになった。
 そして勿論、私達のクラスは優勝した。


 私がボーッとしながら帰り支度をしていると、美穂ちゃんと千佳ちゃんがやってきた。

ちゃん、お疲れ! やったね、優勝! やっぱり跡部くん、すごいよね。合唱コンクールでこんなに頑張ったの初めてだし、やっぱり感動したあ」

 二人とも口々に喜びを叫ぶ。
 クラスメイトをこんなに喜ばせるなんて、やっぱり跡部くんはすごいな。
 私は改めて思った。

「おう、

 さわいでる私たちの前を、跡部くんが通る。

「お疲れ」

 言って、右手を差し出してきた。

「うん、跡部くんも」

 私が少し戸惑いながらその右手を握ると、跡部くんは力強く握り返してきた。

「じゃあな」

 さらりと言って去ってゆく様は、優勝なんて当たり前という感じで、とても彼らしくて。うん、そういうところがやっぱり好きだなあ。

「……ちゃん?」

 美穂ちゃんと千佳ちゃんの驚いた声が耳に入る。
 私はうつむいてぽろぽろと泣いていた。

 胸の痛みは、今まで『白帯』なんて言って、怠けていた罰だ。

 跡部くんを本当に好きになって傷つく事が怖くて、逃げていた事の罰だ。

 堰を切ったように体中に溢れる痛みを抱え切れなくて泣き続ける私に、美穂ちゃんたちは何も言わず、ただ、傍にいてくれた。

* * * * *

 翌日、私はいつもより少し早めに学校に行った。
 まだ誰もいない教室に入って窓を開けると、冷たいけれど気持ちの良い空気が入ってくる。一晩泣いた目はむくんだままで、冷えてちょっとはマシにならないかと思いつつ。
 頭の中には、まだ『Ave verum Corpus』の旋律が残っていた。

「なんだ、早いんだな」

 背後から聞こえたのは跡部くんの声で、私は心臓が飛び出るかと思うくらいに驚いて振り返った。
 ニヤニヤ笑った彼が立っている。

「あーん? 何、目ぇ腫らしてんだ? 俺様との練習が終わっちまって寂しいのか?」

 跡部くんの言葉に、私の顔は熱くなる。

「ちが……ちが、わないけど……」
「けど?」

 私は思わずうつむいてから、くっと顔を上げた。

「……やっぱり跡部くん、意地悪だね。彼女がフテクサれたり拗ねたりするのも、仕方ないよ」

「そうだろう? だから師範代は最近は空位のままだ。昇段試験も不合格者ばかりだしな。だからお前、受けろよ、昇段試験」

「ええ!」

 彼があまりにさらりと言うので、私は思わず叫んでしまった。

「……昇段試験は難しいって言ってたじゃない」

「当たり前だ。けど一ヶ月以上、師匠じきじきに稽古つけた奴が落ちるつもりなのか? まったく、ダセーな」

 普段通りの顔で言う跡部くんを見て、私はどうしてか笑ってしまう。
 跡部くんのこういうところ、本当に好きだなあ。
 受けるのかよ、受けねーのかよ、とせっつく彼に、私は何て言ったらいいかわからなくて、ただただ火照った顔のまま、いつかのように涙をこぼしながら笑っていた。
 窓の外は、雪がちらついているけれど、高く澄み渡った青空が広がっている。

(了)

2007 第9回 Dream Battle 参加作品

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