ハートじかけのオレンジ



ものすごく頑張ってて能力もある人なのに、めぐり合わせが悪いというか不遇な人っていうのが、世の中にはいると思う。
 そういう人種の一人が、今私の目の前で呑気にお弁当を食べている大和祐大だと、私はひそかに信じているのだ。

「どうかしましたか、サン」

 彼は弁当箱の隅のご飯粒のひとつひとつを丁寧に箸でつまみながら、私を見た。
 彼の整った顔にかかっている風変わりな眼鏡は、なんと度付きの調光・偏光レンズというマニアックなものだ。その丸いフレームの眼鏡のレンズは、私たちの座っている窓際の席では、太陽の光を受けてうっすらと色をつけており、彼の穏やかなまなざしを隠すのだった。

「……ううん、なんでもない。祐大のその眼鏡、やっぱりヘン」

 私はパックのオレンジジュースをすすりながら言った。

「ヘンですか? これでも結構高かったのですよ。太陽の下では光を遮って視界を良くしますし、なかなか優れものなのです」

 私のズバリとした遠慮のないコメントに、彼はまったく気を悪くする様子もなく微笑んだ。
 大和祐大と私は、一年の時から同じクラスで、こうやってしょっちゅう一緒にお弁当を食べたりするような間柄。つまり、割と仲の良いクラスメイトなのだ。
 いや、もっと正直にはっきり言うと、私は祐大が好き。
 そして、多分、祐大も私の事を嫌いではない、と、思っているのだけど、この落ち着いて穏やかで慇懃無礼な男はどうにも何を考えているのだか、よくわからない。
 それでも私達は仲良しで、かなり何でも話すような、そんな関係だった。

「祐大、いよいよ新部長なんだよね?」

 私は自分で振っといた眼鏡の話を放り出して、唐突に言った。

「ハイ、おかげさまで」

 それでもそんな会話に、祐大は快くついてきてくれるのだ。
 祐大はテニス部で、三年生になって部長の役目を背負う事になった。
 私は某文化部の幽霊部員で、スポーツの事はそんなに詳しいわけじゃないけれど、テニス部の事ならちょっと知ってる。
 ウチの学校のテニス部は、昔から強豪として全国でもちょっと知られた存在なのだ。
 しかし、それは4〜5年前までの話。
 ここしばらくは、全国大会にも出ていなくてちょっと低迷気味。
 つまり、私たちが入学してからはその低迷時代にあたる。
 ここまで言えばわかると思うけれど、祐大は実に運の悪い時期に入学し、そして部長になったと言う訳だ。少なくとも私の見解では。
 祐大は運動部とは思えない程、物腰が柔らかで穏やかだけれど、多分テニスはとても強いのだと思う。だって、彼はすごく熱心に練習しているし、時々見かける校内のランキング戦ではいつも見事な勝利をおさめているのだもの。このヘンテコな眼鏡だって、テニスのために吟味して選んで来たっていうシロモノなんだから。
 でも、祐大が一人頑張ったって、チームが強くなければ勝てない。
 きっと、祐大はめぐり合わせが悪い……。

「今年は……どう? 祐大の代では全国行けそう?」

 きっと答えるのに難しいような質問を、私はまたしてしまった。
 祐大は何を言ってもいつも穏やかに答えてくれるから、私はつい甘えてしまう。

「そうですね、それはわかりませんよ。ただ、ボクは一年の時からいつもウチが全国へ行ってそして勝てると良いと思っているし、そしてそのために出来る事は何でもします。その事は変わらない。勝てるかどうかはわからないけれど、まず勝とうと思わなければ勝つ事はできませんからね」

 こうやって、私の遠慮のない質問に、いつも彼は丁寧に真摯に答えてくれるのだ。
 私は彼のこういうところが好きだった。
 
「祐大も三年生で部長なんだからさ、二年生とか新一年生とか、ビシビシしめていかないとね!」

 思わず私が言うと、彼は弁当箱に蓋をしてクククと笑った。

「良い一年が沢山入って来てくれるといいんですけどね。サンこそ、どうなんです。今年こそ文芸部の歴史に残る、名作は書けそうなんですか?」
「ちょっと! 私の部活の事は言わないでよね!」
 彼の反撃に、私は思わず声を上げた。
 私は文芸部の典型的な幽霊部員で、勿論、詩も小説も一行たりとも書いた事がない。
 私が文芸部っていう、あまりの似合わなさにいつもこうやって祐大はからかってくるのだ。
 私たちはこんな風に、一年の時から過ごしている。
 周りのクラスメイトは、私と祐大がつきあっているのだと思っている者もいるかもしれない。できれば、そう勘違いしておいて欲しいと私は思っている。
 だって、祐大は結構女子に人気があるから。
 頭が良くて長身で穏やかで大人っぽい彼を好きだという女の子を、私は何人も知っている。
 そして、彼女達が祐大に思いを打ち明けたらしいという話も、時折耳にする。
 その度、私はどきりと胸を締め付けられるようになって、そしてその後の、私と話す祐大の態度をハラハラしながら観察しては普段と変わらない様子を確認して、胸をなでおろすのだ。
 そう、私と彼は何でも話すのに、お互いの恋の話は一度もした事がない。
 多分、知り合った頃に少しでもそんな話をしていれば、もっと話せたのかもしれないけれど、今となっては、この何でも遠慮なく話す私でも彼に『好きな女の子はいるの?』なんて一言がどうしても聞けないのだ。
 そして彼も、私が誰に告白されて断ったとか、きっとどこからか耳にしているだろうけれどその事について一度も触れた事がない。
 興味がないのか、気にしつつも聞かないだけなのか、その眼鏡の奥のしれっとした目からは、まったく伺い知ることができないのだった。



 その日、私は放課後テニスコートの近くで足を止めた。
 テニス部は、やっぱり女の子に人気があって相変わらず見学の子たちで賑やかだ。
 祐大と私が恋の話をしないのと同じように、私は祐大の試合を観に行かないし、堂々と練習を見たりする事もない。それも、どうしてかわからない、私が勝手に作ったルールみたいなものだった。単純に言えば、誘われるまで観てやるもんかっていう意地なのかもしれないけど。気にはなって、ちらちらと見てるから、彼がどんな風に練習してるのかは知ってるんだけどね。
 トリコロールカラーのレギュラージャージを着てヘンテコな眼鏡をかけた祐大はひときわ背が高いから、遠目に見てもすぐに分かる。いつもの穏やかな表情で、部員たちにトレーニングメニューを言い渡しているようだ。部員たちの反応からすると、祐大はあの優しい顔で相当きついメニューを伝えたらしい。祐大は優しいから、後輩にナメられたりしないかしらなんて心配は杞憂のようだった。彼はまるで生まれた時から部長だというような様で、毅然とコートに立っていた。
 コートには、おそらく新一年の新入部員であろうまだ幼さを残す男の子達が沢山いた。
 あの中に、祐大と強いチームを作ってくれる子はいるのかな。
 ああ、祐大が、勝ってチームの皆で喜んでいるところが見たいな。
 祐大は自分ひとりが勝っても、きっと嬉しくないんだもの。皆で勝ちたいんだ。
 私がそんな事を考えながら立ち止まってコートの彼を見ていると、ふと祐大と目が合った。太陽の下で、だいぶ色を濃くしているその眼鏡をかけていても、私には分かる。彼は柔らかく微笑んで、軽く私に手を上げた。私は彼にエールを送るような気持ちで大げさなくらい手を振ると、通りすがりを装うためにあわててコートの傍を走り抜けるのだった。



 さて、その数日後、私は驚くような話を聞いて朝から落ちつかなかった。
 祐大が一年生の子と練習試合をやって負けたというのだ。
 そりゃあ、しっかりした子が入って来るといいね、なんて言ってたけど、いくらなんでもあの祐大が一年に負けちゃうだなんて。
 ううん、きっと何かの間違い。
 だって、教室で見る祐大はまったくいつも通り、というかいつもより嬉しそうな顔をしているんだもの。
 その日、私はなかなか祐大に話しかける事ができなかった。
 ようやく彼にその話を問う事ができたのは、その日の昼休み、学食でお昼を食べている時の事。

「ああ、その件ですか。本当ですよ。手塚くんという素晴らしい一年が入ってきて、ボクはあっさり負けてしまったのです」

 彼は相変わらずの笑顔で言った。
 私がもうちょっとできた女なら、きっとこういう事はそっとしておくものなのかもしれないけれど、私はどうにも気になっちゃってすぐに聞いてしまう。だから、私はなかなか祐大の彼女になれないのだろうか。

「でも、一年でしょ? 祐大、負けちゃっていいの?」

 ほら、ついついこんな事まで口から出てしまう。言わなきゃいいのにって、わかってるのに、どうしても我慢できないのだ。この、すごく一生懸命なのに、穏やかな彼を見ていると。

「勿論悔しいですよ。でも、同じだけの努力の積み重ねがあったとしたら、結果、才能のある選手が勝つのが、実力という物なんです」

 同じだけ、なんてさらりと言うけれど私は彼がどれだけ時間を惜しんでトレーニングしているのか、知ってる。できる限りの事をやって、そして負けるってどんな気持ちなんだろう。ろくに部活もやらなくて、スポーツもからきしの私にはわからない。でも、胸の奥からどうにもやるせない、ジリジリした気持ちが沸き起こってくるのを抑えられなかった。

「実力差があって、悔しい、というのはボク個人の気持ちです。チームとしては、強い選手が入れば、それが一番なんですよ」

 私の気持ちを察したかのように、祐大は続ける。
 うん、彼の言う事はわかる。
 私がこんな気持ちになったって、仕方がないんだ。
 それでも、この辛くて複雑な気持ちをどうおさめてゆけばいいのか、私にはわからなかった。祐大本人が、こうして納得できているのに、どうして他人の私が落ち着けないんだろう。
 私は半分残したご飯茶碗に蓋をした。

さん」

 その時、ふと耳慣れた声。

「……あ、青木くん」

 文芸部の部長の青木くんだった。
 彼は私たちが座っているテーブルの横にトレイを持ったまま立ち止まって、そして私を見るとふふっと笑う。
「なんとか今年も一年生が入ってきたよ。今日、本入部で全員集まるから、さんも久しぶりに顔を出さないか?」
 青木くんは、さっぱり部活に顔を出さない私を決して責める風でもなく、穏やかに言った。そういう、いやみのない男の子なのだ。
「うん、そうね、私、そんなに久しぶりだっけ?」
「三年生になってから、何回部室に来てる?」
 彼はまた笑った。
 青木くんは部長だけあって、私と違いかなり本格的に活動している子だ。小論文のコンテストなんかにも入賞したり、そして生徒会長なんかを務めたり、きれいな顔をして頭もよくて絵に書いたような優等生だ。
 そして、実は私は去年彼に告白された事がある。
 勿論私は断ったのだけど、さすがに彼はバランスの取れた人間で、その後も上手く距離を保って部員としての私とつきあっている。
 私は勉強はできないけれど、それほどバカじゃないから、彼がまだ私を好きなのだという事はよくわかった。そして彼が本当にいい人なんだと知っているから、私は青木くんの気持ちに応える事はできないと、できるだけはっきりと態度で示すようにしている。
「連絡網を確認したり、あと新しい役割分担を決めたいから、是非今日は来てほしいんだけど。それと……」
 彼が続けると、祐大がトレイを持って立ち上がった。
「じゃあ、ボクは先に教室に戻ってるから」
 そう言って、祐大は私とそして青木くんにもにこやかに挨拶をして去って行くのだった。
 多分間違いなく、祐大は、青木くんが私を好きだと知っている。
 知っているのに、こうやって祐大といた私に、青木くんが話しかけてきたからって、二人だけにして行ってしまうんだ。
 私は悲しくなって、次に腹が立って、でもやっぱり悲しくて、そのせめぎあいは結局、腹立ちの方が勝利した。

「あ、青木くん、ごめん、じゃあね。今日、行けるかどうかはわかんない!」

 私はそれだけ言うと、トレイを荒っぽく片付けて、走って祐大を追いかけた。

「ちょっと!」

 私が後ろから大声を出すと、祐大は驚いた風でもなく振り返る。

「ああ、もう話は終わったんですか」

「チームが強くなればいいっていうのはわかるんだけどさ。祐大、三年生でしょ! 部長でしょ! 入りたての新入生に負けちゃって、そんなんでいいの!」

 彼に走りよった私は祐大の話を無視して、唐突にまるで八つ当たりのようにさっきの話を蒸し返す。
 ああ、八つ当たりだ。
 でも、なんて言ったらいいんだろう。
 いつも落ち着いて、大人っぽくて、何でもわかってる祐大。
 どうして私の前で、もっと悔しい顔を見せてくれないんだろう。あんなに一生懸命やってるテニスじゃない。
 それに、どうして私が青木くんと話していて、平気なの。私の事は、どうでもいいと思ってるの。
 そう思うと、悲しい以上にむしゃくしゃして仕方がなかったのだ。

サン」

 祐大は学食を出た廊下で足を止め、しょうがないなというように微笑んで軽くため息をついた。

「ボクはね、本当に青学を全国大会に行かせたいんです。例え、それがボクの代じゃなくてもね。勿論、今年のチームでもそれは狙いますよ。でも、もし万一今年がだめだったら、きっと今の一年の代ならば確実に行ける。いや、そうでなくてはいけないんです、彼らなら。原則、一年生は夏までランキング戦も試合も出さないんですけどね、今はボクが部長だからその原則は破っても良いと思っています。強い選手には出てもらいますよ、例え一年でも。そして彼らが三年生になったら、自分がどうやって来たのかを思い出してまた強い一年を育ててもらう。そういう事のできる選手に育てたいんです。そうすれば、きっと全国に行ける。その時にボクがいなくても、そうやってボクのやった事は残るでしょう?」

 彼はゆっくりと、そして珍しく熱っぽく私に話した。
 ここは廊下だけれど、彼の話を聞いていると、長いまっすぐな道のある広い野原にいるような気がした。その道の遠い先は見えないけれど、確実にどこかへつながっている。
 祐大が卒業した後?
 そして、あの一年生たちが三年生になる頃?
 このヘンテコな眼鏡の奥から、祐大はそんな先を見て、生きてるんだ。
 私は胸の奥が熱くなった。
 祐大が見ているその将来で、彼の愛するチームは全国大会で優勝を果たしているのかもしれない。いや、きっとそうなんだ。

「祐大!」

 私は思わず声を上げる。

「来年とか、再来年とか、きっと祐大のチームは強くなってると思う。でもその前に、私は祐大の彼女になりたいんだけど!」

 彼の見てるその幸せな将来に、私の居場所がないと困るんだもの!
 私はたまらず、ずっと思っていた事をついに言ってしまったのだ。
 祐大が驚いた顔をするのを、私は初めて見たかもしれない。
 その、目にかかりそうな長い前髪を、彼は何度か右手でかき上げた。
 滅多にお目にかかれない、彼が戸惑った時のしぐさだった。

サン、あなたは……もうちょっと待てないんですかね……」
 
 そして困ったようにつぶやく。
 こういう時ばかりは、彼の回りくどい言いまわしや慇懃無礼な態度に最高にイラつくのだ。
 ダメならダメってはっきり言って欲しい。私は腹立ちで、なんとか胸のドキドキを押さえつけようとする。

「はっきり言ってちょうだいよ!」

 少々逆ギレ気味に続けた。

「……試合で負けたら、ボクも悔しいんだって言ったでしょう。もうすぐ都大会がある。そして関東大会、全国大会です。勝って、全国大会の舞台に立った男こそを、サンの恋人にしてもらおうと、毎年思っていたのですよ。今年こそは、それを果たそうと思っていたところだったのに」

 彼は笑いながら言った。
 私は思わず目を丸くする。

「……勝って告白なんて、そんなフツーの男の子みたいな事、祐大が考えるの?」

 私の相変わらずの無粋な質問に、祐大はくっくっと笑った。
 こんな言葉は私の照れ隠しだと、彼にはとっくにわかっているのだろう。

「当たり前じゃないですか。ボクは極めて凡庸な男ですからね」
「……そんなに時間かけてたら、私が他の男の子とつきあっちゃうかもしれないじゃない?」
「ああ、それはないから、大丈夫だと思ってたんですよ。サンは、青木くんよりもボクの方が好きだという事くらい、よくわかっていますから」

 ほらね、彼のこういうのが本当に腹の立つところで、そして、とても好き。

「……全国大会に行けるように、恋人に試合で応援してもらおうとか思わなかったの?」
「負けて、バカみたいに悔しがるところを見られるのは、恥ずかしいですからね」

 そして、彼のこういう、フツーの男の子みたいなところを私は知らなかった。

 私は、待ちきれなかった女なのか、待ちすぎた女なのか。
 その辺りの判断は難しいけれど、今年の夏は、クールな恋人が最高に喜ぶ姿もしくは最高に悔しがる姿のどちらかが見られるという事だけははっきりしている。
 どちらの結果にせよ、それは悪くないんじゃないかと、私は祐大の胸を一発小突きながら考えていた。

(了)
2007.10.22
「ハートじかけのオレンジ」

<タイトル引用>
「ハートじかけのオレンジ」, 作詞:松本隆, 作曲:大瀧詠一,アルバム「Niagara Triangle2」(Niagara Triangle)より




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