● 真田くんのキャッシュカード  ●

 バレンタインデーにチョコレートを受け取ってくれた真田くんと、その後どうしているかって?
 はい、何も変わっていません。
 交わす会話は、委員会の事、授業の進行具合の事。
 真田くんは遅くまで部活があるから、一緒に帰るなんてこともありえないし。
 あの日、チョコレートを受け取ってくれた時、「これって、私たち、つきあうってこと……よね?」みたいに感じたことはすでに過去の幻のよう。
 
 この日の朝は、ちょうど部活が終わってから教室に向かう真田くんの後姿を見かけた。ふいに彼が振り返り、私と目が合うと彼は足を止めてくれる。どきりとする。
 バレンタインより前だったら。こういう時、「遅れずに教室行けよ」とだけ言って、自分はずかずかとそのまま歩いていったと思う。
「真田くん、おはよ」
 私が駆け寄ると、彼はバッグから手帳を出した。
「確認しておきたいのだが、次の委員会は来週の木曜日だったか? 日程変更をするしないなど話し合っていたと思うが、結局結論はどうなんだ。俺は日程決めの時には中座させてもらったのでな」
「……ああ、結局木曜日のままだよ」
「そうか、変更はなしだな」
 手帳を取り出すものだから、何かどこかへでかける話でもしてくれるのかと思った……。
 真田くんがバッグに手帳をしまおうとすると、するりと手帳が落ちてしまう。
「あっ」
 落ちた手帳からは、何か書をしたためた半紙を畳んだものや、柳くんの手によるものらしき達筆な筆跡のメモなどが散らばる。
「いかん、俺としたことが」
 彼はあわててそれを拾い集めるので、私もかがんで手伝った。
 普段立っている時はあまりに身長差があるので、彼の顔を見上げるばかりだけれど、こうしてかがんで見ると真田くんの男の子らしい顔が近くて、ちょっとどきどきしてしまう。
「はい」廊下に落ちた折りたたんだ半紙を渡す。「すまないな」そういって受け取る彼と目が合う。それは一瞬で、真田くんはすぐに目をそらして立ち上がった。
「そろそろ始業時間だ。遅れないように教室へ行けよ」
 それだけを言うと、いつものようにずかずかと歩いていった。
 私は大きなため息。
 あの日のすべては私の夢だったのかも……。
 立ち上がろうとすると、足元に1枚のカードが落ちていた。
 それは「サナダ ゲンイチロウ」と印字されている銀行のキャッシュカードだった。
 真田くん、大変な落し物!
 あわててそれを手にして後を追おうとしても、彼の姿はなかったしもう始業時間だ。

 その日は昼休みに真田くんの教室に行っても、多忙な彼は在席していなかったし、とにかくこういう時に限って会えないものだよね。
 あっという間に終業時間になって、あわてて真田くんを探してまわった。だって、キャッシュカードなくしたと気づいたら困ってるだろう。
 渡り廊下を抜けようとしていると、柳くんがいた。
「柳くん、ちょうどよかった!」
 彼を呼び止める。柳くんは穏やかな表情で私を見て、足を止めてくれた。
「どうした」
「あのね、これ、真田くんの落し物なの。大事なものだし、部活で会ったら渡しておいてくれない」
 私が差し出すキャッシュカードを見て、柳くんはフと笑う。
「確かに大事なものだな。大事なものだけに、軽率に預かることはできない。自分の手で返却したらどうだ」
「えっ、でももう部活始まっちゃうでしょ?」
「弦一郎にはお前が何か用があり、待っているらしいと伝えておく。一緒に帰ったらどうだ」
 柳くんなりの配慮かな? うーん、柳くんらしい。でも預かって返してくれると嬉しいだけどなあ。
 まあそれでもいいや、図書館で待っていると伝えてもらうことにした。

 図書館で真田くんの部活が終わるのを待ちながら、真田くんの銀行のカードをじっと見た。真田くんはお小遣いをきちんと貯金するって聞いてたけれど、勝手に古風な貯金箱をイメージしてたから、少しだけ可笑しい。そりゃキャッシュカードくらい使うよね。
 きっとお年玉とかちゃーんと貯金してるんだろうなあ。

 そんな事を考えつつ本を読んだり宿題をやったりしていたら、背後から私の名を呼ぶ声。
 振り返るとテニスバッグを背負った真田くん。「待たせたな」と言って静かに図書館を出て行くので、私もあわてて荷物をまとめて後を追った。

「真田くん、今朝これを落としたでしょう。大切なものだし、早く渡さなきゃと思ったの。でも、今日なかなか会えなくて」

 正門に向かって歩きながら私がキャッシュカードを差し出すと、真田くんは目を丸くしてから眉間にぎゅっと皺をよせる。
「……お前が拾っていてくれたのか……! 先ほど部室を出る時になくした事に気づき、これは大変なことになったと思っていたところなのだ。すまない、助かった」
 彼は恭しく受け取り、私に深く頭を下げた。
「あ、ううん、そんな」
 律儀な彼に、私は少々慌ててしまう。
「……時に……俺がこれを持ち出していた事は他言無用で願いたい」
「は……?」
 真田くんの言う意味がわからなくて、私は一瞬ぽかんとしてしまう。
「え? いや、誰に言うとか、別にそういう事ってないけど……」
 あっ、でも今日、柳くんには見せたから……と言いかけたら、真田くんは続けた。
「例えば柳などにも、言ってくれるなよ」
 びくぅっとして言葉を飲み込んだ。
「い……言わないけど、あの、どうして?」
 キャッシュカードに一体どんな秘密が隠されているの?
「……うちの親に伝わっては困るからだ」
 なんと意外な言葉に私は心臓が跳ねる。
「えっ、どうして?」
「家では俺は基本自分でキャッシュカードは使わないことになっていてな、貯金する分は親に渡し、親がキャッシュカードで入金する。もちろん自分で使うこともあるが、新しくテニスシューズを買うなど使途を明確に伝えてからキャッシュカードを持ち出し、引きおろすのだ」
「へえ!」
 さすがきっちりした自己管理。
「今回は、少々まとまった現金が必要なのだが使途を伝えずに持ち出したのでな……」
 真田くんは言いにくそうにうつむいた。
「へえ……って、真田くん!」
 それって! まさか!
「真田くん、もしや大変なことに巻き込まれたの? 真田くんがカツアゲされるとは思えないから、何か振り込め詐欺だとか……? それこそ、ちゃんとご両親に相談した方がいいんじゃない?」
 私が勢い余って言うと、真田くんはネクタイを軽くゆるめて大きく呼吸をした。
「……い、いや、そのようなことではない心配するな」
「だって、まとまった現金って……ただごとじゃないんでしょう?」
「本当に心配してもらうようなことではない」
「でも! もしかしたら警察にも相談した方がいいんじゃない? 私も一緒に行くから! でも、やっぱりご家族じゃないかな。絶対に相談した方がいいよ!」
彼は黒いキャップのつばをきゅっと下げた。
「警察に行くような事ではない!」
 大きな声でピシリと言うので、私はびくっと息を呑む。
「……手持ちに少々足りなかったので千円ばかりを引きおろしたかっただけだ」
「あっ、千円……」
 だったら巨悪に巻き込まれたとかではなさそうか。私はほうっと胸をなでおろす。
「雑貨の店で良いものを見つけたのだ」
「あ、そっか、欲しいものがあっただけなのね? なんかびっくりして心配になっちゃって、ごめんなさい……」
 思わずふうーっと息をつくと、真田くんがじっと私を見ている。
「すまないな、心配をかけて……。その、あれだ。お前が以前に言っていただろう、3月14日にはお返しをするものだと」
「は?」
「お前が好むのではないか、というものがあったのでな」
 私の頭の中を、「振り込め詐欺」モードから転換させることに少々時間がかかった。
「えっ……あ……」
 顔がかーっと熱くなってしまう。
「……楽しみにしておけ」
「あ、うん……。カード、もう落とさないようにしてね」
 私が言うと、真田くんはじっとカードを見つめた。
「ああ、なくさぬよう大切にしまっておく。いずれ、お前に預けるようになるかもしれないからな」
「いやいや、ちゃんとお父さんお母さんに預けてよ……」
 と言って彼の顔を見上げると、真田くんの顔が柄にもなく赤い。
「って、ちょっと待ってちょっと待って、真田くん、今の……」
 彼はカードを手帳にはさんでバッグにしまうと、キャップを目深に被りなおす。
「すまん、今のは忘れてくれ」
 ちょっと、真田くん! 早足に私の前を歩く彼は、それでも絶対に私が追いつける早さで歩き続けた。

-Powered by HTML DWARF-