● シーブリーズ(4)  ●

 俺は自主トレなんかの名目で顔を出していた部活を終えると、同様の暇人・丸井ブン太、そしてこれから部を支える後輩の切原赤也と連れ立って下校していた。
 わいわいといつものようなバカ話をしながら賑やかに帰るものの、俺は昨日高等部の校庭で見たの顔が忘れられない。俺はなんだか知らないがを怒らせてしまったのは確実で、そして何をどう謝ったら良いのかもわからなくて、今日一日結局何も話せなかったのだ。そんな事が気がかりなまま。
 ブン太たちは俺の部屋に寄ってゲームでもして行くかなんて勝手に言ったりしていて、俺は高層雲の流れる夕暮れの空を何気なく見上げた。
 ふと南の方を見ると、すううっと一本、煙が立ち上がっている。
 そしてそのてっぺんは、海から吹く風に穏やかに流されていた。
 俺はそれをぼうっと眺めていたのだが、その煙りの立つ方向に視線を落とし、しばし頭をめぐらすとハッとした。

「……悪ぃ、俺、用事だ! お前ら、先に帰っててくれ!」

 俺は、きょとんとしたブン太たちを放って走り出した。
 その煙の立つ方向へ。
 いや、そんなわけがない。
 きっと、ただ海辺でゴミを焼いてる奴かなんかだろう、なんて思いながらも、俺は前に一度だけ一緒に帰った事のある、の家の方向を目指して走っていた。
 途中で暑くなり、上着を脱いで肩にひっかける。ネクタイを緩めた襟元からは、心地よい風が入ってくる。
 煙の源に近づくと、やはりそれは俺の目指していたところから立ち上がっていた。
 俺が、ゴールにタッチするようにの家の門に手を触れると、それがカシャンと音をたてた。

 門の中からは、驚いた顔で俺を見る、
 
「神奈川じゃ、野焼きは原則禁止なんだぜ。早く消せ」

 俺はそう言って、飲みかけの水をペットボトルごと放ると、門から中に入り、彼女に近づいた。見事ペットボトルをキャッチした彼女はその水を火にかけながら、遅いよジャッカル、とつぶやく。
 マジでのろし上げる奴がいるかよ、なんて思いながらも、俺は自分が心からほっとしているのを感じる。
 と一言も言葉を交わさないうちに一日が終らなくてよかった。
 は、水をかけた焚き火を火掻き棒でかきまわしながら、うつむいたまま話し始めた。
「……委員長から連絡があってね、ジャッカルのプレゼン、面白そうだから時間延長していいって」
 俺は彼女の隣りで、彼女のうつむいた顔を覗き込みながら、へー、と答えた。
「そっか。そりゃ嬉しいけど、資料増やしたりまた仕事増えるな」
「そうだよねー。あ、それと、これ。私、メモリー預かったままだったからさ」
 はポケットからUSBメモリーを取り出して、俺に手渡した。
「あ、そういやそうだったな。……もしかして、資料の追加って至急明日までとかなのか?」
 俺がはっとして尋ねると、は顔を上げて俺を見て、ちょっと眉をひそめるとまた目をそらした。
「ううん、別にそういうわけじゃないよ。……急ぎってわけじゃない。急用でもないのに、悪かったけど……」
 焚き火をかきまわしているは、いつも文句たらたらでテニスコートに走ってくる時と違って、なんだか少し元気がないような気がした。
「いや、別にさ、構わねーよ」
 俺はあわてて言う。構わねーよって、何がだよ、と自分でつっこんでみる。ええと、つまり、別に急ぎの用じゃなくたって、が俺を呼んでもいいんだよって事なんだけど。口に出して、はっきりとそう言った方がいいのか?
 俺が頭を抱えながら隣で考えこんでいると、は小さな声で、ねえ、とつぶやく。
「煙、見えた?」
 そして、一言尋ねる。
「ああ、丁度帰り道で、海風に流れてるのが見えたぜ。が俺を呼んでんじゃねーかって、急いで走ってきた」
 俺は精一杯明るい声で答える。すると、ようやく彼女は笑った。
「本当? よかった」
 その顔は本当に可愛らしくて、いつも教室で見る、ちょっと大人びて何でもわかっているような彼女とは少し違う感じがして、俺はじっと見つめてしまった。
 そして急に妙に照れくさくなり、思わずうつむいた。
「……おい、これ……!」
 落とした視線の先にあったものを、俺は拾い上げた。
「これ、出たばっかりのジャンプじゃねーか! ビリビリにしちまって!」
 ついつい大声を上げる俺を、は目を丸くして見上げる。
「だって、さっき読んじゃったところだから、焚き付けに使ったんだよ」
「俺、これまだ読んでなかったのに!」
 本気で悔しがる俺を見て、はおかしそうに笑った。
「そうだったの。なんだ、じゃあこれからは私がジャンプ読み終えたら、すぐにのろしを上げるから、取りにくれば?」
「マジでそうしてくれよ!」
 その、半分も残ってないジャンプを握り締めながら俺は言って、俺たちは顔を見合わせ、声を上げて笑った。



 それ以来、俺は部活を終えると毎回南の空を見上げながら帰路につく。
 ブン太に、『何、バカみてーに上ばっかり見て歩いてんだよ』なんてからかわれながら。
 俺がじっと見上げる方向に白い煙がすうっと登ると、俺は全力で走り出すのだ。
 俺が駆けつけると、はいつも『遅いよ』と言いながら笑う。
 そして、俺たちはの家のウッドテラスのテーブルで、オープンキャンパスの資料を作ったり、読みあわせをしたり、時には宿題を一緒にすませたりするのだ。もちろん、の読み終わったジャンプを受け取ったり。
 教室では、華やかなクラスメイトといつもわいわいやっていて、ちょっと近づき難かったも、こうして二人でいると、やっぱりなんてことのない同級生の女の子なんだなあという感じで俺はほっとした。そして同時に、こうやって過ごす日々を重ねるにつれ、不安が募るのだ。
 は、いつまで、俺を呼ぶためにのろしを上げてくれるだろう。
 オープンキャンパスが終って二人が役目を終えたら、南の空から煙が立ち上ることもなくなるのだろうか。



 その日、俺はテニスコートでブン太と軽く打ち合いをして、そろそろ上がろうかとコートを後にした。ついクセで空を見上げる。今日は、多分間違いなくのろしが上がる日だ。なぜなら、ジャンプの発売日だからな。は、朝買って来たジャンプを学校で読んで、残りを家に帰って読んで、たいてい夕方早々には読み終わっているのだ。
 俺がいそいそと着替えをしていると、ブン太が、なあジャッカル、と話し掛けてくる。
「最近、さん、お前を探して走り回ってこねーな」
「え? ああ、まあオープンキャンパスの準備も大体落ち着いてるしな」
 俺は、彼女が走り回るかわりに俺がのろしで呼ばれて走っているのだという事は言わず、なんでもないように答えた。
「ふーん、そう。ところでジャッカル、さんの携帯の番号とメルアド知ってる?」
 ブン太はネクタイをしめながら続けた。
「……ああ、まあ知ってはいるけど」
 俺は自分は携帯は持ってないけれど、何かあった時の連絡手段にと、一応彼女の番号とアドレスは聞いて生徒手帳にメモしてあった。
「だったら、それ、教えてくんね? 同じクラスの奴が、さんを好きらしくて。さん、今、付き合ってる奴はいないみてーだってどっかから聞いてきてさ、今度クラスの奴で遊びに行く時、彼女も誘いたいんだってよ」
 俺はブン太の顔を見て、自分の着替えの手が止まってしまっている事に気付いた。
「……ああ、じゃあ……教えていいか、に聞いてみるよ」
 シャツのボタンを留めながら、すっかり着替えの終ったブン太に答えた。
「そっか、そうだな。じゃ、頼むわ。シクヨロ!」
 奴はVサインを出して部室を出て行った。



 俺はぼーっと南の空を見上げながら、帰り道をゆっくり歩いた。
 電話番号ねえ。
 そんなもん、その知りたいって奴がに直接聞いたらいいんじゃねーか。
 と、思うものの、でもが教えていいよって言うなら、確かにそれでいいわけだしな。
 俺がここでブン太に、イヤだ教えねーって言うのも、ヘンな話だ。
 そんな事を考えながら歩いていたら、俺が心待ちにしている白い煙が視界に入る。
 そして、俺はいつものように全速力で走り出した。

「はい、ジャンプ」
 は、読み終わったジャンプと、コップに入った水を俺に差し出してくれる。
「サンキュ」
 それを受け取って、俺はごくごくと水を飲んだ。
 ん家の水は、週末に親父が山で名水を汲んでくるらしく、本当に旨いのだ。
 なんでも、米もそれで炊いているらしい。
 俺はジャンプを手にして、とテラスのベンチに腰掛けた。
 ジャンプを受け取るだけの日も、こうして座って、二人でなんていう事のない話をしてゆくのが最近の習慣だった。それは、俺のこの上ない楽しみのひとつで。
「今週末、もうオープンキャンパスかー。準備、すごく大変だったけど、結構あっという間だな。無事終るといいねえ」
「ほんとだよなー」
 俺は言いながらも、いつも心からぬぐえない不安がぐっと浮かび上がるのを感じる。
 オープンキャンパスが終っても、俺はこうしてジャンプを取りに来れるのか。
「まあ、私は当日やる事って施設案内だけでいいけど、ジャッカルはプレゼンがあるから大変だよね」
「うん、まあな。練習しとかねーとな」
 そうだ土曜の大学の見学説明会、一緒に行かないかって聞いてみようか。
 俺はふとそんな事を思いついて、そして同時にブン太に頼まれた用件も思い出した。
 そうだ、そっちをさっさと済ませてしまおう。
「あ、そうだ。丸井ブン太、知ってるだろ?」
「うん、もちろん知ってるよ。時々話すじゃない」
「あいつのクラスの奴が、その……のケータイの番号とメルアド知りたいらしくて、ブン太に聞かれたんだ。……俺が、ブン太に教えてやってもいいか?」
 できるだけ、なんでもないように言うと、は隣りで目を丸くしてじっと俺を見ていた。
 イヤならいいんだぜ、俺がそう伝えておくから、と言おうとすると、俺が口を開く前に彼女は急に立ち上がってテラスから庭に降りた。
 彼女はがさがさとトングを使って、火の消えた焚き火を片付け始める。
「好きにすれば。私、多分、もうのろしは上げないと思う」
 静かな声ではっきりとそう言って、俺に背を向けたまま作業を続けた。
 俺はジャンプを握り締めたまま、以前、高等部にが走ってきた時の事を思い出した。
 あの時も俺はを怒らせてしまい、どうすれば良いのかわからなくなってしまったんだっけ。
 今も同じだ。
 どうしたらいいのか、わからない。
 の背中をしばらく見つめるけれど、彼女は決して振り返らない。
 は焚き火の枝を全て片付け終わるとテラスから家の中に入ってしまい、俺はジャンプを握り締めたまま、とぼとぼと彼女の家を後にした。



 それからというもの、教室でもは一切俺と目を合わせない。
 オープンキャンパスの準備もほとんど終えているから、これといって話さなければならない用事もない。
 そして、俺はを怒らせてしまったという事だけはわかるのだが、一体どうしたら良いのか本当にわからなくて、何か話し掛けようと思うのだけれど何も上手いきっかけがつかめないまま、沈んだ日々を送る。
 毎日家に帰りながら空を見上げても、彼女の宣言通り、あの煙が立ち上る事はなかった。

 

 そして、あっという間に週末。
 今日は大学の見学会で、明日が中・高の見学会。
 大学の見学説明会は午後からで、まだたっぷり時間はあるのだけれど、俺はどうにも落ち着かなくて早めに家を出て辺りをうろうろする。と一緒に見学会に行けるかもしれないというのは、かなわぬ夢だった。
 でも、見学会にはも来るはずだ。
 今日こそは、何か話ができるだろうか。明日の本番の件もあるし……。
 でも……。
 あの日の、はっきりとしたの声と硬い表情を思い出した。
 はもう、俺を呼ばない。
 そう思うと俺の胸はぎりぎりと痛むけれど、俺の足はいつのまにかの家に向かっていた。煙も上がっていないのに。
 ゆっくり歩いていたはずなのに、もう彼女の家の近くだ。
 あいかわらず煙は上がっていない。
 あそこから立ち上る煙を、俺は毎回本当にわくわくしながら見ていたな、とほんの数日前の事なのに懐かしく思い出す。

 もう一度だけ。
 もう一度だけ、煙が上がってくれないだろうか。

 そうしたら、きっと、俺はもっとちゃんと彼女に言うのに。
 俺が空の何かにそう誓いながら彼女の家の方を見ていると、背中からふわりと風が吹いてきた。
 やけに早い時間から吹いてくる今日の海風は、季節はずれに暖かい。
 そんな事を思っていると、の家の庭から細い白い煙がゆるりと立ち登るのが見えた。
 それが海風に踊らされるよりも早く、俺は走り出して彼女の家の門をカシャンと鳴らした。
 多分、煙が立ってから約15秒ほどだ。
 門の中では、本当に驚いた顔の
 彼女はそんな顔のまま、門のところにやってきた。
「最速記録じゃない」
「……ああ」
 俺は彼女に何て言ったら良いのか、実はいまだその言葉はきちんと思い浮かんでいなかったのだけれど、さっき『もう一度煙が上がったら』と、空の何かに誓った事は守らなくてはならない。とりあえず、切実に心に思っていた事を口にした。

。俺……のケータイの番号もアドレスも、本当は他の奴に絶対教えたくねーよ」

 俺が震える声でそう言うと、はじっと俺を見て、そしてゆっくり門を開けた。
 俺のすぐ近くに来て、小柄な彼女は思い切り首を傾けながら俺を見上げる。
 火掻き棒を持っていない右手を、胸のあたりでぎゅうっと握り締めていて、なんだか泣きそうな顔だ。
 そして、その握り締めた拳でドンッと俺の腹にパンチを食らわせる。

「そういう事は、もっと早くにちゃんと言って!」

 当然、彼女のパンチはちっとも痛くなんかなくて、俺は彼女の握り拳を俺の手でぎゅっと包んだ。
「うん……ごめんな」
「あと、誕生日とかも、ちゃんと教えといて! 今日でしょ!」
 言われて、俺ははっとした。
 そういえば、見学会の申し込み用紙を一緒に書いたんだった。
 住所、氏名、学年、生年月日。
 俺も、ああの誕生日ってバレンタインデーなんだな、なんてこっそり覗き込んで見てたっけ。
 も、俺のそんなの見てるなんて思いもしなかった。
「うん、ごめんな」
 俺は胸を熱くしたまま、繰り返す。
 ごめんじゃないでしょー、と彼女は相変わらず強い調子で言うのだが、その右手は俺の両手に包み込まれたままで、堅く握り締められていたそれは俺の手の中でゆっくりと柔らかく暖かくなってゆく。
 俺の背後からはまた海風が吹いてきて、それは俺たちを包み込むと同時に、白い煙をふわりふわりと上空に巻き上げていった。

(了)
「シーブリーズ」
2007.11.3

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