シークレット・エージェントマン 1



「もう逃がさないわ!」
 月明かりの下、建築途中のビルの屋上。
 私の10メートルほど先の後ろ姿は、私が3年越しで追っている男、仁王雅治。
 彼は数カ国をまたにかけて、警察や国家に煮え湯を飲ませている謎の情報屋だ。
 政府が秘匿している情報をすっぱ抜いてはマスコミにリークしたり、企業の情報を盗み出しては株価を変動させるなんてお手の物。
 仁王雅治の正体が何者で、一体なぜそんなことをやっているのかはわからない。
 私たち警察は、彼の素顔も知らない。
 わかっているのは、その声と名前だけ。
 そして、「プリッ」というふざけた口癖と。
 私は、特捜班のチーフとして彼を追う任務を受けている。
 私の視線の先で、彼は背中を向けているけれど、きっと月に向かって不敵な笑みを浮かべているだろうことは、彼を追う3年間で十分想像がつくまでにはなった。
 彼を追い詰めるべく歩を進める私の進行方向で、彼はまるでいたずらな猫のように足を止めた。

「観念するのね、仁王雅治」

 柄にもなく緊張しているのか、気の利いた言葉が思い浮かばない。まるで、ありきたりのサスペンス。
 何か言いなさいよ、このペテン師。

「……ちょいと焦らしすぎたかのぉ」

 初めて生で聴く彼の声は、静かで深く、思ったより艶っぽい。
 自分の中のデータを書き換えようと耳を澄ましていると、彼はあっさりと振り返った。
 初めての対峙の瞬間に、思わず息を飲む。
 彼はふざけたように、くいと銀縁眼鏡を右手の指で持ち上げて見せた。
 その髪も眼鏡も、変装だってわかってるんだから。
 今回は味方をも欺いた極秘中の極秘の作戦で、仁王をおびき寄せた。
 人数は少ないが、このビルは確実に私のチームで包囲されている。彼の確保は確実だ。
 そう自分に言い聞かせながら、私は彼の真正面に立って手錠を見せた。
 それと同時だった。
 仁王は銀縁眼鏡を放ると、その手で髪をかき回す。
 私は息を飲んだ。
 14番目の月に照らされる輝く銀色の髪と、淡い色の美しい目、薄い唇。

 
「俺の罪状がいくつだったか、言ってみんしゃい」

 彼はそう言うと、スーツのジャケットを脱ぎ捨てた。
 ジャケットだけではない。
 シュルッとネクタイを外しシャツもはだけ、意外なくらいに白い肌と、細身でいながら筋肉質な胸板を私の前にさらした。
「ちょっと、何してるの!」
 思わず叫ぶ私の前で、彼はクククと笑い、彼の顔と月が重なる。
 仁王の右手が私を抱え込み、薄い唇が私のそれにかぶさった。ひんやりとした外見とうらはらの、熱い舌の感触。
 今の任務についたばかりの時のことを思い出す。
 担当になる前は、彼の暗躍を痛快だと思ったりしたこともあったっけ。
 あまりの衝撃に、なぜかそんなことが思い出された。
 それでいながら、私は必死に彼の髪や頬に触れる。今私に口付けている彼は、仁王雅治の素顔なのかどうかを確認するために。
 尻尾のようにしゅるりと長いその銀色の髪を引っ張ると、彼は私から身体を離した。

「で、罪状は?」

「……今の公然わいせつ罪で、三桁目よ」
 背中を支えられながらそう言うと、彼はまたクククと笑った。
「せっかくお近づきのプレゼントを贈ったんじゃ。ワタシのハートを盗んだ罪、くらい言ってほしかったナリ」
 そんな事を言い放ち、彼はいつのまにか全身にまとっていたむささびのようなフライングスーツのジッパーを引き上げた。
 まずい、と思った瞬間、彼の唇が私の耳元をかすめる。
 そして、銀色の鳥は月夜に飛び立った。

 あっけに取られている私を、一瞬振り返った顔はまるで少年のよう。
 私が動けないでいる理由は、みっつ。
 耳元で彼が囁いていったコード番号は、今私の部署の別チームが総出でかかっている難事件の番号。そして、彼が舌で私の口の中に押し込んでいった小さなものは、マイクロフィルムだった。
 みっつめの理由?
 それは、特捜班チーフとして、言葉にすることはできない。
 仁王雅治。
次こそは、慌てた顔を見てやるんだから。




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