モクジ

● さいしょのおねがい  ●

 8月も終わりがけの暑い日、私はなんばウォークで待ち合わせ。
 なんと、銀さんと初めてのデートなのだ。

 一昨日、東京での全国大会から帰ってきた銀さんを新大阪でお迎えして、びっくり仰天した。
 だって、腕を骨折してるんだよ!
 テニスの試合でどーして!
 びっくりして心配で、わーわー大騒ぎする私を、銀さんは落ち着いてなだめながら、こう言ってくれたのだ。
『試合もひと段落したし、ワシも8月中は休憩や。はん、どこか行きたいとこはあるか』
 銀さんがそんな事を言ってくれるなんて、ちょっと意外でそして最高に嬉しくて、私はとっさに『奈良公園』って口にした。
 その待ち合わせが、今日。
 なんばウォークを、待ち合わせ場所のクジラにむかって歩く。まだ早いかなーなんて思った次の瞬間、私は息を飲んだ。
 銀さんは既に到着していて、早っ!て思ったけど、ちょっと驚いたのは、そのことじゃない。
 クジラの尻尾のあたりでたたずんでいる銀さんは、和服姿だったのだ。
「銀さん!」
 私はあわてて駆け寄って彼に声をかけた。
 彼は振り返って、私を見下ろしふわりと微笑んだ。
「なんや、はん。ワシは早く来すぎたくらいやと思うとったけど、はんも早かったんやな」
「あ、うん、だって楽しみやってんもん……」
 私はちらちらと銀さんの姿を見る。
 涼しげな藍色の一重の着物に、雪駄。いかにも着慣れた感じで、とても似合っていて、その……すっごくかっこよかったの!!
 私の視線に気づいたのか、銀さんは少々照れくさそうに眉間にしわを寄せてみせる。
「ああ、これか。左手を固定しとるさかい、普通のシャツやと袖が通りにくてな」
 銀さんは、左手を軽くあげて見せた。
 そっか! 左手、怪我でギプス固定だったもんね。確かに、こうやって着物だと目立ちにくいし、着やすいのね。
 私は感心してしまう。
「……着物、よく着るん? よぉ似合ってるやん」
 ついついそう言うと、彼は照れくさそうに一瞬うつむいた。
「まあそうやな。嫌いではないで。ほな、電車乗ろか」
 私はいつもどおり、彼の右側を歩く。私はいつも彼と学校帰りに会うときは、自転車を押しているから。
 となりを歩きながら、そっと着物の袖に触れてみた。さらりとした手触りのいい、麻の一重。きりりといい腰の位置に帯をしめていて、本当に素敵。
 ぼーっと見とれていたら、「はい、切符」と近鉄奈良駅までの切符を買って渡してくれた。
「あ、あ、おおきに!」
 やだ、どうして私、こんなに落ち着かない。
 電車に乗って、ガラスに映る私たちを見ても、ドキドキしてしまう。
 私も一応頑張って選んだ夏のワンピを着てて、まあそれなりだとは思うけど、電車の窓ガラスに映る凛とした立ち姿の銀さん、ほんとかっこいいよ。
 これ、うちの彼氏やねんで!
 そう思っただけで、嬉しくてわくわくしてドキドキしてしまう。
 ね?
 と彼を見上げると、落ち着いた穏やかな表情で車窓からの景色を眺めている。
 その表情が、また素敵だった。
 思えば、銀さんと知り合ってからのつきあいは、1年以上。
 おしゃべりをしたり、一緒に歩いたりしたことなんて、もう数えきれないくらい。
 けれど今年の夏前に、ちゃんとつきあうようになってからは、意外に二人で過ごす機会がなかった。
 だって銀さんは、テニスの試合で忙しかったから。全国大会の出場も決まったし。
 だから私たち、お互いに「好き」って気持ちはなんとなく確認しあったものの、こうやっていかにもデートっていう感じで二人で会うのは、実は初めて。
 当然、私たちは手をつないだことも、キスをしたこともない。
 ふとそんなことを思いながら、また銀さんを見上げると、今度は眼が合った。
「うん? どうかしたか、はん」
 彼の低い落ち着いた声。私は思わず顔が熱くなった。
「えっ? あ、ううん、なんでもないで。ちょと暑いなって思っただけ」
 顔が赤くなってそうで、とっさにそんなことを口走る。
「ああ、そやな。そこは陽があたるやろ、ワシ、気が利かへんかったな」
 銀さんは、すっと身体を入れ替えて、私を彼の大きな身体の陰になるように立ってくれた。
「あっ、ちゃうちゃう、別にそういう意味で言うたんとちゃうよ」
 私があわてて言うと、彼はフと微笑むだけ。
 はー、銀さんはほんと素敵。
 私が今まで好きなった、どの人よりも。
 私は落ち着きがないから、1回目のデートで恋に破れるなんてことはもう数えきれないくらい。
 銀さんとは、絶対にそんなのはいや。
 私、銀さんと手をつなぎたいなーとか思うけど、銀さんにだけは絶対ガツガツしない!
 そもそも手をつなごうにも、銀さん、片手は骨折してるしね……。
 それなのに、こうやって一緒にお出かけしてくれるんだもの、それだけで十分。
 私は銀さんの着物の袖のほんの端っこを、ぎゅっと握った。
 


 電車で近鉄奈良駅に着いて、東の方へ歩く。
 別に興福寺を見ようとか、そういうことはまったく決めてなくて、なんとなく鹿を見ながら銀さんと一緒に歩きたいなーって思ったから。
 それにしても、暑いな。
 こんな暑いデートに誘って、銀さん怒ってないかしら、と隣を見上げると、結構楽しそうな顔。
 歩いてると、銀さんはさっそく観光客から道を尋ねられること3回。
 地元のお坊さんにでも見えるんかなー。『ワシも地元ではないもので……』と申し訳なさそうに答える銀さんの隣で、笑いをこらえるのが大変だった。確かに、大阪の中学生だとは誰も思わないだろうな。
「奈良は久しぶりやな。大阪に住むようになった時に、一度来ただけや」
「うちも久しぶり! 中一の時に家族で来て以来やわー。なあなあ、鹿せんべい買お!」
 私は、国立博物館のあたりで、まず鹿せんべいを買う。
 十字に紙のテープでしめられているせんべいの束を、上下から両手でつかんでくるりとスライドさせ、ふたつに分けた。
「ハイ」
 半分を銀さんに渡す。
 鹿も夏バテ気味なのか、春先のガツガツした感じとは違って、日陰からこちらを伺ってる。
 せんべいを持って日陰にいる牝鹿たちの群れに行くと、おっ、という感じで群がって来た。
「ほら、銀さん! 来たで来たで!」
 鹿せんべいはあっという間に食べ尽くされた。
 子供の頃から、鹿にせんべいをあげるのは大好きで、いつも弟とせんべいを半分ずつだったのが不満だった。一しめ、ぜーんぶ自分で鹿にあげたいのに!って思って。
 でも、こうやって銀さんと半分ずつして、わいわい言いながらっていうの、本当に楽しい。半分ずつだけど、楽しさは二倍。あ、今、うち、めっさええこと言うた!
「な! 銀さん!」
 思わず、銀さんに相づちを求めてしまう。
「え? あ、はん、何か言うたんか? スマン……!」
 当然私の心の声など聞こえるはずのない銀さんは、おたおたする。
 私ってば、浮かれすぎや。
「あっ、ごめんごめん、今な、『めっさ楽しいなー』って思っとってん!それで、つい」
 あわてて言うと、銀さんはほっとしたように、そして嬉しそうに笑った。
「ワシもやで。はんと、こうして過ごすんは、楽しいな」
 銀さんてば、なんてストレートな嬉しい言葉。
 私たちはそのまま歩いて、興福寺の傍を通り抜け、五重塔を横目で見ながら階段を降りて、猿沢池のほとりへ行った。今度は池の亀が面白くって、亀のエサを買って二人でしゃがみ込んで、亀をガン見した。必死で岩に登ろうとする小さい亀を応援したり。
 なんてことをしていると、さすがに暑くなってくる。
 ちょうど昼時だし、商店街の方へ歩いて古い茶屋に入った。冷やしたぬきと、かき氷のセットを頼む。
「はー、暑かったね。銀さん、大丈夫?」
「ワシは、いつもトレーニングで慣れとるさかい。はんの方こそ、平気か?」
「うちは、遊びになったら元気だから大丈夫! いっつも自転車通学だし!」
 ちょっとバテ気味だけど、銀さんといれば平気。
 かき氷をがつがつと食べて、身体を冷やす。
 向かい合って、私と同じくかき氷食べる銀さんをあらためてじっと見る。
「銀さんて、左利きやんね? お箸は右なん?」
「利き手は左やけど、たいがいのことは右でもできるで」
「へえー、さすがスポーツマンやなあ」
 銀さんは本当に隙がない。しっかりしてる。
 私は今までずっと年上の男の人ばかり好きになって、まあ単に『年上ならカッコイイはず、頼れるはず』っていうアホみたいな単純な気持ちだったんだけど、銀さんは年下なのに、今まで出会ったどんな人より落ち着いててかっこいい。まあ、銀さんのかっこよさっていうのは、今まで私が思ってた「カッコイイ男の子」っていうのとは、ちょっと傾向は違うけどね。
 それにしても、こんなにどっしりと落ち着いててチャラくない、年下だけど大人な銀さんと、私は一体いつになったら手をつないだりできるだろう。
 今日も鹿や亀を見ながら、二人並んで歩くだけ。
 つきあうようになってからだって、いつも私は自転車通学で自転車を押しながら一緒に歩くことばかりだから、そういえば本当に手をつなぐチャンスってなかったんだよね。
 あー、ほら、私ってば、こういうガツガツしたことは考えないって決めたのに!
 銀さんはきっと、私が何気なく手をつないだら、やさしく握り返してくれるだろう。
 でも私は、銀さんが私の手を握ってくれるのを、待ちたいの。
 銀さんには今までの私の恋の歴史を全部知られてるから、やっぱりガツガツした女だ、なんて思われたくないもん。
 うどんとかき氷を食べ終えて店を出て、私たちは近くの土産物屋に入った。特にお土産なんか買うわけもないんだけど、こういうの見るの、なんとなく楽しいじゃない。そして、銀さんが土産物屋さんで店員さんと間違われてるのを遠巻きに見て、『その人、着物も似合ててかっこええやろ。うちの彼氏やねんで』なんて思ってニヤニヤしたり。
 店員に間違われすぎて辟易したのか、銀さんは焼き物なんかを見るのをやめて私の傍へやってきた。
はん、何かええものあったか」
「うん? まあ、いろいろ面白いなあ。お土産買う気なんてないし、見てるだけやけど」
「……何か欲しいモンあったら、買うたるさかい」
 彼は少しうつむきながら、照れたようにぼそっと言うのだった。
 私は頭の中が、パーンとはじけたようになる。
 えっ、それって、銀さんが私にプレゼントを買ってくれるってこと!?
 胸がぎゅーっと熱くなって、涙が出そうになった。
 私が見ていたコーナーはせんとくんグッズ売り場で、私はとっさにせんとくんのストラップを手にした。
「あ、あの、せやったら、これ、欲しい!」
 私がさしだした、それを見て銀さんは妙な顔をする。
「……はんは、これ、好きなんか?」
「あ、うん、せっかく銀さんと奈良に来たんやし」
 実はそう深く考えて選んだものでもないんだけど、手軽な値段で、いつも身につけていられるものが欲しかったから。
 お土産屋さんを出て、私はさっそくそのストラップをケースから出して見る。
 銀さんからの初めてのプレゼント、喜びもひとしお!
「ほら、これな、こうしとけば」
 私はストラップのチャーム部分を外して、チョーカーのチェーンにひっかけた。
「ずっと身につけてられるやろ」
 今日のチョーカーのチャームのピンクの石と、ピースをしたせんとくんがマッチしてるかどうかは別として、私はご満悦。
「う……うむ、そうやな……よぉ似合てるで」
 銀さんは少し困ったように照れたように言う。せんとくんが似合うってのもどうなのかと思うけど、銀さんのこういうところ大好き。
「ありがとうな、ずーっと大事にする」
 私は心の底から、言った。
 私、この銀さんから買ってもらったせんとくんは、一生離さない、大事にする。
 銀さんの顔がこころなし、赤くなる。
 私たちはもう一度奈良公園を歩き、今度は春日大社の方へ向かう。
 ふたたび、鹿せんべいを買った。
「……なあ、銀さん」
「なんや?」
 大人しい小柄な牝鹿にせんべいをやりながら、銀さんの左手をちらりと見た。
 ずっと気になってたのに、話題にできなかったこと。
「……全国大会、ベスト4やって? 白石くんが言うてたけど」
「ああ、せや」
 銀さんは静かに答える。
「普通、ベスト4って聞くと『へー、すごいやん』って思うけど、銀さんに、ベスト4おめでとうって言ってええのか、よぉわからんかってん。だから、一昨日、駅に迎えに行って会うた時、本当はもっとちゃんと何か言いたかってんけど、何も言えんかってごめんな。うち、銀さんのテニスどうしてんねやろって、ちゃんと気にしてんねんで。詳しくないから、何を聞いたらええのかわからんだけで」
 私は、一生懸命、話す。
 銀さんは目を丸くして、私をじっと見ていた。
「……あんな、うち、ずーっと自分ばかり銀さんにいろいろしゃべっとったやん。銀さんはいつも何でも聞いてくれて。そういうのん、めっさ嬉しかってん。だから、これからは銀さんも、うちにいろいろ話してくれたらええなーって思てるよ」
 銀さんは、手に持った鹿せんべいの束を丸ごと牝鹿にかじられていたけど、じっと私を見てそのまま。
はん……」
 鹿せんべいの粉をはらって、彼は大きく息を吸った。
「……ベスト4な。もちろん、ワシは悔しいんや。自分が極めたと思た、パワー勝負でこのザマやしな」
 左手を軽く上げてみせた。
 銀さんから、『悔しい』なんて言葉を聞くことが意外て、そして新鮮だった。
 銀さんに、少し近づいたような。
「今度は、『勝ったで』と、はんに話したい」
 また胸がぎゅっと熱くなった。鹿せんべいを持っていない方の手で、胸元にぶらさがってるせんとくんを握りしめた。
「うん、いろいろ、話してな。うち、銀さんの話、いろいろ聞きたい」
 彼はしっかりとうなずいた。
 こころが、近づいた気がする。
 そうだよね、手をつないだりとか、キスをしたりだとか。
 その前に、こういう気持ち。近づいたんだって気持ち。
 きっと、そういうのが大事。
 銀さんと笑い合って、最後の鹿せんべいを手にしていると、ふと牝鹿の集まりから離れた木のところに、一頭の牡鹿がいるのが見えた。
 まだ切られていない角が見事で、まるで金色に光ってるみたい。角がいくつかに分かれていたから、ある程度歳を重ねた鹿みたいだけど、若々しく締まったきれいな身体をして、優しい目をしていた。
「うわー、きれいな牡鹿やなあ。あの子に、鹿せんべいあげたい!」
 私はその牡鹿に近づいて行った。
はん、この時期の牡鹿は気ぃ荒いんと違うか」
「まだ秋ちゃうし、大丈夫やって」
 私はそうっとそのきれいな牡鹿に近づいて、鹿せんべいをちらつかせてみた。
 その鹿は、鼻先でちょっと匂いをかぐと、すっと離れて行く。なんて奥ゆかしい牡鹿!
 一歩一歩とその鹿を追って、私は木々の奥に入って行く。
「ほら、食べてええねんで」
 ぐい、と差し出すと、ようやくその鹿はせんべいを食べてくれた。
 ほんと、きれいな鹿だなー。しかも、大人しい。
 食べ終わった牡鹿は、もうないのか、とばかりに軽く首をふって私を見上げた。
「ごめんなー、さっきので最後の一枚やねん」
 金色に見えた角が自慢げに私の目の前に来るものだから、私はそうっとその角をなでた。
 危ないかもしれないとわかっているのに、どうしても触れたくなってしまったのだ。
 ざらり、としたその角はすこし熱いような気がした。
 その瞬間。
 私は激しいめまいに見舞われる。
 視界がぐにゃりと歪んで、バランス感覚が失われた。
 熱中症? 倒れてしまう?
 と思いきや、すぐに私の焦点は定まった。
 しゃがみこんでしまったようで、ゆっくり立ち上がろうとするけど、なぜか立ち上がれない。
「無理すんな、慣れるまで少しかかるぜ」
 はっと顔を上げると、私の目の前には、漆黒の髪に切れ長の目をしたものすごい美少年がいた。白装束に、高下駄を履いている。
「俺様の傍にいた方がいい」
 自信満々な笑顔で言うものだから、私もドン引き。何やの、この子。
「あ、うち、彼と来てんねん。自分、何なん」
「俺か? 人は俺を神と呼ぶ」
 うわ、すごいイケメンだけど、完璧おかしい人や。
 私はさっさと銀さんのところへ戻ろうとした。
「待てよ。お前、自分がどうなってんのか、わかんねーか」
 背後からの彼の声に、私は自分の手を見ようとしたけれど、うまくその動きができない。
 自分の足下を見ると、地面が妙に近かった。
 私って、こんなに背が低かったっけ?
 立ち止まって、もういちど男の子の方を見た。
 私と目が合うと、彼はその完璧な形の唇の端をかるく上げて笑い、そして次の瞬間。
 彼は私が追って来た牡鹿の姿になった。
「お前は、今、牝鹿なんだよ」
 えっ? 
 私の足下は、今日履いて来たパールホワイトのミュールじゃなくて、蹄。
 ぐるりと首をまわしてみる。
 自分で自分の姿は上手く見えないけれど、彼が言うとおり確かに私の身体は鹿のようだ。
 めまいがしそう。
「……ちょ、ちょっとどないなってん……?」
 目の前の牡鹿は、また美少年の姿になった。
「お前も奈良に遊びに来てんだったら、鹿は神の化身だって知ってんだろ」
「……そりゃ、知ってるけど、まず、これどういうことやの? 確かに奈良の鹿は神の使いやって言うけど、うち、関係ないやん!」
 彼はくっくっと笑う。
「お前は運がいいのか悪いのか。俺様はちょうどこの時期、女を探しに来る頃でね。そんな俺の前に、恋をしている牝の匂いをプンプンさせたいい女が現れたら、モノにしないでいられるわけがないだろう。俺は神なんだから」
「はあっ、なんやねん、それ!」
 私は心臓がどきどきして何も考えられないんだけど、とりあえず何かリアクションをしておかないと気を失ってしまいそう。
「俺は神だから、女なんか選びたい放題さ。奈良の春日大社の牝鹿どもは良い女ぞろいだから、物色に来たんだが、たまには人間から選ぶのも悪くないと思ったってわけだ」
 ってわけだ、って言われても!
「そ、そんなの、いつもどおり牝鹿から選びや! よーさん可愛い子いてるやん!」
 とりあえず私は必死に言ってみる。
「俺は神なんだぜ? 一度欲しいと思ったものは手に入れる。それにお前が、あんなことをして俺をその気にさせるからだ」
 彼は私に近寄って、その手で私の顎をさすった。
「は? あんなことって?」
 あわてて後ずさりながら言う。
「俺様の角を触っただろう? 鹿の角には血管が通ってて、なでられると結構感じるんだぜ?」
 ちょっとセクシーに笑う。
「ちょっ……そんなこと、知らんかってんもん! いやらしい言い方せんといてよ!」
 あわてて大声で言った。
「知らなかったではすまねーよ。とにかくお前は、俺のモノになるしかない。周りを見てみろ」
 言われたとおり、周囲を見ると、さっきまで私が鹿せんべいをあげていた牝鹿の群れ。
 さっきまでかわいい牝鹿たちだったのに、殺気立った目で私を見ている。
「春日大社の牝鹿どもは、どうやって俺様に選ばれるかで必死さ。今年、俺様に選ばれたお前は、俺様の庇護を受けていない限り、あの牝鹿どもに恨まれていじめたおされるだろうよ」
 私は震え上がった。
「まあ、もうじき発情期になれば、あいつらも他の牡鹿を見つけて大人しくなるだろうけどな」
 ほっと胸をなでおろす。
 が、発情期、という言葉がひっかかった。
「……あの、言うとくけど、うちは鹿とちゃうから、秋になっても発情期にはならへんで」
 彼は私にその顔を近づけて、その整った顔でニカッと笑う。
「ばーか、人間は年中発情期だろ。俺がその気にさせてやるよ。お前は俺様と交尾をして、来年の初夏には俺様の子を産むんだ」
 私はその横っ面をはり倒してやりたくて、でも上手くできなくて、蹄で地団駄を踏む。
「ヘンタイ! 言うたやろ、うち、彼と来てんねん! 銀さん以外の男なんて、絶対いややから!」
 彼は声高らかに笑う。
「でも、お前、鹿になっちまったんだぜ? あの一緒にいた坊主頭の男がお前の恋人か。あいつはもうお前を見つけることはできまい」
「……元に戻してよ!」
「いやなこった」
 自称神様の美少年は、笑いながら鹿の姿に戻った。
 
はーん、どこいった?」

 その時、銀さんの声が聞こえた。
 銀さんが私を探しに来てくれたんだ!

「銀さん!」

 そう叫んだはずの私の言葉は、みぃー、という感じのなんともこころもとない声しか出ない。どうやら鹿の鳴き声のようだ。
 彼の傍にかけよった私を、銀さんは困ったように一瞥するだけ。
「あ、すまんな、もう鹿せんべいはないんや」
 銀さんはそれだけを言うと、小走りで去って行った。

「ほらな」
 鹿の姿のままの彼は、嬉しそうに言う。
「あいつはもうお前を見つけられない。お前のことを知ってるのは、この世界で俺様だけなんだよ。俺にだけ愛されていれば、それでいいんだ」
 彼の言葉が響いた。
 確かに、こんな牝鹿になった私に銀さんが気づいてくれることは、まずない。
 私は鹿になったままで、この、神様だという鹿と交尾するしかないの?
 絶対にいや!
 私は走り出した。
 さすが鹿だけあって、身体は軽い。
 まだ、銀さんと手をつないでもないしキスもしてないのに、どうして見ず知らずの神様と交尾しないといけないの。
 だったら、奈良県を脱出して大阪府まで走って行って、有害鳥獣として捕獲される方がマシ!
「ばかやろう、やけをおこすな!」
 当然私より足の速い彼が、私の前に回り込んだ。
「道路に出て車にでも轢かれたらどうするんだ。奈良では鹿を轢いたら、罰せられるんだぜ。奈良市民と観光客の皆様に迷惑をかけるな」
 なんで、こんな時ばかり神様っぽいまともなこというの。
 足を止めた私はうなだれた。
 はーん、と私の名を呼んで探しまわる銀さんの声がまた聞こえる。
 銀さん、私はここだよ!
 顔を上げて、みぃー、と慣れない身体で必死に声を出した。
 顔を上げた先には銀さんがいて、ふと足を止めた。
 ゆっくりと私の方へ歩いて来る。
 せめて、銀さんの姿を目に焼き付けておこう、とじっと見ていると彼は私の前で足を止めた。
 彼の手が、私の首もとに近づく。
「……なあ、ワシは大事な人を探しとる。お前、これ、どないしたんや?」
 銀さんが私の首からつまんで持ち上げるのは、ピンクの石とせんとくんのチャーム。
 鹿になっても、これだけは首にかかってたんだ!
「お前、これどこかで拾ったんか? それとも、誰かがお前の首にかけたんか? この持ち主は、これを大事にする言うてくれてはったから、手放すはずはないんや……」
 彼は必死な目で私を見る。
 銀さん、私だよ! 私! ……わかるはずないけど……。
はん?」
 銀さんの声は、確かに私の名を呼んだ。私に向かって。
「お前……はんか?」
 私は必死に首を縦に振った。
 鹿せんべいをおねだりしてるみたいにしか見えないけど、そうじゃないの、わかって銀さん!
「やっぱり、はんやな?」
 銀さんの手が、私の頭の上にやさしく載せられた。
 涙が出そう。


 私と銀さんはとりあえず木陰に腰を下ろした。
 銀さんが私を見つけてくれたはいいけれど、とにかく私は鹿だ。
 四天宝寺の寮に連れて行ってもらうわけにはいかない。
「何がおこったかわからんが、どうしたものかな」
 銀さんは困ったようにつぶやいた。それでも、銀さんの声を聞くと私は少し落ち着いた。
 そんな私たちの傍に、くだんの牡鹿が近づいてくる。
「ほう、そいつはお前のことを見つけたか」
 私はキッと奴を睨みつける。
「銀さんをなめんといてや! ほんまにええ男やねんから!」
 言うと、彼は美少年の姿になった。
「なんだと! どう見ても、俺様の方が大人でいい男だろ! 春日大社中の牝鹿が俺様にメロメロなんだぜ! そもそも神なんだ、俺は!」
「せやったら、他の牝鹿をモノにしたらええやんか! よりどりみどりやろ! だいたい神や神や言うけど、奈良の鹿は神の使いって学校で習ったで! 使いやろ!」
「神鹿って言われてるだろ! だいたい俺様は鹿なんじゃなくて、鹿に姿をやつしている神なんだよ、わからない女だな!」
 私たちが言い合ってると、銀さんが顔を上げた。
 銀さんと、神様の目が合う。
「……お前、はんが最後のせんべいを食べさせた、あの時の牡鹿やな。確かに近くで見ると、見事な角で美しい鹿や」
 銀さんには、美少年の姿になった彼も牡鹿に見えているのだろう。
「……お前が、はんに何かしたんやな?」
 そして、銀さんは強い目で、強い口調ではっきりと言った。
 美少年の姿になった彼は、一瞬目を丸くしてにやっと笑った。
「ほう、なかなか鋭いじゃねーか」
 彼の言葉は銀さんには聞こえないはずなのに、銀さんは彼から視線を離さなかった。
「どういう事情かわからんが、はんは渡さへんで。ワシの大事な人やからな」
「鹿の姿でもか」
 当然、会話をしているわけではないから、銀さんはそれには何も返さず、木の幹に背中を預け、隣に居る私の背中に手をのせた。まるで私を彼から守ってくれるかのように。
 彼はまた牡鹿の姿になり、私たちが座っている木のとなりに優雅に腰をおろした。
 私は体を起こし、彼の方を見た。
「なあ、お願いや。うち、銀さんが好きやねんし、そもそも人間やもん。元に戻して」
 彼は、フンと鼻で笑う。今は鹿の姿だけど、あのきれいな憎たらしい顔で笑う表情は簡単に目に浮かんだ。
「そりゃ、そいつ次第だ。だから、ここで見物させてもらってる」
「銀さん次第って?」
「お前は本当にばかだな。古今東西、こんな場面で動物にされたやつが元の姿に戻る方法なんざ、決まってるだろ」
 呆れたような口調で、これまた憎たらしく言うのだ。
「……まさか、それって……アレ? 王子様がキスをするっちゅーやつ!?」
 まさかね、と思いながら言ってみると、彼は高笑い。
「まじで!? 神様のくせに、ベタやなー!」
 思わず言うと、彼はフフンとばかにしたように笑う。
「何とでも言うがいい。が、その堅物そうな男が、そのベタな手に思い至るかな?」
 はっ、そうや! 銀さんがそれを思いついてくれないことには、どうにもならない!
「言っておくが、お前からブチューとやってもダメだからな」
「わかっとるわ! ほんっま、アンタ神様のくせにいやらしいことばかり言うねんな! このヘンタイ!」
 それだけ言い捨てると、私はぎゅっと銀さんに体を寄せた。
 銀さんは、私の背中に載せた手でゆっくりなでてくれる。
「……はん、不安やろな。すまん、ワシがついていながら、こんなことになってもうて……。しかし、この銀、はんを一人にはせん。絶対なんとかしたるからな」
 銀さんの手は大きくて優しかった。鹿の毛皮を通しても、その熱が伝わってくる。そういえば、銀さんにこんなに近づいて触れてもらうのって初めてだ。こんな時だけど、ドキドキする。だって、つまり肩を抱かれてそのまま背中を撫でられてるんだよ?
 ああ、このままキスしてくれたら一発解決なんだけど、銀さん!
 私は顔を上げて、念を込めて銀さんを見つめた。
 じっと私を見つめ返す銀さんの顔が近づく。
 もしかして、来る!
「……はん、こういう時こそ、まず般若心経や」
 え……?
 銀さんは、私の前できっちり座りなおし、両の掌を合わせた。
「観自在菩薩行深般若波羅蜜多時……」
 そして、あの低くていいお声で唱え始める。
 当然、道行く人々はもの珍しそうに足を止めるなど。外国人の観光客は、バシバシ写真を撮っていく。
 私は戸惑ってあわててしまうけれど、何しろ私は今は春日大社の鹿だ。何気ないフリをして銀さんの前で座っているしかない。
 般若心経って、どれくらいで終わるんだろ、いや、せっかく銀さんが一生懸命唱えてくれてるのに、そんなこと思っちゃ不謹慎かな、なんて動揺していると、銀さんの堂々たる般若心経っぷりに心動かされたのか、通りすがりのおじいさんが一人、また一人と私の前に並んで銀さんのお経に参加するではないか。
 私がちらりと隣の木陰を見ると、ヤツは美少年の白装束の姿になって、腹を抱えて笑っていた。くっそー、マジむかつく!そうか、ヤツは日本の神様だから、仏教の般若心経なんか響くこともないのか、くっそー。
 銀さんの般若心経が一通り終わって、途中から参加した通りすがりの信心深いおじいさんと銀さんで挨拶を交わして、私たちはまた木にもたれかかって座る。
「やはり般若心経は落ち着くな」
 そして、銀さんは私に優しく笑いかける。私はハラハラしちゃったけど、銀さんが落ち着くんなら、まあいいや。
 それにしても、銀さんとこうして二人でいると、いっつも私がマシンガンのようにおしゃべりしてたから、こんなに私が黙りこくるなんてはじめてのこと。黙りこくるもなにも、口をきけないから仕方ないんだけど。
「……はん、ワシな」
 銀さんは、隣の木の根元にいるアイツから私を守るようにまた背中に手を載せて、静かに話し始めた。
「いつもはんが楽しぃこと話してくれるよって、ついついそれに甘えてしまう。今日もな、難波で会うた時、はんがワシの着物をほめてくれる前にな、はんの方こそ、ワンピースよぉ似合ててほんまキレイやでって言いたかったんや」
 そして、ゆっくりとそんなことを言うのだ。
「……今日だけとちがう。ほんまは、四天の正門で初めて会うた時から、なんちゅうキレイで可愛らしい人やろ思とったんや。……そういうこと、ワシはもっとちゃんと普段からはんに言うとかなあかんかったな」
 一瞬、私は今、自分が鹿で、とかどうでもよくなった。
 銀さんが私に向けて話してくれている言葉。
 銀さんとのデートのために用意した、このワンピース、ちゃんと見ててくれたんだ。
 銀さんは、初めて会った時からちゃんと私のこと見ててくれたんだ。
 私はやっぱり銀さんが大好き。

 その時、ふと遠くに奈良公園の閉演を知らせるアナウンスが響いた。
 そうだ、もうすぐ夜がやって来る!
 銀さんだって、寮に帰らないといけない。
 私はここで一人ですごさないといけないんだ……。
 私がびくりと身体を起こしたことで、その不安が伝わったのだろうか。
 銀さんが私の背中に置いてくれている手に力が入った。
はん、心配するな。ワシはずっと傍におる。この銀、野宿なぞ慣れとる」
 だけど、銀さん! もうすぐ新学期だって始まるんだよ! 中学生が鹿と奈良公園で野宿してたら、補導されちゃう!
はん、まずこれを言うとかなあかんかったな。ワシを信じてくれ。ワシは、はんが好きや。鹿になっても、その気持ちはかわらん」
 私の背中を撫でてくれていた手が、首に移動する。銀さんが買ってくれた、せんとくんのぶらさがっているチョーカーに触れて、そして銀さんは私の首を抱き寄せた。

「ええか、好きやからな」
 銀さんの唇が私の鼻先に触れた。

 その瞬間、地面と空がさかさまになるくらいの激しいめまい。
 目の焦点が定まった時には、私の背中は銀さんの右手に支えられていて、そして確認をしなくても、私は自分が元の姿に戻ったとわかった。
「銀さん!」
 銀さんと目が合ったのはほんの一瞬で、次の瞬間には私は銀さんの腕の中に抱きしめられていた。
「……すまん、はん。片手でしか抱きしめられへんのが、もどかしい」
 きつく抱きしめられながら私は首を横に振った。
「ううん、片手でも十分。銀さん、大好き」
 銀さんは私を抱きしめた腕をほどくと、立ち上がって私に手をさしのべた。
「閉園時間や。帰るで」
「うん」
 私は銀さんの手を握って立ち上がる。
 私たちはそのまま歩き出した。
 数メートル歩いて、銀さんは足を止める。
 くだんの牡鹿は、私たちに興味ないようにちらりと顔を上げるだけ。角はあいかわらず金色に見えるけど、もう何の言葉もその牡鹿からは聞こえない。
 銀さんは軽く頭を下げて、そして私の手を引いてまた歩き続けた。
「……ワシは早いとこ、腕を治さんとあかん」
「うん? そうやね、はよ良うなってな」
はんが、男前の牡鹿についていこうとしたら、力ずくでも止めなあかんからな」
 笑いながらそんなことを言うものだから、手をつないでない方の手で思わず銀さんの太い二の腕を叩いた。
 冗談や、と言いながら彼は頼もしく笑う。

 次はしっかりと、両腕で抱きしめる。

 次なる彼の言葉は思いがけず素敵にキマっていて、私は、つないだ銀さんの手にぎゅっと力が入ってしまう。
 片腕だけで抱きしめられてあれだけドキドキしたのに、両腕だったらどうなってしまうんだろう。
 途方に暮れたりもしたけれど、今日と言う日に感謝かも。
 ふと振り返ったけれど、あの態度の悪い神様はもうそこにはいなかった。
 
2012.8.5  了
モクジ

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