● 君はロマン派〜泣かないで、かわい子ちゃん〜  ●

 2年生の頃だったかな。
 音楽の授業で、すごく心地よい音楽が流れていて、前の日の夜は遅くまで起きていた私はうとうとしてしまった。先生が作曲家だとか歴史背景について説明をしてくれていたけれど、授業中に居眠りなんかすることはまずない私なのに眠気のあまりほとんど頭に入って来なかった。「ロマン派音楽は1800年代初頭より……」とか話していることだけは耳に入って、そっかーこういう音楽、ロマン派って言うんだってことだけは覚えてる。ロマン派の音楽って、優しくて心地よくてそれでもなんだか気持ちの奥にしみ込む感じ。
 寝ぼけた頭で、ロマン派音楽って千石くんみたいだなーなんて思ったっけ。

 千石清純くんと初めて会ったのは、山吹中学に入学したばかりの1年生の頃。
 新しいクラスでまず学級委員を決めることになって、女子で真っ先に推薦されたのは私。
 というのは、小学生の頃から私は学級委員キャラだったから。
 そういのってあるでしょ。
 うちは妹が二人いて、お父さんもお母さんも仕事をしているから、私はもう絵に描いたような長女。小さい頃から、「しっかりしてるね」「おりこうさんだね」って言われるのが当たり前だった。そして、小学校高学年になると「さんってきついから」と冗談まじりに言われることも時々あって。もちろん、嫌われてるとかそういうわけじゃないし、いつもうちの妹から文句を言われるようなもので気にならない。だって、ちょっとくらい厳しいとか、ちゃんとしないといけないこととか、誰かがきちんと言わないといけないでしょ。
 そんなふうに過ごしていたら、私は小学校に入学してから今まで、学級委員にならなかったことの方が少ないくらいの学級委員キャラになっていたというわけ。
 で、山吹中学新1年生の女子の学級委員は私に決まり、次は男子。私は頭の中で、男子たちの考えていることを想像した。「って、悪くないけどまじめだしキツいからなー」なんて牽制しあってるにちがいない。で、おい誰々やれよーなんて言い合ってようやく決まるんだよね、どうせ。
 ところが。

「学級委員、俺がやる! ラッキー! 委員は可愛い女の子と組みたいもんね!」

 そんな明るい声とともに挙手をしたのが、千石清純だったのだ。
 開け放った教室の窓から、ふんわり暖かい風にのって桜の花びらが舞い込んで来たような記憶が残っているけれど、その桜の花びらが現実のものだったかどうかはわからない。
 教室の中では、当然ながらクラスメイトたちのからかいの声がわきあがった。
 ヒューヒュー、さすが千石、やるぅ! お似合いだぜ、新婚さーん!
 普段の私なら、そんなざわめきは一喝注意をして黙らせるのに、その時はしばらく何も言えなかった。
 クラスメイトたちのからかいの声も何も、ほとんど私の耳にまともに届いていなかったから。

 可愛い女の子

 男の子からそんなふうに言われたのが初めてで、私の頭の中では千石くんのその言葉が何度も何度も繰り返されていたから。




 彼の言葉が特別なものではないらしいとわかるまで、それほど時間はかからなかった。
 千石くんが女の子に向かって「可愛い」と発言するのは、私たち女子がショッピングセンターの雑貨屋で「これ可愛い! あれ可愛い!」と連発するのとなんらかわらないくらいのものだということが、学級委員を決めたHRのその日の午後にはわかったから。
 つまり、それくらい千石くんはストレートでわかりやすい子だった。
 けど、まったく嫌味がなくて、きっと誰もが彼を好きで、そしてきっと沢山の女の子が彼に恋をして。
 だから彼が私に「可愛い女の子」なんて言ったのも、特別なことではないんだってすぐに理解した。
 あ、別にね、私だって自分がブスだって思ってるわけじゃないよ。
 ただ、小さい頃から褒め言葉と言えば「しっかりしてる」「おりこうさん」「かしこいね」というのが当たり前で、「可愛い」っていうのは自分としては圏外だと思っていたの。妹たちがおじいちゃんやおばあちゃんから「可愛い」って言われてるのを聞いて、ちょっと新鮮だった覚えがある。
 中学生になってからは、親戚のおばさんたちから「まあ、ちゃんもきれいになっちゃってー」とか「美人さんになったわねー」とかは言われるけど「可愛い」とは言われたことがない。
 それくらい私にとっては斬新な言葉だったものだから、千石くんと初めて会った時に少しくらい頭の中が真っ白になったことは許して欲しい。

 ところがだ。

 千石くんの「可愛い」攻撃はそれ以降も続いた。
 1年生の時、学級委員の仕事を二人でやっている時、
サン、ほんと可愛いよね。今日、これが終ったら一緒にもんじゃ食べて帰ろうよ」
 とか。
「今度の日曜、部活が休みなんだけど、デートしない?」
 とか。
 彼がどういう子かはすぐわかったから、私はいちいち動揺しなかったし、言われるたびに「またそんな事言って。それより、早くこれやっちゃおうよ」とぴしゃりと会話を終らせた。
 それでも彼はまったく気を悪くすることなく、次に話す時にはまた同じように、「お茶飲んで帰ろう」「今度、映画を観に行こうよ」などと言う。
 2年生になってクラスが変わっても、顔を合わせるたびにそういう事が続いて、当然一度も実現したことはないし、その都度「いかげんにしなよ、千石くん」って怒ってみせて終わりなんだけど、テニス部の人気者のきらきらした男の子からそんなことを言われるたびに、私は嬉しかった。
 彼が他の女の子にも同じように言っているのだとしても。
 だって、千石くんにそう言われるたびに私は自分が「可愛い女の子」になっているみたいな気がしたから。


 だけどやっぱり私は可愛くはなれないと改めて思い知ったのは、3年生になってすぐのこと。
 3年になって私は風紀委員になって、その日は風紀強化週間で当番だったの。ほら、門のところで服装や髪型をチェックするやつね。こういうの、実施日時は告知されてるから形骸化したようなものなんだけど。
 始業時間も近づいて、そろそろ引き上げようとしている時だった。
 うつむいて腕時計を見ている私の傍を、ぬっと大きな影が通り過ぎる。
 ふと顔を上げて、私はひゅっと息を飲んだ。
 肩幅の広い大柄な影の主は、亜久津仁だった。
 彼は私に目もくれずに、ゆっくりとした足取りで正門を通って行こうとする。
 私は一瞬あっけにとられるけれど(だって、彼は遅刻常習)、ごくりと唾を飲み込んで「あの、亜久津くん」と声をかけた。
「ああ?」
 彼は不愉快そうに振り返る。顔に「ウザい」と書いてあるのが見えるようだった。
「あの……今日は風紀強化週間の検査日なんだけど」
 声が震えるのを自覚しながら言った。
「ああ?」
 今度はもっと低くて、イラついた声。
 亜久津仁はいわゆる札付きの「ワル」だ。タバコを吸っているって話だし、っていうか今実際にタバコの匂いがぷんぷんするし、他校の生徒としょっちゅう喧嘩してるっていう話だし、とにかく見た目からして怖い。怖すぎる。
 なんでこんな日に遅刻せずに来ちゃうの、亜久津くん!
 私が黙っていると、彼はフンと鼻を鳴らしてそのまま通り過ぎようとした。
「……だ、だから、亜久津くん! 私、風紀委員だから服装検査しないといけないの」
「はあ? 何言ってんだ お前ぇ、バカか?」
 あからさまにイラついた大声を出すので、私はびくりと飛び上がりそうになった。
「誰に物言ってんのか、わかってんだろうな」
「亜久津くんだよ」
 私が言うと、彼はぎろっと目をむいて肩をいからせて威嚇をしてきた。
 もう一度私はびくんとなる。
「わかってる。亜久津くんが大人しく服装検査させる気なんかないって、わかってる」
「だったらいちいち声かけんじゃねぇ。時間の無駄だろ、ドタマかち割んぞタコ」
 吐き捨てるように言って、また歩き出そうとした。
 でも、私は続ける。
「そ、そういうわけにはいかないの。今日ここを通るからには、チェック項目にそってチェックを受けてからじゃないといけないから、ちょっと待ってね。そんなに大変じゃないから、お願い。3年3組だったよね……」
 私がチェック表をめくると、ぐいと彼の大きな手が近づいて来て私はぎょっと目をむいた。そして、あっという間にものすごい力でチェック表をクリップボードごと取り上げられ、それは地面に叩きつけられた。
「ふざけんじゃねぇ。俺に指図する気か」
 マジギレとはまさにこういうことを言うのか、というものすごい形相。ただでさえ怖い顔なのに!
 私は少しだけ息を吸ってから、声が出ることを確かめて続けた。
「私だって亜久津くんに声かけるの、怖いよ。だけど、亜久津くんが怖いからって黙って通したら、他の子に示しがつかないじゃない。怖かったらいいのかって。うち、妹が二人いるんだけど、もう面倒だしこっちの妹のこれはもういいかってやっちゃうと、もう一人が、お姉ちゃんズルいズルい!って大騒ぎになるから、やるべきことは公平にやらないといけないって普段から心がけてるの」
 あーあこんな怖い子、黙って通しておけば良いのに、それができない長女魂。しかも、恐怖のあまり口走ってしまった妹の話は、ものすごくどうでもよかった気がするし、これは更に亜久津くんを怒らせてしまったかもしれない。
 私の膝はがくがくと震えて、心臓はバクバク破裂しそう。
 その時、始業のチャイムが鳴り響く。
「……ケッ、胸くそ悪ぃ」
 亜久津くんはくるりと踵を返して正門を出て行ってしまった。
 私は彼の後ろ姿を見送りながら、しばらく動けない。
 
サンの勝ちぃ〜」

 明るい声が聞こえて、ぎょっとして振り返るとそこには千石くんが登校したままの姿でいる。今日は部活の朝練がなかったのか、テニスバッグを背負ったまま。
 驚いて何も言えずにいると、千石くんは地面に落ちたクリップボードを拾い上げて砂をはらってから私に差し出してくれた。
「あいつも、たまたま遅刻せずに登校した日が風紀検査の日だなんて、ついてないよねー。ちゃんと朝の占い見てから来なくちゃ」
 おどけて言う彼の声を聞いていたら、いつのまにか膝の震えは止まっていた。
「……亜久津くんと同じクラスだっけ」
「そ。あいつ、見た目ほど悪い奴じゃないんだけど、確かにちょっと怖いよね。びっくりしたろ」

 千石くんは,私が亜久津くんに声をかけたのを見かけて、きっと心配をしてつかずはなれずで見守ってくれていたんだろう。そして、決して押し付けがましくわざわざ自分からそういう事は言わない。彼はそういう子なんだ。
 でもね、きっと、ここで私が。
『怖かったよー、千石くん、見てたなら助けてくれたらよかったのに!』
 なんて言ったら。
 そしたら、きっと彼は、
『ごめんごめん、何かあったらすぐに助けに行こうと思って、ちゃんと見てたんだよ』
 とか言ってくれて。それで、なんかかんかと話をして。
 そんなふうに彼と話すなんて、それほど難しいことじゃない。
 私が可愛くさえあれば。
 だけど、私はしっかり者の長女だから。

「ちょっとびっくりしたけど、大丈夫。亜久津くん、せっかく遅刻せずに登校してきたのに、悪いことしちゃった」
 とだけ言って、クリップボードを受け取ると振り返りもせずにスタスタと校舎に向かうのだった。
 どうして私ってこうなんだろう。
 長女の宿命? っていうか、呪い?


 そんなことがあったのは、3年生になったばかりのことで今は夏休み前。
 1年生の時からの出来事をこうやって走馬灯のように思い出しているのは、別に私がもうすぐ死ぬからだとかいうわけじゃない。
 いや、近いかな。
 私は転校することになった。
 うちは、父親が大学の教授をしていて、今年の4月から神奈川の大学に移った。それを期に、神奈川にある父の実家を建て直して、来年私が高校生になったら家族全員でそっちに引っ越しをしようという話になっていた。けれど、神奈川のおばあちゃんが骨折をして具合が悪くなっちゃって、前倒しで今年の夏休みのうちに引っ越しをしようということになったのだ。母親は自宅で翻訳の仕事をしているから引っ越しはほとんど仕事に影響ないし、私と妹たちさえよければ早めに引っ越しと転校をして、お父さんもおばあちゃんも安心させてあげようということで。妹たちも最初は友達と離れたくないとごねていたけれど、基本的におばあちゃん大好きだから、結局は転校してもいいよっていう ことになって、じゃああとは私。中学3年生だし受験もあるし、はどう?って言われて。
 どうもこうもないよね。別にどうしてもここに行きたいっていう高校が東京にあるわけじゃないし、神奈川にもいい高校は沢山あるし。成績だって自信なくもないから、転校してもどうとでもなるって思えるし。
 私だけが友達と離れたくないだとか、そんなこと言えるわけないよね。
 好きな男の子と、もっとちゃんと話したいから、転校したくないとかね。
 言えるわけないよね。

 は夏休みの間に引っ越しをして、転校をすることになりましたってクラスで話をした日、私は「引っ越し準備で疲れてるみたいでちょっと気分が悪いので、保健室で休みます」と言って授業を抜け出して、校舎裏の木陰のベンチに行って一人で泣いた。
 こんな風に授業をさぼるのは初めてだけれど、するりと疑われもせずに抜け出せるのは優等生の特権。

 1年の頃から、時間もチャンスもあったのに私、どうして千石くんとちゃんと話ができなかったんだろう。
 千石くんに可愛いって言われて、どうしてちゃんと「ありがとう」って言えなかったんだろう。
 一緒にもんじゃ食べに行ったり、映画を観に行ったりしたかった。
 しようと思えば、きっとできたことなのに。

 今日はもうこのまま帰るつもり。
 目が腫れるのもかまわず、私は思い切り泣いた。
 だって、家では妹たちがいるから泣いてなんかいられない。
 泣くのは今しかできないんだ。
 授業中の裏庭には誰もいないから、パンツが見えそうになるのもかまわず両膝を立てて両手で抱いて、そこに顔を埋めて泣いた。

「どうしたの。泣かないで、かわい子ちゃん」

 かわい子ちゃん? ひどく古くさい言い回し?
 でも、やけに優しくここちよく頭の奥にしみわたるこの声。
 ゆっくり顔をあげると、心配そうな顔をした千石くんが私を見下ろしていた。
 千石くんがあまりにもおろおろとして、とても普段の彼からは想像もできないような様子だったので、私は自分の状況も棚に上げてしまう。
「千石くんこそ、どうしたの? 今、授業中だよ」
 こんなところで一人泣いてる女の子から逆に心配されるとは思っていなかったんだろう、千石くんはちょっと戸惑った顔をしてから、そして笑った。
「うん? 俺は、サンに会いに来たんだよ。そしたら、泣いてるからびっくりしちゃって」
「どうして私がここにいるってわかったの?」
 彼は、またくくっと笑って、ポケットから小さな本を取り出した。使い込まれたその本のタイトルは「367日占い」というもの。
「俺の愛読書を駆使すれば、わからないことはないよ」
 そう言いながら、私の隣に腰をおろした。
 私はさりげなく脚を下ろして、スカートの裾を整える。
「……転校するんだって?」
「うん」
「いつ?」
「夏休みの間に」
「どこに?」
「神奈川」
「神奈川のどこ?」
「藤沢」
 そんな話をしながら、私は自分の「感じ」がいつもと違うことに気づいた。
 泣いたからかなあ。泣いて、いつも自分を囲っている心の堤防が一部決壊してしまった気がする。
「あのね、千石くん」
 今日は言葉がするすると出てしまいそう。
「うん?」
「私ね、本当は千石くんともんじゃ焼き食べに行ったりしたかったんだよね」
「おおっ!?」
 千石くんが意外なほどのリアクションを示すのがおかしくて、私、普段なら絶対言わないようなことを口にしているのに、なぜかとても落ち着いていた。
「それとね、千石くんは覚えてないかもしれないけど1年生で一緒に学級委員になった時、千石くんに『可愛い女の子』って言われて、すごく嬉しかったんだよね」
「おおおっ!?」
「私って長女だし性格キツいとこあるから、可愛いなんて言われたことなくって。千石くんはああいうこと、みんなに言うのわかってるけど嬉しかったの。ありがと」
 泣いたばかりだから、まともに千石くんの顔を見ることができなかったけれど、隣で彼がそわそわしているのがわかる。
「あのさ、サン。なんかそうやって、転校するからこれが最後だから、みたいに言うのやめようよ」
「え?」
 思わず隣を見ると、彼はいつものハンサムでスマートでかっこいい千石清純に戻っていた。その彼が、私をじっと見ている。
「俺もサンともんじゃ焼き食べに行きたいよ。過去形じゃなくてね」
「……うん……」
「って、1年の時から何度も言ってるじゃん」
 じれったそうに彼は言う。
サンは可愛いよ」
「……うん、ありがと」
 千石くんは、かっこよく整えた眉毛をハの字にして困ったように笑う。
「違う違う、いや、違わないんだけど、えーと……」
 彼は軽く息を吸って、手元の「367日占い」をぱらぱらとめくった。どこかのページに目を通したのかどうかはわからない。
「正直言うと、俺、女の子って結構みんな可愛いなーって思うし、可愛い女の子好きだよ。で、思ったらすぐそう言う」
 そして続けるのは、いかにも千石清純らしい言葉。
「うん、知ってる」
 私がさらりと返すと千石くんは、あー! と声を上げて髪をかき回してみせた。ちょっと彼らしくないそのしぐさがおかしくて、私は涙目のまま笑う。
「だから俺、頭の良いサンにどう説明したらいいのかなってちょっと悩むんだけど。ありのままに説明するとね、俺はサンに会うたび、見るたび、可愛いなあって思って好きになる。毎回毎回、目に入るごとにね。だから、何回好きになってるかわからないよ」
 私は目を丸くして彼を見た。
 2年生のいつだったか、眠たい授業で聴いたあのロマン派の音楽が頭の中に鳴り響く。もちろん、正確に旋律を覚えているわけじゃないし作曲家も覚えてないけれど、その曲を聴いていた時の、心地よくほっとするのに胸の奥がどきどきした時のことを思い出す。そして同時に「ロマン派の〜」っていう先生の説明の言葉。千石くんはロマン派?
「正直言うと」
 彼はまた繰り返した。
「2回とか、3回とか、うーん5回くらいまでなら好きになった子は他にもいるけど、1日に顔を見るたびに毎回必ず好きになる子はサンなんだ。サンはわかってるかい? サンは可愛いよ。 キツいからなんて言ってるけど、そんなことない。まじめで一生懸命だったり、あのおっかない亜久津にも震えながらちゃんと風紀検査をしようとする勇敢なさんが、可愛いんだ。1年のとき、妹が二人いるって話してたよね。長女は大変だって。俺はサンのお姉ちゃんにはなれないけど、でもきっとさんを守れるよ」
 私、今日、今までの人生で言われたことのない回数の「可愛い」を連発されている。
「……あの、でも、私もう転校するから……」
 顔を見なくなったら、好きになる回数も打ち止めってことになるんじゃない。
 そんな言葉を飲み込むと、千石くんはきょとんとして私を見る。
「え? 転校? だって、藤沢でしょ? すぐじゃないか。ニューヨークに行くとかなじゃないんだから、いつでもすぐ会える。それくらいで、俺の好きは止まらないよ。だって、俺は毎日ラッキーカラーやラッキーアイテムを欠かさない、ラッキー千石だもの。俺といれば、アンラッキーなことが起こるはずがない。転校なんてアンラッキーのうちに入らない。俺はさんほど頭も良くないし、勇敢じゃないかもしれないけど、俺のラッキーパワーがあれば大概のことは大丈夫」
 今日のラッキーカラーはワインレッドなんだ、とスラックスを持ち上げてソックスの色を見せてくれた。おしゃれな千石くんなのに、山吹の制服にはひどく不似合いな色のソックス。つい吹き出してしまう。
 このラッキーが逃げないうちに、私も好きって早く言わなくちゃ。
 そう思うのに、なんだか涙がこみ上げてきて、うまく言葉にならない。
 また泣き出してしまう私の隣で、またおたおたする千石くんが、「あー、お願いだ、泣かないで、かわい子ちゃん」と言う。
 泣かないでかわい子ちゃん。
 彼のその言葉は、いつしか聴いたロマン派だかなんだかの音楽のように私の胸に響いて、何度も聞きたくて、私は嬉しくて笑ってるのに涙があふれるのを止められなかった。
 泣かないで、かわい子ちゃん。
 千石くん、もう一度聞かせて。
 
2014.9.9

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