ラリー



 海堂薫が昼休みに、その大きな弁当箱のおかずを平らげている時だった。
「……海堂くん、あの……」
 遠慮がちに声をかけて来る者があった。
 彼は鳥のカラアゲをほおばりながら、不機嫌そうに顔を上げる。
 もぐもぐとしっかり咀嚼した後、ごっくんと大きな音をたてて嚥下した。
 声の主は、同じクラスの女子だった。
 肩くらいまでの髪をした、割と長身の、大人しい女子だ。もちろん、それまで口などきいた事はない。
しかし、斜め前の席の彼女の名前くらいは知っていた。だ。
「……何だ?」
 食事を邪魔された不愉快さが、表情ににじみでていたのだろう。
 彼女はびくりと一瞬黙って、深呼吸をしてから言葉を続けた。
「私、図書委員なんだけれど、海堂くんが図書室から借りている本が貸し出し期限を過ぎているの」 
 海堂は、頭の中をあちこちと思い巡らせる。
 ああ思い出した。そうだ、本を借りていたのだった。
 しかし、部活や自主トレで忙しく、なんだかんだ言って読めていないままだった。
「ああ、そうだった、悪い」
 言って箸を置き、少し考えた。
「……実はまだ読めてないんだが、延長して貸し出してもらう事はできるのか?」
 借りたものの読めていない本。もうそのまま返してしまおうかとも一瞬思ったが、せっかく読もうと思って借りたのだ。もう少し取り組んでみようと、海堂は思った。
 彼女は少し意外そうに海堂を見て、答えた。
「できるわ。ただ手続きがあるから、一度本を持ってきてもらわないといけないの」
「……明日でいいか?」
「ええ、明日は丁度私が図書室の受付の当番だから、閉館までに持ってきてくれれば、手続きをするわ」
「わかった」
 海堂はそれだけ言うと、また箸を手にして弁当を食べ始めた。
 借りていた本を今夜こそは読もうと、弁当を食べながら頭に念じておいたが、その日も彼は帰宅後ロードワークを終えると、意識を失ったように眠りについてしまうのだった。


 彼はこのところ、先輩の乾とダブルスのトレーニングを行っていた。
 それまで皆と同様にコーチングされていた時でもそうだが、乾の知識にはいつも圧倒される。
 乾の指導というのは常に理論付けられていて確実で、海堂は彼の言葉の一つ一つを聞き逃すまいと、常にギラギラとした目をして乾の話を聞いていた。
 その日も、トレーニングの後フォームの事や力点の置き方などの話をさんざんした。
「で、お前、どうせ部活の後、相変わらず自主トレしてるんだろう? ちゃんと、必要なモン食ってからやってるか?」
 帰り支度をしながら、いつものように乾が海堂に声をかけた。
 もちろん……と返事をしようとして、はっと彼は忘れかけていた事を思い出す。
 そうだ、図書委員の女に、本の手続きをしてもらう約束をしていたのだ。
 時計を見た。閉館時間は過ぎている。
 部室を飛び出して、図書室の方を見た。電気がついていた。
 あわてて荷物をまとめると、彼は乾にろくに挨拶もしないまま飛び出した。
 海堂は義理堅い男だ。
 基本的に、約束に遅れるだとか、そもそも本の貸し出し期限を過ぎていたなどの筋の通らない事は好まない。廊下を走って図書室にたどりつくと、勢い良く扉を開けた。
 もう人気はない。
 が、カウンターでは図書委員の彼女が分厚いハードカバーの本を熱心に読んでいた。
 彼が扉を開けた事にも気づかずに、じっと集中して読んでいるようだった。
 海堂が静かに歩いてカウンターの前へゆくと、やっと気づいて顔を上げた。
 彼女は、まるでぐっすり眠っていた所をたたきおこされたような、驚いた顔をして彼を見上げていた。
「……すまない、部活で遅くなった。もう閉館時間はとっくに過ぎていただろう?待たせたな」
 海堂はそういって、カバンの中から本を取り出した。
 は、それこそ今思い出したようにその本を見て、また彼を見上げた。
「……そういえば手続きをするって言ってたわね。ああ、もうこんな時間?よかった、私ここで本を読んでいるとすっかり時間が経ってしまって、いつも見回りの先生に叱られてしまうの」
 恥ずかしそうに笑った。
 なんだ、自分を待っていて遅くまでいたわけではないのかと、海堂はほっとしたような気持ちと、また同時に、忘れられてたのかよ、という不満気な気持ちと若干複雑な思いを抱いた。
 はそんな彼の様子にも気にせず、本の裏表紙を開いて書き込みをする。
「……海堂くんはゴハン、自分で作るの?」
 彼女は作業をしながら、彼に尋ねた。
「はあ?いや、そういうわけじゃないが……」
 彼はめんくらったように答える。
「そう、だってこれ……」
 言うと、不思議そうに彼が貸し出し延長をする本の表紙を見るのだった。それは「五訂 食品成分表」だった。
 海堂はああ、と面倒くさそうにため息をついた。
「……先輩が、トレーニングだけじゃなくて食事にも気をつけろとうるさいんだ。『タンパクシツ』とか『ビタミンビーワン』とか『デンカイシツ』とかな。よくわからねぇから、とりあえず借りてみた。なかなか読めねぇんだが、すぐに諦めるのは嫌だからな」
 へえ、とは、また意外そうに彼とその「食品成分表」交互に見た。
「そうだったの」
 彼女は手続きの手を止めると、黙って少し考えこみ、立ち上がってカウンターから出てきた。
 すっと彼を素通りし、図書室の入り口付近の棚の前で立ち止まる。
「海堂くん、ちょっと来てみて」
 彼はいぶかしげに彼女の言うとおり、その棚の前に行った。そこは新着図書のコーナーだった。
「……そういう目的だったら、こっちの本の方が良いと思う」
 彼女は言って、本を取り出した。『スポーツ選手必読!勝つための食事と栄養』という、いかにも暑苦しいタイトルの本だった。手渡されて中をぱらぱらとみて、あっと心で声をあげる。
 そう、簡単に言うと体を作るためにどういうトレーニングにどういう食事をしたらいいのか、という事が知りたかったのだ。乾はいつも、相手がある程度の知識を持っている前提で、急ぎ足で結果だけを話すから、海堂にはついてゆけない時がある。しかし一から説明を求めるのも迷惑だろうと、自分でも本を読んでみようと思ったのだった。それで、とりあえず家庭科の授業でも聞いた事のある「食品成分表」を借りたのだが、自分の知りたい事がどこにどう書いてあるのかがさっぱりわからず、なかなか読めなかったのだ。
「……こっちの方を借りて行きたいんだが、できるか?」 
 彼女に手渡された本を両手で握り締め、真剣な顔で言う彼に、は嬉しそうに笑った。
「もちろん。『食品成分表』はどうする?」
 海堂は黙って首を横に振った。
 は、『食品成分表』の返却手続きをし、新しい本の貸し出しの続きをした。
「……、そういうの詳しいのか?」
「新着図書はだいたい目を通してるし、本を読むのは好きだから、まあ本に書いてある程度の事ならね」
 手続きを終え、カウンターのPCの電源を落として帰り支度をしながら言った。
 海堂は不思議な気持ちで彼女を見る。図書室にいる彼女は、教室でおそるおそる彼に話しかけていた彼女と少し雰囲気が違う。そう、テニスラケットを手にするととたんに強気になるあの男のように、図書室での彼女はまるで本の番人のようでやけに堂々としていた。
「……じゃ、『超回復』ってのは、どういう事かわかるか?」
 は書庫の電気を消して振り返った。
「トレーニング後は筋肉が傷ついてるんだけど、24〜48時間くらいかけて休息をとるとそれが修復されて、トレーニングによって傷つく前よりも筋肉が大きくなって回復するっていう感じの事だったと思う」
「……あー、それで超回復か」
 乾が事あるごとに口にする言葉の一つだったのだが、今更その意味を聞けず、気になっていたのだ。
「修復を終えないまま、また次のハードトレーニングに入ると負担がかかるばかりで、かえって筋肉は小さくなってしまうんですって」
「あー、それで乾先輩は、適度に休めとか、タンパクシツ、タンパクシツとか言うのか」
 海堂はまた、納得、というように思わず声を上げる。
「食事は、蛋白質も重要だけど、炭水化物もきちんと取らないといけないそうよ。炭水化物を摂取しないと、トレーニングに必要なエネルギーを筋肉から消費してしまうからですって」
「へえ! プロティンを飲んだり、肉食ってりゃいいってもんじゃないのか」
 感心したように、また声を上げた。
「……その本に書いてあるわ」
 彼の詰め寄るような真剣な顔に、はくすっと笑った。
「もう、施錠するわね」
「あ、悪ぃ……」
 外はすっかり暗くなっていた。
 彼女はかちゃかちゃと図書室の鍵をかけながら言った。
「じゃあね、海堂くん」
 彼はまだ立ち去らない。
「俺が時間を取らせて遅くなっちまったし、もう暗いし、家まで送っていく」
 有無を言わさずまっすぐ言う彼を、は目を丸くして振り返った。
 彼女は何か言おうとしていたが、そのまま黙って笑いながら頷いた。


 の家は、ちょうど海堂の家と同方向だった。
 帰り道、海堂はひっきりなしに彼女に質問を続けた。
 クエン酸て何だ、どこで手に入る?コア筋て何だ?チョウヨウ筋てどこの事だ?
 まるで彼の鋭いサーブやスマッシュの如くどんどん投げかける質問に、彼女はすぐに彼にわかりやすいような答えを返してきた。
それはまるで心地よいラリーのようで。
数え切れない程のラリーのやりとりの後、彼女は足を止めた。
「家はここなの。どうもありがとう、海堂くん」
「あ、いや、俺の方こそ……」
 海堂はそういえば、何に礼を言っていいのやら一瞬とまどう。
 は彼に手を振ると、自宅の門を開けた。
「なあ、オイ!」
 まるで怒ったような声で、彼女を呼び止めた。
「また、わからない事があったら聞いてもいいか!」
 彼がそう言うと彼女は振り返って、笑いながら頷いた。
「私に答えられる事ならね」
 海堂はカバンを持っていない方の手をぎゅっと握って、小さなガッツポーズをする。
 まるで、頼りになる参謀を手に入れた気分だった。
 そして、彼女に小さく手を振ると走り出した。
 とにかく飯だ、飯を食おう。飯と、肉と、野菜だ。
 今日はロードワークを早めに切り上げて、今夜こそ本を読もう。
 そんな事を思いながら、彼はやけに足が軽く感じて、いつのまにか全速力で走っていた。
 
 了
2007.2.9




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