●● 最初の気持ち ●●
『将来の夢は?』
なんて質問に、子供の頃からマトモに答えたことがない。
だって、そんな質問ウザいし、将来なりたいものなんてわかるわけがないって思ってた。
そんな私でも、今ならばその問いに即答できる。
私の将来の夢。
それは、お寿司屋のおかみさん。
私がそんな夢を抱くようになったきっかけは、今年の4月までさかのぼる。
3年生になったばかりの4月の終わり頃、すごく天気のいい土曜日だった。
私はその頃につきあってた彼氏とデートの約束で駅まで行ったのだけど、なんと駅に着いた時点でドタキャンの電話。ディズニーシーに行くって約束で、超はりきってたのに、何それ! って、私はさすがにブチ切れ。だって、そもそもそのデートは彼がちょっと浮気っぽいことをして、それの穴埋めにっていうイベントだったのに、どういうことよ?
仲直りのデートだからって、お姉ちゃんから借りたジルスチュアートのワンピースにパンプスなんて気合い入れたおしゃれをしてきた自分がバカみたい。
これは、もう完璧に終わりってことだって、さすがに思い知らされる。
あまりにムカついたものだから、駅からの帰り道(だって、そこからどこか行き先を変えて一人で遊びに行く気になんてなれない)最初は走ってたんだけど、疲れてきてだんだん単なる早歩きになってきた。そんな時。
「ひゃあっ!」
私は思わず声を上げる。
歩いてたら、足もとに思いきり冷たい水がドバーッとかかったんだもの。
何が起こったのか一瞬わからなかった。
「ああーっ、どうもすいませんっ!」
その必死な声には聞き覚えがあった。
ずうっと地面を睨みつけながら歩いていた私は、ふと顔を上げた。
私の視界に入ったのは、短く刈り上げた髪にモミアゲ、そしてそのしっかりした眉毛をハの字にして思い切り申し訳なさそうな顔をしたクラスメイトだった。
その名前を頭の中で検索した。
河村隆。
同じクラスの、確かテニス部の子だ。
そして、家がお寿司屋さんの。
「どうもすいませんでした! 水を撒いていたもので! お拭きしますので、どうぞ店にお入りください!」
必死に頭を下げる彼に、私はちょっと圧倒されてしまう。
だって、ぺこぺこと頭を下げつつ、本物の寿司職人みたいな白い上下の服を着た彼は、本物の大人のお寿司屋さんみたいで、びっくりしたのだ。
「あ、あの、大丈夫だよ。そんなに頭下げてくれなくてもいいって。同級生じゃん」
ドタキャンへの怒りに比べたら、これくらいどうってことないよ。
そんなことを思いながら、私は思わずそう言った。
すると、彼は頭を上げて、ちょっと驚いたように私をまじまじとみて、はっとした顔をする。
「……ああ!
さんか!」
彼は驚いた顔で私を指差した。
とりあえず私は彼に促されて『かわむらすし』の店内に入った。
店内のお座敷に上がる框のところに腰掛けて、彼が手渡してくれた温かいおしぼりで濡れた足を拭く。
「ごめんごめん、女の子が私服でいると大人っぽくて普段と雰囲気違うしさ、わかんなかったんだ」
彼は戸惑ったように言いながらおしぼりをどんどん持って来てくれる。
よくよく考えると、私と彼は同じクラスであってもそれまで一度も口をきいたことがなかったから、私は彼がそんなことをさらりと言うのにちょっとびっくりしてしまった。
「えー、河村くん、うまいこと言うなー」
私がたいした意味もなくそう言うと、彼はおしぼりを握りしめて立ち止まり、また眉毛をハの字にして、ちょこんと頭を下げる。
「ゴメン、へんな意味で言ったんじゃなくて、ホント、わかんなかったんだよ。女の子って、私服でそうやって髪型もちょっとちがってたりすると、すごく変わるね。俺、そういうの疎いから、勘弁してよ」
ちょっとした私の一言に対して、ひどく真剣で申し訳なさそうな彼。
「いや、別に怒ってるわけじゃないからさ。けど、そんなに普段と違うって言われるのもへこむ。今日の私って、ケバかった?」
はりきっておしゃれしすぎて、化粧も気合い入りすぎてたんだろうか。
思わずそんな風に言うと、彼はおしぼりを握りしめたまま、また困った顔。
「そっ、そんな意味じゃなくて、ぱっと見て、フツーにキレイな女の人だなって思ったんだよ。同級生の子だなんて思わなかった。そりゃ、
さんは普段からキレイだけど、私服だとまた違うだろ? 俺、同級生の女の子の私服なんて滅多に見ないから、見慣れてないんだよ。そんなに言わないでくれよ」
河村くんはそう言うと、握りしめてたおしぼりを私の隣に置いて、カウンターの奥へ入っていった。
男の子から、キレイとか可愛いとか言われるの、私、実はそんなに慣れてないわけじゃないのに、河村くんからこんな風に言われるの、なんだか妙な気分だった。びっくりするっていうか。照れるっていうか。
おしぼりをたたみながらカウンターを眺めてたら、河村くんがてぬぐいを持って出て来た。
「靴」
そして、私に一言。
「え?」
「
さんの靴、さっき水と一緒に地面の土も跳ねただろ? せっかく綺麗な靴だから」
そう言って私の足もとにしゃがみ込むと、脱いで置いてあった靴を手に取った。服とそろえた、サーモンピンクのパンプス。
彼は座り込んだまま、私のパンプスを手ぬぐいできゅっきゅっと拭いてくれるのだ。
私は今度こそ本当にびっくりしてしまう。
だって、同級生の男の子が真剣な顔で足もとにひざまづいて靴を拭いてくれるなんて。
「か、河村くん! いいって、いいって、そんなことまでしてくれなくて! 自分でするって!」
「いや、でも俺のどうしようもない不注意だったから」
彼は全く気にする様子はなく、真剣に私の靴を手にしたまま。
なんか、もう、いくらなんでもこういうの、照れる!
私は自分の顔が熱くなるのを感じた。そして、そんな自分にも戸惑ってしまう。
なんだか視線のやりどころのない私は、店の中をきょろきょろと見渡した。
お品書き、趣味のいい食器、本当に落ち着いたいいお店。
ふと、店のカウンターの傍の大きな花器に生けられている花に目を奪われた。
桃の花?
にしては、珍しい色。一本の枝なのに、白・赤・ピンクの三色の花が咲いてる。
「あっ、あれ、なんかすごいきれいな花だね! なんていう花なの?」
私は、真剣な顔でひざまづいてる河村くんの集中を少しでもそらしたくて、とっさに口にした。
彼はふと顔を上げて立ち上がる。私はちょっとほっとした。
「ああ、これね。これは、親父の知り合いの左官屋さんがくれたんだよ。ハナモモって言うんだ。すごく綺麗だろ? よかったら
さんもちょっと持って行きなよ」
ピカピカにした靴を置いて立ち上がった彼は、手際よくそのハナモモを新聞紙にくるんで私に差し出してくれた。
「あ、ちょっと多かった? って、そもそも邪魔かな?」
差し出しながらもハッとして言う彼から、私はあわててそれを受け取った。
「そんなことない! すっごい綺麗で、嬉しい! ありがとう!」
だって。
その時の私には、もう。
真っ白の服を着た河村くんが、もう、もう、ピカピカの王子様にしか見えなくなってたから。
なんて言うの。
こうしてお店にいる彼は、まるで大人の人みたいで。
お休みの日だからって、こんなちゃらちゃらした格好をして浮かれてた自分が恥ずかしくなってしまうくらいに、彼がまぶしく見えたのだ。
「
さん、そんなに花が好きだったんだ? 喜んでもらえるならよかったよ。いくらでも持っていって」
私の勢いに驚いたのか、河村くんは、はははと笑った。
やけに高いテンションでハナモモを受け取ってしまった私は急に照れくさくなってしまう。
「……河村くんの家がお寿司屋さんっていうのはよく聞いてて、何度も通りがかったことはあったんだけど、そういえば来たことなかったんだよね。初めて入った。結構広い店なんだね」
急に話題を変えようとして、そんなことを話す。ああー、なんか上手くないな。私、どうしちゃったんだろう。
すると河村くんは、またにこっと笑う。
河村くんって、ほんっといい笑顔するんだなー。思わず見とれた。
「じゃあ、今度よかったらお家の人とでも食べに来てよ」
そう言って、もう一度カウンターの方へ振り返り、何かを手に取った。カードのようなものとボールペンだ。
「これ、ウチの店の割引券。これでさ……」
河村くんはボールペンで『有効期限』の日付に線を入れて消して、そして『タカ』と自筆で書き入れた。
「これで俺が書いたってちゃんとわかるから。ここの日付過ぎて使ってもらってもかまわないよ。気が向いた時にでも来て」
そのカードと河村くんを、交互に眺める。
靴を磨いてくれて、お花をくれて、お寿司の割引券くれて、そんなことをぜんっぜん自然にさらりとこなしてしまう王子様に私は圧倒された。
なんてかっこいいの、河村くん!
こんな男の子、初めて。
きらきらの彼の瞳を見上げながら、私は言葉が出なかった。
「おうっ、隆! ちゃんと仕込みはしたか!」
その時、店の戸が開く音と同時に威勢のいい声。
入って来た人が、河村くんのお父さんだっていうのは一目瞭然。だって、なんだか見た目の雰囲気がそっくり。
私がぽかんとしてると、河村くんのお父さんはちょっと驚いた顔で私と河村くんを見比べた。
「って、お客さんかい、隆? すいませんね、まだ開店前で……」
お父さんが少々営業っぽく言うと、河村くんは苦笑いをして手を振った。
「あ、そうじゃなくてさ、俺の同級生だよ。店の前を通りがかった時に水をひっかけちゃって。ちょっと入ってもらってたんだ」
彼がそういと、お父さんは、ああという感じにニカッと笑う。
「なんだ、そうかい。いやあ、えらいベッピンさんだし、花なんか渡しちゃってプロポーズでもしてんのかと思ったぜ」
豪快に笑うお父さんの肩を、河村くんがバシンとたたいた。
「何言ってんだよ、親父! 俺みたいなのが相手にされるわけないだろ。ごめんね、
さん、ウチの親父冗談が好きでさ」
河村くんはそんな風になんでもなくやりすごすというのに。
私は自分の顔がカァッと熱くなるのがわかる。
そんな自分の顔を隠すために、花束をちょっと持ち上げた。
やだ、普段の私だったら、こんな時上手く切り返すことなんて簡単なのに、どうして今はこんな顔を熱くするばかりで何も言えないんだろう。
「あっ、あの、忙しい時に邪魔しちゃってごめん。河村くん、いろいろありがと。お花も、割引券もありがと!」
私は河村くんと河村くんのお父さんに何度か頭を下げてお店を出た。
よかったらちょっと何かつまんでいきなよ、なんてお父さんが言ってくれたけど、そんなの無理。
胸がいっぱいで無理。
なんだかフワフワした感じで家にたどりついて、家では出かけたと思ったらすぐに帰って来た私に、お母さんもお姉ちゃんも驚いてたけど、私はそんなことかまってられない。物置から一番大きな花瓶を出して来て、河村くんからもらったハナモモを生けて自分の部屋に飾った。
真っ白な服でとびきりの笑顔で私に花束をくれた河村くん。
河村くんのお父さんが言ってたみたいに、あれがプロポーズだったら、なんて想像してみて、また自分の顔が熱くなる。
そんなことを何度も考えては、ベッドの上で手足をばたばたさせて。
その日は、そんなバカみたいな一日を過ごしてた。
そんな、四月の日。
*
*********
「もうね、『ズギュウゥゥゥンン!』って感じだったんだよね。あ、ほら、わかる? まさにジョジョに出て来る擬音みたいなさ、ズギュウゥゥゥン!って」
遠い目をしながら過ぎし春の日のことを語る私を、友人はやれやれといったように見つめた。
今は夏休みも終った秋。
「ズギュウゥゥンはいいけどさ。それで、どうなのよ。
は片思いなんかしない主義なんでしょ?」
友人のチヒロはため息をついて手元のふざけたギターを熱心にいじる。なんでも夏休みにいとこからもらったっていう、アンプ内蔵ギターだそうだ。
「いや、だってさー……」
私は困った顔で、ちらりと教室のはるか遠くの席の河村くんを見た。彼は同級生の男の子たちと楽しそうに話してる。
あの衝撃的な春の日の出会いから、私と河村くんの間に何か進展があったかというと、それはまったく何もない。良くも悪くも、なんにもないのだ。
それは私にとって、かなり異例のことだった。
というのは、私はさっき友人が言ったように、基本、片思いってしない方だから。
ちょっといいなあっていう男の子がいたら、まずちょっと話して仲良くなって、ああこれは向こうもいい感じに思ってるってなったらつきあう、どうも脈なさそうってなったらいつまでもウダウダ思い続けたりしない。
そんな感じだったから。
好きな男の子に、話しかけてみたりそれとなく自分の気持ちを示してみたり、そういうことを何もしないで見つめてるだけなんて、ほんと、初めてのことなのだ。
「だって……河村くんには話しかけらんないよ……!」
「何ヶ月そんな事いってんのー! もう、
の片思いって、なんかウザい!」
チヒロはイライラしたように言う。
「いや、私だってわかってる。ウザいよね、片思いって。でも、どうしようもないんだよ!」
思わず机につっぷした。
夏を持ち越した私の恋の病。
もちろん、最初っからこうだったわけじゃない。
4月のあの日、すっかり河村くんに参ってしまった私は、すぐに河村くんって彼女がいるのかどうかなんかもチェックして、とりあえず彼女はいないらしいということは確認。
週が明けて学校へ行って、さっそく
『いろいろありがとうね、お花、部屋にかざったよ』
ってお礼を言った。少しずつ話して、仲良くなれたらいいなーなんて思いながら。ちょっとドキドキして。
そしたら河村くんは、すっごいさわやかに笑って
『そうなんだ、よかった。あの後、親父に言われたんだけど、女の子が午前中からおしゃれして出歩いてるなんて、これからデートだったんじゃないかって。そういえば
さん、モテるだろ? そんな時に花なんか持たせて迷惑じゃなかったか、後で心配だったんだよ』
なんて言うものだから、私はすっごい慌ててしまった。
『ちっ、ちがうよ、ぜんぜんそんなんじゃないから!』
正確には、デートに行こうとしてフラれて帰って来るとこだったんです。
でも、そんなこと言えなくて。っていうか、なんでそんなに慌てちゃったのか、わからない。普段の私なら、アハハ、ほんとはデートだったんだけどすっぽかされちゃったんだよー、なんて笑って言って盛り上がれるのに。
その後河村くんとなんて話したのか、もうなんだか覚えてなくて、私は自分が河村くんの前に出るとひどく緊張してしまうっていうことがわかった。
そして、更に。
そもそも河村くんはテニス部だし、まずはテニスの応援に行くことでしょう、とチヒロと試合を観に行ったんだよね。5月頃の、地区大会。
運動部の試合なんて観に行くの初めての私、もう驚いたったらない。
だって、皆、こんな一生懸命だったなんて。
どきどきするような試合、不二くんとダブルスを組んでいた河村くんは、激しいラリーの応酬で不二くんをかばって腕を痛めて途中棄権という経過だったけど、最終的に地区大会でチームは優勝して、ものすごく嬉しそうだった。
青学が勝って私も当然嬉しかったけど、なんていうか、もう私とは世界が違うよーって、ちょっと打ちのめされてしまった。
友達とふらふら遊び歩いてばっかりの私、そしてお寿司屋さんのお手伝いとテニス部を全力でやってる河村くん。
そりゃ、話しかけらんないよねー。
「だから、せめてテニス部の全国大会が終るまでって、待ってたんでしょ?
」
チヒロは机につっぷした私の髪を引っ張る。
「全国、優勝おめでとう。体はもう大丈夫? くらい言った?」
彼女の言葉に私はがばっと顔を起こした。
「……まだ言ってない」
「全国終って、もう1週間ちかく経つんだよ? なにやってんのよー」
だって、学校でも放送部が実況してくれた全国の河村くんの試合。その、彼の全力をつくした試合はこれまた猛烈に感動的で、何て言っていいかわかんないくらいなんだもの。
なんてことを考えながら私が机の下で足をばたばたさせてると、チヒロが頬杖をついて眉間にしわを寄せる。
「ねえ、
。いい加減にしないと、わかってるでしょ? 河村くんってすごいモテるんだよ」
彼女の真剣な顔に、私も大きく深呼吸をした。
「うん、わかってる」
そう、河村くんはすごくモテるんだ。多分、テニス部でも1・2を争うくらい。テニス部でモテるのは、手塚くんとか不二くんじゃないかって? わかってないなー。そりゃ、確かにあの子たちは人気あるし、キャーキャー言われるようなモテっぷりでは、手塚くんや不二くんや菊丸くんあたりが目立つ。
でも、どうも私たちのリサーチでは、実は『本気で恋こがれられている』という点で鉄板にモテるのは河村くんがトップクラスなのである。河村くんを好きな女の子たちは、軽い気持ちでキャーキャーさわぐっていう感じじゃないの。つまり、みんな、大マジなのである。
だって、河村くんは本当に優しいしかっこいいし、何より本物の『大人』だもの。お家で客商売を手伝ってるからか、すっごく人当たりが良くて自然で、さりげなくきちんとひとを気を遣うところが板についてる。同い年の男の子でそんな子、ちょっといないよ。女の子ってのは、そういうのちゃんと見てるし、わかるんだ。だから、どうも私を含めて河村くんを好きで仕方がないという子は、多分たくさんいる。
「河村くん狙いの子、全国大会が終った今、きっと黙っちゃいないよ。
、ウダウダなんにもしないまま、河村くんが他の女の子とつきあうようになっちゃってもいいの?」
「……そんなのヤダ!」
私はチヒロの手からギターを奪い取った。ぞうさんギターなんていうふざけたおもちゃみたいなギター。
「ヤダけど、どうしたらいいのかわかんないんだよ!」
私はやり場のない思いをぶつけるべく、アンプのスイッチをオンにして『おさかな天国』のコードを弾いてやけくそで唄い出した。
こんな魚をさばくことすらできない私が、河村くんになんて話しかけたらいいのかわからないよ!
すると、ふと背後から『さかなさかなさかな〜』といい声が響いて来た。
ふりかえると、そこにはなんと英語の辞書を手にした河村くんがいるではないか。
「
さん、ギター上手いね。そのフェルナンデスのZO-3、同じようなの俺も持ってるよ」
笑いながら、そこに立ってた。
私はおもわずギターをぶらさげたまま立ち上がる。
「あっ、これは私のじゃなくてチヒロのなんだけど……おさかな天国は、自分で耳コピしたの」
すっかり浮ついてしまった私は、きかれてもいないバカみたいなことを言ってしまう。河村くんはくっくっと笑った。
「そっか、その曲、一回聴くと耳につくよね。俺もついギターで弾いちゃうよ。
さんは魚は好きなの?」
「えっ、あ、もちろん大好き」
そう答えると、河村くんはちょっと意外そうな顔をする。
「そうなんだ、もしかしたら、魚嫌いなのかなって思った。割引券、使いに来ないからさ」
『タカ』ってサインの入ったかわむらすしの割引券、それは私の手帳に永久保存版のお宝となって挟まっているのです。
彼の言葉に、私は飛び上がらんばかりにあわててしまった。
「き、嫌いなんてそんなわけないじゃん。お寿司、大好き! お嫁に行きたいくらいに!」
口走ってから、くらくらと倒れそうになる。私、何を言っちゃってるんだ。
とりあえずアンプをオンのままメジャーコードをじゃかじゃかかきならした。
今の、聞こえてないよね。
河村くんは一瞬驚いた顔をするけど、すぐに破顔一笑。
「あははは、家が寿司屋だったら毎日寿司食えていいよなってよく言われるけどさ、
さん、寿司屋に嫁入りしたいくらい寿司好きなんだ。意外だね」
おかしそうに笑って、そして片手の辞書をちょっと持ち上げてみせて教室の後ろのロッカーへ歩いて行った。
私はギターをかきならしたまま、彼の後ろ姿を見つめる。
「
、うるさいうるさい」
隣からチヒロが手を出してアンプのスイッチを切った。
「あんた、いきなり嫁に行きたいなんて、極端すぎる」
「えっ、ちょっと! あれ、聞こえてた!? 私、もしかして頭の中で言っただけかと思ったけど!」
「ばっちり口に出てたよ。でもさすが河村くん、すっごく上手く流したね」
「えっ、私、右から左に受け流された!?」
「あ、いや、そういうわけでもないかも。まあ、なに、河村くんもあんなのまさか本気にしないって。単なる一般論って思ったよ、きっと」
ひどく動揺してる私に、さすがにチヒロもフォローしてくれた。
一体、何が起こったのかよくわからないけど、私、河村くんとちゃんと(?)しゃべった。
久しぶりに真正面に見る河村くんの笑顔は本当に素敵だった。
ありがとう、ぞうさんギター。
私、心に決めました。
魚を三枚におろす練習をします。
「えー、なんでそうなるのー?」
翌日の教室で、『基本の魚料理』という本を熱心にみつめる私に、チヒロは愕然とした声を上げる。
「いや、だって、やっぱり魚くらいおろせないと」
「ちょっとちょっと、まさかほんとにいきなり嫁入り修行をする気?」
「あっ、いや、そういうわけじゃないけど」
つい顔を赤くしてしまう私の頭をチヒロはバシンとたたいた。
「何照れてんのよ、キモチワルイ! 魚の下ろし方なんか本で読んでる場合じゃないでしょ。今までのあんただったら、『魚? 好きだよ。でも上手くさばけないの。教えて』とか言ってうまくやってたじゃないの。なにやってんのよ」
「そんな、下心アリアリのこと、河村くんに言えるわけないじゃん!」
「バカ! あそこを見なさいよ」
チヒロは私のバイブル『基本の魚料理』を取り上げて、河村くんの席をさした。そこには、見慣れない女の子と話している河村くん。
「ほら、さっそく来たでしょ」
席に座ったままの河村くんと話しているのは、真面目そうでちょっとかわいらしい女の子。たしか、隣のクラスの子だったと思う。
「……まさか、河村くんの彼女?」
私は全身から血の気が引くのを感じる。私がウダウダやってる間についに!?
「そうじゃないよ、でもね」
チヒロが小声で話す。
「ちょっとした動きがあるんだよ。なんでも、主に家庭部のOBだった子が有志で、河村くんに料理を習おうということになってるんだって。今なら全国も終って一段落してるからって」
「か、河村くんに料理を!? 女の子たちがっ!?」
思わず立ち上がってうろたえた私に、チヒロがうなずく。
私はチヒロから『基本の魚料理』を取り上げて、河村くんと家庭部OBの子を見た。
河村くんに料理を習うなんて、本物の嫁入り修行じゃないの! こんな、自分ちにあったお母さんの料理本を見てる私とは大違い……。私、いきなりスタートから出遅れてる?
そんな私の思いが、目からビームにでもなっていたのだろうか。
いきなり河村くんがこっちを振り向いて、すごい形相をしてる私とばっちり目が合ってしまった。
それまで家庭部の子と話してた河村くんは私と目が合うと、家庭部の子と何か言葉を交わして、そして立ち上がって私の方にやってくる。
何? 何? 一体何?
私が動けないまま『基本の魚料理』を握りしめて立ちすくんでると、河村くんが目の前に立った。
「
さん、魚、好きだよね?」
そう言いながら、私が手にしてる本を見て微笑む。
「あ、うん、大好き」
ほんとは魚よりも河村くんの方が大好きだけど。
「魚料理、やろうとしてるの?」
「う、うん、お魚食べるの好きだけど、自分じゃぜんぜんできないから」
そのあたりは正直に言ってみた。
「じゃあ、ちょうどよかった。ちょっと来てみて」
何事だろうか? 彼の机のところでは、家庭部の子が怪訝そうな顔をして私を見てる。
「彼女、家庭部の三隅さん。こんど、有志で家庭科室を使って魚料理の教室をやろうってのを企画してるんだ。一応俺が講師なんだけど。急に決まったからか、結構人が集まらなくて。
さん、魚好きなんだろ? よかったら来ない? 今週の木・金の放課後だけど」
「えっ、そんな、いいの?」
「うん、実費はちょっともらうけど、安くて新鮮な魚持ってくからさ。三隅さん、あとテニス部で二人ほど行きたいって奴いたから連れてくし、これでだいたい人数そろったよね」
「……あ、そうだね、楽しみにしてる、河村くん、よろしくね」
三隅さんはちょっと複雑そうに私を見てから笑った。
さて、突然に王子様から舞踏会に招待されてしまった私だけど、ワクワク感とともに動揺は隠せない。
「チヒロ、あれさ、どう思う?」
その日、お昼を学食で食べながらチヒロにささやいた。
当然、河村くんの魚料理教室の件だ。
「どうって? いや、ラッキーじゃないの。ZO-3ギターでおさかな天国かきならした甲斐あったよね」
チヒロはけろっとしたように言う。
「いや、だってさあ。家庭部の子」
「ああ、三隅さん?」
「うん、なんていうか、河村くんが講師で魚料理教室やるなんて話、そして尚かつテニス部の子まで連れてくるんだよ。普通なら、満員御礼でおかしくないじゃん。絶対、三隅さん、あんまり人が集まらないようにわざと周知しなかったんだと思う」
私がそう言うと、チヒロはチキンカツをかじりながら黙って私を見た。
「そりゃそうだろうね、誰だって、大好きな男の子となら、少人数和気あいあいで料理教えてもらいたいよね」
そしてごく冷静に言うのだ。
「でしょ? 私、すっごく招かざる客じゃない? そもそも家庭部の子とかと、ぜんぜんノリ違うし。完全なアウェイじゃない?」
私がため息をつきながら言うと、チヒロはバンッとテーブルをたたいて私を睨みつけた。
「あんた、何言ってのよ! いいかげんにしなさいよ! 河村くんを好きなんでしょ? 何を今さら恋に臆病になってんの? 今まで、好きな男の子がいたら、だめそうだろうがなんだろうがガンガンいってたじゃないの。そういう
、かっこよかったよ。今回だって、せっかく河村くんが誘ってくれたんじゃない。アウェイだろうがなんだろうが、行くべきじゃないの? がっつんがっつん魚おろしてきなさいよ!」
まっすぐなチヒロの目を見て、私もチキンカツをかじる。
「……そうだよね! 私、河村くんがかっこよすぎて、ちょっと自分を見失ってた! 頑張る!」
その日、『基本の魚料理』を握り締めて走って家に帰った私が一番最初にしたことは、爪を切ることだった。
フレンチネイルにするのが好きな私の、丁寧に伸ばしてスクエアにカットした爪。ばっちんばっちん切った。
「お母さん、何か魚おろすのない!?」
唐突に叫ぶ私に、お母さんは『ちょうどよかった、これやってみる?』とマメアジのパックを出してくる。
さて、私には大問題がある。
実は、生の魚、キモチワルくて触ったことがないのだ。
結局この日私ができたのは、ギャアアアと絶叫しながらマメアジを流水で洗うことだけだった。しかも涙目で。
舞踏会、もとい河村くんの魚料理教室はもう明後日だ。お母さんに、『明日はもう一度マメアジにして』といって、私は涙目のままマメアジの南蛮漬けを食べた。
せめて、普通に魚を触れるようにならなければならない。
じゃなきゃ、お寿司屋さんにお嫁にいけないよ!
翌日、私の所望どおり再度マメアジを買ってきてくれたお母さんの指南で、私はなんとかマメアジの手開きにチャレンジした。ぶるぶると震えながら、なんとかマメアジの腹を開いて中身を出して、を2匹ぶんくらいやっとできた。勿論、私が開いた分の出来については問わないで欲しい。かなり呼吸を荒げながら、まさに涙ぐみながらやっとできた。
でも、昨日からの成長具合とするとすごいと思わない? 昨日は魚を触るのがやっとだったんだもの。この伸び率からすると、明日は多分そうとういけると思う。
ほとんど食欲もなかった私だけど、とりあえずそうやってポジティブに考えながら眠りについた。翌日の舞踏会、もとい魚料理教室に向けて。
*
**************
「なんか
、やつれた?」
木曜の朝、チヒロが心配そうに私の顔をのぞきこむ。
「え? いや、大丈夫。ちょっと昨日食欲がなかっただけ」
「あ、そう? でも、今日でしょ、河村くんの料理教室」
「うん、大丈夫。準備万端だから」
「ふうん、ならいいけど。ま、仲良くなれるといいねー」
へへっと笑いかけてくれるチヒロに、私はVサインを出してみせる。
「あっ、
さん、場所わかるよね? 家庭科室の調理場。ちゃんと先生に許可取ってあるからさ。俺、三隅さんと先に行ってるから」
授業が終ると、河村くんは私に声をかけてからいそいそと教室を出て行った。いろいろ準備も大変なんだろうな。
私は鞄の中のエプロンを確かめて、そして頭の中で生魚のヌルヌルと、河村くんが笑顔で指南してくれるところとを交互に思い浮かべながら家庭科室に向かった。
心の中で『たのもー!』と野太い声を響かせながら家庭科室の扉を開けた私は、一瞬足が止まる。
中では、勝手しったる雰囲気でいそいそと準備をする元家庭部とおぼしき女子たち。みな、エプロン姿が様になっていかにも料理上手そうな女の子ばかり。茶色い髪をした子なんて私しかいない。想像通り、完全にアウェイだ。
『あなたは河村家の嫁候補としては失格です!』
なんて怒鳴るばあやが奥から出てくることを想像して、くらくらした。
「うわー、女の子ばっかりじゃん! まるでかわむらすし嫁入りオーディションだにゃー、ニシシシ!」
私の心中を読んだような声にどきりとして振り返ると、そこには菊丸くんがいた。そして彼の隣には、ひどく恐い顔をした見慣れない男の子。誰だっけ、ああ、テニス部の二年の海堂くんだ。
「菊丸先輩、女子ばっかりじゃないスか! 男の魚料理教室って言うから、俺、来たんスよ!」
「だって、海堂、そうでも言わなきゃ来ないだろ? タカさんのちらし寿司美味いからさ、レシピ知りたいじゃん。お前だって、母親にあの味を食わせてやりたいって言ってただろ?」
さらりと言う菊丸くんを、海堂くんはギリリと睨みつけながら歩く。
ふと菊丸くんが私を見た。
「あれ、
さんも来てたの? なんか意外じゃん」
そしてからかうように言う。菊丸くんとは一年の時に同じクラスだったのだ。
「なんで意外よー。私だって料理習うよ」
完全なアウェイと思ってたけど、ちょっとなじみの顔がいてほっとする。そして、私はさりげなく菊丸くんと海堂くんの近くで準備をした。だって、他の家庭部の女の子と同じグループではあまりに差が歴然としてしまう。いくらなんでも、男の子とだったら私の方がちょっとはマシだろう。昨日と一昨日に特訓もしたし。
準備が揃ったら、河村くんが調理台の真中あたりにやってきた。4月のあの日に見た、白い上下。あいかわらずきらっきらしてる。私は胸がぐっと熱くなった。やっぱり好きだなあ。
「さて、今日と明日、この家庭科室を借りてちょっとした魚料理の教室をやることになりました。まず今日は、基本の魚のおろし方ってことで、アジをおろして刺身にしようか。今朝水揚げしたばかりの新鮮なやつを店から持ってきたから、今から調理して家に持って帰って晩御飯のおかずにすれば最高だと思うよ。アジはちょっと旬は過ぎたけど、まだ十分美味しいから。で、明日はちらし寿司ね」
隣では菊丸くんが、ちらし寿司ひゃっほーなんて声を上げてる。
私はアジ、アジ、と頭で繰り返した。
よし、アジか。ちょうど私が予習してきたのと同じアジなら、なんとかいける。これは、いける!
なんて思ったのはつかの間。
河村くんが冷蔵ケースから出して、各調理台に置いてくれたアジは、私が昨日まで格闘していたマメアジとはだいぶ違うブツだった。そう、アジはアジでも豆じゃないのだ。
でかい。こいつは手ごわそうだ。
私の背中にはいやな汗が流れた。
「まず、魚を流水で洗うんだけど、その時は頭か尻尾を持つようにね。おなかのあたりを持つと、体温で魚が傷むから」
言われなくても、そんなところムンズと持ったりできない。
私はなんとか尻尾をつまみながら、自分にとって史上最大の敵と格闘していた。文字通り、私が手を触れる、史上最大サイズの魚だ。
「きれいに洗ったら、ウロコを取って……」
周りを見渡すと、みんな楽勝って感じでやってる。
私もとりあえずみようみまねでやってみた。ウロコ、取れてる? よくわかんないけど、もういいや。
「で、ウロコが取れたら背中を下にして、エラを取ろうか」
エラを取る!?
「親指と人差し指をエラブタのとこにぐっと入れて」
ああ、もうわけわかんない。
一人きょろきょろとしてると、隣にいる海堂くんと菊丸くんは、すいすいと包丁を扱ってるじゃないか。
「おっ、海堂上手いじゃん」
「菊丸先輩こそ。まあ、これくらいは家でも時々やりますからね」
ひゃああ、私、マメアジを2匹さばいたくらいでいい気になるんじゃなかった。完全に負けてる。
呆然としてる私の後ろで、河村くんが足を止めた。
「ああ、
さん、大丈夫? こうやって持つんだよ」
彼は私がもてあましている魚を持って、教えてくれた。
「
さん右利きでいいよね? だったら左手の親指と人差し指をこう、ぐいっとエラのとこに入れて……」
河村くんが私のすぐ傍に立って、丁寧に教えてくれる。まさに憧れのシチュエーション。だけど、私の目の前には生のアジ。
言われるがままにむんずとエラのところに指を入れてみるけど、想像以上のリアリティ!
エラの付け根を切って、指で押し出して、などど河村くんが一生懸命説明してくれる声が遠い。
「……
さん、大丈夫!?」
気が付くと私は河村くんに支えられていた。
一瞬気が遠くなっていたのだ。アジのエラが私を襲ってくるような気がして。
「あ、あの、ううん、大丈夫。ちょっと貧血気味だったみたい……」
「そっか、じゃあ座ってた方がいいんじゃないか?」
「うん、ごめんね。河村くん、講師で忙しいでしょ、私、大丈夫だから」
魚料理教室だというのに、アジがおっかなくて気が遠くなってしまうなんて、恥ずかしいったらありゃしない。
菊丸くんの『
さん、かわむらすし嫁入りオーディション予選落ちぃー』なんていう冗談に、がっくり落ち込みながら私は隅っこの椅子に腰掛けてた。
「大丈夫?」
うなだれている私に熱いお茶を持ってきてくれたのは三隅さんだった。
「魚、慣れないと気持ちわるいもんね。気にしないで。明日はちらし寿司だから、大丈夫だと思うよ」
ううう、こんなに場を盛り下げるようなことになってしまった私に、三隅さん優しいなあ。さすが家庭部。
あーあ、やっぱりここはアウェイだ。
私に舞踏会は無理だったんだ。
結局私はそれ以上何もできなくて、菊丸くんと海堂くんがさばいてくれたアジを持ってとぼとぼと帰った。
家では家族が『このアジ、すっごい美味しい!』と大絶賛してくれたけど、私はほとんど喉を通らない。
早々にお風呂から上がってベッドに入った私は、なかなか眠れなかった。
魚がおろせなかったことくらい、気にすることじゃないと思う。
けど、なんていうんだろう。
三隅さんや家庭部の子たちは、ああやって自分のホームがあるよね。
そして、当然河村くんはテニスや、お寿司屋さんがある。
私、何があるんだろう。私のホームって何?
私は今まで、好きになってつきあった男の子といろんなところに行くことがとても好きだった。だって、いろんなものを見て聞いて知りたいもの。あっちこっち行って、いろいろ見て、それで自分の世界が広がってるつもりだった。
けど、気が付くと、私に何があるのかって考えても何も思いつかない。
私は決して自分に自信がない方じゃないのに、突然がけっぷちに立たされたみたいな気分。
急に心細くなった私は、布団を被って体を丸くしてぎゅっと目を閉じた。
*************
「で、うまくアジがさばけなくって、がっくり落ち込んで帰ってきちゃったわけ?」
翌日の教室ではチヒロが心配そうに、うなだれた私を覗き込む。
何しろ、ここ数日食欲がない日が続いたものだから、実際私はちょっと元気ないのだ。そんな私は珍しいから、さすがにチヒロも気になるみたい。
「そんなの気にすることないじゃん。できないからこその料理教室なんだし、人生の一大事じゃないんだから」
「わかってるけどさー」
私は大きなため息をついた。そのひとつで、寿命が一年縮まりそうなくらいのため息を。
「もうね、今日の料理教室は行けないよ」
「ええー? どうして?」
「だって、もういたたまれない。私、ほんっとにできないし。そもそも家庭部の子の企画にのっかっちゃってさ、他人のふんどしでって感じだし」
「……
って意外に繊細なんだねえ。今まで、一体どうやって好きな男の子とつきあえるようになってたの?」
あきれたように言うチヒロに、私はまた大きなため息で返した。
「そんなの、もうさっぱりわかんないよ。ほんと、どうやって恋を成就させてたんだろ、私」
初めての恋のように、右も左もわからなくて途方に暮れてしまう。
その日、私は宣言通り料理教室には行かなかった。河村くんにはとても直接言えなくて、三隅さんに欠席の旨を伝えた。
学校帰り、チヒロとちょっと買い物をしてお茶して、そして彼女と別れてとぼとぼとショッピングモールを歩きながら考える。
このまま河村くんを諦めるかというと、もちろんそんな気にはならない。
けど、私は自分なりに何かを頑張らないと、河村くんとちゃんと話せないような気がする。その何かが一体何なのかはわからないんだけど、とりあえずコイツはなんとかしないといけないんじゃないか。
私はショッピングモールの生鮮食料品売り場の鮮魚コーナーの前で、パック売りのアジを睨みつけながら仁王立ちになった。
このアジのやつめ。
こいつのエラをガッツリ取って、内臓も一網打尽にしてさばく。
それができたら、私もちょっとはいけるんじゃないの。
と、頭では威勢よく考えてみるものの、あのヌルヌル感やエラのあたりの感触を思い出すと、またくらくらする。
いや、しかしコイツをやっつけないことには、私の恋は前に進まない!
意を決してパックを手に取ろうとしたその時、私の名を呼ぶ声。
振り返ると、そこには目を丸くした河村くんがいたのだ。
「
さん、そんなにアジが好きだった?」
私はあわててアジのパックを放しながら、そういえば今日、料理教室行かなかったんだ、と急に気まずくなってすごく慌ててしまった。
「え、うん、まあそんなとこ」
河村くんは、料理教室が終ってからショッピングモールの本屋に寄った帰りらしい。
「今日は家庭科室来なかったけど、体調でも悪かった?」
彼はちょっと心配そうに言う。
「ううん、大丈夫。ちょっと……用事があったけど……もう終ったから、お魚見てたの」
ああー、気まずい。なんて言ったらいいのかわからない。河村くんの笑顔が優しいだけに、余計!
「そうか。アジ好きだったら、よかったらウチ寄ってけば。アジは余計に仕入れてるから安くわけてあげるよ」
多分ここいらの店のよりは美味しい、と、笑いながら小声で言った。
私は胸が痛くなる。
私はこんなに下心であふれているというのに、河村くんてばなんて純粋に私のお魚生活をサポートしてくれようとしてるんだろう。なんだか、申し訳ない気持ちで一杯だ。
私が言葉につまっていると、急に彼の笑顔がすっと消えて、あの男らしい眉がきゅっとハの字になった。
「……ああ、その……
さん、俺、やっぱりいろいろ勘違いしてたかな。ごめん」
そして急にそんなことを言い出すものだから、私は驚いて顔を上げた。
「えっ?」
「俺、結構なんでも額面どおり受けちゃう方だから、
さんは本当に魚が好きで、魚料理習いたいんだろうなって思ってたんだけど、もしかしてそうでもなかった? 俺が強引に誘いすぎた?」
「えっ、どうして? ぜんぜんそんなことないよ? ただ、私がさっぱりちゃんとできなくて……恥ずかしかっただけで……」
予想外の彼の言葉に、私も少々うろたえてしまう。
彼は相変わらず困った顔のままだった。
「そっか、ならいいんだけど、俺はもしかしたらいろいろと、
さんを困らせたのかもしれないなって思ってさ」
「ええー? どうして?」
彼の言葉の意味がわからなくて思わずそう尋ねると、彼はひどく難しい顔をして頭を掻きながらしばらく黙ったままうつむいて、そして意を決したように眉間にしわをよせて顔を上げた。
「……ごめん、笑わないでよ。俺、
さんと少ししか話したことないけど、
さんと話してて、もしかしたら
さんは俺のこと、ちょっとは好きなのかなあなんて思ったんだよ。気のせいだって自分に言い聞かせてみても、もしかしたらって思いながら
さんを見てると、なんか嬉しくなってきて、調子に乗って料理教室なんか誘っちゃってさ。誘ったら、
さん、あんなにきれいに伸ばしてた爪をすぐに切ってきただろ? 俺、ちょっとびっくりして、
さんのそういうとこ、いいなあとか思っちゃったんだよ。……俺の勘違いで、なんだかいやな思いさせたんだったら、ごめん」
彼はそれだけ言うと、ぺこりと頭を下げて私に背を向けようとした。
「河村くん!」
私はあわてて彼の名を呼んで、そしてガサガサと鞄をさぐった。
あった、私の手帳!
「これ、私の宝物!」
私が開いて見せた手帳のページのクリアファイルには、『タカ』とサインの入ったかわむらすしの割引券。
「お寿司は大好きなのに、河村くんのくれたこの券が大事すぎて、使えないの」
真剣な顔で言う私を、河村くんは目を丸くしてじっと見つめた。
ショッピングモールを出た私たちは、二人で歩いてかわむらすしに向かった。
アジをもらいに。
道すがら、河村くんは通りすがりの家の庭に咲いてる花やハーブのことを教えてくれる。これはローズマリー、料理に使うよ、とかね。
テニス部の全国大会も終ってあとは引退かと思ってた彼だけど、なんとこれからU−17選抜候補のチームでの合宿があるらしい。すごいなー。
今度は私も圧倒されてばかりいないで、ぜひともちゃんと応援したい。
『まだまだテニスのトレーニングもあるし、寿司屋の修行もあるし、なかなか一緒に遊びに行ったりはできないけど』
なんてちょっと申し訳なさそうに言う彼に私は、ぜんぜん平気、と笑って答えた。
お寿司屋さんの前で始まった私の気持ち、ようやくスタート地点に立てました。
今、その始まりのお寿司屋さんに二人で向かいながら、胸のわくわくを抑えられない。
彼と歩けば、いつもは駆け抜けるだけだった学校帰りの道も、果てしないワンダーランドだ。
(了)
「最初の気持ち」
2009.4.28 Seigaku
Victory Forever様へ寄稿