● あなたの好きなもの  ●

俺は「片思い」なんて、意識した事がない。
 だって少々良いななんて思う女とは、だいたい最初のちょっとしたコミュニケーションでその後が占える。上手く行きそうならすぐに進むし、無理そうなら追いかけたりはしない。
 そうやってきたから。
 だから一度友達になってしまった女が、こんなに難しいとは思ってもみなかった。

「忍足くん、これ、ありがとう。めっさ面白かった」
 
 柔らかな北大阪訛りで話してくるクラスメイトのはクラス委員で、陸上部員で。
 幸せそうな笑顔で「ダウンタウンのごっつええ感じ」のDVDを返却してきた。

「ああ、いつでもよかったんに」

 俺はDVDを受け取って、緩く笑った。
 無口な北大阪出身の彼女はホームルームなんかで感極まると、普段は封印している関西弁が飛び出て、そのせいで「オカン」というあだ名がついてしまった。
 本人は閉口しているが、それは彼女の、不器用だけど優しいしっかりした性質をよく現していると思うし、それでクラスメイトと彼女はとても話しやすくなったと思う。
 彼女の内気さが気になっていた俺としては、少々ばかり嬉しい出来事だった。
 その事をきっかけに、それまで教室ではうつむいてばかりいた彼女が、いつも背筋をのばしてきれいな目を見せてくれるようになったから。
 そして同時に。
 クラスメイトの前では、あいかわらず照れくさそうにぎこちない東京弁で話す彼女が、俺の前でだけはすらすらと関西弁で楽しそうに話す事が、なんとも俺を有頂天にさせていた。
 俺は、彼女とつきあっているとかそういう関係ではない。
 単に、親しい友人という感じだ。
 しかし彼女は必ず自分のものにしたいと、ずっと思っている。
 それが、いつになるかはわからないけれど。
「頼りになる友人」として自分に接してくる彼女を見るにつけ、距離が縮まるのは感じるけれど、しかし恋愛関係へと修正するにはこれはどうしたものかと常々思い、ここしばらくの、テニス以外の自分にとっての課題の一つだった。

 その日、昼休みに弁当を食べた後「ごっつええ感じ」の話を彼女としていると、やけに教室がさわがしくなった。廊下の方から、
「オカーン! クラス委員!」
 と呼ぶ声がする。
「あ、はい!」
 あわててが立ち上がって、教室の後ろの方の出入り口に向かう。
 俺もなんとなく気になって、後ろからついていった。
 彼女を訪ねて廊下にやって来ていたのは、跡部だった。俺は思わず納得する。通りで、クラスの女子が騒がしいはずだ。
 しかしなんで跡部が? 不審な思いが募る。
「おう、跡部、どないしてん」
 俺は冷静に奴に声をかけた。
「ああ忍足。お前に用じゃないんだよ」
 跡部は俺を見て笑うと、の方を見た。
「あんた、クラス委員?」
「はい、です」
 は少し不安そうに、跡部に名乗った。
 跡部はいつものように、ふふんといった感じで彼女を見ると、ビニールケースに入った腕時計を差し出した。
「昨日、うちのクラスと合同で体育をやっただろう? 忘れ物らしい。うちのクラスの物ではなかった」
 はあわててそれを受け取る。
「わざわざありがとう。持ち主を尋ねて、きちんと返しておきます」
 が礼を言ってそれを受け取っても、跡部はまだその場を動かず、じろじろと彼女を見た。
「……あんた、陸上部だっけ? 昨日グラウンドでずっと筋トレ、がんばってたよな」
 跡部が言うと、は驚いたような恥ずかしそうな顔で微笑む。
「ええ、そう。筋トレしないで走ってばっかりだと、女子はすぐ筋肉が落ちてしまうの。昨日はだいぶやりすぎて、身が入ってしまったけれど……」
「ああ、昨日はだいぶトレーニングに身が入ってたようだな」
 跡部が笑って言うと、は不思議そうな顔をする。
「ううん、昨日はまだ大丈夫だったけど、やっぱり今日になると身が入ってしまって」
「ああん? 筋トレしてたのは、昨日だろう?」
 跡部が眉間にしわを寄せて言い、そして更にが困った顔をしているのを見ると、俺は思わず声を出して笑ってしまった。
「なぁ、『身ぃ入る(いる)』ってのは、関西弁やで。東京では言わへん。いくら身が入る(はいる)って丁寧に言うても通じへんよ。筋肉痛って言わんと」
 俺が笑いながら言うと、はあわてた顔で俺を見る。
「ええ、ほんまに!?」
 は声をあげると、顔を赤くして跡部を見てぎこちなく言いなおした。
「あの、今日、筋肉痛になってしまって……」
 跡部は我慢できないという風に、くっくっと笑っていた。
「いや、面白いな……」
 右手を眉間のあたりに当てを見ると、ひどく満足そうに笑う。
「ごめんなさい、私、わからなくて……」
 はうろたえた顔で跡部に言う。
「おい、ウチのクラス委員を、そないにいじめたるなや」
 俺が言うと、跡部は相変わらずのニヤニヤ顔でを見た。
「別にいじめてないだろ。面白いから、面白いと言っただけだ。じゃあ、またな」
 跡部は俺の方も見ずに、に手をひらひらと振り、そして去って行った。
 は恥ずかしそうにそそくさと自分の席に戻った。
「……気にしなや、あいつ、いつもあんな感じやねん」
 俺はつい後を追って言った。
 クラスメイト達(主に女子だが)は、突然の跡部の来訪にざわついていたが、俺はそんな事を気にしてはいられない。
「あ、ううん、大丈夫やねんけど。身ぃ入るって、方言やなんて、知らんかった。うち、ほんま、あかんわ。教えてくれてありがとうな、忍足くん」
 は両手を頬に当てて、しばらく大きく呼吸をしていた。
 俺は「身ぃいるなんて、関西でも年寄りしか使わへん」とツッコんでやろうかと思っていたが、跡部の様子が気になってそれどころではなかった。
「……なんやっけ、今の人、跡部くん? テニス部の部長さんやんね? なんしか、めっさモテる人なんやろ?」
 少し落ち着いた彼女が笑って俺を見上げて言うのが、なんとなくムッときた。
「まあ、俺と同じくらいにはな」
 さらりと言ってやると、はいつものようにくっくっと笑った。
「せやね、忍足くんも、モテるんやんね」
 俺は非常に面白くなかった。
 合同授業であった忘れ物を、跡部が届けに来るなんてありえない。
 絶対に、目的があって、わざわざかって出たにちがいない。
 その目的というのは、簡単に想像がつくわけだが。

 同じ日、俺は部活を終えるとその日に実施したトレーニング内容を、部室にある専用PCのデータベースに打ち込んでいた。
 すると跡部が隣のマシンに座り、俺と同じ作業を始める。
「……だっけ? お前のクラスの陸上部の女」
 奴の声を俺は無視して、作業を続けた。
「いい女だよな?」
 作業をする俺に、跡部はしつこく話しかけてきた。
 俺は仕方なしに跡部の方へ顔を向けた。
「……しかしデカすぎるやろ。女のくせに背ぇが170近くあるねんで?」
 俺は、が聞いたら怒り出しそうな、大げさな数値を口にした。
「そうか、しかし俺の身長だったら問題ない」
「そりゃ、俺かて問題ないけど! しかし、お前にとっちゃ、あいつはちょともっさりしてるんちゃうか。お前はもっとこう、ぴかぴかにグロスぬったくったような、ビューラーでまつげをクルクルさしたような女が好きやろ」
 俺が言うと、跡部は涼しい顔で作業をしながら俺をちらりと見る。
「ああん? まあ、手を加えてそこそこにきれいな女より、手を加えずにそこそこきれいな女の方が、俺はいいと思うけどね?」
「そこそこってオイ、自分、ホンマしっつれいな奴っちゃな!」
 俺は思わず腰を浮かせて叫んでしまった。そして同時に、シマッタと思う。
「いや、そこそこなんて、自分、誉めすぎやで……」
 俺はすかさず言うが、跡部のおかしそうな笑い声に、もう手遅れかとため息をつく。
 跡部はそれを汲むかどうかは別として、とにかく人の心を察する事に長けている。奴のそういうところが、部長の務めを見事に果たす肝になっているわけで。
 まったくもって、ムカツク男や!
「モノにしたのかよ?」
 あいかわらずの余裕の口調で言う奴に、俺は観念したようにため息をついて答えた。
「……まだや。ていうか、下品な言い方するなや、ハゲ」
「お前にしちゃ、のんびりなんじゃねぇのか?」
「アホ、いろいろ事情があるんや」
 奴はまた声を立てて笑う。
「お前が目をつけたとしたら、そりゃ他の男も目をつけたって不思議はないよなぁ?」
 相変わらずの嫌な笑いで俺を見た。
「……自分も手ぇ出したろ言うんか?」
 俺がPC画面を見たまま静かに言うと、跡部は自分のPCをログアウトしてふうっと息をついた。
「今のところそんな気はねぇけどな。ぼやぼやしてて女を横からさらわれたら、お前はその伊達眼鏡の奥でどんな目をするのか、考えると面白いってだけだ」
 跡部は笑いながら立ち上がり、ロッカーに向かった。
 俺はデータ入力を終えてPCをログアウトし、椅子の背もたれに体を預け、跡部の後姿を見た。奴は何も言わず、そのまま部室を後にした。
 俺はふうっとため息をついて苦笑いをする。
 まったくどうしょうもない奴っちゃ。
 あいつは人の気持ちがよくわかるけれど、わかった上でどう行動するのか、それを自分の美学において実行する事に、多分おそろしく回りくどくエネルギーを使っている。
 何も考えず傲慢に振舞っているように見せるために。
 一言素直なエールを送る、というストレートな事のできない男なのだ。

 俺も荷物を持って部室を出た。
 お前なりの憎たらしいエールはありがたく受け取っておくけどな、跡部。
 俺は空を見上げた。
 跡部がこういう奴なんだと分かるまで、俺は少々時間がかかったと記憶している。
 好きな女と仲良くなるのだって、それと同じだろう?

 グラウンドでは、が一人走っているのが見えた。
 力強く地面を蹴って、どんどん前に進む。
 その目は真剣に自分自身を見つめて、更に先に行く事を考える目。
 初めて会った日に、俺の胸に突き刺さった目。
 俺は立ち止まって、じっと彼女が走るのを見ていた。
 やはり俺は彼女を好きなのだと、改めて強く思いながら。
 彼女の走りが徐々にスローダウンして、一周、クールダウンに入った。
 そして、その脚は俺の方に向けられた。
「……部活、終わったん?」
 は俺の前にやってきて、呼吸を整えながら言って微笑んだ。
「ああ、今終わったとこや。自分、遅までやってんねんな」
「今日はなんしか、もう少し走りたかってん」
「……もう上がるんやったら……一緒に帰らへんか? 自分の家、確か同じ方向やろ?」
 俺は何でもないように言う。
「ええよ。あ、でもうち、これから部室でシャワーして着替えてするから、ちょと時間かかるけどええ?」
「おう、別に構へんで」
 言うと、は部室に走って行った。

 俺はグラウンドの外のベンチに腰掛けて、その後姿を見送った。
 例えばろくに口を聞いたこともない女の子が、俺に告白をする。
 実はよくある事だ。
 『気持ちだけは伝えたくて』
 彼女達は決まり文句のように、そう言う。
 でも、それはなんだか違う、と俺は思う。
 もし本当に俺と恋愛関係を築きたいならば、自分の事を俺に知ってもらう努力、自分が俺の事を知る努力、が必要なんじゃないか。
 跡部と初めて会った頃の事を思い出して、今日なぜだかふとそう思った。
 だって、初めて会った頃の跡部には「何や、えらそうでスカした東京モン」としか思わなかった。思い出してつい笑ってしまう。
 だから俺も。
 には、俺の事をもっと知ってもらわないといけないし、俺もの事を知らないといけない。
 やるべきこともやらずに玉砕覚悟だなんて、甘い事はナシだ。

 俺が座っているベンチに、着替えをすませたが小走りでやってきた。
「ごめんな、待たせてしもて」
「別にええて」
 俺は立ち上がって、と歩く。
 まだ少し濡れた髪は、夕焼けのオレンジ色の光を浴びて、とてもきれいだった。
「なあ、
「んん?」
「俺な、実はな」
 俺はの顔をのぞきこんで、目を見て言った。
「俺、お笑いよりもな、ほんまは恋愛映画とか好きやねん」
「へえ、そうなん? 意外やなあ!」
 はちょっと驚いた顔をして、笑って言った。
「どんなんが好きなん?」
「せやな、結構ベタなん好きやで。メグ・ライアンの出とるやつとかな」
「メグ・ライアンはうちも好きやわ。『めぐり逢えたら』は観たけど、『ユー・ガット・メール』は観てへんなあ」
「せやったら明日持ってきたるわ。は映画、どんなんが好きなんや?」
「せやなあ、うち、『バッファロー’66』なんか好きやなあ」
「それ、観たことあらへんわ。持ってたら貸してや」
「うん、ええよ。うちも明日持ってくる。ヴィンセント・ギャロ、かっこええよ」
 は嬉しそうに笑った。
 一体何をベタな事やってるんだ、と跡部の笑い声が聞こえて来そうだ。
 でも、見てるがいい。
 俺がに好きだと伝える頃には、も俺を好きになっているようにしてみせるから。
 俺の頭の中には、幸せそうに並んで歩く、トム・ハンクスとメグ・ライアンのハッピーエンドのシーンが思い浮かんでいた。



2007.3.15

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