シークレット・エージェントマン 2



「要するに、あなたはお疲れということでしょうね」
 科学警察研究所に依頼していたデータを受け取りに来ていた私は、主任研究員であるドクター柳生と現在捜査中の事件の展望について立ち話をしていたのだが、立ち話も何ですから、とドクターの研究室に招かれた。
 しばらくは今かかえているテロ予告の案件についてを話し合っていたのだが、私のあまりに疲弊した様子に、ドクター柳生は科警研の研究員モードから、医師モードになったようだ。確か彼の実家は立派な内科の開業医と聞いた。
 彼の誘導尋問のような問診に、私はついつらつらと最近の状況を話してしまう。
 長期化している案件を特捜班でもってして捜査中であることに加え、テロ予告事件の担当も加わった私は、このところまともに眠ることもできていない。
「それで、悪夢に悩まされると……?」
 ドクター柳生はティファールで湯を沸かし、ハーブティーを入れて美しい磁器のカップに注いでくれた。
「っていうわけじゃないんだけど……」
 私が担当している「長期化した案件」というのは、謎のエージェント・仁王雅治の捜査だ。エージェントという言葉が正しいのかどうかはわからない。要は、世界を股にかけたペテン師だ。様々な極秘情報をすっぱ抜いては国家間の緊張に影響を及ぼしたり、そして時には、あるはずのない物があるはずのない場所で発見される。世界中で起こる意表をつく大事件の影には、かならず仁王雅治が暗躍しているという話だ。そして、彼の暗躍で煮え湯を飲まされるのは、しかるべき人物であったりしかるべき組織だけ(国家も含め)。そんな具合だから、今や世界には仁王雅治ファンを公言する者も少なくないし、なんと海外にはファンサイトだってある。変幻自在の百面相である彼の素顔を、誰も知らないというのに。
 この私を除いては。
「事件のおそろしい出来事がフラッシュバックするとか?」
 ドクター柳生の問診は続く。
「うーん、おそろしいというわけじゃないけど……」
 私が見る夢は、建設途中のビルの屋上、銀色の月と銀色の髪の仁王雅治。
 彼と初めて対面したあの出来事は、もう3ヶ月も前のことだ。
 目の前まで追い詰めておきながら、ひらりと逃げられ煮え湯を飲まされた。
 けれど、なぜか彼が私にくれた、とある事件解決のキー。
 そして、熱い口づけ。
 油断すると頭に蘇るあの感触を振り払おうと、ぶんぶんと頭を振ると意識が遠のきそうになった。急激な睡魔。
「ごめんなさい、ドクター柳生、なんだか睡眠不足がたたってるみたいで、お水を一杯いただける?」
 こめかみを抑えると、ドクターは優雅な物腰で傍らにやってきた。
「よほどお疲れなのですね。そのハーブティーは、バレリアンにカモミール、ラベンダー、パッションフラワーを
ブレンドした、リラックスと安眠のためのお茶ですから」
 そして、飄々と言うのだ。
「え、ちょっと安眠ブレンドって、困るんだけど……」
 科警研の主任研究員が厳選したハーブティーに抗うことは、今の私には無駄な抵抗のようだった。私の意識は順調に遠のき、自力で支えられなくなった身体を、長身のドクター柳生が抱えてくれていることを感じる。目を覚まさなくては、と思いながらも身体はまったく動かず、私はソファに横たえられ身体を毛布で覆われ、その暖かさは睡魔により拍車をかける。深い沼に沈んでいくような感覚。
「心配せんでも、正真正銘、柳生の部屋にあったハーブをブレンドしただけじゃ。おかしなものは入っとらん。1時間ほどぐっすり眠ったら、すっきり目が覚める。たまには睡眠を取らないと、美人が台無しぜよ、プリッ」
 これは、いつもの夢なのだろうか。
 目を開けて、目の前にいるはずのドクター柳生を確認しようとしても、沼に沈んだ身体はいうことがきかない。
「おやすみ、我が麗しのエージェント。そのうち、ちゃんとした花束をプレゼントするぜよ」
 そして、何度も夢の中で再体験していたあのキス。まぎれもなく、あの時のキスと同じ。薄い唇に、熱い舌。
 私が言うべきは、「仁王雅治、逮捕よ!」という言葉だと、いかに睡魔にとらわれていてもわかっている。けれど、私の口からかろうじて出てきた言葉は、私がこれまでの人生で一度も口にしたことのないものだった。
「……行かないで……」
 力のない私の声が、周囲の空気に響いている。
 自分の声を意識したが最後に、私はすっかり沼の底に沈んでいった。

 
「おやおや、どうされましたか」
 はっと身体を起こした時には、すっかり私の頭は軽くクリアになっていた。あわてて時計を見ると、ドクター柳生の部屋を訪れてからまさにちょうど1時間ほど経ったところ。毛布を跳ねのけ、ドクター柳生の顔をまじまじと見る。
「ハーブティー、効果満点すぎよ、ドクター」
 私が言うと、ドクター柳生は首を傾げた。
「なんのことでしょう? ワタシはドクター忍足と学会に出かけていて、今帰ってきたところなんですが」
「えっ?」
 私はさっぱり事情がわからずにいる。
「今? 帰ってきたところ?」
「ハイ」
 彼はそう言って、スーツのジャケットをハンガーにかけ、カフスを外した。
 重たそうなブリーフケースをデスクに置く。
 確かに、どう見ても今外出から戻ったばかりという様相だ。
 じゃあ、私に問診をしてハーブティーを淹れてくれたドクター柳生は誰?
「おや?」
 ドクター柳生は机の上に目を止める。
「ああ、鑑識の依頼で来られたんですね。これは確か、あのテロ予告事件の証拠番号でしたか」
「え?」
 ドクター柳生が手にしている物は、ビニールの小袋に採取されている干からびた花びら。確かに、テロ予告事件の証拠品の一つだ。けれど、私がここに持ってきた記憶はない。
「これを調べろということですね、わかりました。有力な手がかりが得られると期待しましょう」
「あ、はい、お願いします……」

 そのうち、ちゃんとした花束をプレゼントするぜよ。
 
 眠りの沼に落ちながら聞いた声を思い出す。
 私は立ち上がって毛布をたたんだ。
「結果が出たら、何時でもいいからすぐに教えて。私は24時間営業だから」
「それは頼もしい」
 研究室を出ていこうとすると、ドクターに呼び止められた。
「背中に、何かついていますよ」
 そう言われて、身体をよじって扉近くの鏡に映してみる。何かが貼り付けてあった。
 手を伸ばしてはがしてみると、
 
 S.B.U!

 とマジックで走り書きがしてある。
「すぶ?」
 私が口に出すと、ドクター柳生が覗き込んで、ふっと笑った。
「……ロマンチストすぎる解釈かもしれませんが、Stand By U……。君のそばにいる、などの意味合いでしょうか」
 私はその走り書きを見つめる。
「いかがいたしましょう。その紙切れも、鑑識にまわしますか?」
 ドクターは笑いながら言った。
 私は首を横に振りながら、その紙をたたんでポケットにしまう。
「ちょうど3時です。ハーブティーなど飲んでいかれますか?」
 今度はもっと大きく首を振った。
「それも結構!」

 仁王雅治はロマンチストか。
 私達の特捜班での命題に加えなければならない。

2014.2.22

 




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