私は子供の頃から、本を読むのが好きだった。
世界中の、あらゆる時代の、いろんな出来事や物語は私をとても感動させる。
だけれど。
同じクラスの男の子のテニスの試合は、今まで読んだどんな本よりも私の心を熱くした。
月曜日、私は学校に行っていつものように、始業まで自分の席で本を開く。
普段ならば、予鈴が鳴るまでは本に集中する事がほとんどなのに、なぜか今日は違った。
数行読んでは、週末に見たテニスの試合の事が頭に甦る。
そして、いつも教室では斜め後ろの席に座っている男の子が、テニスコートで流した血を思い出す。
私はちらりと、斜め後ろを振り返った。
そして、私は少し驚いた。だって、まだ来ているはずがないと思っていた彼がそこにいたから。
「……海堂くん、おはよう。早いのね?」
「ああ……朝練に行ったら、部長にお前はまだ休んどけと言われた」
海堂くんは不満そうに、左の額のガーゼに触れた。週末の試合で出来た傷だった。
「アドレナリン切れたら、痛む?」
私は笑って言った。海堂くんはムッとしたように私から目をそらす。
「……別に。もう痛くなんかねぇよ」
そしてそれきり黙った。
よく女の子の友達が言う。
『海堂くんてちょっと怖い』
『無口で何を考えてるのかわからない』
私も、初めて口をきくまでは、何だかいつも不機嫌そうな子だなと思っていたけれど、すぐに、とても真面目な男の子なのだという事が分かった。
そして、海堂くんが無口だったり話の合間に沈黙したりするのは、怒っているとか不機嫌でいるというわけじゃなくて、適当な言葉で会話をつなげる事をせず、いつも本当に自分が言いたい言葉だけを探しているからなのだ、という事もすぐに分かった。
だから私は、海堂くんと話していて、会話が途切れたり沈黙が続いても、ちっとも気にならない。
そんな風に話せる男の子は初めてだった。
私はまた自分の机に向かって、閉じてしまった文庫本をもう一度開き、どこまで読んだのだったかを思い出しながらページを繰る。
「……、昨日は……」
すると、背後から、またぶっきらぼうな声が聞こえてきた。
「え?」
私はページを閉じて、振り返る。
「昨日は、ありがとう」
やけに決まり悪そうな顔で、私と目をあわせずに言う彼を、私はちょっと首をかしげて見つめた。
「んん? 何?」
私は何に礼を言われたのがわからず、問い返した。
「……病院、一緒に来てくれたろう? あれ、がいなかったら竜崎先生に、家まで来られてたかもしんねぇからな」
海堂くんは照れくさそうにしながらも、一言一言はっきりと言う。
そう、きっと言いにくいような事を、一生懸命誠実に言葉にするところ。
こういうところが、海堂くんのいいところの一つだなあと、私は口元がほころぶのがわかる。
「ああ、そうね、先生に家に来られたり親に顔を合わされるのって、照れくさいわね」
私が言うと、彼はまた目をそらして黙った。
私もまた机に向かって、本を広げた。
なぜだか、やっぱり本には集中できなかったけれど。
昼休みにお弁当を食べた後、私は図書館に掲示物の張替えに行った。
作業を終えて、教室に戻ろうと校庭を歩いていたら、水道のところで誰かが私の名を呼ぶのが聞こえる。
振り返ると、男の子がいた。
「さん、今、ちょっといい?」
私は足を止めた。
彼は確か、隣のクラスの山崎くん。そういえば、前にサッカー部のマネージャーにと言われた事があった。
「うん、マネージャーの事ね? ごめんなさい、私やっぱり無理だと思う」
日焼けをした彼の顔を見上げて、私は言った。
山崎くんは首を横に振る。
「ああ、うん、その件じゃないんだ」
彼は頭を掻きながら言った。そして深呼吸をする。
「あの突然なんだけど……もしさんに付き合ってる奴とかいなかったら、俺と付き合ってもらえないだろうか。俺……さんが好きなんだよ」
一気に言う彼の言葉に、私は心臓をわしづかみにされたような気がした。
今まで友達から「誰々くんはの事が好きらしいよ」なんて話を聞く事は、ごくたまにあった。けれど、実際に男の子からそう言われる事は初めてだった。
こんなふうに、それまでろくに話をしたことのない男の子が、突然自分にとっての現実になって嵐のように目の前に現れる事に、私はとても驚いてしまい、そして同時に少し怖くなってしまった。
私が何て言ったら良いのかわからなくて黙っていると、山崎くんはまた頭を掻いた。
「こんなところで突然にごめん、あの、返事は……また今度でもいいから。じゃあ」
彼はそう言うと、頭をぺこりと下げて、去っていった。
私はしばらく動けなくて、でも、ああ教室に戻らなきゃと思って足を踏み出すと、なんだか脳貧血のような感じで一瞬ふらつき、しゃがみこんでしまった。
「おい、大丈夫か!?」
すると、私の上に影がさし、そして腕をつかまれた。
顔を上げると、それは海堂くんだった。
私は海堂くんにベンチに連れて行かれて、そこに腰掛けた。
海堂くんは気まずそうな顔で隣に座った。
ちらりとその顔を見て、ああ、きっと海堂くんはさっきのやりとり、見てしまっただろうなと私は顔が熱くなった。
「部室にジャージ、取りに行ってたから……」
海堂くんは相変わらず気まずそうな顔で、学校指定のジャージを握っていた。
「……さっきの……いつか図書館に来てた奴か?」
そして、しばらくの沈黙の後、彼は小さい声で言った。
「……うん、そう」
私は深呼吸をする。くらくらした感じはもうすっかりなくなっていた。
「何か、されたのか?」
いつもの、少し怒ったような低い声で言う。
「ううん……」
私は首を横に振る。
「そういうんじゃないけど……つきあってほしいって言われて、びっくりしちゃっただけ」
私が言うと、海堂くんは目を丸くしてジャージをぎゅっと握り締めた。
「……どうしよう?」
私はなぜだか、海堂くんにそんな言葉を言ってしまった。
言ってから私は、あ、と口元を押さえた。
海堂くんは眉間にぎゅっと皺をよせる。
「……ンなもん、自分で考えろよ!」
そう怒鳴ると立ち上がって、走って行ってしまった。
海堂くんの姿が見えなくなってから、私は座ったまま、自分の足が震えているのに気づいた。
どうして私はあんな事を言ってしまったんだろう?
自分の事なのに、どうしよう、なんて。
海堂くんの怒鳴り声が頭の中で響いた。
午後の授業は集中できないまま。
そして後ろを振り向く事もできないまま。
放課後、思い切って振り返った時には、海堂くんはもう教室にはいなかった。
私は今日は当番ではないけれど、図書館に行った。
一番落ち着く場所だから。
新着図書を手にして机に向かうけれど、朝のようにやはり内容に集中する事はできなかった。
自分の気持ちが、こんなに何かにかき乱されるなんて初めてで、私はどうしたら良いのかわからない。
でもやっぱり、ひとつひとつ向き合って行かないといけないんだろうなと思いつつ、私は頭に入ってくる事のない、本のページをめくり続けた。
そして大きく深呼吸をして、図書館を後にした。
私はサッカーコートの方へ向かう。
ちょうどサッカー部の練習は終わり、それぞれ部室に向かっているところのようだった。
山崎くんを探すけれど、たくさんのサッカー部の男の子の中でなかなか見つけることができなかった。
山崎くんが私を見つける方が早くて、彼はコート外にいる私のところに走ってやってきた。
「練習中に、ごめんなさい」
「いや、いいんだよ」
彼は息を弾ませて言った。
「あの、昼間の事」
私は思い切って、彼を見上げた。
「私……山崎くんと付き合えない。山崎くんが嫌いっていうわけじゃいんだけど……。ごめんなさい」
私はぎゅっと手に持ったバッグをにぎりしめて、言った。言いながらドキドキする。
山崎くんは、昼間そうしていたように、また何度も頭を掻いてうつむいてから、顔を上げた。
「うん、仕方ないね、俺……さんとろくに話もしてなかったもんな」
言って、一生懸命笑顔を作った。多分、いい人なんだろうなあ、とその笑顔を見て思う。
「さん……もしかしてテニス部の海堂と付き合ってるの? やっぱり……仲良さそうに見えるからさ」
山崎くんの言葉に、私は顔が熱くなるのを感じた。あわててぶんぶんと首を横に振る。
「ううん、ちがう」
「……そっか、うん、ごめん」
小さくつぶやく彼に、私は一歩下がって頭を下げた。
「じゃあ、サッカー、頑張ってね」
「うん、ありがとう」
手を振る彼に、私はくるりを背を向けて歩いた。
なんとなくまた図書館の方へ向かう。
まだ心臓がドキドキしていた。
なんて言ったらいいだろう。
人と関わるっていうのは、本当に胸が痛い。
小説やなんかで、男の子が女の子に告白をしてなんてシーンはありふれていて、でも現実ではこんなに心をかき乱す事だった。
私はなぜか図書館を通り過ぎて、水道のところまで歩いた。
ここら辺で気分が悪くなって、海堂くんに助けてもらったんだった。
何度か深呼吸をする。
大丈夫、今はもう、くらくらしたりはしない。
うつむいていると、ジャーッと蛇口から思い切り水を流す音が聞こえた。
はっと顔を上げると、そこには首にタオルをひっかけた海堂くんがいて、少し驚いた顔で私を見ていた。
私は一瞬、逃げ出してしまいそうになったけれど、ぐっとそのまま彼を見た。
「部活、休まされるんじゃなかったの?」
「……決勝も控えてるのに、休まされてばっかりじゃかなわねぇからな。午後は練習させてもらうことになった」
ぶっきらぼうに答えて、ざぶざぶと顔を洗う。
私は深呼吸をした。
「……あの、昼間はごめんなさい」
タオルで顔を拭く海堂くんに、私はゆっくりと言った。
海堂くんはまた驚いた顔で私を見る。
「私、自分の事なのに、どうしよう、なんて海堂くんに言ってしまって」
私は言葉の続きを、心の中で探す。
「……あの時……よく知らない男の子にあんな風に言われて、すごくびっくりしてちょっと怖くなってしまって……心細くて。海堂くんを見たら、なんだかほっとしてしまって……あんな風に言ってしまったの。でも、自分で考えろよって、言われて当然だと思う。ごめんなさい」
私は一生懸命話す。
どう言ったら良いのかよくわからなかったけれど、ちゃんと謝っておかなければと思ったから。
人と関わるっていうのは、本当に胸が痛い。
海堂くんはタオルをぎゅうっと握り締めたまま、私を見ていた。
「……俺の方こそ怒鳴って悪かった」
海堂くんの言葉に、私は少しほっとした。
「それで……」
海堂くんはタオルを首にかけたり手に持ったりしながら、言いにくそうに口をもごもごさせる。
「……あいつと、付き合うのか?」
小さな声で言う彼の言葉に、私は驚いて目を丸くする。
「山崎くんと? ううん、付き合わないわ。ほとんど話した事ない人だもの。今ね、ごめんなさいって言ってきたところ」
「……そうか」
海堂くんは言って、タオルをふわりと首にかけた。
しばらく黙ったまま。
そして急に彼は私の背後に視線を走らせると、蛇口の前から足早に移動し、私のすぐ後ろに立った。何事だろうと、驚いて振り返ると、海堂くんの向こうに部活帰りの男の子達が見える。その中に山崎くんがいた。
私を隠すように立っている海堂くんを、改めて見上げた。
私よりずっと背が高くて大きくて、少し汗の匂いがする。
本当に、男の子なんだなあと思った。
現実の男の子だ。
「……さっきそんな話したんじゃ、顔、合わせたくねぇだろ」
彼らが通り過ぎると、海堂くんは照れくさそうに言って私の傍から離れた。
「うん、ありがとう」
私は心がふうっと温かくなる感じがした。
「もう、帰るのか?」
「うん、今日は受付当番じゃないから。海堂くんはまだ練習?」
「いや、もう上がるトコだ。……昼間……具合悪いのにほったらかしちまったから、帰りは送ってく。そこで座って待ってろ」
海堂くんはものすごく照れくさそうに言うと、私の返事も聞かずに部室の方へ走って行った。
私は昼間に海堂くんと座ったベンチに腰掛けて、海堂くんの言葉を頭の中で反芻した。
人と関わるっていうのは、本当に胸が痛い。
でも、同じくらいに胸が熱くて、暖かい。
了
2007.3.25